序.公生涯の転換点で

・今日は、ヨハネによる福音書6章の初めの部分に書かれている、五千人の人が、たった五つのパンと二匹の魚で満腹したという、イエス様がなさった奇跡の業から、御言葉を聴こうとしているのですが、内容に入る前に、この箇所の位置づけについて、二つのことを述べておきたいと思います。

・一つは、<6章全体が一つのテーマを扱っている>ということであります。ヨハネによる福音書と他の三つの福音書と比較して著しい特色は、他の福音書は、大体、イエス様の出来事やお話を羅列的に書いていると言ってよい(もちろん、前後の関係づけは考えて並べられてはいる)のですが、ヨハネ福音書の場合は、一つの出来事を巡って、人々の反応や、その後に起こった論争や意味づけを書いている、という特色があります。これまでに学んだ所でも、例えば4章では、サマリアの女との対話が発端の出来事でありますが、それに続いて起こった弟子たちやサマリアの人々の反応が記されていて、その中で、イエス様がサマリアの女に与えると言われた「生きた水(命に至る水)」の意味づけが語られています。また、5章では、ベトザタの池の病人を癒された出来事を巡って、ユダヤ人たちの反発が起こったことに対して、イエス様が弁明の説教をなさるという形で、イエス様の御業の意味づけがなされていたのであります。6章でも、本日学ぶ奇跡の出来事を巡って、「わたし(イエス・キリスト)が命のパンである」(6:35参照)というテーマを述べて行くのであります。ですから、本当は6章全体を予め読んでおいていただくとよいのですが、読んでおられなくてもお分かりいただけるように、今日の箇所の中で、全体のテーマを意識しながらお話しをして行こうと思います。

・前以てお話ししておきたい二つ目のことは、<イエス様の約三年の公生涯の中で、転換点に当たる箇所である>ということです。今日の箇所の冒頭の2節に、「大勢の群衆が後を追った」とありますように、これまでの活動によって、人々のイエス様への期待がどんどん膨れ上がって来たのでありますが(もちろん、初めからイエス様の言動に反感を抱いていた人たちもいましたが)、この箇所に書かれている出来事を境にして、急速に一般の人々の期待がしぼんで行き、弟子たちの中にも失望が広がるのであります。6章の終り(6:71)を見ていただくと、「このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」ということが、早くも、書かれているのであります。つまり、ここから十字架への道を急速に歩み始められることになるのであります。

・ですから、今日の箇所に述べられている奇跡の出来事は、単純にイエス様のお力を見て、人々がますますイエス様に対する尊敬の念が深まった、というようなことではなくて、イエス様と弟子たち、イエス様と民衆の間の亀裂が深まっていく、きっかけとなった出来事なのであります。

・そのことはまた、私たちも、この出来事の意味を取り違えると、イエス様を間違った風に理解して、結局はイエス様から離れていくことになりかねない、ということであります。そういうことを十分弁えながら、今日の箇所を見て行きたいと思います。

1.空腹はどのようにして満たされるべきか

・さて、1節を見ていただくと、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向う岸に渡られた、とあります。これだけでは、どこからどこへ渡られたのか分かりません。並行記事が出ているルカ福音書によれば、渡られた先は北東岸のベトサイダでありました。でもそれは、ベトサイダで伝道をするのが目的ではなくて、人を避けるのが目的であったようであります。ところが、先程も申しましたように、大勢の群衆が後を追ったのであります。

・その理由は、2節によれば、イエスが病人になさったしるしを見たからであります。彼らは自分たちの病気も癒してもらいたいと思っていたのかもしれませんし、イエス様のお力をもって、自分たちの様々な問題を解決してもらいたいという期待があったのかもしれません。あるいは、イエス様がメシアであるのかどうかを確かめたいと、好奇心と期待を抱きながら、後を追って来たのかもしれません。いずれにしましても、彼らは現状に満たされない思いを持っていて、その現状を打ち破る力に飢えていたのでありましょう。病気を癒す力を持っているイエス様が、もしかすると現状を打開して、自分たちの飢えを満たしてくださるのではないか、と期待していたのでありましょう。イエス様への期待は日増しに高まって、最高潮に達しつつありました。

・ところが3節を見ますと、イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった、とあります。これは、弟子たちを休ませるためか、あるいは、弟子たちと祈りの時を持とうとされたのか、あるいは、弟子たちに特別の教えを語ろうとされたのか、その意図を明確に知ることは出来ませんが、群衆の熱狂的な期待と、イエス様が与えようとなさっていることとの間にずれが生じ始めていることに気付かれて、群衆から離れて、弟子たちとの静かな時を持とうとされたのではないかと思われます。

・更に4節には、ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた、とありますが、イエス様が十字架に架かられたのが過越祭の時であったことを思い合わせると、この時を境に、十字架の時が近づいたことを筆者ヨハネは示唆していると理解することが出来ます。


・さて、5節によれば、イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。

イエス様は、見当違いの期待をする群衆を、見捨ててしまわれたわけではありません。マルコ福音書の並行箇所では、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(6:34)と書かれていますように、彼らの窮状を深く憐れんでおられました。それだけでなく、彼らが真剣に求めるあまり、お腹が空いているのも忘れていることを気遣っておられるのであります。群衆が様々な問題を抱えて、満たされない思いを持って、精神的に空腹になっていると同時に、今は肉体的にも空腹になっているのを主イエスは憐れんでおられるのであります。

・でも、このフィリポへの質問は、イエス様がどうやって群衆の空腹を満たしたらよいか、途方に暮れて相談しておられるのではありません。6節を見ると、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである、と書かれています。イエス様との間にずれが生じているのは、群衆だけではありません。弟子たちも、イエス様の心をよく理解できていなかったのであります。弟子たちは、つきまとう群衆にうんざりしていました。他の福音書では、弟子たちの方からイエス様に対して、「もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」と言っております。弟子たちは、群衆の精神的な空腹を憐れむ心を持っていないばかりか、肉体的な空腹も、それぞれで解決すればよいと考えていたのであります。

・それに対してイエス様は、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問いかけておられます。他の福音書では、「あなたたちが彼らに食べる物を与えなさい」と言っておられます。彼らの空腹を満たすのは、あなたたちが出来ることではないか、と言われるのであります。それはどこかの店へ行ってパンを買って来るということではありません。

 目の前にイエス様がおられるのであります。「どこでパンを買えばよいだろうか」と問いかけられて、そこにイエス様がおられる

ことに気付くべきでありました。そのことに気付くかどうか、フィリポを試みられたのであります。

2.足りない、役に立たない

・しかし、フィリポは7節でこう言っております。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」。二百デナリオンと言えば、二百日分の賃金であります。一日の賃金を一万円とすると、二百万円であります。群衆の数は10節によれば、男たちだけでおよそ五千人であったということですから、女性や子供を含めると一万人以上であったと考えられます。すると一人当たり二百円以下の勘定になります。それでも少しずつしか食べられないという計算をしているのであります。

 フィリポは、自分たちの懐具合と群衆の人数を勘定しながら、自分たちの持ち合わせているお金ではとても足りないという結論を早々に出しました。

・何事についても、問題にぶつかった時に、私たちは自分たちの持っている能力や資力を勘定いたします。そういう冷静な計算が全く無駄だというのではありません。そういう計算なしで、無鉄砲なやり方だけが信仰的というわけではないでしょう。しかし、イエス様への信頼を抜きにした勘定は、いくら精密にしたとしても見当はずれになってしまいます。私たちは、個人の生活設計についても、教会の将来展望についても、このフィリポのように、イエス様がおられることを忘れて、自分たちの可能性だけを計算して、「足りない、足りない」と言って嘆いていないでしょうか。

・一方、弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレは群衆の中に食糧を持っている者がいるかどうかを調べたようであります。アンデレは自分たちの懐勘定だけでなくて、群衆全体の持っている可能性を調査してみました。そして、9節にあるように、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」を発見しました。自分たちの弁当として用意していたのでありましょう。しかし、たったそれだけでは、一万人以上もの人の空腹を満たすことは、とても出来ないと考えました。そこで、「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言っております。確かに、常識では、殆ど役に立たない量の食べ物しかありません。

・しかし、イエス様の前で、「何の役にも立たない」と言い切るのは間違いであります。私たちは何事かの課題を前にして、自分たちの持っている資質や能力を勝手に推し量って、それだけで判断をしてしまい勝ちであります。イエス様が用いて下さるならば、そこに無限の可能性が開けるということを考えなければなりません。人間の常識では何の役に立たないものであっても、イエス様にとって何の役にも立たないと考えるのは、結論が早すぎます。

・自分たちの持っているものはたとえわずかでも、イエス様であれば、多くの人々の空腹を満たして下さるお方である、ということに、弟子たちは誰も、思い至りませんでした。

・これは、肉体的な空腹ばかりでなく、様々な問題を抱えている群衆の精神的・霊的な空腹を満たすことが出来るのは誰であるかということについても、気付いていないことを示していると言っても、決して言いすぎではないと思います。群衆ばかりではなく、弟子たちの心も、やがてイエス様から離れていくのは、イエス様こそが、人の精神的、肉体的空腹を満たして下さるお方であるとの信頼が欠けていたからであります。この第6章のテーマは、「イエス様が命のパンである」ということだと申しました。そのことが、群衆はもちろんのこと、弟子たちもまだ、分かっていなかったのであります。私たちも同様であるかもしれません。

3.主が満腹させてくださる

・そこでイエス様ご自身が、問題解決に動き出されます。10節以下にその様子が書かれています。イエス様は、「人々を座らせなさい」とおっしゃって、草の上に座らせてから、パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。

・するとどうでしょう!アンデレが「何の役にも立たないでしょう」と言った、大麦のパン五つと魚二匹とで、一万人以上の人々が満腹したのであります。実際には食べてもいないのに、食べたような気分になったということではありませんし、精神的に満たされたというようなことでもありません。そのような誤解がないように、イエス様は弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と命じられます。集めると、残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになったのであります。イエス様によって、十二分な量のパンが備えられて、一万人以上もの人が実際に腹を満たされたのであります。

・この奇跡の出来事で示されたことは、端的に言えば、<イエス様は私たちの空腹を満たすことがお出来になるお方である>、ということであります。群衆はそのことを自分のお腹で実感したに違いありません。弟子たちも、自分たちに出来ることしか考えていませんでしたが、イエス様の奇跡の業を見て、イエス様が必要を満たして下さるお方であることに、改めて気付かされたことでありましょう。ここでは、それは肉体的な空腹が満たされただけでありましたが、当然のことながら、イエス様は様々な人間の欠乏をも満たすことの出来るお方であるということも示しています。病気で苦しんでいる人、経済的に困窮している人々、社会的に低い立場にいる人々を、その満たされぬ状況から救い出す力をお持ちになっていることは、疑い得ないのであります。

・しかし、イエス様がこの出来事によって示そうとされたことは、それだけのことだったのでしょうか。<実はそうではないのだ>、ということが、このヨハネ福音書の記者が言いたいことであり、22節以降で、イエス様自身がお語りになることであります。

4.満腹が空腹を生む

・その前に、このイエス様の奇跡を体験した人々が、どのように考えるようになったかということを、聞かなければなりません。1415節に、こう書かれています。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

・人々はイエス様の奇跡を見て、イエス様のことを「世に来られる預言者である」と考えたというのであります。なぜそう考えたのかというと、旧約聖書の中に、預言者が関わる出来事で、この奇跡と似た出来事が複数個所で記されているからであります。その一つは、民数記11章にありますが、モーセに率いられて、イスラエルの民が出エジプトの旅を行なっていた時であります。食糧としては、神様がマナを与えておられたのでありますが、イスラエルの民は、<エジプトにいた時には、奴隷の身分ではあったが、肉や魚や、野菜を食べることが出来た>と言って、不満をモーセにぶつけるのであります。モーセは神様との間に立って、苦しみながら神様に訴えますと、神様は、<肉を一ヶ月続けて与えて、鼻から出るほどになり、吐き気を催すほどにする>と言われるのであります。モーセは、<男だけで六十万人もいるのに、どうしてそれほどの肉を集めることができるのでしょうか>と言うと、神様は、「主の手が短いというのか」とおっしゃって、ものすごい量のうずらを送られたという話であります。もう一つの話は、列王記4章にあるものですが、預言者エリシャのもとへ、ある人が大麦パン二十個と穀物を持って来たので、エリシャが召し使いに、それを人々に分けるように命じますと、召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と言うのですが、エリシャは、神様が「彼らは食べきれずに残す」と言っておられる、と言います。召し使いが配ったところ、神様の言葉どおり、彼らは食べきれずに残した、という話です。いずれも今日の話に似たところがあります。イスラエルの人々は皆、こういう話をよく知っていましたから、イエス様を旧約聖書の中の優れた預言者の一人と考えて、期待を膨らませたのであります。

・それだけではなく、「王にするために連れて行こうとしている」と書かれているように、イエス様を王に担ぎ出して、自分たちの国を幸せな社会にしてもらおうとしたのであります。人々は、自分たちの空腹が満たされたことによって、イエス様に対して誤った期待を抱くようになったのであります。新しい空腹が生み出された、と言ってもよいかもしれません。この世的な満腹は、更なる空腹を生み出すのであります。人々は、イエス様を神の子メシアとして敬うのではなくて、自分たちの新たな空腹を満たし、幸せを実現する手段として利用しようとし始めるのであります。

・イエス様が来られたのは、そんなことのためではありません。ですから、イエス様は「ひとりでまた山に退かれた」のであります。

結.真の満腹

・では、イエス様が人々に与えようとされたものとは、何なのでしょうか。それは、22節以下で詳しく述べられることになりますが、今日の箇所の中にも、それを示唆する言葉が二箇所あります。

・一つは、先程も少し触れましたが、4節にある「過越祭が近づいていた」という言葉であります。過越祭とは、イスラエルの民がエジプトにいた時に、羊の血を家の鴨居と柱に塗って、滅びを免れたことを記念する祭であります。イスラエルの民が救われるために、羊が犠牲となったのであります。イエス様は、ご自身がその過越しの犠牲の羊となって、全人類の救いを実現しようとされているのであります。

・もう一つの示唆は、11節にある「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」という行為であります。これはユダヤ人の家庭で、食事の時に主人が普通に行う行為であったとしましても、ヨハネが敢えてここで書いているのは、後に最後の晩餐の席でイエス様が行われたことを、思い出さざるを得なかったからであります。イエス様がパンをお与えになるということは、他でもないイエス様御自身のお体をお与えになるということを意味するものでありました。イエス様が一万人以上の人にパンを与えて空腹を満たされたのは、単に肉体的な空腹を癒すためではなくて、やがて御自分の命を与えることによって、霊的な空腹を満たそうとしておられることを示すためでありました。パンによって肉体が満腹しても、やがてまた、空腹になりますが、イエス様の体のパンをいただくならば、永遠に命が養われて、もはや空腹になることのない、真の満腹を得ることができるのであります。

・大勢の群衆は、イエス様に様々な期待をかける余り、自分たちが空腹であることも忘れていたようであります。しかし、イエス様は彼らの空腹のことを心配なさいました。それは、肉体的な空腹ばかりでなく、霊的な空腹のことも心配されたのであります。私たちもまた、自分では気付いていないかもしれないのですが、主は私たちの霊的な空腹を心配して、今日も私たちに御自身を差し出していて下さるのであります。そして、私たちを真の満腹に導こうとされているのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・私たちの霊・肉を養って下さるイエス・キリストの父なる神様!

・一万人以上の人々の空腹を満たして下さったイエス・キリストが、今も、私たちの霊的空腹を気遣って下さっていることを覚えて、感謝いたします。

・私たちは、肉の糧をはじめとする、この世の様々なもので、満たされてしまって、霊的に空腹な状態にあることに気付かず、あなたに真の命の糧を求めることを忘れがちなものであることを懺悔いたします。
・どうか、絶えずあなたの命の糧を乞い求める者とならせて下さい。

 どうかまた、その命の糧を、人々にも分け与えるために、主イエスのお手伝いをすることが出来ますように、お願いいたします。

 ・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年7月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書6:1-15
 説教題:「真の満腹」     
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