序.「来る」から「食べる」へ

・ヨハネによる福音書6章は、五千人以上の人々を満腹させるという奇跡に始まって、人々とイエス様との対話が記されています。その中には、人々からイエス様に対する5つの質問と、それに対するイエス様の答えが組み込まれていると、新約学者の土戸清という人が指摘しています。

・第一の質問は25節で、イエス様を追いかけてきた群衆がイエス様を見つけて、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と、やや不満を込めて問いますと、イエス様は26節で「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と答えられました。ここで既にイエス様は、「永遠の命に至る朽ちない食べ物」のことを持ち出しておられます。

・第二の質問は、イエス様が29節で、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われたことに対して、30節で人々は、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」と言って、荒れ野でマンナを与えられたことを持ち出しながら問いますと、イエス様は32節で、「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と答えられました。ここでは、「天から降って来て命を与えるパン」ということを言い出されて、それがイエス様であることを暗示されています。

・第三の質問は、今のイエス様のお言葉に対して、人々が34節で「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言います。これは要請の形での質問ですが、それに対してイエス様は、ずばり、「わたしが命のパンである。」と言われ、更に「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。つまり、「命のパン」であるイエス様のもとに来て信じることで、本当の命が養われるのだということを明言されたのであります。

・第四の質問は、イエス様が御自分のことを「天から降って来た」と言われたことに躓いたユダヤ人たちが、42節にあるように、「どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」とつぶやいたことであります。これに対してイエス様は43節で、「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と言われて、つぶやかずに信頼してイエス様のもとに行くことが出来るのは、私たちの側の努力や決心によるのではなくて、神様の引き寄せによるのだ、ということを言われました。

・そして第五の質問は、今日の箇所になりますが、51節でイエス様が、「天から降って来たパンを食べるならば、その人は永遠の命に生きる」と言われ、「そのパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われたことに対して、52節にあるように、ユダヤ人たちが「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と激しく議論し始めたことであります。前の第四の質問では、「イエス様を信じて、イエス様のもとに来る」、ということがどうして可能になるのか、ということが主題でありましたが、ここでは更に進んで、「イエス様の肉を食べる」ということがどういうことなのか、どうしてそのようなことが起こるのか、ということが主題となっています。今日はこの主題について、イエス様の言葉を聴いて行きたいと思います。

1.「人の子の肉を食べ、その血を飲む」

・このユダヤ人たちの疑問は、前に聞いたニコデモやサマリアの女の疑問に似ています。ニコデモはイエス様から「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われて、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と疑問を呈しました(ヨハネ3:3-4)。サマリアの女は、イエス様が「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう」とおっしゃると、「あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」と疑問をぶっつけました(ヨハネ4:10-11)。

・ニコデモは「新たに生まれる」ということを、本気で母親の胎内 に物理的に入り直すことだと考えたわけではなくて、自分のような人生経験を積んだ者がどうして人生のやり直しができるのだろうか、と疑問に思ったのでありましょうし、サマリアの女も、イエス様のおっしゃっている「水」というのは、物理的な水のことではないらしいと分かりつつ、イエス様の言われる「生きた水」が何を表わしているのか、理解出来なかったのでありましょう。

それと同じように、ここでもユダヤ人たちは、「イエスの肉を食べる」ということが、物理的にイエス様の肉を口にすることではないとは思ったでしょうが、イエス様のおっしゃることが何を意味するのか理解出来なかったのも無理からぬことであります。

・ユダヤ人たちが激しく議論し始めたので、イエス様は言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は。永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」53,54

・ここではイエス様は「肉」だけでなく「血」のことも述べておられます。「血を飲む」という言葉に、ユダヤ人たちはますます困惑したのではないかと思います。というのは、レビ記の中で「いかなる生き物の血も、決して食べてはならない」と定められていたからであります。

ここでイエス様は「人の子の肉を食べ、その血を飲む」と言っておられます。「人の子」というのは、普通は人間一般のことを表わす言葉ですけれど、イエス様が「人の子」とおっしゃる場合は自分のことを言う場合に用いられました。それは、旧約聖書のダニエル書の中で、来るべき救い主のことを「人の子のような者が天の雲に乗って来る」という表現があるからだと、受け取られています。しかし、イエス様が御自分のことを「人の子」と言われる場合、「人の子は必ず多くの苦しみを受け・・・殺され」(マルコ831他)というように、御自分の受難と結びつけて用いられることが多いのであります。つまり、救い主と言っても、それは受難の救い主だということを「人の子」という言葉で表わそうとされていたと考えられるのであります。ここでも正にその通りで、「人の子の肉を食べ、その血を飲む」ということは、<主イエスの十字架の死を私たちが頂戴する>、ということを意味しているわけであります。

そして、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言われます。私たちの「命」は、キリストの死による以外にあり得ないのであります。53節ではそのことを否定的表現で述べておられますが、54節では逆に肯定的な表現で、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言っておられます。いずれにしろ、私たちの「命」は、イエス・キリストの十字架の死と固く結びついているということであります。

55節では、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」と言っておられます。私たちが、ただ肉体的な命を保って一生を過ごすだけであるならば、「まことの食べ物」も「まことの飲み物」も必要でないないのですが、「まことの命」を生きるためには、「まことの食べ物」であるイエス様の肉を食べ、「まことの飲み物」であるイエス様の血を飲まなければならない、ということであります。つまり、イエス様の十字架の死を自分のための事柄として受け入れるのでなければ、神様との関係が修復されて、永遠の命に生きることは出来ない、ということであります。

2.聖餐式の意味

・さて、ここで言われていることは、聖餐式と密接な関係があるということは、皆様が既にお気付きのことでありますが、教会の歴史の中で、「人の子の肉を食べ、その血を飲む」ということに対して色々な誤解があったことに触れておかなければなりません。

・まず、初期キリスト教の時代ですが、このヨハネによる福音書が書かれたのもその時代でありますが、クリスチャンたちが集まって、聖餐式をしていることに対して、<彼らはイエスの血と肉を飲み食いしているらしい>という評判が広がったのであります。もちろんこれは誤解であり、キリスト教を迫害しようとしていた人たちの陰謀から出た噂でありますが、そういう背景の中で、筆者のヨハネは、かつてユダヤ人たちとイエス様との間で交わされた会話を詳しく再現することによって、誤解を解こうとしているのであります。ここではまだ、十字架のことに直接触れる段階には至っておりませんが、読む人は皆、ここで「人の子の肉を食べ、その血を飲む」と言われていることは、キリストの十字架の犠牲のことを指しておられたのだと、理解出来たわけであります。

・教会の歴史の中で、もう一つ問題になったのは、中世以降における誤解でありますが、聖餐式で扱われるパンとぶどう酒が、そのままイエス様の肉と血になるという理解があります。その理解によれば、罪を赦されて救われるということは、聖餐式に与って、パンを食べ、ぶどう酒を飲んだ瞬間に起こると考えるのであります。パンとぶどう酒自体に救いの力が秘められている、と考えるからあります。これは主としてカトリックの考え方であります。しかし、ここでイエス様が「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言っておられるのは、そういう意味ではありません。聖餐式のパンとぶどう酒自体が命を生み出すのではなくて、イエス様の十字架の死という出来事が私たちを生かすのであります。私たちは信仰をもってパンとぶどう酒に与る時に、聖霊の働きによって、私たちがまことの命に生かされることになるのであります。カトリックの考え方では、聖餐(ミサ)のパンとぶどう酒自体に人を生かす力があるわけですから、毎週、それを欠かすことが出来ませんが、私たちは、御言葉の説教によって十字架の恵みを受けることが出来ると考えておりますから、聖餐式を毎週しなくても、命を保つことが出来ると考えているわけです。そうかと言って、聖餐式を軽んじているわけではありません。イエス様の十字架の救いというのは、抽象的なことではないし、頭の中だけのことではなくて、「食べる」とか「飲む」と言われるほどに、私たちの生きること、生活することの全体に具体的に関わることであります。今日の箇所の中に「食べる」という言葉が何回も出て来ていますが、実は、53節までの「食べる」と54節からの「食べる」は原語では違う言葉が使われています。53節までは普通の「食べる」なのですが、54節以下の「食べる」は、<バリバリ食べる>という、動物が音を立てて食べる様子を表わす時に用いられる言葉なのであります。なぜ使い分けているのか、その理由は明らかではありませんが、肉を食べることの生々しさを表現しようとしたと考えられます。イエス様の十字架ということが、私たちが生きて行くことに、それほど生々しく関わっているということを表現したかったのではないでしょうか。そのような十字架の生々しさを、体で確かめるのが、聖餐式であります。だから、聖餐式を長く守らないでいると、信仰が抽象的なものになったり、教会に行かなくても聖書さえ読んでいればよい、といった誤った考えを持ってしまうのであります。そういう意味で、生き生きとした信仰を保つために、聖餐式に与ることが持つ意味は大きいのであります。

3.命の内在

・次に、56,57節の御言葉に進みます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」

・ここで、「いつも・・・おり」「いつも・・・いる」と訳されている言葉 は、通常「とどまる」と訳されることが多い一語の単語であります。この言葉はヨハネ文書の中では、重要な単語で、特に有名なのが、ヨハネ福音書15章のぶどうの木の譬えの箇所です。そこでは、こう言われています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」――ここで「つながっている」と訳されているのが、同じ「とどまる」という言葉であります。ぶどうの木の譬えは、イエス様と私たちの関係をぶどうの木と枝の切っても切れない生命的な関係を表わしたものですが、同様の関係が、イエス様の肉を食べ、血を飲むということ、即ちイエス様の十字架を自分の内に受け入れることによって、生まれるのだ、ということを示しておられるわけであります。

・ここで述べられているようなことを、少し難しい言葉で「相互内在」と言います。両者が相互に内在するという意味であります。十字架の恵みによって、私たちがイエス様のもとに留まることが出来るし、イエス様がいつも私たちの所にいて下さるということが実現するのであります。その関係というのは、57節にあるように、父なる神様とイエス様との関係と同じだと言われるのであります。そして、「生きておられる神様がイエス様の中に生きておられるように、私たちの中にも生きて下さる」ということであります。これは、身に余る光栄なことではないでしょうか。このことをパウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言っておりますし、フィリピの信徒への手紙の中では、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:21)と言っております。

58節は、これまでにも語られて来たことの繰り返しではありますが、「天から降って来たパン」はイスラエルの先祖たちが荒れ野で食べたマンナとは違う、ということが語られています。どこが違うかと言えば、荒れ野で食べた先祖たちは結局は死んでしまったが、「天から降って来たパン」を食べる者は、永遠に生きる、ということであります。これは、肉体的なパンと精神的なパンの違いというように理解しては間違いでしょう。イエス・キリストは、正に肉体を十字架に架けて私たちの命を救って下さったのであります。だから、神様と私たちの関係は永遠に修復されたのであります。だから、私たちの命は永遠に生きるのであります。

結.礼拝において起こっていること

・最後に59節を御覧下さい。これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである、とあります。このとき、イエス様が会堂で説教として語られたのか、単に、ユダヤ人との間で会話が交わされただけだったのかもしれませんが、イエス様の御言葉が語られたことには違いありません。同時に聖餐が行われたかどうかも分かりません。仮に行われなかったとしても、御言葉が語られ、イエス様によって、神様がそこにおられ、また、一人一人におられるということが起こったのであります。

・旧約聖書の中には「御言葉を食べる」という表現があります。例えば、エレミヤ書1516節では、こう言われています。「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって、呼ばれている者です。」――私たちが御言葉を聴くとき、そこには、イエス様の肉を食べ、血を飲むように、「御言葉を食べる」ということが起こるのであります。そして、イエス様の命が私たちの命となるのであります。

・聖餐式は毎週行われるわけではありませんが、ここに、聖餐卓がいつも置かれていて、それと一体になった説教卓が置かれています。これは、説教によって、いつも、イエス様の十字架の御業が行われている、ということを表わしています。

・私たちは今日も、ユダヤ人に語られたイエス様の御言葉によって、十字架の赦しの恵みに与ることを許され、永遠の命に生きるものとされたのであります。

・祈りましょう。

祈  り
 ・生きて働き給う父なる神様!

今日も、イエス・キリストの御言葉を通して、私たちを主の御許に引き寄せ、十字架の恵みによって、死すべき者を、主の命に生きる者として下さいましたことを感謝いたします。

どうか、与えられた新しい命が、私たちの日々の歩みの中でも生き続けますように。どうか、肉体が御許に召される日まで、御言葉を聴き続け、聖餐に与り続けて、与えられた命の火を燃え続けさせて下さい。

・どうか、この命の食卓に、更に多くの方々をお招き下さい。そしてどうか、この会堂に、命に満ちた喜びと感謝を溢れさせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年9月14日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書6:52-59
 説教題:「主を食べて生きる」     
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