序.神なき繁栄の中で

・イザヤ書の御言葉を隔月に聴いて来ましたが、23章まで来ました。13章から、今日の23章までは、ユダヤ人以外の諸国民についての託宣(預言者を通じて語られた神様の宣言)が集められていました。今日の箇所はその最後に当ります。

・小見出しは「ティルスの審判」となっていますが、中身を見ると、ティルスだけでなくて、シドンという町の審判についても述べられています。巻末の「4 統一王国時代」の地図を見ていただきますと、地中海沿いの北の方に、二つの町の名前があります。いずれも、フェニキアと呼ばれる地方にありました。この地方は平野が少なくて農業には適さないため、早くから造船と航海技術をもって、海上貿易に乗り出して、地中海を舞台にした商業活動で栄えていたのであります。

・地図でティルスとシドンの町の南の方にアシェルと書かれていますが、そこは、イスラエルの民のアシェル族が定着したところでありますが、ティルスやシドンは異教の地であります。南北王国時代に、北王国のアハブ王がシドン人の王の娘イゼベルを妻として迎えたことで、イスラエルの中に異教の神バアルが持ち込まれる結果になりました。そのため、旧約聖書の中では、預言者たちがしばしばシドンやティルスの町の滅亡を告げています。今日の箇所もその一つであります。

・さて、今日の箇所で述べられている審判が、歴史的な事実のどれと符合するのかということについては、定かではありません。紀元前701年にアッシリアによって征服された時のことのようにも読めますし、ずっと下って、紀元前573年に新バビロニア帝国によって征服された時のことであるようにも読めます。いずれにしろ、貿易をもって繁栄を誇っていたティルスやシドンが大国の軍事力によって、あっという間に破壊されるのであります。

・では、この古代の町の審判から、現代の私たちは何を聴き取るべきなのでしょうか。この文書を、繁栄を誇っていた異教の国が滅び去ることを、嘲りをもって歌っている「嘲笑歌」と見ることもできます。でも、預言者がこのことを記しているのは、単なる嘲りではなくて、この審判の中に、神の民であるユダヤの民に対する神の言葉が語られていると受け取ったからであります。そこには、現代のキリスト者も聴くべき神様の御言葉が込められている筈であります。今日は、その言葉に耳を傾けたいと思います。

1.泣き叫べ

1節から14節までは、ティルスとシドンの町に対する審判が語られているのですが、一読しただけでは分かり難いところがありますので、まず、言葉の解説をいたします。

・まず1節で、タルシシュの船というのが出て来ますが、「タルシシュと」いうのは、地中海の最西端にある島国のことで、「タルシシュの船」というのは、そこまで行くことが出来るような大きな船のことであります。キティムというのは、地中海に浮かぶキプロス島のことであります。タルシシュの船で地中海の西の方から長い航海をして来て、ようやくキプロス島を経て、ティルスの港に帰ってきてみると、町は破壊され、住む家もなくなっている、という悲劇を知らされた、というのであります。

2節の海辺の住人というのは、地中海に面したフェニキア地方の人たちのことで、3節の大いなる水というのは、地中海のことで、彼らは地中海を舞台に交易を営んでいたのであります。シホルというのは、ナイル川の支流または運河のことで、フェニキア人はエジプトの穀物を輸送して収入を得ていたということであります。ところが、彼らがうろたえなければならないようなことが起こるのであります。それを、彼らにとって母なる海の言葉として、擬人的に表現しています。「わたしは産みの苦しみをしない。子を産み、若者を育て、おとめらを、はぐくむことはできない」。ということは、町が征服されて、もはや子供を産むことも、育てることも出来ない、ということです。或いは、留守中に息子、娘たちを失ってしまうという悲劇を述べているのかもしれません。

5節に、この知らせがエジプトに達したとき、人々はおののいた、というのは、エジプトは3節にもあったように、フェニキア地方と交易上の密接なつながりがあった上に、反アッシリア勢力として同盟関係にあったので、シドンが征服されることは、エジプトにも被害が及ぶということで、ショックを受けたということであります。

6節の、渡って行け、タルシシュに、というのは、征服されたシドンを捨てて、フェニキア人の植民地があったタルシシュまで、避難のために移住しなければならなくなるということです。

8節の、ティルスは王冠を戴き、その貿易商人たちは貴族。取り引きする者らは世界に重んじられていた、というのは、かつてのティルスの繁栄ぶりと、世界における存在感を述べております。でももはや、辱めを受ける存在になってしまうのであります。

10節は、フェニキアの植民地があったタルシシュのことが述べられていますが、今やフェニキアから解放されて、ナイル川のように、自由に活動が出来るようになった、という意味でしょう。

12節では、辱めを受けたティルスのことを「お前は、二度と陽気な町ではありえない。犯された娘である」と表現しております。「立て、キティムへ渡れ」というのは、キプロス島にもフェニキアの植民地があったからでありますが、「しかし、そこでもお前は休みを得ない」と言われているのであります。

13節のカルデアの地というのは、バビロンのことでありますが、一時期、アッシリアによって旧バビロンが征服された時のことを言っていると思われます。その時と同じように、町も防御施設も廃墟に帰す、というわけです。

・以上で、14節までの言葉の意味はおよそお分かりいただいたと思いますが、ここから私たちは何を聴き取るべきでありましょうか。

・この中に、泣き叫べ、という言葉が、初めと中程の6節と最後の14節にありました。これは、預言者イザヤが言いたいことを表しているキーワードの一つではないでしょうか。ティルスやシドンの人々は、農業には適さない土地条件の中で、地中海に面した港を持つという立地条件を生かして、交易活動によって、世界に重んじられるまでの地位を築いて、繁栄して来たのであります。商業というのは、農業や工業のようにモノを作り出すことはなくて、既にあるモノを動かすだけのようですが、実は大変な知恵と労力と忍耐が必要であります。それをやり遂げて来た、自負と誇りがあったに違いありません。しかし、大国の武力の前に、一瞬にして全てを失わなければならないのであります。モノに頼ることの出来ない自分たちの弱さを知って、泣き叫ぶしかない状態になる、ということであります。自分たちの努力で築き上げて来たものが、崩れ去る時がある、ということであります。

わが国も天然資源が乏しい中で、海に囲まれているという条件を生かして、貿易立国ということで、努力と知恵によって、繁栄を築いて来ました。けれども、戦前は、実力を過信したために、世界の大国に滅ぼされて、正に、ティルスやシドンと同じように、泣き叫ばなければならない結果となりました。8月はその過去の過ちを深く反省すべき月であります。しかし、私たちは本当に自分たちの過去を悔いて、泣き叫んでいるのでしょうか。戦後もまた、努力を積み重ねることによって、世界第二のGDPを持つ国にまで成長することが出来ましたが、ここで、「泣き叫べ」という天の声を聴かなければならないのではないでしょうか。

・しかし、私たちが今日の聖書の言葉から聴かなければならないのは、そのような社会評論的な警告だけではありません。私たちはそれぞれの生活を振り返って、この御言葉を聴かなければならないのではないでしょうか。私たちはそれぞれ、これまでの生活の中で、それなりの努力を重ねて、自分なりのものを築いて来た、という自負を持っているのではないでしょうか。今の生活に満足はしていないにしても、またティルスのように世界に重んじられるというようなところまでは行かずに、むしろ様々な重荷を背負って困難な状況にあるにしても、人からは後ろ指を指されないだけのことはしている、という自負を持っているのではないでしょうか。自分について泣き叫ぶよりも、<よくやっている>と褒めてやってもよいと思っているのではないでしょうか。

・最近、ウイリモンというアメリカの神学者が書いた『生活に満足している人への福音』という本が、日本語に訳されて、『教会を必要としない人への福音』という題で出版されました。その本でウイリモンは、教会は慰めを求める人たちだけのものなのか、生活に満足していて、信仰の必要性を感じていない人にも語るべき福音があるのではないか、と問いかけています。

・皆様方は、信仰が必要ないとは考えておられないでしょう。けれども、<礼拝において御言葉を聴かなければ、自分の生活は成り立たない>というように考える人は案外少ないかもしれません。信仰は心の問題として大切なことだけれども、生活を成り立たせるのは、懸命に働くことだとか、生活の知恵といった、信仰に関係のないことだと考えてしまっていないでしょうか。

・ティルスやシドンの人々は、貿易商として懸命に働くことで、生活を築き上げて来ていました。しかし、武力によって生活の根底が奪われたとき、泣き叫ぶしかないのであります。真の神様を知らない異教の世界の人であるから止むを得ないかもしれません。 

・けれども、真の神様を知りつつも、自分の生活は自分で支えていると思っている人は、ティルスやシドンの人々と同様に、生活の根底が揺るがされるときに、泣き叫ばねばならないのであります。いや、その前にイザヤは、もし、自分で自分の生活を支えていると思っているのなら、今こそ、自分の不信仰を泣き叫ぶべきだ、と警告しているのであります。私たちは、神様の前で、自分の生活のことで、本当に泣き叫んでいるでしょうか。神様に向かって泣き叫んだことのない者が、救われることはないのであります。

2.それを定められたのは万軍の主

・しかし、ただ泣き叫べばよいということでは決してありません。泣き叫ぶ時に、知らなければならないことがあります。イザヤがここで告げている第二のことは、8節と9節に記されています。8節の一行目に、ティルスに対してこのように定めた者は誰か、と問いかけています。即ち、ティルスにこのような破壊をもたらしたのは一体誰なのか、ということであります。その答が9節の一行目にあります。それを定められたのは万軍の主である、と言っております。ティルスを破壊したのは、強大なアッシリア軍ないしバビロニア軍ではなくて、天の万軍を率いておられる主である、というのであります。ティルスは商業の力で地中海を支配しておりました。しかし、彼らが誇っていた繁栄は、軍事大国アッシリアによって、あっけなく崩されてしまいます。けれども、世界の運命を定めておられるのは、強大な軍事力を持つアッシリアではなく、主なる神様なのであります。

冒頭で、旧約聖書には預言者がティルスやシドンの審きを告げている箇所が他にもあると申しましたが、その一つを読んでみたいと思います。そこにも、同様のことが述べられています。エゼキエル書263節以下(p1337)です。

それゆえ、主なる神はこう言われる。ティルスよ、わたしがお前に立ち向かう。わたしは、海が波を巻き起こすように、多くの国々をお前に立ち向かわせる。彼らはティルスの城壁を倒し、塔を破壊する。わたしはその土くれまでぬぐい去り、ティルスを裸の岩にする。ティルスは海の中にある網干し場となる。これはわたし自身が語ったことだと、主なる神は言われる。ティルスは諸国民に略奪され、陸にある周囲の町々も剣で滅ぼされる。そのとき彼らは、わたしが主であることを知るようになる。(エゼキエル書26:36)
同様のことは、シドンについても語られていて、エゼキエル書2822節にあります。(省略)

・ティルスやシドンが壊滅的な打撃を受けた時に、知らなければならないのは、<商業力・経済力だけではだめで、やはり軍事力を強くしなければならない>というようなことではなくて、<そのことを起されるのは主なる神である>ということなのであります。私たちが知らなければならないのも、同様で、私たちの生活を支配しているのは、私たちの勤勉さや生活力ではないし、行政や国の経済力や軍事力でもなくて、主なる神なのであります。

・イザヤ書23章に戻りまして、10節にはタルシシュのことが述べられています。ティルスの植民地があったタルシシュは、色々な面でティルスの支配下にあって、自由を奪われていたでありましょうが、ティルスが崩壊することによって、もはや遮るものがなくなって、自由に世界に羽ばたけるようになる、ということを言っているわけでありますが、そのこともまた、11節にあるように、主は御手を海に伸ばして国々を震わせられたからであります。地中海を支配しているのも、ティルスやシドンではなくて、主なる神であり、神こそ、私たちを様々なこの世の力の制約を越えて、自由へと解放して下さるお方なのであります。

3.七十年が終わると

15節以下には、一転して、ティルスの回復のことが預言されています。人の生涯に等しい七十年が終わると、ティルスが再び商業力を取り戻す、というのであります。ここで、遊女とか姦淫という言葉が出て来ますが、これは淫らな関係を言っているのではなくて、商業活動のことを表現しているのであります。16節に、忘れられた遊女が、竪琴を奏でて町を巡って、客引きをする様子が歌われていますが、これは、町に出かけて新たな顧客を開拓する営業活動のことでありますし、17節に、地上にある世界のすべての国々と姦淫する、というのは、再び世界の国々を相手に交易活動をするようになることを述べているのであります。

「七十年」ということで思い当たるのは、預言者エレミヤが告げるバビロン捕囚の年限であります。エルサレムが陥落し、ユダの民がバビロンに捕囚となったとき、エレミヤが捕囚民に送った手紙の中でこう言っております。主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。(エレミヤ29:1012)――これは、神の民がその罪のために捕囚とされたのだけれども、神の恵みによって七十年後にはエルサレムに連れ戻されて、礼拝が回復するとの神の計画を述べたものであります。

ティルスの場合は異教の民でありますけれども、やはり七十年が終わると、17節にあるように、主はティルスを顧みられて、即ち神様の一方的な恵みによって、活発な商業活動が回復されると告げているのであります。

ただし、その後の18節には不思議なことが述べられています。

しかし彼女の利益と報酬は、主の聖なるものとなり、積み上げられも、蓄えられもしない。主の御前に住む者たちの利益となり、彼らは飽きるほど食べ、華やかに装う。――ティルスの商業活動が回復し、利益や報酬が得られるようになるのですが、それらが聖なるものとして、「主の前に住む者たち」即ちエルサレムの民の豊な暮らしに役立つのだけれども、自分たちの蓄積にはならない、というのであります。

・これが何を意味するのか、イザヤはここではそれ以上のことを語らないまま、諸国民についての託宣を閉じるのでありますが、イザヤ書をはじめ、旧約聖書の中では、<終りの時には、諸国民が神を讃美し、エルサレムに献げ物を持ってくる>という思想があります。その一つに、今回のティルスやシドンに関係するとみられるものが、イザヤ書の609節以下にあります。

 それは島々がわたしに向けて送るもの、タルシシュの船を先頭に、金銀をもたせ、あなたの子らを遠くから運んで来る。あなたの神、主の御名のため、あなたに輝きを与える、イスラエルの聖なる神のために。(イザヤ書60:9)(以下略)――これは、イスラエルの我田引水のようにも聞こえますが、そうではなくて、終末の時には、異邦人も含めて、全ての民が神を崇め礼拝するようになる、ということであります。七十年というのも、具体的な数字ではなくて、終末の完成を表す象徴的な数字であります。

結.主イエスによる祝福

・ところで、新約聖書の中にも、ティルスとシドンが出て来ます。マタイによる福音書1120節以下を見ていただきますと、イエス様がガリラヤ地方のコラジンとベトサダに行かれた時に、そこの人々が悔い改めないことを、こう言ってお叱りになりました。

 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりもまだ軽い罰で済む。(マタイ11:2022)――イエス様の奇跡の業を見ても悔い改めないガリラヤの人々よりも、異邦人のティルスやシドンの人々の方が先に悔い改めるだろうと言われているのであります。

・これは、私たち信仰者に対する鋭い警告であります。私たちはイエス様の数々の御業を知っていながら、ティルスやシドンの人々が泣き叫んだほどに、悔い改めをしていないのではないか、と問われているのであります。

しかし同時に、このイエス様の御言葉は、私たちに対する恵みの約束でもあります。あの、商業活動で自分たちの生活を支えていると自負して、神様を礼拝することからは遠いところにいたティルスやシドンの人々が、泣き叫び悔い改めた結果、終りの日には、恵みによって与えられたものを主の前に献げるようになって、主の祝福を受けるのであります。――私たちも信仰を持っているとは言いながら、実はティルスやシドンの人々と同様に、日常生活においては、信仰とは別の世界にいることの多い者でありました。しかし、泣き叫んで悔い改めるならば、裁きの日には、赦され、祝福を与えられるということであります。         

神様は、信仰の必要性を本気で感じていない者をも救おうとして、ティルスやシドンの人々への御言葉を通し、そして何よりも、主イエス・キリストの御業によって、今日も私たちに語りかけて下さっているのであります。  ・祈りましょう。

祈  り

世界を御支配なさる、父なる神様!

あなたが全世界に対して定められ、御手を伸ばして行い給う救いの御業を、今日もお示し下さいましたことを感謝いたします。

・どうか、私たちの日々の生活の中でも、あなたが主でい給うことを、いつも覚えさせて下さい。

・どうか、私たちをもあなたの民に加えて下さり、終りの日に向けて、あなたを讃美し、献げる者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年8月3日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書23:1-18
 説教題:「泣き叫べ」     
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