序.そのパンをいつもわたしに

・ヨハネによる福音書6章のはじめには、パン五つと魚二匹で五千人以上の人が満腹したというイエス様の奇跡のことが書かれていますが、この出来事は、単に、<イエス様が人間の飢えを満たすことの出来るお方である>ということを示す「しるし」ではなくて、<イエス様こそ、永遠の命に至る朽ちないパンをお与えになるお方である>ということを示す「しるし」であったのですが、群衆はそのことが理解出来ずに、イエス様に対して見当違いな期待を抱きつつ追いかけて来て、イエス様との間で、ズレた対話が行われて来ました。それが先週聴きました22節から33節の箇所であります。

・イエス様は群衆に向かって26節で、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と、厳しく指摘された後、27節で、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とおっしゃって、御自分が与えようとなさっているのは、朽ちる食べ物ではなくて、永遠の命に至る食べ物であることを明言されたのであります。それで群衆は、イエス様がおっしゃる食べ物というのは、腹を満たす物質的なものではないことが分かったのでしょうが、イエス様が「働きなさい」と言われたことから、自分たちが神様のために働くことによって、その報酬として与えられるものではないかと考えたようであります。例えば、健康とか、幸せとか、教養とか、名誉といったものを考えたのかもしれません。そこで彼らは28節で、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問います。彼らは、<これこれの善い行いをすれば幸せになれる>というような答えを期待したのかもしれませんが、イエス様は、29節で、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われて、ズバリ御自分を信じるかどうかにかかっているということを言われたのであります。その言葉に人々は反発を覚えたのでありましょう。彼らは30節で、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」と言って、イスラエルの民がモーセに率いられて荒れ野を旅したときにマンナと呼ばれる食べ物を40年間も毎日与えられたことを引き合いに出して、<それ以上のことがあなたに出来るのですか>と迫ります。しかし、イエス様は、「モーセが天からのパン(マンナ)をあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」と言われて、神の子である御自分が「天からのパン」をお与えになるのだということをおっしゃったのであります。

・そこで今日の34節になるのでありますが、群衆は「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言います。この言葉は、彼らのどのような心の内を表しているでしょうか。そこまでの対話からすると、彼らがイエス様を信じて言ったとは思えません。内心は反発を感じながら、<そこまで言われるのなら、その神のパンとやらを、いつも私たちにくださいな。そうすれば信じてあげましょう。>と言いたかったのではないでしょうか。

・この群衆の要求に対して、イエス様はどう答えられたのか。それが今日与えられている35節から40節の御言葉であります。イエス様は群衆に何をお与えになったのでしょうか。そして、群衆はイエス様を信じる者になったのでしょうか。――実は、41節以下を見ると、群衆はまだ納得しないどころか、ますます反発を強めて行ったようであります。それならば私たちはどうでしょうか。ここに語られている御言葉によって、主が差し出して下さっている恵みを取り逃がさないようにしたいものであります。

1.「わたしが命のパンである」

・さて、群衆の要求に対するイエス様の答えの核心部分は35節の言葉であります。これはこの伝道所の「今月の聖句」にも掲げておりますが、こう言っておられます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
・これまで群衆に対して、27節では、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われ、また32節では、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」と言われ、33節では、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と言われて、「命のパン」について、<あなたがたが求めるべきもの><神様がお与えになるもの>として、客観的な言い方で述べて来られたのでありますが、ここに来てイエス様は、「わたしが命のパンである」と一人称で語っておられます。

先に、弟子たちだけで舟に乗ってガリラヤ湖を渡っていた時に、イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、弟子たちが恐れていると、イエス様は「わたしだ」と言われました(620)。その時と同じように、この時も「わたし」を群衆の前に差し出しておられるのであります。

・「わたしが・・・である」という言い方は、この後ヨハネ福音書の中では十数回も出て来ます。皆様がよく御存知なのでは、「わたしは世の光である」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは道であり、真理であり、命である」「わたしはまことのぶどうの木である」などがあります。いずれも、イエス様御自身を人々の前に差し出しておられるのであります。

・イエス様は、私たちがどこからか良いもの・素晴らしいものを手に入れるために手助けをして下さったり、中継ぎをして下さるというのではなくて、イエス様そのものをお与えになるのであります。イエス様自身が私たちの光となって下さり、羊飼いであり、道であり、私たちの命にまでなって下さるのであります。イエス様御自身が命のパンであるということは、私たちが命を維持するために必要なものを、イエス様がどこからか調達して下さるとか、何らかの手段を用いて私たちの命に元気を与えてくださるということではなくて、御自身が私たちの命のパン(命の素、命の糧)となって下さるのであります。

ここで「命」とは、やがて朽ちてしまう肉体の命のことではなくて、朽ちない永遠の命であります。永遠の命とは、神様との良い関係を保つ命、神様と共に生きる生き方のことであります。イエス様という命のパンを食べる者は、永遠に神様との良い関係を保つことが出来る、ということであります。

聖書において、「罪」というのは、神様との関係に綻び(ほころび)が生じることであります。あれこれの悪い行いのことも「罪」と言いますが、その根本にあるのは、その行いが神様の御心に反するために、神様との関係に綻びが出来るからであります。イエス様の命のパンを食べることによって、その綻びが修復されて、神様との良い関係を取り戻すことが出来るのであります。

・イエス様は、「わたしのもとに来る者は飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言っておられます。ここで「わたしのもとに来る者」というのと、「わたしを信じる者」

というのは、殆ど同じことを示していると考えられます。イエス  様を信じるとは、イエス様の許に行くことであります。ただし、イエス様の許には多くの人が来ました。中には先週も触れた「金持ちの青年」のように、イエス様の話を聞いて去って行った者もありますし、群衆のように熱心にイエス様のところにやって来ましたが、かえって反発をする人もいます。ここで「わたしのもとに来る者」とは、それらとは異なって、自らの罪と欠乏を自覚して、イエス様による赦しを求めて、イエス様に自分を委ねる者のことでありましょう。それが、イエス様の「命のパン」を食べるということであり、それを食べる者は、飢えることも渇くこともないのであります。

・「飢えることがなく、渇くことがない」と言いましても、何の欠乏も感じることがなくなるとか、何の苦しみもなくなるということではありません。欠乏の中にあっても、苦しみの中にあっても、イエス様が共にいて下さるので、神様との良い関係が崩れることはない、との確信を持って、満ち足りた平安を得ることが出来る、ということであります。

2.父がお与えになる人

・ところで、このイエス様のお言葉を聞いた人たちは、イエス様を信じることが出来たのでありましょうか。36節でイエス様は、「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言っておられます。「前にも言った」というのは、何時のことを指しているのか定かではありませんが、おそらく26節のお言葉を指しているのでしょう。群衆はイエス様のパンの奇跡を見ました。それは、イエス様が天からのパンをお与えになるお方であることを示す「しるし」でありました。でも彼らはその「しるし」を見ても、イエス様を信じることが出来なかったのであります。そしてここでもイエス様は群衆の前に立って、「まことのパン」について諄々と語って来られ、「わたしが命のパンである」とまで、はっきりとおっしゃっているのですが、彼らはまだ信じることが出来ないのであります。これが現実であります。イエス様が目の前に立って直接にお語りになっても、多くの人が信じられなかったのであれば、今、直接お姿を見ることができない状態で、信じることが出来ない人が大勢いるのも無理からぬことであるなどと、妙な納得をしてしまいますが、これは決して他人事ではありません。私たち自身が、イエス様の御言葉を何度も何度も聞きながら、差し出された「命のパン」を喜んで食べるどころか、躊躇してしまっているのではないでしょうか。イエス様に自分の命を預け切ることが出来ないまま、まだもっと確かなしるしが欲しい、もっと具体的な恵みを見せて欲しいと、おねだりをしているのではないでしょうか。

・そのような私たちと群衆に向かって、イエス様は37,38節でこう言われます。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」

・これは、イエス様が父なる神様の御意志に従って、御自分の所に来る人を決して追い出さない、という有難いお言葉なのですが、私たちが未だにイエス様に全面的な信頼を捧げることが出来ないでいるのが現実であるとすれば、父なる神様の御計画から私たちが漏れていることになるのではないか、と心配になります。一体自分は、父なる神様がイエス様にお与えになった人の中に入っているのか、それとも外れているのか、不安になってしまいます。確かに、世の中には、キリストを信じる者と信じない者があり、救われる者と救われない者があります。そこには厳しい神様の御意志が働いているのであります。私たちはそのことをいい加減に聞き流すことは出来ません。神の選びの現実をしっかりと見なければなりません。そして自分の信仰を顧みるべきであります。

・しかしイエス様は、群衆を捨てるためにこのお言葉を語っておられるわけではないし、私たちを裁くために、今日、このお言葉を聞かせておられるのではありません。群衆を捨てられたのであれば、もっと遠くへ退いてしまわれて、彼らに二度とお会いになることがなかったでありましょう。もし私たちが、救いから漏れているのであれば、今日、礼拝に招かれることはなかったでしょう。

・この厳しいお言葉をもって、群衆と私たちに語りかけて下さっていることは、<あなたがたはまだ、私を信じることが出来ないでいる。だけれども、父なる神様はあなたがたを私にお与えになっているのだ。だから私は決して、あなたがたを追い出すようなことはしない>ということではないでしょうか。それは単に、落ちこぼれそうになっている者を、何とか励まして、御自分の所に引き止めようとなさっているというよりは、御自分が十字架への重大な決意をもって、語っていて下さる、ということであります。

3.父の御心――終りの日の復活

・続いてイエス様は、今38節で「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」とおっしゃった、その神様の御心について、3940節で述べておられます。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終りの日には復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終りの日に復活させることだからである。」
・ここに示されている神様の御心とは、第一に、神様がイエス様にお与えになった人を、一人も失わない、ということであります。私たちは、なかなかイエス様を信じ切ることが出来ません。信じているつもりでも、何か事が起こると、不安に襲われてしまいます。イエス様を信じるよりも、自分で解決しようとあせったり、うまく行かないのは誰それのせいだ、などと責任を転嫁して、不信仰を覆い隠そうといたします。信仰者でありつつ、判断や行動の中心からキリストを失ってしまっているのであります。しかし、神様の御心は、お選びになった者が一人も失われない、ということであり、イエス様は、その神様の御心を間違いなく達成されるのであります。私たちは不信仰に満ちています。多くの間違いを起こします。しかし、神様がお選びになった者は、最終的には、失われることがないのであります。そのために、イエス様は神様から遣わされて、十字架への道を歩まれたのであります。

・神様の御心として述べられている第二のことは、終りの日に復活させていただける、ということであります。イエス様を信じる者は、地上で生きている間から永遠の命を与えられます。神様との破れた関係から、良好な関係へと変えられます。私たちはなお、時々というか、しょっちゅうというか、神様の御心に反して、自ら関係を破るようなことをしていますが、イエス様を信じる者は、神様との関係を失うことはないし、絶えず良好な関係に引き戻して下さるのであります。そして、終りの日、つまりイエス・キリストの再臨の日には、霊・肉ともに復活させていただけるのであります。そしてもはや、神様との関係が揺るぎなき関係へと完成されるのであります。イエス様はそのために、二千年前にこの世に来られて、救いの御業を成し遂げて下さったし、今もこのように礼拝において、私たちに働きかけて下さっているのであります。

・しかし、このような恵みの約束を与えられているのは、40節にありますように、「子を見て信じる者」に対してであります。私たちの信仰は絶えず揺れております。子なるイエス・キリストがいつも目の前に描き出されているにも拘わらず、見失い勝ちであります。でも、かすかな信仰であっても、イエス様を見て信じる者は希望がありますが、見ても信じようとしない者が救われる可能性はなくなります。私たちは、自分自身と身の回りの人に対して、その切迫感(緊張感)を失ってはならないのではないでしょうか。

結.主の口から出る言葉によって生きる

・最後に、先ほど朗読していただいた旧約聖書の申命記8章をもう一度お開き下さい。8章の3節に有名な言葉がありました。

 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
・イスラエルの民が荒れ野を旅していた時、自分たちで育てて収穫する小麦で作るパンによって生きるのではなく、日毎に天から与えられるマナを食べさせられたのは、主が必ずイスラエルの民を目的地にまで連れて行かれるとおっしゃった約束の言葉だけを信じて生きるためでありました。イスラエルの民にとって、生きる糧と言えば、事実上、神様の言葉であったのであります。

イエス様が公生涯に入られる時、聖霊に導かれて荒れ野に行かれました。それは、あのイスラエルの民の荒れ野の旅を追体験するためでありました。そこで四十日間、断食をされて、空腹を覚えられた時、悪魔が登場して、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言いました。それに対してイエス様は何とお答えになったでしょうか。先ほどの申命記の言葉を引用しながら、こうお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」こう言って、悪魔の誘惑に勝たれたのであります。

人が生きるのは、「朽ちる食べ物」によらず、「朽ちない食べ物」によってであると、今日の箇所でイエス様はおっしゃいました。そして「朽ちない食べ物」即ち「命のパン」とは、イエス・キリストであると、おしゃいました。先ほどの申命記や、荒れ野での誘惑の記事では、生きる糧は「神の口から出る言葉」であると言われていました。ですから、「神の言葉」とイエス・キリストはイコールなのであります。イエス・キリストは神の言葉なのであります。神の言葉とは神様の御心そのものであります。イエス・キリストは神様の御心をそのままに受けて、神様の御言葉として、この世に来られたのであります。

・私たちが生きるのも、この神の言葉であるイエス・キリストを食べることによって命が保たれるからであります。神様は私たちを主の日ごとに、礼拝に私たちをお招き下さって、命の糧である神の言葉をお与え下さって、養って下さっているのであります。この神の言葉であるイエス・キリストを食べているならば、私たちは永遠に生きることが出来る、つまり、罪の赦しを受けて、神様との良い関係を持ち続けることが出来るのであります。
・感謝して祈りましょう。

祈  り
 ・恵み深い父なる神様!

・今日も、御言葉をもって私たちに臨んで下さり、イエス・キリストの命のパンをお与え下さいましたことを感謝いたします。

・どうか、この命のパンを食べ続けて、永遠の命に生き続ける者とならせて下さい。様々な誘惑や、苦難の中で、信仰を揺るがされる時にも、命の糧を食べることを忘れないようにさせて下さい。

・礼拝から遠ざかって、命の糧をしばらく受けていない方々の命が失われることのないように、どうか、御言葉に飢えさせて下さい。

 どうかまた、私たちがそうした方々を見殺しにすることのないように、あなたの救いの御業に仕えさせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年8月24日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書6:34-40
 説教題:「わたしが命のパン」     
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