.弟子たちの離反の中で

・ヨハネによる福音書6章は、わずかのパンと魚で五千人以上もの人が満腹するという奇跡で始まり、それを見た群衆が、イエス様を王にしようとするほど熱心にイエス様を追いかけましたが、やがて彼らが期待しているのは、物質的・この世的な満足であることが明らかになって、イエス様が与えようとされているものとの間にズレがあることが明らかになりました。続いて、ユダヤ人たちが、「わたしは天から降って来たパンである」とおっしゃったイエス様の言葉にひっかかって、つぶやき始めましたので、イエス様は御自分の肉を食べ、血を飲むことによって永遠の命が得られるということを語られるのですが、彼らは反発を強めるばかりでありました。そして、今日の箇所では、そうしたやりとりを聞いていた弟子たちの中の多くの者までが、つまずいて、イエス様のもとから離れ去り、ついには十二弟子の中からも裏切り者が出るという、暗い状況が記されているのであります。

・ヨハネ福音書の記者は、なぜ、そのような最悪の状況をあからさまに書いているのでしょうか。――その理由の一つは、その間の問答の中でイエス様が何とか人々に分からせようとして語られた「命のパン」についての言葉を、記録に止めようとしたということであり、私たちもこれまでの説教の中で、その真意を聴いてきたつもりであります。

・しかし、ヨハネ福音書の記者は、ただ後世にイエス様の言葉を残したいと思っただけではなくて、もっと緊迫した事情がありました。この福音書がまとめられたのは第1世紀の終わり頃と考えられていますが、その前の紀元70年にエルサレムの神殿がローマ軍の手によって破壊されるという出来事が起こっております。これはユダヤ人にとっては非常に深刻な問題でありました。そこでユダヤ人たちは各地にあるユダヤ教の会堂で、旧約聖書を中心に、信仰的・民族的な一致を計ろうとしたのであります。そういう状況の中で、キリストを信じるグループも、ユダヤ教の一派として、最初は他のユダヤ人と同じように会堂で礼拝していたのですが、ユダヤ人たちがまとまって行こうとするときに、キリスト者に違和感を覚えるようになって、彼らを各地の会堂から追い出し始めたのであります。そのようなキリスト教に対する迫害が強まって参りますと、キリスト者の中にも脱落する者が出て参ります。スタートして間もないキリスト教会に危機が訪れたのであります。

・そうした事態の中で、ヨハネ福音書の記者は、イエス様の周りから人々が潮の引くように去って行って十字架へと向かわれた状況と自分たちの状況を重ね合わせながら、主イエスを十字架に架けたのは自分たちであったとの思いの中で、イエス様の苦しみを改めて思い起こすと同時に、自分たちの不真実を越えたイエス様による救いの真実を聴き取ることによって、自分たちを取り巻く厳しい現実を乗り越えようとしたのではないかと考えられるのであります。そういう意味で、ここに書かれているのは、単なる暗い状況ではなくて、自分たちのために苦しんでおられるイエス様の姿の中に、肉を裂き、血を流して救いを達成して下さった十字架の恵みを覚えつつ、クリスチャンたちに向かって福音の真実を描き出そうとしているのであります。

・現代のわが国のキリスト教会も、この米子伝道所も、その危機的状況は、第1世紀の教会と根本的に違うわけではありません。否、私たち自身が、ここに描かれている群衆や、ユダヤ人や、弟子たちと同様に、つぶやきを言ったり、イエス様が与えようとされているものとは異なるものを求めたりしているという状況があるのではないでしょうか。そうした中で、今日は、与えられた箇所から、私たちのために苦しみつつ「命のパン」を与えようとしておられるイエス様のお姿を見出していきたいと思います。

1.ひどい話だ――主の言葉は霊であり命である

・さて、60節にはこう記されています。ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

・ここで「弟子たち」というのは、十二弟子のことではなくて、ルカ福音書によれば、七十二人の弟子を伝道に派遣したという記事もありますから、イエス様に従って来た十二人以外の弟子たちのことと考えられます。彼らはユダヤ人たちとイエス様とのやりとりを聞いていて、「実にひどい話だ」と感じたのであります。「実にひどい」と訳されている言葉は、「硬い」とか「耐え難い」という意味の言葉で、「聞くに耐えない」ということであります。彼らはどこにひっかかったのか。ユダヤ人たちと同じように、イエス様が「わたしは天から降って来たパンである」と言われたことに躓いたのか、あるいは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得る」と言われたことを、異様な発言だと受け止めたからでしょうか。――おそらく、どちらにもひっかかったのでしょう。イエス様が天の父なる神様から降って来た「神の子」であるということを信じるまでには至っていなかったかもしれませんし、まだこの時はイエス様の十字架のことを知らない段階ですから、「肉を食べ、血を飲む」ということが、イエス様の十字架の犠牲のことを表わしているとまで考え及ぶことは、とても出来なかったでしょうから、「実にひどい話だ」と感じたとしても、無理からぬことであったと言えます。イエス様が御自分のことを「命のパンである」とか「生きたパンである」とおっしゃっているのが、物理的なパンのことではなく、また「それを食べる者は永遠の命を得る」と言われることが、肉体的な命のことではない、ということは分かりかけていたかもしれません。しかし、十字架のことを知らない段階では、イエス様の言われることを、具体的なこととして理解することは困難でありましたでしょうし、信じることも出来ませんでした。だから、「ひどい話」と思わざるを得なかったのであります。

でも、イエス様がおっしゃっていることでありますから、もっと耳を傾けるべきであったかもしれません。イエス様が言われることの理解出来ない部分を質問するべきであったかもしれません。しかし、彼らは「だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って、それ以上耳を傾けることを拒否してしまいました。

・それに対してイエス様は、61節にあるように、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて、「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・。」と言われました。

・「もといた所」というのは、父なる神様と共におられた天のことであります。「人の子」というのは、イエス様御自身のことです。ここには、イエス様が「昇天」されることが示唆されています。そして、「わたしが天に昇るのを見たならば・・・」と言われて、言葉が途切れています。イエス様はこの後、何と言おうとされたのでしょうか。それには、学者や説教者の間でも異なった二つの見方があります。一つは、イエス様が天から降って来られたことにさえ躓いているのだから、<十字架に架けられて、天に昇られるのを見たら、もっと躓くだろう>、と言おうとされたのだ、という見方であります。この時の状況は、殆どの人がイエス様に躓いていましたから、その流れからすれば、<もっと躓く>と言おうとされたと理解するのが素直かもしれません。しかし、別の見方は、十字架と復活の後に昇天の出来事が起こるわけですから、その時になれば、<イエス様が天から降って来た方であることはもちろんのこと、「まことの命を与えるパン」であることも受け入れることが出来るようになるだろう>、と言おうとされたのだ、という見方であります。どちらが正解かは、今更判定することは出来ないのでありますが、私は両方の意味が込められていると考えてよいのではないかと思います。事実、イエス様の昇天の後にも、信じることの出来ない人と、イエス様を受け入れて信じることが出来るようになった人がいるのであります。今に至るまで、そうであります。必要なことは、「こんな話を聞いていられようか」と言ってイエス様の言葉を拒否するのではなくて、イエス様の言葉を聴き続け、イエス様がなさった御業を追い続けることであります。

この後、63節では、こう言われています。「命を与えるのは、“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」――ここでは、「霊」と「肉」が対比されています。ここで肉とは、55節で「わたしの肉はまことの食べ物」と言われたイエス様の肉のことではありません。ここで言われる肉とは、物質的な食べ物とか人間的な営みのことであります。そうしたものは、私たちの本当の命を支えるのに、何の役にも立たない、とおっしゃるのであります。そして、命を与えるのは“霊”である、と言われます。クオーテーション・マークがついているのは、原語に定冠詞がついているという印で、「聖霊」を指していると考えられます。私たちに「まことの命」を与えるのは聖霊であります。聖霊はどのようにして私たちに命を与えるのか。それは「わたしがあなたがたに話した言葉」即ち、イエス様の言葉に聖霊が働いて、私たちに命を与え、私たちを生かすのであります。イエス様は、一方で具体的に御自分の肉を捨てることによって、死すべき私たちに命を与えて下さいました。しかし、そのことを私たちが知り、受け入れるのは、イエス様の言葉によってであります。イエス様の言葉に聖霊が働いて、私たちは信仰を持って受け入れることが出来、命が与えられるのであります。

2.信じない者たちもいる――父からお許しがなければ

・ところが、イエス様は64節で、「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる」とおっしゃいます。イエス様の言葉を聞いても、信じることが出来ない者がいるという現実を指摘なさいます。福音書の筆者は、このイエス様の言葉を思い起こしながら、イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである、と書いています。この「裏切る者」というのは、後で出てくるイスカリオテのユダも含まれるでしょうが、それ以外にも多くの弟子たちがイエス様から離れて行くことになったこと、更には、冒頭に申しましたように、当時の教会の中で脱落して行く者たちがいたことを考えているのでしょう。そして、自分もまかり間違えればそうなっていたかもしれない、という思いを抱きつつ、65節で、イエス様の言葉を記します。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」――同じ主旨の言葉は、44節でも言っておられました。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」―― <そうだ、自分も、かつては、イエス様の話を聞いて、「ひどい話だ」と思ったことがあった。自分もイエス様の言われることに対して、つぶやいたことがあった。<もし、父なる神様のお許しがなければ、イエス様に従う者にされていなかっただろう>、<もし、父なる神様が引き寄せて下さらなければ、このように福音書を書くことになっていなかっただろう>と、神様の恵みを思い起こしているのではないでしょうか。そして、63節の「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」という言葉を、もう一度噛み締めながら、聖霊の働きによって救われたことを喜んでいるのではないでしょうか。

3.「あなたがたも離れて行きたいか」――あなたこそ神の聖者

・次に、66節からの段落に進みます。このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった、とあります。

「このために」というのは、これまでイエス様が、「わたしは天から降って来たパン」と言われたり、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」と言われて、御自分が救い主であることを示されたことに躓いたために、ということでありましょう。それに対してイエス様は前の段落にあるように、聖霊の働きや、父なる神様のお許しのことも述べられたのでありますが、結局、これまでイエス様について来た弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなったのであります。

私たちはこの事実を厳粛に受け止めなければなりません。イエス様の十字架以前の出来事だから、こういうこともあり得たのだ、では済まされないことであります。私たちの身の周りでもこういうことが現に起こって参ります。まだ洗礼を受けていない求道者だけではありません。残念ながら、洗礼を受けた人であっても、教会を離れ、イエス様から去って行く人がいます。本人の信仰に問題があるのか、教会の方に問題があるのか、恐らくどちらにも問題があるのでしょうが、いずれにしましても、イエス様から離れ去るということが、いとも簡単に起こってしまうのであります。これは他人事ではなくて、私たち自身にも起り得る事であります。

・そこで今度は、イエス様が特に選ばれた十二人の弟子に限定して言葉をかけられます。「あなたがたも離れて行きたいか。」―――これは、弟子たちがどうなるのか分からなくて不安だから質問されたということではありません。64節にあったように、主イエスは最初から、信じない者たちがだれであるかを知っておられました。ですから、ここでこの質問をされたのは、弟子たちに自分のことを考えさせて、彼らの思いを言い表させるためでありました。

・これに対して、シモン・ペトロはこう答えています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」――ほっとするような答えであります。「わたしたち」と言っておりますから、皆を代表して言っているつもりでしょう。「わたしたちはだれのところへ行きましょう」という言葉は、自分の決意を語っているとも受け取れますが、むしろ、<神様に引き寄せられたので、イエス様以外の人のところへ行く気にはならないし、行くことも出来ません>、という思いでありましょう。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」という言葉の中には、イエス様がここまでに何度も強調されて来たことが反映しています。多くの去って行った人々は、結局、「朽ちる食物」を求めていたのであります。自分たちの利益になること、自分たちが豊かになることを求めていたのであります。永遠の命など貰っても、役に立たない、と考えていたのであります。しかし、ペトロは、イエス様の言葉に永遠の命があり、イエス様の言葉によってこそ、自分たちの「まことの命」が養われるのだということに気づいていたのであります。更に、「あなたこそ神の聖者である」と言っております。「神の聖者」という言葉は、福音書の中で他にもう一回出ているだけの言葉です。それは、汚れた霊に取りつかれた男が、イエス様を見て言った言葉であります。その意味は、<神から遣わされた者>、<神御自身を体現している方>ということであります。

他の三つの福音書では、イエス様が弟子たちに、「わたしを何者だと言うのか」と問われた時に、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白したことが書かれています。ヨハネ福音書にはそれがなくて、この告白が出ているのですが、マタイ福音書では、ペトロの告白に対して、イエス様は「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ1617)とおっしゃいました。ここでも、ペトロがこのように告白することが出来たのは、神様が導かれたからでありましょう。

結.「わたしが選んだ」

・さて、私たちはペトロの素晴らしい告白を聞いたのでありますが、イエス様はすぐその後で、こう言われました。「あなたがた十二人はわたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」――その一人というのは、続いて書かれているように、イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであります。そして、このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた、と書き添えてあります。ご承知のように、後にイエス様を祭司長たちに引き渡すことになって、イエス様は十字架に架けられることになるのであります。

・十二人を選んだのはイエス様であります。ユダもイエス様に選ばれた一人でありました。しかし、そのユダが、イエス様から「悪魔だ」と言われなければならなかったのであります。イエス様の選びに間違いがあったということでしょうか。そうではありません。ユダはこれまで、弟子たちの中の会計係りとして、忠実に仕えて来ました。しかし、最後になって、イエス様が与えようとしておられることと、自分が期待していたものとに違いがあることが分かって、失望して裏切ってしまうのであります。イエス様の救いへの選びを、自ら拒んだのであります。イエス様に選ばれて、永遠の命を約束されていたのに、その言葉に耳を閉ざしてしまったのであります。人間は恐ろしいことに、こういうことをしてしまうのであります。

・イエス様は、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。このユダの例を知ると、私たちは「いいえ、最後まで決して離れません」などと言って、大見得を切ることは出来ません。私たちは誰もがイエス様を裏切る可能性を否定することは出来ないし、イエス様から、「お前は悪魔だ」と言われる可能性を秘めているのであります。

・ヨハネ福音書の記者は、多くの人たちがイエス様のもとから去って行くのを見て来ました。ユダの裏切りも見て来ました。そしてあの立派な告白をしたペトロすらも、イエス様が捕らえられた時には、イエス様のことを「知らない」と言って裏切ったのであります。そして福音書記者自身も、十字架に向かわれるイエス様に何の手助けもすることが出来なかったのであります。しかし、そうした一切の経緯を通して、福音書記者は、イエス様が自分たちのために肉を裂き、血を流して、朽ちない命のパンを差し出して下さっていたことを、そして、永遠の命を与えて下さったのだということを、今、覚えているのであります。

・イエス様は、今日も私たちに向かって、「あなたがたは、わたしが選んだのではないか」と言って下さり、「あなたがたも離れて行きたいのか」と問いつつ、私たちもまた、ペトロと同じように、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう」と告白するのを待っておられるのであります。

・最後に、先ほど朗読していただきました、旧約聖書の申命記76節以下の言葉に耳を傾けたいと思います。これは、イスラエルの民を選ばれたことに対する神様の言葉でありますが、私たちにも当てはまることであります。

 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。(申命記768

 私たちもまた、何の取り柄もないものであり、裏切る可能性さえ秘めている者たちでありますが、ただ主の愛のゆえに、選ばれて永遠の命へと招かれているのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・命の主イエス・キリストの父なる神様!

・計り知ることの出来ない憐れみによって、私たちのようなものを選んで、主イエス・キリストの許に引き寄せて下さって、朽ちない命のパンを与えて下さいますことを覚えて感謝いたします。

・私たちは、あなたの恵みの選びを忘れて、勝手なものを求めて、あなたの恵みからどうか、離れて行こうとしてしまう愚かな者でございます。どうか、絶えず御言葉をもって、私たちを主の御許に引き留めて下さい。どうか、聖霊の導きに従って、命を支えて下さい。

・礼拝から遠ざかっている人も、どうかお見捨てにならず、救いから漏れることがないように、御言葉のもとに立ち返らせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>        2008年9月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書6:60−71
 説教題:「わたしが選んだ」
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