序.イエスは私にとって誰なのか

・ヨハネによる福音書の6章の初めには、パン五つと魚二匹で、五千人以上の人たちが満腹したという奇跡が書かれていて、続いて今日の616節以下の箇所には、イエス様が湖の上を歩かれたという奇跡が書かれています。この二つの奇跡が同じ日に続いて行われたということは、マタイ福音書でもマルコ福音書でも同様に記されています。ですから、このヨハネによる福音書でも、続けて起こったこととして書かれていて、当然と言えば当然なのであります。ところが、先々週に6章の初めの奇跡についてお話した時に申し上げたことですが、ヨハネ福音書は、ただ奇跡の出来事を記すだけでなくて、その意味付けを、6章全体で語っていて、そのテーマは、「イエス・キリストが命のパンである」ということなのであります。その流れからすると、ここに「湖の上を歩かれた」という奇跡がはさまっているのは、少々異質な感じがするのであります。

・しかし、先々週も申し上げましたが、この二つの奇跡が、イエス様の公生涯の中で、転換点に当たるのでありまして、一般民衆は五千人が満腹した奇跡を体験して、大いに盛り上がるのですが、イエス様がその期待に応えるお方ではないことが分かって、急速に失望が広がって行くことになりますし、同時に、弟子たちの中にもイエス様が一体何者なのか、何をしようとされているのかが分からなくなって、裏切る者が現れることになるのであります。

・イエス様が湖の上を歩かれたという奇跡は、イエス様が只者ではないということを示す出来事であり、弟子たちにとって、イエス様はどのようなお方なのか、何をしようとされているのかを示唆する出来事であります。――しかし、そのようなイエス様を理解することは、決して容易ではありませんし、すぐに受け入れることは困難であります。

・一般民衆にしても、弟子たちにしても、彼らの期待するものと、イエス様が与えようとされるものとの間にズレがあるのであります。それが十字架に結びついて行くのであります。だからこそ、筆者のヨハネは、これら二つの奇跡を通してイエス様が与えようとされたものは何だったのか、を語ろうとするのであります。

・私たちもまた、イエス様に対して様々の期待を抱く者たちであります。しかし、もしイエス様に対して見当違いの期待をしているならば、人々がイエス様を十字架に追いやったように、私たちとイエス様の関係も、早晩、破局を迎えることになってしまいます。ですから、私たちは注意深く、この奇跡の出来事が示しているものに目を留め、耳を傾けて、この出来事が示している真実のイエス様に出会いたいと思うのであります。

1.弟子たちだけの舟出
 1617節には、こう書かれています。

 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向う岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。

・五千人が満腹した奇跡をなさったあと、15節にありますように、人々がイエス様を王にしようとしているのを知って、イエス様は群衆から離れ、弟子たちをも置いて、ひとりで山に退かれたのであります。夕方になって、弟子たちはガリラヤ湖の湖畔まで下りて来て、舟で向う岸のカファルナウムに行こうとします。ここだけ読むと、弟子たちが勝手に出発したかのようですが、マタイ、マルコ福音書を見ますと、イエス様が「弟子たちを強いて舟に乗せ、向う岸へ先に行かせた」、と書かれています。弟子たちだけで行かせるのが、イエス様の御意志だったようであります。

直前の出来事では、人里離れた所まで大勢の群衆がイエス様を追いかけて来ていて、腹を空かせているのを心配なさったイエス様が、弟子の一人に「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われましたが、その弟子は、そこにイエス様がおられることを忘れて、必要なお金の勘定をして、これだけ大勢の人間に食べさせるのは不可能だと考えました。もう一人の弟子は、少年がパン五つと魚二匹を持っているのを発見しましたが、彼もそれだけでは「何の役にも立たないでしょう」、と言って、そこにイエス様がおられることを考えもしませんでした。彼らは困難な課題が与えられている時に、自分たちの可能性を検討するだけで、イエス様が一緒におられることを忘れていたのであります。そこに弟子たちの問題がありました。彼らはイエス様がどのようなお方であるかについて、認識不足であったというか、信仰不足であったのであります。そこでイエス様は、弟子たちを教育するために、今度はわざと、弟子たちだけを舟に乗せて、向う岸へ行かせられたのであります。

・古来、舟に乗った弟子たちの姿は、教会を表していると受け取られて来ました。弟子たちの群の中にイエス様がおられなかったら、どういうことになるのか、教会にとってイエス様というお方はどのような存在であるのか、そのことを分からせようとしておられるのであります。

2.暗闇と強風

・「既に暗くなっていた」、と書かれています。原文ではここに、「暗闇」という語が用いられています。薄暗くなって来ただけではなくて、既に暗闇が覆っていたのであります。この「暗闇」という語は、このヨハネ福音書の冒頭の15節で「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と記されているところで用いられているのと同じ語であります。「光」はイエス様を表すのに対して、「暗闇」はイエス様に対立するものであり、イエス様が不在の状態を表しています。「光」であるイエス様がおられないところでは、「暗闇」が支配してしまいます。弟子たちだけのところには、「光」を見出すことができません。行く先が見えないだけでなく、何が襲って来ても、抵抗できません。しかし、弟子たちは、暗闇の中に舟を漕ぎ出したようであります。 

18節によれば、強い風が吹いて、湖は荒れ始めました。イエス様が不在の舟では、強い風に荒れ始めた湖の上で、翻弄されるだけであります。マタイ福音書によれば、「逆風のために波に悩まされていた」と記しております。弟子の中には漁師であったものが何人かいました。ガリラヤ湖は彼らの仕事場であり、夜の航海にも慣れていた筈であります。けれども、イエス様の弟子になった者たちには、昔の経験は役立ちません。魚を獲るための舟を操ることができたとしても、伝道のために向こう岸に渡る舟を前進させることは出来ないのであります。この世で培った経験や知恵が、教会では全く役に立たないというわけではないにしても、教会がこの世の強い波風に立ち向かうには、殆ど何の力にもならないのであります。教会という舟を推進するのは、この世の経験や知恵ではありません。そこに主イエスが乗っておられるかどうかが肝心であります。

・このことは、私自身が日々実感していることであります。私はこの世の仕事を終えてから牧師になりました。この世の仕事で身につけた、パソコンなどの事務機器を使い慣れていることや、専門の建築技術などが、牧師になってからも、多少は役に立っていると言えるかもしれません。しかし、そういうことが伝道や牧会を推進する力になるわけではありません。イエス様が教会の真ん中におられてこそ、はじめて宣教の御業は進むのであります。

・このことは、教会の歩みばかりではなく、皆様お一人お一人の人生の歩みにおいても、同じことを経験されるのではないでしょうか。暗闇の中に放り出されて、行く先の光が見えなくなるとき、或いは、強い逆風に遮られて前に進もうと思っても進めないとき、学校で学んだことや、人生の体験の中で培ったことが、何の役にも立たないことを知らされます。――そのようなとき、信仰者であれば、主イエスを呼び求めるでしょう。しかし、主は私たちの求めを聞いておられないように感じることがあります。私たちのことを少しもかまって下さらず、私たちを放り出してしまわれたのではないかと思うことがあります。暗闇と逆風の中で、イエス様にまでも忘れられたのではないかと、孤独な苦しみを味あわなければならないことがあります。イエス様が遠い存在のように思えてしまいます。このような苦悩は、信仰者であっても経験させられます。否、信仰者だからこその苦悩と言えるかもしれません。弟子たちもこのとき、そのような苦悩の中におりました。しかし、イエス様を彼らの方から呼び寄せることは出来ません。イエス様が、強いて彼らを引き離されたのであります。私たちもイエス様を近くに感じられないようにされるときがあります。でもそれは、

 主イエスの存在をより身近に感じるためであります。

3.湖上の主を見て恐れる

・さて、19節を見ますと、二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた、とあります。

・二十五ないし三十スタディオンというのは、換算すると、5kmから6km位の距離であります。目的地のカファルナウムまで、まだ半分程度しか来ていないところで難渋していたと思われますが、イエス様が湖の上を歩いて近づいて来られたのであります。

・弟子たちが助けを求めたので、それに応えて、来られたのではありません。イエス様の方から近づいて来られたのであります。その近づき方は普通ではありませんでした。別の船で追いかけてこられたのではなく、湖の上を歩いて近づかれました。

・これを見て弟子たちは、恐れました。彼らは荒れ狂う湖を恐れたのではありません。もちろん、それも恐れたかもしれませんが、ここで彼らが恐れたのは、イエス様を見たからであります。彼らが恐れたのも当然であります。最初はイエス様だと気づかなかったかもしれません。マタイ福音書の方では、「幽霊だと言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」と記されています。亡霊か幻覚でも見ているように思ったのかもしれません。

・私たちは、イエス様はこういう方であって欲しいとか、このようなお方であるべきだ、と勝手に決めて、そのようなイエス様を待ち望みます。しかし、私たちはイエス様を自分たちの望みどおりにすることは出来ません。イエス様は私たちの思いを越える仕方で私たちの前に現れて下さいます。パン五つと魚二匹で五千人以上の人が満腹するのを見ていた弟子たちですが、湖の上を歩くイエス様には、恐れを覚えざるを得ませんでした。

・イエス様が私たちのところに近づいて下さるときにも、私たちにそれとすぐ分かる仕方で来られません。私たちはイエス様が近づいておられることに気が付かなかったり、自分の期待に反する仕方であるために受け入れられなかったりいたします。その決定的な出来事が、イエス様の十字架と復活であります。これは誰も予想出来なかった仕方であり、誰もすぐには受け入れられず、恐れを覚えざるを得なかったことでありますが、これこそ、主イエスが私たちに最も近づいて下さった瞬間でありました。今も、私たちにイエス様が近づいて来られるときには、素直には受け入れられず、私たちは恐れや反発を覚えてしまうかもしれません。

4.「わたしだ。恐れることはない」

・湖の上を歩いて近づかれるイエス様を見て、弟子たちが恐れたときに、イエス様は20節にあるように、「わたしだ。恐れることはない」とおっしゃいました。<幽霊でもなく、幻覚でもなく、他でもない、正真正銘のイエスだ>、という意味でありますが、この言葉には、もっと深い意味が込められています。「わたしだ」という言葉は、旧約聖書の中で、神様が御自分を人々に現すときの言い方であります。出エジプト記で、モーセが神様のお名前をお尋ねした時に、神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とおっしゃいました。この「わたしはある」という言葉を新約聖書のギリシャ語に置き換えると、「わたしだ」或いは「わたしである」という言葉になるのであります。つまり、モーセをリーダーに選んでイスラエルの民を救い出した父なる神様に等しい者として、御自身を現しておられるということであります。この言い方は、このヨハネ福音書にしばしば出て来るのでありまして、これまでにも、サマリアの女との対話の中で、女が「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」と言うと、イエス様が「それは、あなたと話しているこのわたしである」とおっしゃいました(ヨハネ425,26)。そこにも同じ言い方が含まれています。つまり、この言葉には、<私が救い主である>という意味が込められているのであります。<その救い主が、今あなたと共にある>と宣言しておられるのであります。

・今、あなたがたは暗闇の中で、光を見失っているかもしれない。 今、あなたがたは強い風に翻弄され、荒れ狂う湖に命を奪われそうになっているかもしれない。今、あなたがたは私のことが分からなくなって、恐れているかもしれない。だけれども、私が光であり、私が風も波も支配する者であり、私が救い主なのだ、だから、何も恐れることはない、と宣言しておられるのであります。

結.目指す地に着いた

・様々な重荷の中で難渋する私たち、イエス様のお姿を捉えきれずに揺れる私たち、この世の逆風の中で行き悩む教会、そのような不安と恐れの中にある私たちに向かって、主イエスは「わたしだ。恐れることはない」と言って下さるのであります。この言葉が私たちを目覚ませて下さり、命を甦らせて下さるのであります。

・この言葉を聞いた弟子たちはどうだったでしょうか。荒れた湖は静まったのでしょうか。21節には、そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた、とあります。最初弟子たちは、イエス様のお姿を見て、喜ぶどころか恐れたのであります。イエス様がそこにおられるのに、信じられず、かえって恐怖が増したのであります。しかし、イエス様の「わたしだ。恐れることはない」という言葉を聞いて、イエス様だと分かって、舟に迎え入れようとする者に変えられたのであります。

・その結果、イエス様は弟子たちの舟に乗り込まれたのでしょうか、そして、荒れた湖は治まったのでしょうか。マルコ福音書を見ると、はっきりと「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり」と書いております。確かにそのようになったのであります。しかし、このヨハネ福音書では、なぜか、そのような結末を書いていません。それは、そのことをあまり重視していないということかもしれません。大切なのは、湖が静まることでも、イエス様が実際に舟に乗り込まれたかどうかよりも、イエス様の言葉によって、弟子たちが変えられたことだ、と言いたいのかもしれません。

・そして最後に、「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」という言葉で締め括っています。この結末こそが大切なのだと言わんばかりの締め括り方であります。イエス様を離れた弟子たちだけでは、目指す地に行きつけなかった舟ですが、イエス様の方から弟子たちに近づかれ、イエス様の言葉によって、弟子たちがイエス様を受け入れようとした時に、目指す地に着くことが出来たのであります。

・この「目指す地に着いた」という言葉は、実は、この後に続く話と、前の五千人が満腹した出来事を結びつける言葉でもあります。モーセに率いられたイスラエルの民が、荒れ野でマンナ、即ち、「天からのパン」を食べて、目指す地に着くことが出来たわけですが、イエス様がそのような「天からの命のパン」を与えるお方であり、それを食べることによって、私たちは目指す天の国に着くことができるし、行き悩む教会も、目指す地において救いの業を完成することが出来るのだ、ということが示唆されているのであります。

・もう一つ付け加えるならば、イエス様たちは、目指す地であるカファルナウムで何をしようとされていたのか、ということに触れておきたいと思います。6章の59節を見ていただきますと、これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである、と書かれています。つまり、イエス様たちの一行は、翌日の安息日にカファルナウムの会堂で礼拝を捧げるために、湖の向う岸へ渡ろうとしていたことが分かります。

・ところがその途上で、弟子たちだけで乗り込んだ舟は、強い風のために、行き着くことが出来なかったのであります。弟子たちはイエス様抜きでは礼拝が実現しないということを、思い知らされたことでありましょう。私たちにも、礼拝することを阻む様々な障害が待ち受けているかもしれません。それを跳ね除けることは、弟子たちがそうであったように、私たちの力や信仰で出来ることではありません。イエス様が私たちに近づいて来て、私たちに伴って下さるときに、私たちの礼拝は実現し、イエス・キリストの御体である「命のパン」に与ることが出来るのであります。

・礼拝から遠のいておられる方が、大勢おられます。それぞれご自分で生活を築いて、人生の目指す地に行き着こうとされているのかもしれません。しかし、イエス様が伴って下さらなければ、本来の目指す地に行き着くことは出来ません。私たちが、その方々を無理やり舟に乗り込ませることは出来ません。私たちはイエス様が一人一人に近づいて下さることを祈るしかありません。
・祈りましょう。

祈  り
 ・救い主イエス・キリストの父なる神様!

・この世の逆風の中で、また私たちの不信仰による恐れの中で、行き悩むことの多い私たちでありますが、主イエス・キリストが、今日も御言葉をもって近づいて来て下さいまして感謝いたします。

どうか、主イエスをいつも迎え入れる信仰を与えて下さい。

どうか、目指す地に行き着くことが出来、主が与えようとして下さっているパンを、感謝していただくことが出来るように、ならせて下さい。

どうか、礼拝から遠ざかっている人たちに、主イエスが伴って下さいますように。そして一日も早く共に礼拝において、あなたの命のパンの恵みに与ることが出来ますように、お計らい下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年8月10日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書6:16-21
 説教題:「恐れることはない」     
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