序.感謝と喜びの礼拝のために

・米子伝道所の今年の年間目標は、週報にも掲げられているように、「わたしたちはキリストの使者」であります。この年間目標は、昨年と同じです。その主旨は、一人一人が外に向かって具体的に伝道の業に仕えることができるように、ということであります。しかし、今年は副題を「感謝と喜びの礼拝に招き入れるために」といたしました。なぜかと言うと、私たちが外に向かって伝道する以前に、礼拝そのものが感謝と喜びに満たされる場となっていてはじめて、そこへ求道者や長期欠席者を招き入れたいとの願いが湧き上がって来るからであります。そういうわけで、週報に載せています「祈りの課題」にも、ずっと「感謝と喜びの礼拝のために」というのを挙げております。

・では、私たちの礼拝が「感謝と喜びの礼拝」となる根拠は何処にあるのでしょうか。何が私たちの礼拝を「感謝と喜びの礼拝」にするのでしょうか。

・今日の箇所では、冒頭の3節に「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」とあります。口語訳聖書では、「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」となっていて、「ほむべきかな」という言葉が最初に来ています。ギリシャ語の原典でも「ほむべきかな」という言葉が最初にあります。「ほむべきかな」という言い方は最近はあまり使いませんが、その意味は、新共同訳のように「ほめたたえられますように」ということで、これは神様を讃美する言葉です。新約聖書の中に手紙がたくさんありますが、この手紙のように最初に「ほめたたえられますように」と言っているものは少ないのですが、多いのは、「わたしたちは神に感謝しています」という言葉です。神に感謝するということと、神をほめたたえるということは、殆ど同じ心を表していると言ってよいと思います。ですから、3節のはじめは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています」と言っているのと殆ど同じ心を伝えていると考えてよいでしょう。

・それから、今日の箇所の中には、「喜び」という言葉も二回出て来ております。6節を見ていただくと、「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」とありますし、8節の後半では、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」とあります。ですから、今日の箇所で筆者は、宛先の教会の人々に対して、彼らが感謝と喜びの中にあることを思い起こさせようとしていることが分かります。

・宛先の教会というのは、1節に具体的な名前が挙がっていますが、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアといった小アジアの地域の教会で、「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」というのは、ここでは、異教的な環境の中にいるキリスト者のことであります。この手紙が書かれたのは、キリスト教に対する本格的な迫害が始まる少し前だと考えられていますが、異教の世界に生活しながら、クリスチャンとしての生活をし、周りに伝道することの困難を覚えていたに違いないのであります。それは、私たちが置かれている状況とよく似ていると言えるのではないでしょうか。彼らは、そういう状況の中で、神様を讃美し、感謝し、喜びに満ちあふれて信仰生活を続けているのであります。

・では、彼らが讃美し、感謝し、喜んでいる根拠は何処にあるのでしょうか。何が彼らを感謝と喜びに導いているのでありましょうか。この箇所には、彼らの感謝と喜びの理由が丁寧に語られていますが、今日は特に、3節から5節を中心に、私たちキリスト者の賛美(感謝)と喜びの根拠は何処にあるのかということを、しっかりと聴き取って、私たちも感謝と喜びに満たされたいと思うのであります。

1.主イエス・キリストの父である神

・まず、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と言っていることに注目したいと思います。私たちの讃美と感謝の対象は、「父である神」であります。

・私たちは普通、祈りの中などで、気安く「父なる神」と呼んでいます。しかし、どうして私たちが神様を親しげに「父」と呼べるのでしょうか。私たちは元々、神様を「父」などと呼べる資格がありません。私たちは神様とはかけ離れた存在であり、神様は私たちにとっては近づき難いお方であります。正しい神様の前では、罪深い私たちは滅びるしかない者であります。

・筆者はそのことが分かっていますから、いきなり「父なる神」とは言わずに、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と言っているのであります。神様をそのまま「父」と呼べるのは、神の独り子であるイエス・キリストだけであります。その独り子であるイエス・キリストを、神様は私たちのところに遣わして下さいました。それは、十字架によって、私たちの罪の贖いをして赦して下さるためでありました。こうして、イエス・キリストによって神様の愛が私たちにも分かるようになり、イエス・キリストが仲立ちをして下さることによって、私たちも神様を「父」と呼ぶことが出来るようになったのであります。だから、私たちも今は神様を「父なる神様」と呼びかけてよいのですが、なぜそのように呼べるようになったのかを考えると、「主イエス・キリストの父なる神様」という呼び方にならざるを得ないのであります。

2.新たに生まれさせ

・さて、3節の後半から5節にかけてには、私たちの讃美(感謝)と喜びの根拠が挙げられていますが、三つに分けて見て行きます。

・まずは、3節の後半ですが、神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、と言われています。

・この短い聖句の中にも、感謝と喜びの根拠が沢山盛り込まれていますが、その中心は、「新たに生まれさせ」ということであります。ここに使われているギリシャ語の単語は、聖書の中ではここにしか使われていないものですが、一般的には、個人の生活などで何か決定的に新しい段階に至った場合に用いられる言葉だそうで、ここでは、端的に言って、信仰告白をして、洗礼を受けて、教会の一員になったことを言い表していると思われます。教会の一員になるということは、何か一定の資格を得て、団体のメンバーに加えられるというようなこととは違います。それは、生まれ変わることであります。生き方が全く変わるということであります。洗礼という儀式はそのことを表したもので、一旦死んで、もう一度新たに生き返るのであります。

・私たちは、時々、自分がいやになることがあります。こんな自分から脱出したい、生まれ変われるなら生まれ変わりたいと思うことがあります。そういう思いに応えて、色んな自己革新の手段が提案されています。座禅を組んでみたり、滝に打たれてみたり、心のトレーニングをしたりする方法があるようです。それらが全く無駄であるとは言いませんけれども、根本的に自分を変えることは出来ません。イエス様のもとを訪れたニコデモが、イエス様から「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われて、「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言いました。ニコデモは、自分の人生経験から、人が生まれ変わることが如何に難しいかを知っていたのでありましょう。そのニコデモの言葉に対して、イエス様は、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃって、人は洗礼によってしか生まれ変わることが出来ないことを示されたのであります。

・では、なぜ、他の手段では生まれ変われない人間が、洗礼によって生まれ変わることが出来るのでしょうか。それは、洗礼によって新たに生まれるということが、「神の豊かな憐れみ」によって行われるからであります。人間が一念発起して生まれ変わろうとしても、自分たちの中には、生まれ変わる力はありません。神様が私たちに豊かな憐れみをかけて下さることによって初めて、生まれ変われるのであります。

では、神様の憐れみが、私たちにどのように働くのでしょうか。

この新共同訳では、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」という言葉が、後ろの「生き生きとした希望を与え」だけにかかっているように読めるのですが、前の「わたしたちを新たに生まれさせ」にもかかっていると読んだ方がよいと思います。つまり、<神は豊かな憐れみによって、死者の中からのイエス・キリストを復活させることを通して、生き生きとした希望に向けて、わたしたちを新たに生まれさせる>というつながりになっているのであります。つまり、神様の私たちに対する憐れみは、まずはイエス・キリストの復活となって働いて、そのことから私たちにも生きる希望が与えられるという形で、生まれ変わる、ということであります。私たちが生まれ変わるというと、私たちの心や体がもう一度造り替えられることかと思いましたら、そうではなくて、キリストの復活ということが起こされて、そのことから、私たちも死でもって終わるのではない、ということが分かって、希望が出て来るということが、生まれ変わるということなのであります。

・私たちは自分の思い通りに行かないと、生きることに希望が持てなくなります。では、思い通りに行って、楽しい生活や恵まれた人生が送れるならば、希望が持てるのかというと、どんな恵まれた生活であっても、死の時が来れば、それでおしまいであります。ですから、今の思い通りに行かない生活が、何らかの修練や、努力で改善されたとしても、死の時が来れば、何も残らないのであります。それでは、決して生き生きとした希望が持てませんし、喜びといっても、一時的な誤魔化しの喜びに過ぎないわけであります。死によって制限された人生には、本当の希望も喜びもありません。なぜ人間は死ななければならないのか。死をもって全ての希望が断たれなければならないのか。それは、神様に対して罪を犯しているからであります。

・そのような人間に対して、神様が「豊かな憐れみ」によってなさって下さったことは、イエス様を罪ある私たちの身代わりとして十字架に架けて、そのイエス・キリストを死者の中から復活させることによって、私たちの罪の問題を全面的に解決して下さったのであります。これによって、神様と私たちの間の関係が修復されて、私たちが新しい永遠の命に生まれ変わるということが起こるし、本物の生き生きとした希望が涌いて来るのであります。

・「生き生きとした希望」という言葉は「生きた希望」とも「生きる希望」とも訳せます。<命を持った希望>であります。一時的に人の心を喜ばせる希望があったとしても、いつの間にか消えてしまうような希望や、人間の死でもって終わってしまうような希望は、命のない希望であります。しかし、神様がイエス・キリストを通して与えて下さる希望は、キリストの復活に裏付けられた命をもった希望、永遠に消え去らない希望なのであります。

3.しぼまない財産

・以上、3節で、私たちはイエス・キリストによって、生き生きとした希望に向けて、生まれ変わった、ということを聴いたのでありますが、生まれ変わった私たちはどうなるのか、何を希望として生きるのか、ということが、4節、5節に記されて行きます。4節では、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました、と書かれています。

・ここには「財産を受け継ぐ者」とされている、ということが言われています。ユダヤ人は「財産を受け継ぐ」と聞くと、すぐパレスチナの土地のことを思い浮かべました。それは、神様がユダヤ人の先祖のアブラハムにカナン(今のパレスチナ)の土地を見せて、その土地をすべて、「あなたとあなたの子孫に与える」(創世記1315)と約束されたからであります。確かに、カナンの土地は一時期、イスラエルのものとなりました。しかしその後、イスラエルの民は、その不信仰のゆえに、バビロンに移されました。それ以来、パレスチナの土地は、ご承知のように、多くの民族によって、取ったり取られたりして来ました。土地は地上の財産に過ぎないからであります。

・それに対して、ここで言われているのは、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」であります。地上の財産は、土地に限らず、お金にしても、株にしても、貴金属にしても、建造物にしても、すぐ値打ちが変わるし、ちょっとした失敗や天災などで失ってしまうものであります。知識や経験や技術といった無形の財産も、時代と共にすぐ役に立たなくなってしまうものであります。しかし、「天に蓄えられている財産」は、時代が変わっても、災害のようなことが起こっても、また私たちが何か失敗をしでかしても、「朽ちず、汚れず、しぼまない」のであります。

・「朽ちず」というのは、時間が経てば朽ち果てるというようなことがなく、永遠になくならない、ということであります。「汚れず」というのは、偶像礼拝や人間の罪によっても汚されることがない、という意味であります。「しぼまない」というのは、花がしぼむように、美しさや輝きを失うこともない、ということであります。

・そのような財産が、天に蓄えられていて、それを私たちは受け継ぐ者とされた、と言われています。そして、そのことが3節で述べられていた、私たちの希望なのだ、というのであります。――では、この「天に蓄えられている財産」とは、一体何でしょうか。

4.救いを受ける

・次の5節には、こう記されています。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

・わたしたちのために「天に蓄えられている財産」とは、「終りの時に現されるように準備されている救い」のことを言おうとしていたことが分かります。では、「救い」とは何でしょうか。「救い」とは、一般的には、病気が癒されるとか、困った状態から解放されるということですが、聖書で言う「救い」とは、罪の結果としての死からの救いのことであります。私たちと神様との関係にはほころびがあります。それが罪であります。その結果、私たちは死ななければならない者、永遠に神様との関係を絶たれなければならない者でありました。しかし、先ほども触れましたように、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、罪による死から解放されたのであります。それが、3節にあった「新たに生まれる」ということであります。新しい命を与えられる、ということであります。それが、私たちのために「天に蓄えられている財産」なのであります。

・ですから、私たちのために準備されている「救い」という「財産」は、朽ちることも、汚れることも、しぼむこともない、ということになります。時が経っても朽ちることがありませんし、私たちが偶像を拝んだり、罪を犯したりすることで汚れるということもありませんし、花がしぼむように、その美しさや輝きを失うこともないのであります。

・この「救い」は、「終りの時に現されるように準備されている」とあります。「終りの時」というのは、イエス様が再び来られる再臨の時であります。それでは、その再臨の時まで救いはないということでしょうか。そうではありません。救いは既に、イエス・キリストを信じて(洗礼を受けて)、新たに生まれ変わった時から与えられています。私たちは、既に、財産を受け継ぐ者とされたのであります。しかし、地上の生活を続けている間は、そのことがはっきりと分かる形では現れていません。まだ罪がうごめいています。汚れを取り去ることが出来ません。救われたことがはっきりと現されるのは、イエス様が再臨されて、終りの時が来る時であります。救われるという希望は与えられていますけれども、まだ完全には私たちのものになり切っていないのであります。

・それでは心配だ、と思われるかもしれません。終りの時までに、救いから外れてしまうのではないか、それまで持ちこたえられないのではないか、と不安になるかもしれません。

・しかし、心配はありません。5節の後半に、こう書かれています。「救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」信仰さえあれば、神様の力によって守られている、と言うのであります。ここで、「守る」という所に用いられているギリシャ語は軍隊用語で、町や住民を敵から守るという時に使われる言葉です。そのように、神様が守って下さる、ということであります。「神の力により」と「信仰によって」ということが並列して書かれているので、信仰が弱いと救いの一角が崩されるのではないかと、思いますが、実は日本語では同じ「よって」ですが、原文では違う言葉が使われていて、「神の力により」の所には、直接的な要因をあらわす言葉が用いられていて、「信仰によって」の所には間接的な要因をあらわす言葉が使われているのであります。ですから、守るのはあくまでも神の力であります。私たちはそのことを「信仰によって」信じるだけであります。

結.心からの喜び

・今日の箇所は、3節の「ほめたたえられますように」(ほむべきかな)という神様への讃美の言葉で始まっておりました。その讃美の根拠を3節から5節で聴いて参りました。その根拠とは、罪深い私たちを神様が憐れんで下さって、イエス・キリストを遣わして下さって、その復活によって、私たちが新しい命に生まれ変わって、天に蓄えられている財産、すなわち罪からの救いという財産を受けるという希望を与えられた、そのことが神様の強い力によって守られている、ということであります。私たちは、そのようにしていて下さる神様を、ただ讃美するしかありません。

6節には、「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」とあります。神様を讃美する根拠は、私たちが心から喜ぶ根拠でもあります。私たちの人生の中で、また日々の生活の中で、様々な喜びがあるでしょう。しかし、ここに与えられていることほど、心から喜べる喜びはない筈であります。私たちはイエス・キリストによって最高の喜びを与えられているのであります。

・人生の中では、喜べないこと、苦しいことも沢山経験しなければならないかもしれません。しかし、ここから沸き上がってくる喜びを打ち消すことは出来ません。ここには、何があっても「しぼまない財産」が約束されているからであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・わたしたちの主イエス・キリストの父なる神様!

あなたの憐れみによって、罪深い私たちのためにイエス・キリストを遣わして下さり、その十字架と復活によって、私たちを新たに生まれさせて下さいましたことを、感謝し、讃美いたします。

私たちはなお、地上の生活を営む中で、間違いも多く、苦しみを味あわねばならないこともありますが、天に蓄えられている財産を受け継ぐ者として下さり、終りの時に救いに与るよう準備していて下さることを覚えて、心から喜ぶ者であります。 

どうか、一生涯、あなたに守られて、信仰を貫いて、いつも生き生きとした希望に生きる者とさせて下さい。

どうか、明日の希望を見出せないでいる者に、あなたが直接出会って下さって、イエス・キリストにある新しい命に生まれ変わる喜びを、お与え下さいますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年8月31日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 1:3-12
 説教題:「しぼまない財産」     
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