序.主イエスと人々の間のズレから見えて来るもの

・イエス様と私たちの関係、神様と私たちの関係というのは、いつも危機に瀕している、と言えるのではないかと思います。神様の方から見れば、そんなことはなくて、救いの御計画に従って、御業を着々と進めておられて、そこには何の迷いも危機もないのかもしれませんが、私たちの側から見ている限り、イエス様・神様との私たちとの関係は、絶えず揺らいでいるように思われます。自分自身がそうですし、教会に出入りしている人たちの様子を見ていても、そのことを感じてしまいます。

・一時期は熱心に求道をしていた方が、次第に礼拝や集会に来るのが途絶えがちになったり、パタッと来られなくなったりします。探究心を持って、教会に来ていたけれども、ある程度聖書のことやキリスト教のことが分かると、それ以上深入りしたくないと思って来なくなったり、大いに期待して求道生活をしてみたのだけれども、聖書の教えと自分の期待との間にズレがあることに気付いて、戸惑いを感じるようになって、結局、失望して、教会から去ってしまうというようなことが、往々にしてあります。幸いにも恵まれた場合には、初めの期待とは異なっていても、思いがけない恵みを発見して、喜びのうちに、礼拝生活を続けるということになるのでありますが、信仰生活というのは、いつも喜びと感謝に満ちているというわけではありません。長く信仰生活を続けていても、私たちが期待することと、聖書が与えようとしていること(イエス様がお与えになろうとしていること)との間に、ズレが生じて来るのであります。そういう中で、私たちは絶えず、本当の信仰とは何か、ということが問われるのであります。信仰というのは、一度獲得したら生涯揺らぐことがないものではなくて、絶えず礼拝において、御言葉によって、正され深められなければ、貫くことが出来ないものであります。

・ヨハネによる福音書第6章には、五千人以上もの人が、パン五つと魚二匹で満腹したというイエス様がなさった奇跡の業を巡って、人々の期待と誤解が大きくなって、それに対して、イエス様がその業によって示そうとされ、与えようとされたのは何であったのかということが、章全体を通して語られています。

・今日の箇所は、そのうちの一部でありますが、ここには大きな期待を持ってイエス様を追いかけて来た群衆と、イエス様との対話が記されていますが、ここにもズレが見られます。しかし、そのズレの中から、イエス様が与えようとしておられる本物のものが見えてくるのであります。今日はそれを、御一緒にしっかりと受け止めたいと思います。

1.いつ、ここに

・さて、22節の冒頭に、その翌日、とありますのは、五千人以上の人が満腹した奇跡が行われた日の翌日のことであります。奇跡は山の上で行なわれたようでありますが、群衆は山から下りて、ガリラヤ湖の岸辺に来ていたようであります。夜は家に帰らず、その辺りで野宿したのでしょうか。

15節を見ていただきますと、イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた、とあります。奇跡を目の当たりにした群衆は、イエス様をユダヤ人の王にすれば、ローマの支配の下で苦しんでいる状態から解放されて、もっと豊かな生活をすることが出来るのではないか、と考えたのでしょうが、イエス様はそのような誤った期待を避けて、ひとりで山に退かれたのであります。ここにイエス様と群衆との間に、既にズレが生じています。

その後、先週に学びましたように、弟子たちはイエス様を残して向う岸のカファルナウムに向けて舟出したのですが、途中で、強い風のために難渋していると、イエス様が湖の上を歩いて弟子たちが乗っている舟に近づいて来られたのであります。弟子たちは初め、恐ろしくなりましたが、イエス様の「わたしだ、恐れることはない」という言葉によって、イエス様を舟に迎え入れることが出来て、舟は目指すカファルナウムに着いたのでありました。

・群衆は、22節にあるように、イエス様が弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけで出かけたことに気づいていました。イエス様はどこへ行ってしまわれたのか分からないし、弟子たちも向う岸の方へ行ってしまって、舟が一そうもなくて困っていたところへ、ちょうど数そうの小舟が来たので、それに分乗して、イエス様を捜し求めて、彼らもカファルナウムにやって来ました。

そして、そこで、群衆はイエス様を見つけたのであります。この辺りのことが、詳しく書かれているのは、イエス様が弟子たちを追って舟で湖を渡られたのではなく、湖の上を歩かれたということを裏付けるためであります。

さて、彼らはイエス様を見つけると、こう言いました。「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」25節)。――この言葉には、一つには、群衆の驚きが込められています。22節にあるように、群衆は小舟が一そうしかなくて、それに弟子たちだけが乗り込んだのを確認しておりました。それなのに、いつの間に、どうして、ここまで来ることが出来たのですか、陸伝いに来られたのであれば、どうしてこんなに早くお着きになれたのですか、という驚きであります。しかし、この言葉には、群衆のもう一つの気持ちが込められているように思います。彼らはイエス様を王にするために連れて行こうとしました。それなのに、なぜ私たちから行方をくらまして、いつからここに来られたのですか、私たちの期待に応えていただかないと困ります、という、半ば腹立たしい気持ちが表れているのではないでしょうか。

・群衆はユダヤの政治状勢を改善し、生活を向上させるという目的を達成するために、イエス様を利用しようとしたのであります。しかし、イエス様はそのようなことのために、来られたのではありません。だから、彼らから逃げるようにして、カファルナウムに来られたのであります。

・私たちも、イエス様に対して、このような接し方をしようといたします。自分たちの問題や課題を改善したり、克服するために、イエス様に働いていただこう、自分たちに幸せを招くために、イエス様のお恵みに与かりたい、という期待をもってイエス様を自分の方に近づけようとするのであります。――イエス様は、そのような私たちの期待を御存知でありますし、問題や課題を持っている私たちを、憐れみの心をもって見ていて下さいます。そのことは、お腹が空いた群衆のために、食べ物を用意されたことからも、明らかであります。

・けれども、イエス様は私たちの期待どおりに動かれるわけではありません。イエス様を私たちの方に引き寄せようとしても、私たちから身を隠してしまわれます。むしろ、イエス様のお招きに従って、私たちの方からイエス様がおられるところに行かなければ、イエス様にお会いすることは出来ないのであります。そこを間違うと、私たちはイエス様に永遠にお会い出来ないことになります。

・ただし、誤解があってはいけませんが、私たちの側の熱心さや努力がなければ、イエス様にお会い出来ない、と言っているのではありません。イエス様を王にしようとする熱心さと、イエス様を捜し出そうとする努力では、群衆は見上げたものであります。しかし、その熱心さと努力は、自分たちのためにイエス様を利用したいがためでありました。そこが間違いであります。あくまでも、イエス様の御意志に従って、与えようとしておられるものを、素直に、喜んで受け取ることが必要なのであります。

2.朽ちない食べ物のために

・群衆の驚きと苛立ちのこもった言葉に対して、イエス様は26,27節でこう言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」626,27

イエス様は群衆の心の内を見抜いておられます。そして彼らの熱心な求めが何処から来ているのかを御指摘になります。「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」というのは、五千人以上の人が満腹した奇跡の業を体験して、単に肉体的な空腹を満たされたことに感動して、同じような満足をもっと得たいと望んでいるが、あの奇跡が示している、もっと大きな恵みのしるしを見ていない、という指摘であります。パンを食べて一時的な空腹を満たすことが出来ても、やがてまた、空腹になります。病気を癒していただいても、また病気になって、人はいずれ死ななければなりません。イエス様がこの世の王になって、善政を行ったとしても、次の王は悪政を行うかもしれません。イエス様は、パンを求めてはいけないとおっしゃっているのではありません。生きて行くにはパンが必要なことは分かっておられるし、そのことのために気遣って下さるお方であります。病気が癒されることを願ってはいけないとおっしゃっているのではありません。私たちの体や心の病のことも気遣っていて下さいます。政治が良くなって幸せな安定した生活が出来るようになることを願ってはいけないと言っておられるのではありません。私たちの幸せな生活をことも配慮して下さっています。しかし、パンや健康や幸せな生活といった「朽ちる食べ物」よりも大切なものがあります。

そこで、こうお命じになります。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。――「朽ちる食べ物」が支えるのは、やがて朽ちざるを得ない命であります。それよりも熱心に求めなければならないのは、「いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物」であると言われます。「永遠の命」というのは、いつも申しますように、神様との間で良い関係をもって生きる命のことであります。神様と共にある生き方のことであります。これは私たちが地上に生きている間だけではなくて、永遠に失われることのないものであります。

・そのような「永遠の命に至る食べ物」を与えるのが、「人の子」即ち、イエス様であって、父なる神様が、イエス様にそのような役割を与えて認証された、とおっしゃるのであります。五千人以上の人が満腹した奇跡は、イエス様が、ただ「朽ちる食べ物」をお与えになるだけではなくて、永遠の命に至る、朽ちない食べ物をお与えになるお方であることを示す「しるし」だったのだ、ということであります。

3.神の業を行う

・このように、イエス様から「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われた群衆は、28節で、こう問い返します。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。――イエス様が「働きなさい」と命じられた言葉と、群衆が「神の業を行う」と言った「業」及び「行う」という言葉は、元の言葉が同じであります。群衆は、イエス様がおっしゃるような「永遠の命に至る食べ物」を戴くためには、神様の喜ばれる「業(働き)」をしなければならないだろう、」と考えたのであります。この質問は、イエス様のところにやって来た「金持ちの青年」のことを思い出させます。  マタイ福音書の1916節以下によれば、イエス様に近寄って来た一人の青年が、「先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょう」と尋ねました。ここと同じように、為すべき業を問う質問であります。その場合は、イエス様は「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言われますと、青年は、聖書に教えられている掟は全部守って来た、と豪語いたします。するとイエス様は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われました。それを聞いて、たくさんの財産を持っていたその青年は、悲しみながらイエス様のもとを去るのであります。

・今回、イエス様は何とお答えになったでしょうか。29節によると、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えておられます。イエス様を信じることが神の業であると言われるのであります。これは、金持ちの青年に対する答えとは違うように聞こえます。しかし、青年がイエス様のお言葉に従って、財産を全部売り払って、貧しい人々に施すためには、イエス様に対する全面的な信頼が必要であります。もし彼がイエス様を信じることが出来ていたら、実行出来た筈であります。逆に言うと、イエス様を信じるとは、ただイエス様の命じられるままに、持ち物を全部捨てること、つまり自分の今後の人生を、すべてイエス様に委ねて従うということなのであります。イエス様を信じるとは、心の中だけのことではありません。行いが変わり、生活が変わることであり、人生全体をイエス様に委ねることであります。イエス様が群衆に求められ、私たちに求めておられるのも、そのような、全てを主に委ねる信仰であります。

・しかし、そこまでイエス様を信じ切るには、イエス様がそれだけの信頼に足るお方であるという証拠を見たい、ということになります。

4.しるしを求める

・そこで群衆は言います。30節以下です。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」――彼らは「しるし」を求めています。証拠が欲しいということであります。五千人以上の人を満腹させた奇跡の業も「しるし」でありますが、群衆はその「しるし」をイエス様が王になれる人物だと考える「しるし」とは見ましたが、「永遠の命に至る食べ物」をお与えになるお方であることの「しるし」だとは気付きませんでした。それで、更に、目に見える「しるし」を求めているのであります。

31節では、イスラエルの民がモーセに率いられて荒れ野の旅をした時に、「マンナ」と呼ぶ食べ物を日毎に天から与えられたことを述べています。これは、<イエス様が五千人以上の群衆に食べ物を与えられたことは認めるが、モーセが荒れ野でマンナをもってイスラエルの民を四十年も養った奇跡と比べるなら、取るに足らない「しるし」である。あなたがモーセを越えるような信頼に足る方だと言うなら、それなりの「しるし」を見せてほしい>、と言っているのであります。

・まことに厚かましい要求でありますが、これと同じことを私たちも、いつも呟いているのではないでしょうか。<イエス様が救い主だというのなら、もっとそれと分かる大きな証拠が欲しい。自分たちが困っている大きな問題を見事に解決してもらえれば、信じることが出来るのだが>と呟いているのではないでしょうか。しかし、群衆の求めは、あくまでも自分たちの幸せにイエス様がどう役に立つのかを示して欲しいという、「朽ちる食べ物」の域を出ていないものであり、私たちの要求も、そのレベルを超えていないことが多いのであります。

・イエス様がモーセ以上の人物であることの「しるし」を求める群衆に対して、32節以下で、主イエスはこう言っておられます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

・まず、荒れ野でマンナと呼ばれる「天からのパン」を与えたのは、モーセではない、と言っておられます。モーセが奇跡を行ったのではなくて、神様が与えられたのであります。

・次にイエス様は、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」と言っておられて、ここでは現在形が使われています。モーセの時のことではなく、イエス様の時代ことが言われているのであります。しかも、「まことのパン」と言われていて、話は「朽ちる食べ物」のことではなくて、「朽ちない食べ物」の話に進んでいるのであります。そして33節では、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と言われていて、ここではもう、天から降って来られて、世の人々に「まことの命」をお与えになる御自分のことをおっしゃているのであります。「神のパン」とは、イエス・キリスト御自身にほかなりません。

結.差し出された命のパン

・群衆はあくまでも「朽ちるパン」に拘っていました。自分たちの幸せを求め続けていました。そしてイエス様に、<モーセ以上のものを出せるのか、その証拠を示せ>、と迫りました。

・しかし、主イエスは、モーセどころではない、神の子であります。そして主イエスが私たちに与えようとされているのは、「朽ちるパン」ではなく、「永遠の命に至る食べ物」即ち「神のパン」であります。それは、体を養うパンではなくて、魂を養うパンであり、御自身の体そのものが私たちの命を養うであります。

五千人以上もの人を満腹させられたのは、イエス様が人々にこの世の幸せをもたらすお方であることを示すためではなく、実に、イエス・キリストの体なるパンが、大勢の人々のまことの命を生かすということをお示しになるための「しるし」であったのであります。

人々はイエス様によって分け与えられたパンを食い散らかして、そのパンの屑は十二の籠にいっぱいになるほどでありました。今、イエス・キリストが私たちに差し出されている「永遠の命に至るパン」も、いくら多くの人々が戴いても、有り余るほどに豊かに与えられています。

・そのことが確かであるという「しるし」を、私たちは既に十字架と復活という形で与えられています。そこから、汲めども尽きない命が溢れ出ています。ただ、私たちが為さなければならないことは、「神がお遣わしになった者」であるイエス・キリストを信じることであります。それは、私たちの何らかの努力を要することではありません。それは「神の業」と言われているように、すべて神様が私たちのために備えておられることであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・神のパンであるイエス・キリストをお遣わし下さった父なる神様!
 ・限りない慈しみを感謝いたします。
 ・どうか、このあなたの御業を信じ受け入れる者とならせて下さい。

・そしてどうか、永遠に朽ちることのない命に生かされる者とならせて下さい。

・未だ、朽ちる食べ物しか求めていない人々にも、天からのパンを仰ぎ望ませて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年8月17日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書6:22-33
 説教題:「神の業を行う」     
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