序.どうして主を信じることができるか

・今日は、ヨハネによる福音書531節以下の御言葉を与えられておりますが、最初に、本日の説教題についてお断りをしておきます。予告では「イエスを証しする聖書」という題をつけておりました。これは、39節にあります、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。」という御言葉によってつけた題であります。この御言葉は非常に重要で、よく引用されるので有名な御言葉でありますし、今日の箇所の中でも中心的なメッセージでありますが、今日の箇所全体の中では、聖書以外の証しについても語られていますので、全体の表題としては、他の証しも含めた「真実の証し」という方がよいのではないかと思いまして、変更させていただきました。

・ところで、今日の箇所は、19節から始まったイエス様の説教の続き(後半部分)であります。イエス様がベトザタの池の病人に「床を担いで歩きなさい」と言われたことが、安息日にしてはならない労働をさせようとしたことに当たるとして、ユダヤ人たちが文句を言い出したことに対して、イエス様が17節で、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われると、ユダヤ人たちは、<神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とした>として、ユダヤ人たちは、ますます主イエスを殺そうとねらうようになったのであります。そこで、ユダヤ人たちに語られたのが、19節からの弁明の説教であります。

・先週学んだ19節から30節までのところで語っておられることは、イエス様は父なる神様の子として、何事も神様の御意志のままになさっているということと、何をなさるかと言えば、罪のために死んでいる者に命(永遠の命)を得させるということと、決定的な裁きをなさるということでありました。

・しかしながら、ユダヤ人たちは、イエス様を神の子だとは思っていないわけですし、救い主だとも考えていないのですから、ますます反発したに違いありません。そこで、イエス様のおっしゃっていることが真実であることを証明しなければなりません。

・そういうわけで、今日の箇所では、イエス様のおっしゃっていることの真実性が何によって証しされるのか、どうしてイエス様を信じることが出来るのかについて、述べておられるのであります。

1.真実の証し

・一般に裁判などでは、一人だけの証言では有効と認められません。旧約聖書においても、複数の証人の証しが必要だとされていました。そこでイエス様は3132節でこう言っておられます。

 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」――ここでイエス様は、「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と言われます。それは誰なのでしょうか。

1-1.洗礼者ヨハネの証し

・次の33節では、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しした」と言っておられます。確かに、119節を見ると、ユダヤ人たちが洗礼者ヨハネのもとに人を遣わして、ヨハネがどういう人物であるかの調査をしたことがありました。その時、ヨハネはイエス様のことを、「わたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と証しておりましたし、自分の弟子には、「見よ、神の小羊だ」と言って、イエス様を紹介しておりました。

・けれども、34節を見ますとイエス様は、「わたしは、人間による証しは受けない」と言っておられます。ですから、「別におられる」と言われたのは、洗礼者ヨハネのことではないと言えます。しかし、イエス様はヨハネのことを高く評価しておられまして、「あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」と言っておられます。既にこの時には、ヨハネは牢に繋がれていたか、死んでいたと考えられますが、しばらくの間は、多くの人々を集めて、彼らに光を与える働きをしたとおっしゃるのであります。その働きの中に、救い主であるイエス様を証しする働きもあったということを言っておられるのでありましょう。けれども、36節では、「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」とおっしゃって、以下、39節までの間に、三つの証しについて述べておられます。

1-2.イエスの御業そのものによる証し

・第一は、36節後半で、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行なっている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」と言われます。イエス様がなさる御業そのものが、父なる神様によって遣わされた神の子であり救い主であることの証しになっている、ということであります。ここで言われている「業」とは、病の癒しなどの数々の奇跡の業のことを指しているとも考えられます。しかし、先週の箇所の20節でおっしゃっていましたように、「これらのことよりも大きな業」があります。その業とは、死んだ者に命を得させることと、決定的な裁きを行われるということでありました。それは最終的には、十字架と復活によって成就し、終りの時の裁きによって誰にも明らかになるのですが、主イエス来られている今こそ、その業が既に始まっていると言われていたのであります。だから、主イエスの御業そのものが、イエス様が神様から遣わされた神の子であり、救い主であることを、十分に証ししていると言えるのであります。

1-3.父なる神の声による証し

・第二の証しは、37節前半で、「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」と言っておられるように、父なる神様ご自身による直接的な証しであります。具体的にどういう場合のことを言っておられるのかというと、例えば、イエス様が洗礼をお受けになった時と、山上でお姿が真っ白に輝いた時に、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声がありました(マタイ3:1717:5ほか)。これらは、限られた弟子たちだけが聞いた天の声でありますが、それらが弟子たちを通して人々にも伝えられたわけですから、父なる神様の直接的な証しの例と言えるのではないかと思われます。

・また、イスラエルの歴史の中で神様が預言者たちに語られた言葉の中にも、救い主イエス様を証しするものが沢山あります。先程朗読いたしました申命記18章は、モーセがイスラエルの民に語った言葉でありますが、モーセは、神様のお言葉をこのように伝えております。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」(申命記18:18)。これは、その後に登場する諸々の預言者たちのことを言っているとも言えますが、最終的には預言者の中の預言者であるイエス・キリストを証ししている言葉であります。

・しかし、ユダヤ人たちは、こうした預言者たちや弟子たちの言葉を、イエス様を証しするものだとは受け止めていませんでした。だから、37節後半から38節にかけて、こう言われています。「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父の言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じていないからである。」――ユダヤ人たちには、預言者たちや洗礼者ヨハネや主イエスの弟子たちを通して、神様からの証しが沢山届いていた筈でありましたが、彼らはイエス様を信じなかったので、父なる神様のお声を聞かず、お姿を見ないのと同じ状態だ、と言われるのであります。

1-4.聖書による証し

・そのことが、次の39節で言われる第三の証しにつながります。こう言っておられます。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
・ここで「聖書」と言われているのは、直接的には旧約聖書のことになります。ユダヤ人たち、殊に律法学者と言われる人々は、旧約聖書を徹底的に研究し、そこに示されている神の御心を忠実に守ろうとしていました。そうすることによって、「永遠の命」が与えられると考えていたのであります。「永遠の命」というのは、何時も言いますが、肉体的に永遠に死なない命と言う意味よりは、<永遠に価値のある生き方><神様の御心に適う命>のことであります。ユダヤ人たちは、真剣に神様に喜ばれる生き方をしようと思って、聖書を熱心に研究し、それに従う生き方をしようとしていたのであります。イエス様もここで、その態度が間違っているとはおっしゃっていません。聖書に教えられて生きようとすることを否定しておられるのではありません。しかし、ユダヤ人たちのそのような聖書との向き合い方では、聖書を正しく読んでいるとは言えないのであります。そのような聖書との向き合い方では、本当の命が与えられない、ということであります。

・こういう聖書との接し方というのは、ユダヤ人に独特のものであるなら、私たちには何の関係もないことになるのでありますが、実は、私たちも聖書の御言葉に対して、ユダヤ人と同じような接し方をしているのではないでしょうか。――聖書には、すばらしい教えが沢山出ています。人生の指針となるような言葉がいっぱいあります。悲しいことにぶつかった時に、慰めとなる言葉や、困難に遭遇した時にも力が出るような言葉も沢山あります。人生を切り開く知恵にも満ちています。聖書に教えられていることを忠実に守ることが出来たら、人からも立派な人だと褒められるような人生を歩むことが出来るかもしれません。――けれども、それだけでは、ユダヤ人と同じで、聖書との正しい接し方とは言えないのであります。聖書が与えようとしているものに向き合っていないのであります。<聖書はそんなものではない>とイエス様はおっしゃるのであります。

・それでは、聖書とどんな接し方をしなければならないのでしょうか。そもそも聖書とは何なのでしょうか。39節後半ではこう言われています。「ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。」――聖書はイエス様のことを書いてあるものだ、と言われるのであります。ということは、聖書によってイエス様に出会うような読み方・向き合い方をするのでなければ、本当に聖書を読んだことにならない、ということであります。

・ここで言われているのは旧約聖書のことでありますが、旧約聖書はイエス様以前に書かれたものでありますから、直接イエス様のことが書かれているわけではありません。書かれているのは、イスラエルの歴史の中に働かれた神様のこと、神様が与えられた律法のこと、そして預言者たちが神様から聞いた裁きや約束の言葉などであります。そこには、神様の恵みに反して神様に逆らったり、神様を信じないイスラエルの民の罪の様が描かれていて、その罪のためにイスラエルが滅びを免れなかったことが記されているのであります。しかし、そのようなイスラエルを救う救い主が、やがて現れる、ということも約束されているのであります。その救い主こそ、イエス・キリストであります。――ですから、旧約聖書には直接にはイエス様のことは書かれていませんけれども、やがて来られる救い主というかたちで、イエス様のことが記されているのであります。

・ここでイエス様が「聖書」と言われたのは旧約聖書のことですが、当然、新約聖書にもイエス様のことが書いてあります。それは福音書のように、イエス様のなさったこと・語られたことが書いてある所だけではなくて、弟子たちの働きを書いた使徒言行録にしても、パウロなどが書いた手紙にしても言えることで、そこで語られていることの中心は、イエス様の御業のことであり、イエス様の十字架と復活による罪からの救いのことであります。

・ですから、聖書と正しく向き合うならば、必ず私たちの罪の問題が示されますし、その罪の問題を解決して下さる主イエスと出会うことになるのであります。もしも、そのような主イエスと出会うことなしに、いくら聖書の教えを忠実に守ったとしても、全く見当はずれということになりますし、聖書を読んで慰められたり、力づけられたりしても、それは本物ではない、ということであります。イエス様に出会わなければ、本当の命(永遠の命)は得られないということであります。逆に言えば、聖書によってイエス様に出会うことが出来るならば、本当の命(永遠の命)が得られる、ということであります。


・以上、ヨハネの証しにまさる三つの証しについて、イエス様の言葉を聴いて来ました。第一はイエス様の御業そのもの、第二は神様の直接の語りかけ、第三は聖書、でありました。――ところで、
32節でイエス様は「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と言っておられました。その「別におられる方」とは、結局、誰なのでしょう。34節では、「わたしは、人間による証しを受けない」とも言っておられました。「別におられる方」とは、おそらく皆様もお気づきのように、父なる神様であります。第一のイエス様の御業そのものも、36節で言われていたように、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」でありました。第二の神様の直接の語りかけは当然、神様による証しになります。第三の聖書は、旧約聖書も新約聖書も、神様によって遣わされたイエス様のことを証しする書物でありことが分かりました。このように、神様の直接・間接の御言葉によって、イエス様が神から遣わされた神の御子であり、救い主であることが証しされているのであります。

 
2.真実の証しに対する私たちの罪

・ところで、このような神様の真実の証しが与えられているのに、ユダヤ人たちや、私たちがどのような状態にあるのかが、40節以下で、厳しく指摘されています。四つのことが語られています。

・第一は、40節にありますように、「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」ということであります。イエス様の御業も御言葉も、全て聖書によって証しされているのに、イエス様とちゃんと向き合っていない、ということであります。

・イエス様に出会う(向き合う)とはどういうことでしょうか。それは単にイエス様から人生訓のようなものをいただくというような出会い方ではありません。それは、「命を得るため」の出会いであると言われます。私たちは罪によって、本当の命を失っています。そのような私たちのために、御自分の命を投げ出して下さった、その赦しの愛に触れて、イエス様の命を貰わなければ、主イエスに出会ったことにはならない、ということであります。

・第二の指摘は、42節にあるように、「あなたがたの内には神への愛がない」ということであります。ユダヤ人たちは、神を愛しているからこそ、熱心に聖書を学び、戒めを守っていると思っていました。だからこそ、安息日の戒めを守らないイエス様を非難したのであります。私たちも、神様を愛しているつもりで、教会にも通い、仕えているつもりであります。しかし、イエス様は、ユダヤ人や私たちの中にある偽善を見抜いておられます。そして、本当には神様を愛していないのではないか、と問われます。これは、私たちに対する厳しい問いかけでもあります。

・三つ目の指摘は44節にあるように、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない」と言っておられます。私たちは人から誉れを受けることを喜びます。信仰を持つことも、教会に来ることも、人から誉れを得るためなのではいないか、との指摘であります。神様の方を見ないで、人の方を見ているのではないか、ということであります。私たちは、神様を愛するのではなくて、人から愛されたい(良く思われたい、自分を正当化したい)のであります。

・四つ目の指摘は、45節以下でありますが、要点は47節の「モーセの書いたことを信じない」ということであります。これは39節で言われていたことと関係がります。モーセは、旧約聖書の最初の五巻を記したとされていました。だから、ここの指摘は、<あなたがたは聖書に書かれていることを本気で信じていない>ということであります。モーセは何を告げていたでしょう。先程の申命記では、来るべき預言者イエス・キリストのことを告げていました。つまり、私たちが聖書を信じていないということは、イエス・キリストを本気で信じていない、ということになります。46節で、「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。」と言われている通りであります。

結.真実の証しに仕える者に

・今聴きました四つの指摘によって、私たちの罪の姿が鋭く暴き出されていることを認めざるを得ません。しかし、これらの指摘には、主イエスが何とか私たちを救い出そうとなさるメッセージが込められています。

・第一の指摘では、イエス様は、本当の命を失っている私たちに、永遠の命を与えようと待ち構えていて下さっているのだ、というメッセージが響いています。第二の指摘では、私たちは、自分の誉れを求めて、神への愛に欠ける者たちでありますが、神様は私たちを愛して、御子イエス・キリストを与えて下さったこと、そして、イエス・キリストは御自分の誉れを捨てて、私たちの罪の赦しのために、十字架の贖いを成就して下さったこと、――そのような愛と赦しのメッセージが響いています。第三の指摘では、私たちは聖書の中に、自分の益になることを探していますが、聖書は私たちに主イエスと出会わせてくれ、私たちを永遠の命へと、即ち、神様との本来のあるべき関係へと導いてくれるものであること、そうして<あなたがたには、このかけがえのない聖書の御言葉を通して、主イエスと出会うことが出来るのだ>、とのメッセージが響いています。

・今日は、イエス様の御言葉によって、神様の真実の証しを聴いて参りました。このヨハネによる福音書は、第一世代の弟子たちが、周囲の人々から、<イエス様は本当に来るべき救い主なのか>と問われる中で、イエス様自身の言葉を思い出しながら記して、人々に真実の証しをした書物であります。私たちもまた、この真実の証しに促されて、現代の世の中で、小さな力ながらも、人々に向かって真実の証しをする者でありたいと思います。

・祈りましょう。

祈  り
 ・救い主イエス・キリストの父なる神様!

・今日も、先人が残してくれた聖書を通して、イエス・キリストの御言葉によって、あなたの真実の証しを受けることが出来ましたことを感謝いたします。

・どうか、主イエスによって与えられた本当の命を、終りの日まで持ち続けることが出来ますように、主の日ごとに御言葉によって、主に出会わせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年7月20日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書5:31-47
 説教題:「真実の証し」     
             説教リストに戻る