序.安息日に何が起こっているのか

・今日与えられているヨハネによる福音書519節から30節までの箇所を、先ほどお聞きになって、どう感じられたでしょうか。父がどうの、子がどうのと、面倒な議論がなされていて、あまり興味が湧かないな、と思われたかもしれません。

・しかしながら、お気付きの方もおられると思いますが、ここには、「はっきり言っておく」という言葉が三回出てきておりました。19節と24節と25節であります。前の口語訳聖書では、「よくよくあなたがたに言っておく」と訳されていた言葉ですが、原語のギリシャ語では、「アーメン、アーメン、私はあなたがたに言う」となっておりまして、イエス様が非常に大切なことを言おうとされるときの言い方なのであります。それが、ここには三回も出て来ているのですから、今日の個所には、イエス様の大切なメッセージが語られているということであります。

・その大切さを理解するためには、どういう流れの中で語られたのかということを、しっかりと押えておく必要があります。先週、私たちはすぐ前の箇所で、ベトザタの池の回廊で、38年間病気で横たわっていた人に、イエス様が「床を担いで歩きなさい」と言って癒されたという出来事を聴きました。ところが、その日が安息日であったために、ユダヤ人たちは、「床を担ぐ」ということは安息日に禁じられている労働に当たるとして、それをさせたイエス様を攻撃し始めたのであります。それに対してお答えになったイエス様の言葉が17節に出ています。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」――このお言葉は、単純に受け取れば、<神様は安息日と言えども、困った人がいれば、その人を救うためには働かれるのだから、自分も人を助けるために働いたのだ>、という意味でありますが、この言葉を聞いたユダヤ人たちは、イエス様が神様のことを「わたしの父」と呼んで、御自身を神と等しい者としたとして、イエス様を殺さねばならないと思うようになったのであります。それを受けて、19節からイエス様が語り始められるのですが、それは5章の最後の47節まで続く説教であります。その前半の部分が今日の箇所ということになります。

・そういう流れから、ここでは、父なる神様と子なるイエス・キリストの関係が語られているのですが、大切なことは、その両者の関係がどうなっているかということと共に、父なる神とイエス・キリストが、私たちのために何をなさるのか、ということであります。しかも、話の流れは、安息日に何をするか、という問題でありました。安息日とは礼拝をする日であります。その日は、礼拝をする日だから、労働をしてはいけない、ということが問題になったのであります。しかし、この日行なわれたのは、単なる労働ではありませんでした。一人の人がイエス様によって救われたのであります。それは単に長年の病気が癒されたということではなくて、罪から救われて、永遠の命へと甦ったのであります。

・つまり、今日の箇所でイエス様が語っておられることは、安息日、即ち、礼拝の時に何が起こっているのか、ということであります。それは、今の私たちの礼拝でも起こることであります。今、私たちの礼拝において何が起こっているのか、起ころうとしているのか、――それは私たちの生死に関わる事柄であります。だから、そのことを聞き逃さないようにしたいと思います。

1.「自分からは何事も出来ない」

・さて、まずこう言っておられます。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、自分のなさることをすべて子に示されるからである。」(19-20)

・イエス様は「自分からは何事もできない」とおっしゃっています。同じことは30節でも言っておられます。「わたしは自分では何もできない。」――ずいぶん弱々しい発言に聞こえます。イエス様は父なる神様の力をすべて受け継がれているのではないか、と思います。現に、この時も、38年間苦しんだ病人をお癒しになったではないか。神様からすべての権限と力を託されておいでになるのではないか、と思います。ところがイエス様は、「わたしは自分では何もできない」とおっしゃるのであります。イエス様は無力を宣言なさっているかのようであります。

しかしこれは、イエス様に力がないとか、力が不足しているので父なる神様の力を借りなければならない、ということではありません。「父のなさることを見なければ」、また「自分からは」という条件がついていますように、父なる神様の御意志がなければ、何もできないということであって、逆に言うと、イエス様のなさることは、いつも父なる神様の御意志に沿っている、父なる神様と同じ心で行なっている、ということであります。つまり、父なる神様との一体性を強調しておられるのであります。イエス様のなさることは、皆、神様の御心通りであって、神様がなさっているのと同じだ、ということであります。ベトザタの病人が癒されたのも、単にイエス様の思いつきなんかではないし、イエス様の力を示すためなんかではなくて、神様がこの人を救いたいとお考えになっているから、癒されたのだ、ということであります。

<イエス様のなさることは、すべて父なる神様の御意志に従ってなされる>と言っても、それは主人と僕の間のような、命令的、支配的な関係ではありません。20節前半に、「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」とあるように、愛の関係であります。愛によって父なる神様の御意志が、子なるキリストの御意志となるのであります。

2.「これらのことよりも大きな業」
 ・続いて、20節後半から23節にかけて、こう言われます。

 また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
・ここでは、子なるイエス・キリストがなさる「大きな業」について語っておられます。「これらのことよりも大きな業」と言われる「これらのこと」というのは、直接的には、直前に行なわれた二つの癒しの出来事、即ち、4章に書かれていた「役人の息子の癒し」と、先週の「ベトザタの池の病人の癒し」の出来事であると思われます。それらよりも、「大きな業」をお示しになる、と言われて、その一つが21節にあるように、「死者を復活させる」あるいは「命を与える」ということであり、今一つは、22節にあるように「裁き」を行うということであります。

・二つの癒しの出来事は、消えそうになっていた命に元気をお与えになる働きでありましたが、それよりも大きな業は、死んだ者に命をお与えになる復活の働きであります。具体的には、11章に出て来ますように、病気で死んでしまったラザロをイエス様が復活させられます。これも、イエス様独自の働きというよりも、先ほどエゼキエル書で読みましたように、父なる神様が死者を生き返らせるお方であるからであります。父なる神様がなさった最大の復活の御業と言えば、言うまでもなく、十字架で亡くなられた御子イエス・キリストの復活であります。これこそ「大きな業」であります。そして、この主イエスの復活によって与えられた命を、御子イエス様が与えたいと思う人々に与えられるのであります。

・もう一つの「大きな業」は、22節にある裁きであります。「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と言われます。同様のことを27節でも繰り返して、「裁きを行う権能を子にお与えになった」と言っておられます。旧約聖書においては、裁きは父なる神様がなさることでありました。例えば、詩編504節以下には、このように記されています。

 神は御自分の民を裁くために、上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。「わたしの前に集めよ。わたしの慈しみに生きる者を。いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行なわれる。                  (詩編50:4-6)

 しかし今や、「裁きは一切子に任せておられる」と言われるのです。これは19節で「自分からは何事もできない」と言われていたことと矛盾するように聞こえるかもしれませんが、そこでも申しましたように、神様の御意志とイエス様の御意志は一体なのであります。今や、神様の御意志はイエス様によって具体化されるのであります。そして、イエス様を信じる者は救われるのですが、イエス様を信じない者は、裁かれることになるのであります。

・以上、見て来ましたように、「大きな業」とは、一つは「命を与える」ということであり、今一つは「裁き」ということでありますが、それらが子なるイエス様に任された目的は、20節によれば、「あなたたちが驚くことになる」ということであり、23節によれば、「すべての人が、父を敬うように、子を敬うようになるためである」と言われています。父なる神の御業に驚いて、神様を敬うように、子なるイエス・キリストの御業に驚いて、主イエスを礼拝するようになるのが目的だということであります。ユダヤ人たちは、イエス様が御自分を神と等しい者にしていると言って攻撃いたしましたが、それは大きな思い違いなのであります。

3.「わたしの言葉を聞いて」

・次に、24節に、二つ目の「はっきり言っておく」が出て来ます。今日の二つ目のポイントです。ここでは、こう断言なさいます。

 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」

・ここのポイントは、「わたしの言葉」即ち、イエス・キリストの言葉を聞いて、「わたしをお遣わしになった方」即ち、父なる神様を信じる、ということであります。

「言葉を聞く」ということと、「書かれたものを読む」ということと、皆さんはどちらが確かだと感じられるでしょうか。言葉を聞いただけでは、忘れてしまったり、内容が曲げられたりする恐れがあります。「口約束」は、書面で取り交わした契約に比べて、確かさの弱いものであります。耳で聞いた話よりも、本で読んだことの方が、確かな気がします。人類は文字を発明することによって、文明を進歩させることが出来ました。口で話して耳で聞くだけでは、ここまで文明は進歩しなかったでしょう。

しかし、言葉は口で語って、耳で聞くということが基本であります。そこには人格と人格の触れ合いがあります。書いたものでは人格の触れ合いが全くないということではありませんが、その時語り、その時聞くという同時性は、書かれたものでは希薄になります。今語られ、今聞くという所に人格の交わりが生じます。

早稲田大学の教授で東後勝明という方がおられます。この方はNHKの英語会話の講師を長くして来られた方でありますが、50歳になってから、試練の中で神に出会われるのであります。そういう経緯を『ありのままを生きる』という本に記しておられるのですが、この人は言葉を専門に教えて来た人だけに、面白いことを言っておられます。言葉の実体は音声であって、音声を生み出すのは息なのですが、その「息」という言葉は聖書の世界では「命」という言葉と同じで、それが神様につながっている、というのであります。つまり、言葉の本質は命であり、ヨハネ福音書の冒頭にもあったように、言葉は神なのであります。

聖書は書かれた神の言葉であって、そこにも命が働いているとは思いますが、聖書を自分で読んでいるだけでは、知識としては神に出会うことが出来ても、神様の人格に出会うことは難しいのであります。なぜ礼拝をするかと言えば、今語られ、今聞かれるという、生きた神様との人格的な交わりがあって、神様から命をいただくことが出来るからであります。そこから信仰が与えられ、24節の後半に書かれているように、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移されるのであります。

これは、先ほど、イエス・キリストの「大きな業」と言われていたことであります。その「大きな業」が、イエス様の言葉を聞くことによって、私たちの内に行われる、ということであります。

先ほどは、単に「命」と言われていたことが、ここでは「永遠の命」と言われています。「永遠の命」は、この福音書の一貫したテーマであります。これまでも、ニコデモとの対話でも、サマリアの女との対話でも出て来ました。そのたびに申し上げたことですが、「永遠の命」というのは、時間的に永遠に続く命とか、死んでから手に入れる命、という意味であるよりは、<神様との間柄があるべき関係にある命>のことであって、具体的に言えば、<礼拝生活をする生き方>のことであります。礼拝において、神様の言葉を、今語られた言葉として聞くときに、信仰が与えられることによって、もはや、罪の裁きの結果としての永遠の死に至ることなく、死から命へ移されるのであります。真実の命に生き始めるのであります。これが、イエス・キリストが今も生きて働き続けておられる、「大きな業」であります。

4.「今やその時である」
 ・次の25節には、三つ目の「はっきり言っておく」が出て来ます。

 「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」(25,26節)

・「死んだ者」とは、24節にあった、イエス様の言葉を聞いて信じた者の以前の状態を言っています。イエス様の言葉を聞く以前は、肉体が生きていたとしても、霊的には「死んだ者」であったのであります。しかし、「神の子」即ち、イエス・キリストの声を聞く時がやって来るのです。「今やその時」だと言っておられます。

ここのポイントは、「今やその時である」ということであります。ユダヤの人たちは、救い主がいつか来られることを待ち望んでいました。しかし、主イエスが来られた今や、その待ち望んでいた時が来た、と言っておられるのであります。なぜなら、主イエスは、父なる神様が命を持っておられるように、子なるキリストも御自分のうちに、死の中にある私たちを生かす命を持っておられるからであります。

・このイエス様の言葉は、今も私たちに語りかけて下さっている御言葉であります。私たちは本気でこの御言葉を聴かなければなりません。私たちは、以前は「死んだ者」でありました。その私たちが、命(永遠の命)を持つ者、新しい命に生きる者にされるのは、<もう少しイエス様のことをよく勉強してから>とか、<死んで天に召されてから>というのではなくて、イエス様の声を聞いている今だ、ということであります。礼拝においてイエス様の御言葉を聞いている今こそ、新しい命に生き返る時なのです。確かに、礼拝生活というのは、徐々に信仰を養われ、深められて行くという面もありますが、信仰を持つかどうか、救われるかどうかというのは、「今やその時である」というイエス様の言葉を受け入れるかどうか、にかかっているのであります。それを受け入れる時、私たちは直ちに、「死んだ者」から新しい命に生きる者に変えられるのであります。

5.「時が来ると――裁きを受ける」

2729節には、新しい命に生きるようになるのとは反対のこと、即ち、「裁き」のことが言われています。

 「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
・イエス様には、命を与える権能とともに、裁きを行う権能も与えられています。それは22節でも言われていた通りであります。その根拠として「子は人の子だから」と言われています。ここで「人の子」というのは、<普通の人間>という意味ではなくて、旧約聖書のダニエル書(713)に、<終りの日に、すべての支配権を神から与えられた「人の子」のような者が天の雲に乗ってやって来る>と言われていることに基づくものであります。イエス様はそのような支配権を持った「人の子」として来られるので、当然、人を裁く権能も与えられている、ということであります。

・「時が来ると」というのは、終りの日、再臨の時であります。その時、墓の中にいる者は皆――生前に善を行った者も、悪を行った者も復活するのであります。ここで、「善を行った者」とはイエス様を信じる者のことであり、「悪を行った者」とはイエス様を信じなかった者のことであります。どちらも、復活するのですが、善を行った者は命(永遠の命)を受けますが、悪を行った者は裁き(永遠の滅び)を受けるのであります。

・そうであれば、生前にイエス様を信じるかどうかが決め手であります。終りの時が来てから悔い改めても遅いのです。だから、先ほど「今やその時である」と言われていた、イエス様が御言葉を聞かせて下さっている時こそが大切だということであります。

結.礼拝において決定的なことが起こっている

・このように、イエス様の御言葉を聞く礼拝の時こそ、かけがえのない恵みの時であり、生死の分かれ目の時であることを知らなければなりません。そのような大切なことが語られているからこそ、今日の箇所では三度も「はっきり言っておく」と言われているのであります。・祈りましょう。

祈  り
 ・今もなお働き給う父なる神様!

・今日、イエス・キリストの御言葉を通して、あなたの救いの御心を私たちにお示し下さいましたことを感謝いたします。

あなたが備えて下さった、この礼拝の時が、私たちの永遠の命に関わるかけがえのない時であることを、肝に銘じて覚え、日々の生活を、この礼拝の時を中心に生きる者とならせて下さい。

どうか、私たちの命を奪おうとするサタンの誘惑から、私たちをお守り下さい。

・どうか、礼拝から遠ざかっている方々が、永遠の命を受け取り損なうことのないように、導いて下さい。どうかまた、御言葉の招きに逡巡している方を、あなたが命へと引き上げて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年7月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書5:19-30
 説教題:「死から命へ」     
             説教リストに戻る