序.わたしのもとに来る

・イエス様のところには、色々な人がやって来ました。ある人は教えを乞うために、ある人は病を癒していただくために、ある人はイエス様を王に担ぎ出そうとして、ある人は反感を抱きつつやり込めようとして、ある人は弟子になろうとして、やって来ました。しかし、やがて、潮が引くように、イエス様の許を去って行くのであります。ヨハネによる福音書の6章は、イエス様の公生涯の中で、そのような転換が起こり始める箇所であります。

6章の中には、イエス様のところへ「来る」という言葉が10回出て来ますし、そのうち、イエス様自身が「わたしのもとに来る」とおっしゃったのが5回あります。今日の箇所にも2回あって、44節には「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」とおっしゃっていますし、45節の後半では「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」とおっしゃっています。イエス様のところには、色々な思惑で色々な人がやって来るのだけれど、イエス様はそれを必ずしも喜んではおられなかったのです。なぜなら、本当にイエス様の許に来たと言えるのかどうか、そこに大いに問題があったので、このようにおっしゃっているのであります。

・私たちの伝道所にも色々な方がやって来ます。その動機や思惑はまちまちであります。そして、色んな形でイエス様と出会うのであります。しかし、やがて、あまり来なくなったり、去って行く人も少なくないのであります。しっかりとイエス様のところに留まる人は、残念ながら決して多くないのであります。伝道する立場から言えば、どうすれば、本当の意味で「わたしのもとに来る」と言えることが起こるのであろうかと、歯痒く思います。また、今来ている人を、どうすればずっとイエス様の許に引き留めておくことが出来るのか、また、あまり来なくなっている人を、どうすればイエス様の許に引き戻すことが出来るのか、教えていただきたいと思います。けれども、イエス様の許に留まるかどうかは決して他人事ではありません。私たち自身が、本当にイエス様の許に来て、しっかりと留まっていると言えるのだろうか。こうして礼拝には来ているのだけれども、イエス様と離れることは絶対ないと言えるのだろうか。天国に行くまで繋がっていることが出来るのだろうか、何か困難な問題が起こったり、関心が薄れると離れてしまうのではないか、自分の中に、本当に確かな信仰があるのだろうか、と考えると、誰でも少し怪しくなるのではないでしょうか。

・今日は、与えられた箇所を通して、どうすれば、イエス様の許へ来るということが、本当の意味で起こるのか、自分にはそのことが起こっているのかどうか、ということを示されたいと思うのであります。

1.つぶやき

・さて、41節には、ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、とあります。ここまでは、イエス様を追いかけて来た群衆とイエス様との対話が記されておりましたが、ここからは「ユダヤ人たち」とのやりとりになります。これまでの群衆の殆どはガリラヤ地方の人々であったと思われますが、59節を見ると、このやりとりの場所はカファルナウムの会堂でありますから、このユダヤ人というのは、会堂の指導者か群衆の中に混じっていたユダヤ人(ユダの地方から来た人たち)であったと考えられます。彼らはイエス様に対して、大いに期待をもっていたというよりも、疑問ないし反感を持ちつつ、イエス様に対して強い関心を示しているのであります。

これまでのところで、イエス様が「わたしは天から降って来たパンである」という言葉を、文字通りそのままの言われたことは書かれていないのですが、33節で「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と言われ、35節で「わたしが命のパンである」とおっしゃっているのですから、「わたしは天から降って来たパンである」と言われたのと同じであります。

・ユダヤ人たちは、この言葉にひっかかって、つぶやき始めました。つぶやきというのは、皆に聞こえるような大声で言ったわけではなくて、互いにブツブツ言い合ったのでしょうが、42節にはこう言ったと記されています。「これはヨセフの息子イエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」。――彼らはユダヤ人ですが、ガリラヤ地方で生活しているわけですから、この地方のナザレに住むイエス様の家族のこともよく知っていたのでありましょう。父親は大工のヨセフであります。母親はマリアでありますが、貧しい家の普通の女であって、特別な家柄の人ではありませんでした。イエス様のこれまでの働きについては、彼らも認めざるを得なかったと思われますが、イエス様が「天から降って来た」と言って、御自分を<神様からの使者>ないしは<神の子>であるような言い方をされたことにひっかかったのであります。

・「つぶやき」ということで私たちが思い出すのは、エジプトを出て荒れ野の旅をしていたイスラエルの民のことであります。彼らは水が苦くて飲めないと不平をもらし、エジプトにいた時のように肉鍋の前に座って、パンを腹いっぱい食べられないと言って、モーセに不平を述べ立てました(出エジプト記1516章)。彼らは神様から、「乳と蜜の流れるすばらしい土地へ、導き上る」(出エジプト3:8)と約束されていたにもかかわらず、神様を信頼することが出来ずに、つぶやいたのであります。

・「つぶやき」というのは、信頼出来ないところから芽生える不安と疑いから出て来るもので、不信仰の表れであります。イエス様が宗教指導者や権力者のような、社会的に高い地位にある家柄から出た人であったならば、信用したのかもしれませんが、自分たちの同等以下と見做している人が、「天から降って来た」などと言うことに我慢がならなかったし、信頼することが出来なかったのであります。

・「天から降って来たパン」という言葉には、イスラエルの民が荒れ野で与えられたマンナとの対比もあります。人々は、五千人以上もの人にパンを与えて満足させたイエス様に驚きを覚えましたが、荒れ野で四十年間もマンナを与え続けたモーセに勝る方ではないと考えました。しかしイエス様は、荒れ野でマンナを与えたのはモーセではなく神様であったとおっしゃり(6:32)、「わたしが天から降ってきたパンである」と言われて、御自分が神様から遣わされた者であり、モーセ以上の者であることをおっしゃったものですから、ユダヤ人たちにとっては余計に抵抗があったのであります。

・ユダヤ人たちも、イエス様の働きに対しては、一定の尊敬を持たざるを得なかったし、もし、イエス様が自分たちにとって利益になることを積み上げながら、多くの人々から尊敬を集めて、次第に地位を上げて行かれたならば、後について行ったかもしれません。しかし、イエス様はそのように、地上の人間の中から上昇して、次第に信頼を勝ち得るというのではなくて、「天から降って来た」とおっしゃるので、抵抗があるのであります。

・ユダヤ人に限らず、私たちも、イエス様に素直について行くことが出来ないのは、この点にあるのではないでしょうか。私たちもイエス様の語られる数々の教えには、感心いたします。人生訓として大切にしたいと思うようなことを、沢山おっしゃいました。また、人を驚かすような奇跡も沢山行われました。常識では信じられない点もありますが、当時の人々がはっきりと証言していることからすれば、やはり特別な力を持っておられたことは確かなようで、そういう奇跡が、私たちにも直接関わるような形で今も起こるならば、自分もついて行きたい、と思うのであります。

・しかしイエス様は、そういう形で私たちの尊敬や信頼を得ようとはなさらないのであります。そうして、「わたしは天から降って来たパンである」とおっしゃり、35節にもありましたように、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われるのであります。そう言われても、実際にこの世には、飢えや渇きがあり、様々な苦しみの中で、私たちはもがきながら、何とか自分の力で飢えや渇きを満たしているし、何とか苦しみに耐え、それを乗り越えようと頑張っているのであります。もしイエス様が、今私たちの前に現れて、具体的に手を差し伸べて下さるのであれば、ついて行くことが出来るけれども、ただ「わたしは天から降ってきたパンである」と言われても、ほいほいとついて行く訳には行かない、というのが本音であるかもしれません。

・そのようにして、私たちはイエス様に対して、一定の尊敬の念を抱きつつも、イエス様を日常の生活とは離れた精神世界の中に閉じ込めてしまって、日々の生活の中では、イエス様とは縁がないかのような生き方をしてしまうのであります。それが、具体的には礼拝を重んずる気持ちが薄れ、やがて礼拝に行くことから遠ざかったり、祈ることをしなくなったり、周囲の人や教会に対してつぶやきを漏らしたりすることに繋がるのであります。その根っ子にあるのは、イエス様に対する不信仰であります。イエス様を本気で信頼していないのであります。そういう人たちを非難しているのではありません。これが私たちの現実であります。

2.父が引き寄せてくださらなければ

・では、このようにつぶやくユダヤ人や私たちに対して、イエス様は何と言われるのでしょうか。43節で、こう言われます。

 「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」
イエス様は、「つぶやき合うのはやめなさい」と言われます。独りで悶々としながら呟くのも、不満を持った者同士が互いに不平をぶっつけ合うことも、やめなさい、とおっしゃるのです。そこからは何も出て来ないので無駄だ、ということであります。教会の中で交わされる会話や、会議で出て来る発言でも、ただ不満を呟いているだけのものがあります。そういう呟きであっても、牧師や役員は、切り捨ててしまうのではなく、耳を傾けて、その中から課題を発見して、適切な対応をすることが必要であるのかもしれません。しかしここは、イエス様に対するつぶやきであります。それに対してイエス様は、はっきりと「つぶやき合うのはやめなさい」と言われるのであります。なぜでしょうか。――それは、イエス様を信じるために必要なことは、全てなされているからであります。つぶやきをいくら積み上げても、そこから信仰は出て来ませんし、イエス様の方へ向かう力は生み出されません。

続いてイエス様は、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」とおっしゃいました。私たちがイエス様のところへ行けるようになるのは、私たちの「つぶやき」の背後にある原因を分析して、そこから見えてくる問題点を改善するとか、懸命に努力を積み重ねるとかいうことによってではなくて、父なる神様が私たちを引き寄せて下さるかどうか、に懸かっているのであります。だから、つぶやくことは何の役にも立たないのであります。

「引き寄せる」という元の言葉は、大変強い言葉で、不本意であっても、綱をつけて強引に引き込むような強制的なニュアンスのある言葉だそうであります。父なる神様が愛を込めて、力を込めて引き寄せて下さるからこそ、私たちはイエス様の許に行くことが出来るのであります。

・私たちは、イエス様とどのような関係を持つか、イエス様の許に行くかどうかは、自分が決定するのだと思っています。イエス様の言われたことにどれだけの価値があるのか、イエス様がなさったことが自分にとってどれほど意味があるのか、そのことを自分で理解し、判断してから、イエス様と自分の関係をどれほどの濃さにするのかを決められると思っているのではないでしょうか。だから私たちは、いつもイエス様との間に一定の距離を置いて、フリーな立場で、つかず離れずの関係を保とうといたします。

・しかし、神様は私たちに、そのような関係の持ち方をお許しにはならないのであります。イエス様と私たちの関係をお決めになるのは神様であって、私たちではありません。神様はいわば強引に私たちをイエス様の方に引き寄せられるのであります。私たちはそのことに気付いて、神様が引き寄せて下さるのを受け入れて、神様にお任せしてイエス様の許に自分を預けるかどうか、だけなのであります。逆に、神様が引き寄せて下さらなかったならば、どんなに自分で努力しても、イエス様に許に行くことは出来ないということであります。

・しかし、神様が引き寄せて下さった者には、44節にあるように、イエス様が「終りの日に復活させる」と約束しておられます。ここで言われている「復活」とは、終りの日の栄光に満ちた命の完成のことであります。私たちは、信仰を与えられてイエス様の許に行くならば、その時点で永遠の命に生き始めます。しかし、まだ未完成であります。それが、終りの日に完成するのであります。

3.父から聞いて学ぶ

・次の45節では、今、<父なる神様が引き寄せて下さる>、と言われたことを別の側面から述べておられます。「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」

ここに二重鉤がついている言葉は、イザヤ書5413節の引用であろうとされていますが、そこだけではなくて、旧約聖書の働き全体のことを述べておられるのであると思われます。ここでイエス様がおっしゃろうとしたことは、<旧約聖書を通して神様の御言葉を聞いて学んだ者は、その御言葉によって引き寄せられて、イエス様の許に来る>、という意味であると思われます。

ここで、「学んだ者」という単語は、「弟子」という言葉と元が同じです。「弟子」というのは、先生の教えを、ただ講義のように聞いて学ぶのではなくて、先生と生活を共にしながら、先生の生き方に引き寄せられるようにして学ぶのであります。聖書を学ぶということは、単に知識として知るということではなくて、歴史の中に生きて働いておられる神様の語りかけを聞くのであり、その御言葉によって、ぐいぐいと引き寄せられるのであります。新約聖書であれば、イエス様のなさった十字架と復活の御業の中に、私たちの生活(生き様)そのものが引き寄せられるのであります。また、そういう読み方でなければ、本当に聖書を読んだということにはならないのであります。そのような御言葉の学び方をした者のことを「父から聞いて学んだ者」と言っておられて、そのような仕方で「聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」と言っておられるのであります。ですから「わたしのもとに来る」というのは、ただイエス様のお話しを聞きに来て、参考にする、というようなことではなくて、弟子になるということ、生き方が変わるということで、それがイエス様を信じるということであります。

・続いて46節では、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と言われています。45節では「父から聞いて学ぶ」ということが語られていましたが、ここでは「見る」ということが語られています。「父(神)を見る」というのは、神様との直接的な交わりのことであります。先ほどの「聞く」ということも、単に耳で言葉を聞くだけでなくて、生き方が神様の方へ引き寄せられることだ、ということを申しましたが、「見る」というのは、それ以上に神様に密着することであります。

・けれども、「父を見た者は一人もいない」と言われます。神様を見るほどに神様に密着した人は一人もいないのであります。このことは既に、118節で筆者ヨハネが書いていたことであります。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」ここでも、そのことがイエス様御自身の言葉として語られています。アブラハムもモーセも、イザヤやエレミヤも神様を見ることは許されませんでした。「神のもとから来た者」であるイエス様だけが、父を見た者、神様と密着した只一人のお方であります。

・ですから、私たちは神様を直接見るわけには行きません。私たちに出来ることは、神様の言葉を聞くことであります。聞いてイエス様の許に行くことであります。イエス様を信じてついて行くことであります。これが信じる者の生き方であります。

・その後に47節で、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」とおっしゃっています。「永遠の命を得る」というのは、いつも言うように、神様と良い関係を保って生きることであります。私たちは神様を「見る」という程には密着した関係を持つことは出来ませんが、イエス様を信じてついて行くことによって、「永遠の命」に生きる、つまり神様と良い関係を持って生きることが出来るのであります。

結.天から降ってきたパンを食べる

48節の「わたしは命のパンである」という言葉は、既に35節で聞いた言葉で、49節の「荒れ野でマンナを食べた」という出来事のことも31節に出て来ていて、同じような内容のことが語られているようでありますが、前と違う言い方で、更に突っ込んだことが述べられていますので、そのことに注目したいと思います。

まず、35節では「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、・・・」と言われていたのですが、ここでは、50節にあるように、「しかし、これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない」と言われていて、「わたしのもとに来る」ということから、「(イエス様というパンを)食べる」という表現に進化しているのであります。単にイエス様のところに近づくだけではなく、イエス様を食べるのであります。これは、聖餐式を思わせる表現であります。私たちはイエス様が十字架の上で裂かれたイエス様の体であるパンを食べるのであります。そしてそこから、罪を赦された新しい命に生き返るのであります。

イスラエルの先祖は荒れ野でマンナを食べましたが、死んでしまいました。しかし、天から降って来たパンを食べる者は死なないのであります。51節では、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と言っておられます。このパンには、死の力を跳ね飛ばす命がみなぎっていて、それを食べる者をも生かすのであります。それも、一時的に生かすのではなくて、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」のであります。

51節の最後には、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言っておられます。主イエスは、私たちを生かすだけでなく、更に世の人々みんなを生かすために、御自分の肉を差し出して下さったのであります。それが、今日、共に与る聖餐式で行われる事柄であります。 ・祈りましょう。

祈  り
 ・生きたパンであるイエス・キリストの父なる神様!

・イエス・キリストとの間に距離を置き、自分で関係の持ち方を決めようとしている私たちを、あなたはその愛の力でもって、イエス・キリストのもとへ引き寄せて下さるお方であることを覚えて、感謝いたします。

・あなたは御子イエス・キリストのパンを食べることによって、私たちの命を養って下さり、永遠にあなたのところに留まることが出来るように計らって下さいました。どうか、この事実を喜んで受け入れ、永遠の命に生きる者とならせて下さい。

・どうか、差し出されているこのパンをまだ食べようとしていない人々、また、このパンの恵みから遠ざかっている人々を、どうか更に強い御手をもって、引き寄せて下さいますように、お願いいたします。

・わが主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年9月7日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書6:41-51
 説教題:「天から降って来たパン」     
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