序.イザヤの黙示録

・隔月にイザヤ書から御言葉を聴いて参りましたが、今日はイザヤ書24章の御言葉が与えられております。この24章から27章までは、「イザヤの黙示録」と呼ばれておりまして、ここには終末的な(終わりの日における)世界審判のことが述べられています。

・イザヤ書の12章までは、主としてユダとエルサレムについての預言が語られ、13章から23章までは、諸国民(ユダヤ人以外)についての託宣が語られて来たのでありますが、ここには、全世界に対する裁きが語られているのであります。

・これまでは、ユダ、エルサレムをはじめ、バビロン、アッシリア、モアブ、エドム、エジプト、ティルスなど、具体的な地名や国の名を挙げて、審きが語られて来たのでありますが、ここでは固有名詞はなくて、その代わりに「地」という言葉が約20回出ております。地上の全ての国、すべての町、あらゆる階級の人々が滅ぼされることが語られているのであります。

・全世界が滅ぼされた話で、私たちが聖書によって知っているのは、ノアの洪水の物語であります。主なる神は、地上に人の悪が増しているのを御覧になって、心を痛められて、地上に洪水をもたらされて、人間をはじめとするあらゆる動物を滅ぼされたのでありました。その中でノアは神に従う無垢な人であったので、箱舟を造らせて、ノアの家族と動物一つがいずつが箱舟に入って救われたのでありました。洪水が終わって水が引くと、神様はノアたちに、「二度と洪水によって、地上の肉なるものをことごとく滅ぼすことはしない」と言われ、これを「永遠の契約」とされたのであります。それ以来、幾多の災害が起こり、世界大戦も行われましたが、全世界が滅ぼされるということはなかったのであります。

・ではなぜ、ここに世界が滅ぼされることが語られ、私たちはそれを聴かなければなければならないのでしょうか。

 今日は、この問いを抱きつつ、イザヤを通して語られる主の御言葉を聴いて参りたいと思います。

1.世界の破滅の有様
 ・まず、どのような破壊が行われるのか、その有様を見て行きます。

1節には、見よ、主は地を裸にして、荒廃させ、地の面をゆがめ て住民を散らされる、とあり、3節には、地は全く裸にされ、強奪に遭う、と告げられています。地球上には植物が繁茂して、それによって動物も人も生きることが出来る条件が整えられ、そこに人が様々な構築物を造って生活環境を造り上げて来たのでありますが、その地球が丸裸になって、月や火星の写真で見るような、人が住むことの出来ない荒れ果てた環境になる、というのであります。今、地球環境の悪化のことが心配されています。COの増加や温暖化の影響が目に見える形で表れ始めるようになって、ここに言われているようなことが、決して空想やSF小説の中だけのことではなくて、現実味を持って受け取られるようになって来ております。

2節には、民も祭司も、僕も主人も、女の僕も女主人も、売る者も買う者も、貸す者も借りる者も、債権者も債務者も、すべて同じ運命になる、とあって、身分の上下とか、財力があるかないかに拘わらず、すべて同じ運命になるのであります。人は競って、より上の地位を得よう、より豊かになろうとしていますが、世界の破壊が行われるならば、権力も財力も何の支えにもならず、全く意味がなくなるのであります。

4節は、3節までに語られたことを別の表現で語っています。地は乾き、衰え、世界は枯れ、衰える。地上の最も高貴な民も弱り果てる。――住める環境が破壊され、地位や財産が何の意味もなくなるということであります。

・その結果どうなるのか。7節から13節にかけて言われていることは、ぶどうやオリーブが採れなくなって、酒は乾き、太鼓や竪琴の音も絶え、地上のあらゆる楽しみが失われる、ということであります。人は地上に様々な楽しみがあるので、辛いことも我慢ができるのでありますが、審きの日には、もはや、あらゆる地上の楽しみが取り去られるのであります。

17節から20節にかけては、地に住む者に対して、恐怖と穴と罠が臨む、と言われ、地は裂け、砕け、揺れ、酔いどれのようによろめき、とあって、大地震を思わせる情景が語られています。18節の最後の行の、天の水門は開かれ、という表現は、ノアの洪水の物語で、「天の窓が開かれた」という言い方で、大雨が降り続いたことを語っていることを思い起こさせます。地震と大雨の大自然災害が起こされる、というのであります。

・更に、21,22節では、高い天では、天の軍勢を、大地の上では、天地の王たちまでが、捕虜が集められるように、牢に集められ、獄に閉じ込められる、と言われています。地上で権力を振るっていた王だけでなく、世界の平和と秩序を守るべき天の軍勢までもが、罰せられるというのであります。

以上、ここに書かれている世界に対する審きの有様は、人類と地球の最後を思わせるような恐怖に満ちた内容でありますが、決して突飛なことではなくて、現在の延長線上で考えれば、起こるべくして起こることであって、多くの識者も指摘していることであります。そして最近では、何とか人類の英知を結集して、このようなことにならないようにしようという国際的な努力もされるようになって来ております。

では、聖書は、識者が指摘しているのと同じような警告を発しているということなのでしょうか。このような結末を迎えないように努力せよと、聖書も語っているということなのでしょうか。

・そうではありません。今、24章に書かれている世界審判の、外面的な事象だけを拾い上げて見て来たのでありますが、実は聖書でしか言っていない大事な点を読み飛ばして来ました。それをこれから見て行きたいと思います。それは3点あると思います。

2.主が罰せられる

・まず第1点は、ここに描かれているような破滅的な状況を起こすのはどなたであるか、ということであります。1節に、主は地を裸にして荒廃させ、とあり、21節に、その日が来れば、主が罰せられる、とあります。ここに告げられていることの全ての出来事の主体は、主なる神様であります。

・世界の破滅は、浅はかな人間が行なって来たことの帰結として、起こるべくして起こる、というのではありません。環境破壊がどんどん進んで、その結果、人類が住めないような地球になってしまうとか、激しい世界戦争が起こるとか、ならず者国家を抑えきれずに、最終的に核兵器が使用されて、地球全体が破壊されたり、核で汚染されてしまうということで、人類の終わりが来るというのではないのです。ここで告げられているのは、3節の終わりに、主がこの言葉を語られた、とあるように、預言者イザヤに託された神の御心が述べられたものであり、神がなそうとし給うことであります。神様が人間の罪に対して下される罰であります。

神様は御自分が創造された世界を人間の失敗によって破壊されるに任されるようなことはなさらない筈でありますし、サタンの力、悪の力を抑え切れなくなって、遂にサタンが勝利して神様の創造された世界と人類が終焉に向かう、ということでもありません。世界は神様のコントロールが効かなくなって、破滅に向かうというのではないのであります。世界の破滅は、神様の御意志で行われるのであります。これが第1点です。

3.永遠の契約を棄てた――審きの理由

・では、なぜ神様は、イザヤを通して、このような世界の破滅について語られたのでしょうか。なぜ、このような人類と地球の最後を思わせるような恐ろしい出来事を起すと言われるのでしょうか。

5節を見ていただくと、こう言われています。地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。それゆえ、呪いが地を食い尽くし、そこに住む者は罪を負わねばならなかった56a)。また、20節では、「地は、酔いどれのようによろめき、見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる」と述べた後、地の罪は、地の上に重く、倒れて、二度と起き上がることはない、と言われています。つまり、地上に住む人間が、神様から与えられた律法を犯し、神様と結んだ「永遠の契約」を軽んじて、神様に対して罪を犯したから、二度と起き上がることがないように滅ぼす、と言っておられるのであります。

「永遠の契約」という言葉は、冒頭で述べた、ノアに対して神様が「二度と洪水によって滅ぼさない」と約束された箇所に用いられている言葉でありますが、モーセを通して十戒を初めとする律法が与えられた時にも用いられている言葉(出エジプト31:16)であります。では、その律法にはどんなことが書かれていたのでしょうか。沢山のことが書いてありましたが、イエス様はそれを要約して、こう言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:3739)――イスラエルの民はこの律法を破って、神様との契約を棄てたのであります。神様とこのような契約をしたのは、イスラエルの民だけですが、神様が人類全体に望んでおられることは、この律法に示されている通りであります。私たちは皆、その御心に沿ってはいません。律法を一所懸命に守ろうとしたイスラエルの民ですら、守ることが出来ずに審きを受けなければならないのですから、私たちも当然、審きの対象になります。ここに語られているような世界の破滅の根本原因は、律法に示されているような、神様と人との関係、人と人との関係が乱れてしまっていることによるのであります。一言で言えば、全ての人が罪を犯している、ということです。  ――このことが、聖書が語る世界の破滅について、私たちが聞かなければならない大切な第2の点であります。

・ですから、世界の破滅は、地球環境の改善のために人類の英知を結集すれば避けられるとか、核拡散を国際的な話し合いで防止して核戦争が回避できれば避けられるというものではありません。もちろん、そうした努力が無駄だというわけではありませんが、そうした地球規模の問題だけでなくて、私たちが日常生活の中で重ねている罪の問題が解決されなければ、世界の破滅は避けることが出来ない、ということであります。

4.わずかの者だけが残された

・さて、世界の破滅について聖書が語る第3のポイントは、単に破滅が語られるだけではなくて、破滅を免れて残される者がいるということが語られていることであります。

6節の終わりには、わずかの者だけが残された、とあります。また、13節には、世界のただ中、諸民族の間で、オリーブを探し出して打ち尽すようなことが、収穫の後になお、ぶどうを探すようなことが起こる、と言われていて、オリーブもぶどうも打ち尽されるのですが、その後になお、オリーブやぶどうの実が残っていないか、探すようなことが起こる、ということが言われているわけで、完全に実がなくなってしまうのではないのです。つまり、神様は、残りの者を探し出して、確保されるのであります。

・それを受けて、14節には、彼らは声をあげ、主の威光を喜び歌い、海から叫び声をあげる。それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び、海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と、と告げられています。14節冒頭の「彼ら」というのは、「残された者」のことであります。彼らは喜びの歌声をあげるのであります。「海から」とか「海の島々」と言われているのは、パレスチナの西に広がる地中海とその周辺の地方のことであり、「東の地」とか「地の果て」と言われているのは、東に広がる砂漠地帯とその向うのチグリス・ユーフラテス地方のことでありましょう。つまり、西方も東方も、当時の世界観で言う全世界において、主を尊ぶ歌声が聞こえる、というのであります。世界中に「残された者」がいて、讃美の声をあげるということであります。

・更に23節では、月は辱められ、太陽は恥じる。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、長老たちの前に、主の栄光が現されるとき、と言われています。月や太陽というのは、地上に光をもたらす天体であります。ところが、主の栄光が現されるときには、太陽や月の光は余計なものになる、ということであります。「シオンの山」というのはエルサレムのことであります。全世界は滅ぼされます。しかし、主なる神はシオンの山から王として世界を治められ、世界に栄光の光を放たれるというのであります。

・預言者イザヤがこのことを語っている時は、エルサレムがバビロンによって滅ぼされる前なのか、既に滅ぼされた捕囚の時代なのか、議論があるところでありますが、いずれにしろイザヤは、崩壊後に甦るエルサレムの姿を見ているのであります。イザヤ書の中で、これまで聴いてきた中で、エルサレムの審きについて語られているところがありましたが、イザヤは同時に、終わりの日における栄光のエルサレムについても語って参りました。例えば、22節以下では、こう語られています。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。」(イザヤ2:23)―――ここには、世界中から多くの民がエルサレムでの礼拝を目指してやって来ることが預言されています。また、42節以下では、「その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。」(イザヤ4:26)――ここには、その日(終わりの日)に「残りの者」が清められ、命を得ることが預言されています。

このように、イザヤ書をはじめ、旧約聖書の預言書の中には、終わりの日における厳しい審きのことが語られると同時に、「残りの者」に与えられる救いについて語られているのであります。そこが、一般に言われる世界の終末と、聖書が語る神様による世界審判との決定的な違いであります。

しかし、聖書の言うように「残される者」が本当にあるのでしょうか、また、私たちのような罪深い者が、どうすれば、その「残された者」となることが出来るのでしょうか。

結.主の栄光が現されるとき――小羊が都の明かり

・ユダヤ人たちは、自分たちイスラエル民族こそ、神に選ばれた「残された者」ではないかと考えました。そして、イスラエルの民が律法を軽んじたことを反省して、一所懸命に律法を守ろうとしました。しかし、イエス様が色々な場面・色々な教えの中で明らかにされているように、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽して主なる神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」との掟を、完全に守ることの出来る人は誰もいないのであります。

・では、どうすれば救われるのか。――それは神様が御子イエス・キリストを地上に遣わして下さり、その十字架の贖いによって救われるほかなかったのであります。今日の箇所の最後の23節に、「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり長老たちの前に、主の栄光が現されるとき」とありました。主なる神が遣わして下さったイエス・キリストが、エルサレムのゴルゴタの丘で、「ユダヤ人の王」という罪状で十字架にお架かりになった時に、真の王としての主の栄光が現されたのであります。

今日は聖書の朗読で、新約聖書の方は、ヨハネの黙示録を読んでいただきました。(p479をもう一度お開きください。)

 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。(ヨハネ黙示録21:2227

ここで「小羊」とは、言うまでもなく、「神の小羊」として十字架の上で血を流されたイエス・キリストのことであります。そして、「小羊が都の明かりである」と言われています。十字架に架かって下さった主イエス・キリストが、エルサレムの都で栄光の光を世界中に向かって、輝かして下さったのであります。このイエス・キリストを信じる者が、イザヤの言う「残された者」として、終わりの日に、主の栄光を喜び、「主に従う人に誉れあれ」と喜びの歌を歌うのであります。私たちもまた、この喜びの歌を高らかに歌う者とされたいものであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・万軍の主、イエス・キリストの父なる神様!

・あなたの厳しい審きによって、滅び去るしかない者を、イエス・キリストの十字架のゆえに、「残された者」とされる道を開いて下さいましたことを、感謝いたします。

・どうか、私たちをも、今より後、終わりの時に至るまで、主の御栄光を讃美する者たちの群に加えて下さい。

・どうか、一人でも多くの者が、この讃美に加えられるために、この教会も栄光の主を証し続けることが出来るようにして下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年9月28日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書24:1-23
 説教題:「主の栄光が現されるとき」     
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