序.人々の離反の中で――仮庵祭が近づく

・ヨハネによる福音書第6章を7回にわたって聴いて参りました。6章は五千人を越える人たちが満腹したという奇跡に始まりましたけれども、群衆はその奇跡によって、イエス様を王にしようという間違った期待を抱いてしまいました。ユダヤ人の指導者たちは、イエス様が御自分のことを「天から降って来たパン」とおっしゃったことに反発しました。イエス様についてきた多くの弟子たちの中にも、イエス様のおっしゃることに躓いて、つぶやく者が出て来ました。そして遂に、イエス様が特別にお選びになった十二弟子の中からも裏切り者が出るということまで書かれていたのであります。

・では、イエス様のお身内の人たちはイエス様のことをどのように見ていたのでしょうか。今日の箇所には、イエス様を最も理解できる筈の御兄弟たちが登場いたします。彼らはイエス様をどう理解し、何を期待したのでしょうか。

6章に記されていることの舞台は、イエス様の出身地であるガリラヤ地方でありました。今度の7章ではいよいよ舞台がエルサレムに移ります。しかし、今日の9節までの箇所の舞台は、まだガリラヤであります。ここには、イエス様の御兄弟たちとの対話が記されています。ここでは、イエス様と御兄弟との間にもズレがあったことが明らかになります。

・時は、2節にあるように、仮庵祭が近づいていました。仮庵祭というのは、過越祭、七週祭とともに、ユダヤの三大祭の一つであります。仮庵祭というのは、元来はカナンの地の農耕祭(収穫祭)でありましたが、イスラエルの民の中では荒れ野の旅における天幕生活と結びついて仮庵祭(仮小屋の祭)と呼ばれるようになりました。荒れ野の中を神様によって導びかれたことを忘れないための祭でありました。

・先ほど朗読していただいた申命記16章には、三大祭のことが書かれていましたが、イスラエルの男子はすべて、年に三度、すなわち三大祭には、献げ物を携えて、主の御前に出ねばならない、と定められていました。「主の御前」とは、イエス様の時代には、エルサレムの神殿に行くことだと考えられていました。

・今日の箇所では、そのエルサレムがあるユダヤに行くのか行かないのかということで、イエス様と御兄弟との間で語られたことが記されています。イエス様にとっては、エルサレムに行くということは、単に仮庵祭に参加するということではありませんでした。1節に書かれていますように、ユダヤ人(ここではユダヤ人の指導者たちのこと)がイエス様を殺そうとねらっておりました。ですから、イエス様にとって、エルサレムに行くのは、死をも覚悟しなければならないことであります。イエス様はどのような判断をされるのでしょうか。その判断は、単に私たちにとって興味深いというだけではありません。イエス様がエルサレムに行かれるということは、私たちのためになさって下さる救いの御業に関係しています。その御業がいつ行われるのか、そのタイミングが非常に重要であります。そこには神様が定められた「時」というものがあります。今日は、イエス様と御兄弟との対話を通して、イエス様がエルサレムへ行かれる意味について、またそれが、私たちとどう関わるのかについて、御心を聴き取りたいと思います。

1.業を見せてやりなさい

・さて、34節を見ていただきますと、イエス様の兄弟たちが、こう言っております。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきりと示しなさい。」

ここで「兄弟たち」というのは、従弟あたりまで含めていると考えられますが、彼らはイエス様のこれまでの活動を身近で見聞きしております。数々の奇跡の業を行なわれたことを知っております。そしておそらく、ガリラヤの群衆やユダヤ人たちがイエス様のことを必ずしもよく理解出来なかったことも知っていたでありましょう。それで、<こんな田舎に留まっていないで、ユダヤの地方、特にその中心地であるエルサレムに行って、今までガリラヤ地方でして来たような目覚しい業をすれば、アッピール出来るのではないか、仮庵祭という、全国から人が集まる時期に、それをやれば効果的ではないか>、と思ったのでありましょう。

・「弟子たちに見せてやりなさい」と言っております。ここで「弟子たち」というのは、十二弟子以外の広い意味の弟子たちでしょうが、エルサレムにもイエス様の信奉者あるいはイエス様に期待する人たちがいたのでしょう。それは2章で、伝道開始後最初の過越祭にエルサレムに行かれた時のことが書いてある中で、「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とある通りです。あるいは、ガリラヤまでついて来て、イエス様の話に躓いた弟子たちにも、改めてエルサレムですばらしい業を見せつければ、納得するのではないか、と思ったのかもしれません。

4節の「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」という兄弟たちの言葉は、イエス様が御自分の教えを広めようとしておられることに理解を示しながら、<それなら、もっと大胆に自分を打ち出した方がよいのではないでしょうか、それには、仮庵祭の機会に都へ行くべきでしょう>と、尻を叩き、励ますような気持ちで言っているのでありましょう。兄弟たちは、ユダヤ人が殺そうとしていることも知っていたと思われますが、そういうことに打ち勝つ勇気を鼓舞したのでしょうか。

2.兄弟たちも、イエスを信じていなかった

・ところが5節を見ると、筆者のヨハネは、兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである、と記しております。これはちょっと意外な言葉に聞こえるのではないでしょうか。御兄弟たちはイエス様の力を信じていたからこそ、たとえ無理解な人がいたり、命を狙う人がいても、もっと積極的にやった方がよいと考えたのではないでしょうか。

・私たちも伝道について、この兄弟たちのような考え方をすることがあるのではないでしょうか。教会は正しいことを伝えているのだから、たとえ周囲に無理解な人がいたり、反対している人がいても、そういう人のことを気にして消極的になるのでなく、もっと自信をもって積極的にやるべきだ、という考え方であります。なるほど、前向きで、確信に満ちた立派な見解のように思えます。今の教会が、そのような積極性を欠いているために、伝道が進まないのではないか、という意見には耳を傾けるべきであるかもしれません。

しかし、伝道は宣伝広告の類とは違います。ただ自分たちの考えや利点を声高に宣伝すればよいのではありません。また伝道は自分たちの力で、相手をねじ伏せるものではありません。伝道は、こちらが勝利するために行うのではなくて、相手が救われるためにすることであります。ですから、ただ自分たちの力を信じて、無謀なことでも実行するとか、見解の異なる人がいても、押し切った方が勝ち、というものではありません。まず、相手の立場に立たねばなりません。そして相手に対して神様が何をしようとしておられるのかを、神様に問わねばなりません。何よりも、神様の御計画に従うことが第一であります。伝道の主体は私たちではなくて、神様であります。聖霊が人々を動かし、捕らえるのであります。私たちは神様の御心に仕えるだけであります。

イエス様が公生涯に入られる時に(つまり、伝道を開始されようとした時に)、聖霊によって荒れ野に導かれて、サタンの誘惑をお受けになりました。サタンはお腹をすかしておられたイエス様に、石をパンに変えたらどうか、と言って誘惑しました。これは自分に与えられた奇跡的な力を、自分の欲望を満たすために用いるという誘惑であると同時に、奇跡の力を行使することによって、人々を驚かして、人々を自分に引き付けようとする誘惑でもありました。イエス様の兄弟たちは、そういう奇跡的な力をエルサレムで行使するなら、全国から集まって来る人々を引き付けることが出来るではないか、と言ったのであります。これは、サタンの誘惑と同じであります。サタンはまた、イエス様を神殿の屋根の上に連れて行って、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。天使が支えてくれるのではないか」と言いました。これは神様の助けを試そうとする誘惑であります。イエス様は、「神を試してはならない」と言って拒否されました。兄弟たちの言ったことは、<思い切って危険が待っているエルサレムへ行ったら、神様が助けて下さるのではないか。それを人々が見たら、大いにアッピールできるのではないか>という誘惑であります。サタンはまた、イエス様を高い山に連れて行って、サタンを拝むなら、世界中を与えようと言って誘惑しました。これは、世界を支配する王となる誘惑であります。イエス様は「ただ主を拝み、仕えよ」と言って、サタンの誘惑を退けられました。ガリラヤの群衆がイエス様を王にしようとしたときも、イエス様は山へ退かれました。兄弟たちの言葉も、エルサレムに出て、皆が期待している業を見せてやれば、王にだってなれるのではないか、ということであります。サタンと同じことを言っているのであります。

・私たちも伝道において、同じ誘惑に曝されます。伝道は、イエス様や教会の力を誇示して、アッピールすることではありません。イエス様の御兄弟も、この点において大きな間違いをしていたのであります。イエス様を応援しているようでいて、サタンの役割をしていたのであります。イエス様を信じるとは、華々しい活動をされるイエス様を応援することではありません。――それでは、イエス様を信じるとはどういうことなのでしょうか。

3.「わたしの時はまだ来ていない」

・御兄弟たちの言葉に対して、イエス様は6節でこう言っておられます。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」――これはイエス様らしくないような発言に思えませんか。イエス様のようなお方であるなら、これと反対のことをおっしゃった方が相応しいような気がいたします。イエス様であれば、良い時とか悪い時などというのではなくて、いつでもやりたいことをお出来になるのではないか。時を選ぶ必要はないのではないか。むしろ、御兄弟たちや私たち人間は、いつでも大丈夫というわけにはいかない。タイミングに恵まれてこそ、何事かをなし得るのであって、私たちの時はいつも備えられてなんかいない、と考えます。だから、イエス様のおっしゃっていることは逆であるように思えます。

・ところがイエス様は、「わたしの時はまだ来ていない」と言われるのであります。<私はあなたがたの考える仮庵祭の時が私の時だとは考えない>とおっしゃるのであります。では「わたしの時」とはいつなのか。――それは、<御自分がお決めになる時>ということではありません。「わたしの時」とは、<神様がお決めになっている時>であります。イエス様は、御兄弟やこの世の人の考える時に従って行動されるのではないし、御自分の考えに従って行動されるのでもなくて、神様が人類を救おうとしてお決めになった時に、神様の御心のままに御業をなさるのであります。

ですから、「わたしの時はまだ来ていない」というのは、<今、エルサレムに行くと危険が待っているから、もう少し安全になってから行く>という意味でないことは明らかであります。むしろ、たとえ最も危険な時であっても、神様の御心ならば行く、ということであって、人間の期待や勧めによっては動かない、ということであります。

一方、「あなたがたの時はいつも備えられている」と言われるのはどういう意味でしょうか。これは、<御兄弟たちはいつでもエルサレムに行くことが出来る>、という意味にも解されますが、少し皮肉を込めて、<あなたがたは、神様の御心に関わらず、勝手に自分の都合の良い時を決めている>と言っておられるともとれます。しかし、そういう皮肉な意味ではなくて、「あなたがたの時」とは、御兄弟や私たち人間が決断する時、救いに入れられる時、という意味ではないでしょうか。イエス様が神様の定められた時に救いの御業をなして下さったので、私たちはもはや、時を選ぶ必要もなく、いつでも決断して、イエス様への信仰を告白しさえすれば救われる、という意味ではないでしょうか。

・続いてイエス様は7節で、「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ」とおっしゃっています。

 「世はあなたがたを憎むことができない」とおっしゃいます。これは、イエス様の御兄弟が、この世の一般の人と同じ状態にある、ということでしょう。この世の人たちはイエス様が王になることを期待しました。もっと華々しく活躍されることを期待いたしました。そして、自分たちの求めに応えてもらえる存在になることを期待いたしました。そういう点では、御兄弟たちも同じでありました。だから、世の人々から憎まれるようなことはなかったのであります。

 しかし、「世は・・・わたしを憎んでいる」とおっしゃいます。それは、イエス様が世の人々の期待通りに動かれない、ということもあるでしょう。しかし、それよりも決定的なことは、「わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ」とおっしゃいます。イエス様によって罪が暴かれるから、イエス様を憎むのであります。イエス様はこの言葉によって、御自分の御兄弟の罪をも暴いておられます。彼らはイエス様を憎んでなんかいないと思っています。むしろ応援していると思っています。しかし、彼らが世の人々から憎まれないのは、彼らの心の奥には、多くの人々と同様に、イエス様を自分たちの思い通りに動かそうとする自分勝手な思いがあるからであって、その思いは結局、世の人々と同様に、イエス様を憎み、イエス様を殺そうとするところまで行く、ということであります。結局彼らはイエス様を信じてはいないのであります。そのことが今、イエス様の言葉によって暴かれているのであります。

・この言葉は、私たちにも向けられています。私たちもイエス様に様々な期待を寄せつつ、イエス様を応援しているつもりであります。イエス様を信じているつもりであります。しかし、やがて自分たちの期待の当てが外れたと思って、イエス様を憎み始める私たちの心の内を、イエス様は見通しておられます。私たちは、自分の中にある、この罪に気づかなければなりません。イエス様を心底から信頼していない不信仰が私たちの中にあるのを、イエス様はこの言葉でもって、ついておられるのであります。

・「世は・・・わたしを憎んでいる」とおっしゃいます。こうしてイエス様は、人々が期待していることとは裏腹に、御兄弟にも理解されずに、ただお独りで、私たちの罪を含めて、世のすべての憎しみを引き受けておられるのであります。それが「わたしの時」と言われる時までに、なされねばならないことでありました。

結.この祭には上って行かない

・イエス様は最後に8節で、「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」と言われました。

 イエス様は、御兄弟たちには、仮庵祭に行くようにとおっしゃいました。しかし、ご自分は「この祭りには上って行かない」と明言されます。「この祭りには」と強調されています。それは、別の祭りに行く、ということを意味しているのでしょうか。半年後には過越祭がやって来ます。仮庵祭は収穫と神様の導きを感謝する祭りであります。その祭りは自分には関係がない、と言っておられるのではないでしょう。しかし、イエス様は過越祭こそ、イエス様がエルサレムに上るのに相応しいと、神様から命じられている、ということでありましょう。過越祭とは、羊の犠牲の恵みを覚える祭りであります。イエス様は、正に多くの人々の罪の犠牲として、過越祭に十字架にお架かりになるのであります。それが、イエス様の言われる「わたしの時」であります。

・ところでイエス様は、この時こう言われたのでありますが、次の10節を先読みいたしますと、しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれたのであります。これは先ほどのお言葉とは矛盾しております。イエス様は心変わりをされたのでしょうか。そうではありません。筆者のヨハネにしても、明らかに矛盾と分かるようなことを書く筈がありません。ヨハネはこの矛盾したかに見える言動の中にイエス様の真意を読み取っていたのでありましょう。

・イエス様は、御兄弟が期待し、お勧めしたような意味では、仮庵祭には行かない、ということでありましょう。御兄弟たちは、「公に知られようとして」エルサレムに行くことを勧めました。それはイエス様の名声が上がることを期待したエルサレム行きの勧めでありました。しかし、イエス様は、「人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」のであります。そのエルサレムでの様子は改めて学ぶことになりますが、それは決定的な「わたしの時」に向けて、いよいよ十字架へと向かわれるエルサレム行きとなるのでありました。

私たちはイエス様に対して、勝手な期待を寄せています。しかし、そのような期待は、今、裁かれています。そして、主イエスはお独りで、ひそかに「わたしの時」に向けて、救いの御業をなして下さっているのであります。

私たちがなすべきことは、そのイエス様の愛と苦しみを知って、罪を悔いて、一切をイエス様に委ねることであります。それが、私たちにとって、生涯における最高の「わたしの時」になるのではないでしょうか。
・祈りましょう。

祈  り
 ・救い主イエス・キリストの父なる神様!

・私たちの無理解と不信仰を超えて、私たちのために十字架の道を歩んで下さったイエス・キリストの恵みに感謝いたします。
・どうか、私たちの身勝手な思いから来る罪をお赦し下さい。

・どうか、私たちの全てを主に委ねて、従って行く者とならせて下さい。そしてどうか、あなたの救いの御業が、貧しいこの身にも成りますように、お願いいたします。
・まだあなたの招きに気づかない方、あるいは迷いの中にあって、決断できないでいる方を、あなたが捕えて下さいますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>        2008年10月5日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書7:1−9
 説教題:「わたしの時」
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