序.使徒の権威と弱さの中からのメッセージ

・私が米子に来ましてから、二ヶ月に一度、ヘブライ人への手紙から御言葉を聴いてまいりましたが、それが終わって、今回から、ペトロの手紙を、二ヶ月に一度、聴いて参ります。

・「ペトロの手紙」という名のとおり、11節には、イエス・キリストの使徒ペトロから差し出された手紙であると書かれています。「使徒」というのは、イエス・キリストと生活を共にし、その十字架の死を目の当たりにし、復活の主に出会った十二人の弟子の一人ということであります。ペトロはその中でも、イエス様を最初に「生ける神の子、メシア」と告白して、イエス様から「岩」という意味の「ペトロ」というあだ名をいただいて、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた弟子であります。

・しかしながら、本当に使徒ペトロ自身が書いたのかどうかということについては、学者の間では否定的であります。それは、漁師のペトロがギリシャ語に堪能であったと考えにくいとか、内容から推定される書かれた年代が、ペトロの活躍した年代と合わないとかいうことからであります。それで、この手紙の最後の512節に出て来ますシルワノ(使徒言行録ではシラスという名で出て来る)がペトロの意向を受けて書いたのだという推測がされたりしています。

・ではなぜ、ありのままの名を書かずに、ペトロの名前を使ったのか。それは、当時、有名な人の名前を用いて手紙を書くということが普通に行なわれたということもあるようですが、それよりも、ここに書かれている内容が、教会の第一人者の権威をもって語られるのに相応しい重みを持っているということがあります。

・しかし、ペトロの名が使われたのは、それだけの理由ではないと思います。ペトロという人は、ご承知のように、イエス様が捕らえられたときに、イエス様のことを知らないと言って裏切ってしまうという失敗をした弟子であります。そういう弱さ・脆さを持った人間でありました。そのペトロが、復活された主イエスによって赦されて、もう一度、弟子として用いられることになったのであります。そういう体験をした弟子が語ることには、普通の人間が語る以上に、神の恵みに基づく真実が込められます。この手紙は、たとえペトロ自身が書いたものではないにしても、ペトロと同様の恵みを受けた後継者の手によって書かれたのであれば、そこには使徒ペトロが語るのと同じ権威と恵みが込められている筈であります。そういう意味で、この手紙が使徒ペトロによって書かれたものとして読んで、一向に構わないのであります。

・では、この手紙はどこで書かれたのか。この冒頭の部分には執筆場所を伺わせることは何も書かれていませんが、これも最後の513節を見ますと、「共に選ばれてバビロンにいる人々が、よろしくと言っています」という挨拶が記されています。「バビロン」というのは、今のイラクのあたりにあった町の名前ですが、ここでバビロンというのは、この手紙が書かれた当時(紀元1世紀の末と考えられている)の世界の中心であったローマの都を指します。ヨハネの黙示録で、キリスト者を迫害するローマを名指しで書けないので、バビロンと言っているのと同様であります。私たちは先に学んだ使徒言行録で、パウロが最後にローマに行ったことを知っていますが、ペトロも伝説では、最後はローマに行き、そこで皇帝ネロによって、逆さはりつけになって殉教の死を遂げたとされています。これは伝説で、史実かどうかは分かりませんが、この手紙が書かれた背景には、そういう厳しい状況があったことは間違いないのであります。

・現代の教会も、色々な意味で厳しい状況下にあります。その中で信仰者は、如何なる希望が与えられているのか、また如何に生くべきなのかを、この手紙から聴き取って行きたいと思います。

1.離散して仮住まいをしている選ばれた人

・さて、この手紙の宛先でありますが、11節の後半を見ていただきますと、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビテニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ、と書かれています。

ここに挙げられている地名は、小アジア地域(今のトルコを中心とした地域)の地名で、かなり広い範囲にわたっています。この辺りは、私たちが使徒言行録で学んだように、パウロが伝道旅行をした地域にも重なっていて、この手紙が書かれたとみられる紀元1世紀末には沢山の教会が出来ていました。ですから、この手紙は、「ローマの信徒への手紙」や「コリントの信徒への手紙」のように、特定の教会に宛てたものではなくて、これらの地域の諸教会で回し読みすることを想定して書かれたのではないかと言われています。

・「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人」、という言い方は、独特の表現でありますが、「離散している」というのは、「ディアスポラ」という言葉で、普通は、ユダヤの国を離れて、他所の国へ移り住んだユダヤ人のことを指しますが、ここでは、そういうユダヤ人のことではなくて、その同じ言葉を使って、異教的な環境の中にいるキリスト者のことを言っているのであります。ここに挙げられている小アジアの地域は、いずれも異教の地であります。ユダヤ教でもない、もちろんキリスト教でもない、真の神さまを知らない人たちが住む地域であります。その中でキリスト者になるということは、ユダヤ本国を離れて異教の地で暮らすディアスポラのユダヤ人みたいなものだということであります。

・「仮住まいをしている」という表現も使っておりますが、フィリピの手紙でも「わたしたちの本国は天にあります」(320)と言われていますように、キリスト者の本国は天にあって、この地上では仮住まいをしているのであります。このことについては、このペトロの手紙の本文の中でも出て来ます。117節を見ていただくと、「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と言っておりますし、また2章11節を見ていただくと、「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と勧めています。詳しいことは、それぞれの箇所に来たときに学びたいと思いますが、ここで心に留めたいことは、キリスト者というのは、本来の居場所は天にあって、この地上の世では「離散して仮住まいしている」のと同じだ、ということであります。私たちは、今の地上の生活の場が本国であって、そこを、本物の天国とは言わないまでも、何とか天国に近い場所にしたいと願っているのではないでしょうか。しかし、キリスト者の本国は、この地上ではないのであります。震災にあって、家が住めない状態になった人や、地すべりなどの危険がある人は、避難所や仮設住宅に住んでいますが、そこは、あくまでも仮住まいであって、本来の生活の場ではないように、キリスト者にとって、地上の生活は仮住まいなのであります。

・だからといって、キリスト者は、この地上の生活をいい加減にしてよいとか、世捨て人のように、この世に背を向けて生きるということではありません。キリスト者が立つべき場所、生きる根拠が天にある、ということであって、天国の代表として、地上に遣わされているのであります。当面の生活の場は地上であります。しかし、地上の論理、この世の価値基準で生きるのではありませんし、むしろ天国に属する者の生き方を、この地上で証ししていくのであります。

・このようなキリスト者を1節の終りでは「選ばれた人」と呼んでいます。実は、原文の順序では、「使徒ペトロから」の後にすぐ、「選ばれた人たちへ」という言葉が続いていて、その後に「仮住まいしている離散民」という語があって、それから地域の名前が出てくるのであります。つまり、「選ばれた」ということが大事なのであります。この地域に住むキリスト者は、別に他所から移り住んだのではないのです。住んでいるところは変わらないけれども、「選ばれて」キリスト者とされたのであります。

・「選ばれた人」という言葉の原語は、「引き抜く」という動詞から来た言葉で、そこから「抜擢する」「選ぶ」という意味を持つようになったと言われます。キリスト者になるということは、神によって引き抜かれることなのであります。引き抜かれるということは、それまで根を張っていた地面から切り離されるということであります。キリスト者になる前に拠り所としていたものから引き離されることであります。以前は、お金や能力や地位や名誉や健康といったものを拠り所にしていたかもしれません。それらを確保することに必死でありました。しかし、キリスト者はそういうもので守られている地面から引き抜かれたのであります。

・それでは、キリスト者になるということは、根無し草になるということでしょうか。仮住まいの離散者のように、落ち着かない生活をするということでしょうか。そうではありません。逆に、もっと確かなところに根拠を持つ生き方をするためであります。そのことが説明されているのが、次の2節であります。

2.神があらかじめ立てられた御計画に基づいて

2節の終りの「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」という部分は、祝福の祈りですが、その前までは、この手紙の宛先である「選ばれた人」の説明であります。

・ここには、選ばれた理由が三つ書かれています。まず第一に、あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて選ばれた、と言っております。「あらかじめ立てられた御計画」と訳されていますが、原語では一語で「予知」ないし「予定」という意味の言葉であります。口語訳聖書では、「父なる神の予知されたところによって」と訳されていました。「予知」などと言うと、占い師か何かのように、<先のことを当てる>という意味に受け取ってしまうかもしれませんが、そういうことではなくて、神様の方が<あらかじめ知っておられる>、<あらかじめ定めておられる>という意味ですから、新共同訳では誤解のないように、「あらかじめ立てられた御計画」と訳されたのでしょう。

・つまり、キリスト者が選ばれるのは、私たちの側に何らかの理由があるのではなくて、神様の側の権威に基づいて決められたことである、ということであります。「選ぶ」とか「引き抜く」とか「抜擢する」とかいうことは、普通は、本人が特別に秀でた能力を持っている場合に行なわれます。ところが、神様の「引き抜き」「選び」というのは、そうではないということであります。

・先程朗読しました旧約聖書の申命記768節をもう一度見て下さい。これは「神の宝の民」としてのユダヤ人の選びのことが書かれている箇所ですが、キリスト者にも当てはまると思います。

 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちはどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたあっちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたあっちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

 私たちがキリスト者として、多くの人々の中から選ばれるのは、大きさ、立派さによってではなくて、むしろ貧弱さによって選ばれるのであります。それは、神様が愛の対象として選ばれるからであるというのであります。

・現代は能力主義、成果主義の世の中になっています。どんな学歴があるか、どんな資格があるか、どれだけ成果を挙げたかで評価されます。それについて行けないと、自信をなくしたり、生き甲斐を失ったり、自暴自棄になったりいたします。しかし、神様は、何の取り柄もない者をお選びになるのであります。これは私たちにはなかなか分かり難いことであります。神様がお選びになるからには、何かその人に取り柄があるからだろうと考えます。この世の評価基準とは違っているにしても、何らかの神様の評価基準のようなものがあって、それに従った行いをするとか、期待に応える成果を挙げれば、救いに入れてもらえる、というのなら分かりやすいのであります。

・しかし、そうではなくて、「神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」選ばれるというのであります。本人が現在持っている能力や過去に挙げた、或いは今後に挙げる成果に基づいて選ぶのではなくて、神様が初めから持っておられる救いの御意志によって立てられた御計画に基づいて選ばれるのであります。

・そんな計画があらかじめ立てられているのなら、人間の側の努力のし甲斐がないではないか、自堕落になるだけではないか、という疑問を投げかける人がいるかもしれません。しかし、神様の御計画というのは、救われる者と捨てられる者を機械的に仕分けるような仕方で決められるということではない筈であります。神様の深い愛と救いの御意志に貫かれた選びである筈であります。私たちは余計な心配をせずに、ただ、救いへと選ばれたことを感謝して受け止めればよいのではないでしょうか。

・私たちが御計画によって選ばれたのであるならば、どのような事情があっても、その御意志は貫かれるということであります。選んだだけで、後はお前たちで頑張れ、ということではありません。たとえ私たちの側で過ちがあったとしても、神様に対して不信仰や裏切りがあったとしても、神様の愛がぶれることはありません。必ず私たちを立ち直らせて下さる筈であります。

3.“霊”によって聖なる者とされ

・そのような神様の確かな御計画はどのようにして貫かれるのか。その手立てが、続いて二つ書かれています。その一つは、“霊”によって聖なる者とされ、ということであります。聖霊が働いて下さるということであります。それは具体的には洗礼を契機として始まるということであります。その結果、清められて「聖なる者」とされると言われています。「聖なる者」というのは、何の汚れもない、聖人のような人間になるということではありません。外面的に行ないが立派だとか、悪いことから遠ざかって、清らかな生活をしているということではありません。もちろん、清らかな生活は望ましいことであります。先程211節で見ましたように、「仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避ける」ことを務めなければなりません。しかし、私たちは弱さのために、肉の欲に汚されたり、過ちを犯してしまいます。人を傷つけたり、困らせたりしてしまいます。しかし、「聖なる者」というのは、そういうことが一切ない清さを保つということではありません。

・「聖」というのは、<区別される><取り分けられる>ということであります。ですから、「聖なる者」というのは、<神のものとして取り分けられた者>という意味であります。聖霊が働くとき、私たちは汚れた者でありながら、神様のものとして取り込まれる、神に属するものとされるのであります。

4.血を注ぎかけていただくため

・その結果どうなるのか。また、どうしてそんなことが許されるのか。それが、三番目に書かれていることであります。

・「聖なる者」として神様に取り込まれるとは、具体的にはイエス・キリストに従うということであります。いつの間にか、イエス様の後からついていっている、喜んでイエス様のために働く弟子になっている、ということであります。教会員の鏡とされるような模範的な信者になっているということとは必ずしも限りません。しょっちゅう失敗をしたり、反抗してみたり、不安に襲われたりしている信者であるかもしれません。しかし、結果的には、イエス様から離れられなくなっているのであります。それが、「聖なる者」として神様に取り込まれる、ということであります。

・どうしてそんなことが可能なのでしょうか。どうしてそんなことが許されるのでしょうか。それは、その後に書かれているように、その血(イエス・キリストの血)を注ぎかけていただいているからであります。「血を注ぐ」というのは、旧約聖書の出エジプト記の出来事を背景にしています。出エジプト記24章にはモーセがシナイ山で十戒をいただいた時のことが書かれていますが、モーセが神の言葉をイスラエルの民に読んで聞かせますと、民は「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と答えます。すると、モーセは祭壇に献げた雄牛の血の半分を取って、民に振りかけて、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれる契約の血である」と申しました。

・しかし、今日の箇所で「その血を注ぎかけ」と言われているのは、モーセが献げた雄牛の血ではなくて、イエス・キリストが十字架の上で流された血のことであります。イスラルの民はモーセの契約を破ってしまいました。だから、改めて神の御子の血が流されなければならなかったのであります。こうして、人間の罪が完全に贖われることになりました。そして、神様の救いの御計画は貫徹されることになったのであります。

・神様は、私たちを選んで救いの御計画に加えて下さいました。しかし、その御計画が、私たちの罪にも関わらず貫かれ、完成されるために、キリストの血が流される必要があったのであります。言い換えるならば、神様の御計画というのは、そこまで読み込んだ計画だということであります。

・ところで、2節には、私たちが「選ばれた人」であり得る三つの理由について語られていたのですが、よく見ると、最初は「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」ということで、父なる神様の働きが述べられ、続いて「“霊”にとって聖なる者とされ」とあって、聖霊の働きが述べられ、三つ目には「イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただく」とあって、御子イエス・キリストの働きが述べられています。つまり、ここには、父なる神と、子なるイエス・キリストと、聖霊なる神の、三位一体の働きが簡潔に述べられていると言えるのであります。この手紙が書かれた頃には、まだ三位一体の教理が確立されていたわけではありませんが、私たちを選んで、お救い下さるために、父なる神、子なる神、聖霊なる神として、私たちを捕え導いてくださるとの確信が、既にここに述べられているのであります。

結.恵みと平安がますます豊かに

・挨拶の最後に、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように、という祝福の祈りを述べています。恵みと平和を祈ることは、パウロのどの手紙にもありますし、当時のキリスト者の間での決まり文句のようなものであったのかもしれません。

・しかし、この二つの言葉の中に、神様の祝福のすべてが込められていると言ってもよいのではないかと思います。

・「恵み」とは、神様からいただく比類なき無償の賜物、即ち、すぐ前に述べられていた、三位一体の神様の働きかけであります。「平和」とは、「恐れ」や「不安」のない状態であります。どうして、私たちには「恐れ」や「不安」があるのか。それは、第一に、神様との間に、罪の問題があるからであり、第二に、人と人との間に赦しがないからであります。しかし、それらは、神様の「恵み」によって、取り除かれたのであります。そうして、神と私たち、人と人との間に「平和」がもたらされたのであります。

・ここでは、その「恵み」と「平和」が、「あなたがたにますます豊かに与えられるように」と述べられています。これは、他の手紙にない特徴であります。「恵み」と「平和」は神様が与えて下さるものです。そうであれば、いつでも豊かに与えられている筈であります。どうして「ますます豊かに与えられるように」と祈らなければならないのでしょうか。それは、受け手に問題があるからであります。せっかく与えられている「恵み」と「平和」を、私たちが乏しくしてしまっているからであります。私たちは、自分自身の罪深さを覚えるときに、ますます豊かに「恵み」と「平和」を受け取ることが出来るのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・恵み深い父なる神様!

・異教世界にある私たちを、選びの御計画に入れて下さっていることを信じ、また、イエス・キリストと聖霊の働きによって、選びを確実なものとして下さったことを覚えて、感謝いたします。

・どうか、天の国に属する者に相応しくして下さい。どうか、自らの罪を思い、恵みと平安を豊かに受ける者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年6月29日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 1:1-2
 説教題:「選ばれた人」     
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