序.再びガリラヤへ

・ヨハネによる福音書4章から、三回にわたって御言葉を聴いて参りました。これまでの三回は、主イエスと弟子たちがエルサレムからガリラヤ地方に向かう途中で、サマリアの町を訪れた時の出来事について聴きました。今日は四回目で、43節以下の箇所でありますが、ここには、ガリラヤに着いてからの一つの出来事が書かれています。

・イエス様は、なぜガリラヤへ行かれたのでしょうか。4章の1節と3節を見ますと、さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた、とあります。その箇所でもお話しましたように、ファリサイ派の人々は、イエス様が多くの人々から支持されていることを耳にして、自分たちの指導力が揺るがされかねないと考えて、イエス様に対して敵意を抱き始めておりました。イエス様はそのことを察知されると、ユダヤのエルサレムを去られたのであります。それは、自分の身に危険が及ぶのを恐れられたというよりも、まだ十字架の時が来ておらず、それまでにこの地上でなさらなければならないことがあったからであります。

・ガリラヤへ行かれたのは、そのなさらねばならないことを行うためであり、その途中でサマリアであった出来事も、決して偶然の出来事ではなくて、サマリアの人々を救いたいとのイエス様の御意志によることであったことを聴いて参りました。

・それでは、ガリラヤでなさらねばならないこととは何だったのでしょうか。今回のガリラヤ訪問では、王の役人の息子を癒すという出来事だけが報告されています。他のこともなされたに違いないのですが、今回のガリラヤ訪問の目的を果たされた出来事として、このことが報告されているのであります。

・イエス様がガリラヤ地方で活動されるのは、ヨハネによる福音書では、これが最後ではありません。5章では、祭の時期にエルサレムに上られたことが記されていて、6章にはまた、ガリラヤ地方での出来事が報告されています。そこでも、重要な出来事があったことが記されているのでありますが、今回は、王の役人の息子の癒しを行なうために、わざわざガリラヤに行かれたかのような書き方であります。では、この出来事に、どのような大切なメッセージが込められているのでしょうか。今日は、そのことを問いながら、この箇所から御言葉を聴き取りたいと思います。

1.「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」

44節を見ていただくと、イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある、と記されています。これと同じような主旨のことを言われたことが、他の三つの福音書にも出ています。それは、イエス様が故郷のナザレに帰られて、会堂でお話をされ、奇跡を行われた時でした。人々が驚いて「この人は、大工の息子ではないか、母親はマリアで、兄弟や姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(マルコ6:4ほか)と言って躓いた時に、イエス様は同じようなことをおっしゃいました。故郷の人々は、イエス様のことを身近に知っていただけに、素直に信じることが出来なかったのであります。人間の先入観が信仰を妨げるのであります。

・ところが次の45節を見ますと、ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである、と書かれています。イエス様は過越しの祭の間、エルサレムにおられましたが、ガリラヤの人々も行っていて、イエス様がなさった奇跡などを見たのであります。

彼らはイエス様がガリラヤにお着きになると歓迎したのであります。この記述は、44節のイエス様の言葉と一見矛盾するように思われるので、学者の間でも議論があるところですが、これは矛盾ではないと思います。223節を見ていただくと、こう書かれています。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。つまり、ガリラヤの人々はエルサレムでイエス様がなさったことを見ていたので、歓迎したのですが、イエス様御自身は彼らの信仰を本物だとは見ておられなかったのであります。イエス様の奇跡を目の当たりにしながらも、イエス様のことを身近によく知っていたがために躓いた故郷の人たちも、イエス様の奇跡的な業を見て、歓迎したガリラヤの人々も、イエス様の目から見れば、本物の信仰ではなかったのであります。

・イエス様が今回ガリラヤに帰って来られた目的は、このようなガリラヤの人たちを、本物の信仰へ導くためであります。この目的のために主イエスが選ばれた場所はカナでありました。

46節によると、イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である、と書かれています。これは2章のはじめに書かれていた出来事であります。婚礼の席で、ぶどう酒がなくなったときに、イエス様の母マリアが、ぶどう酒がなくなったことを訴えると、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と、冷淡とも思えることをおっしゃいました。しかし、マリアが召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言い、イエス様は召し使いに、水がめに水をいっぱい入れさせ、それが世話役のところに運ばれると、最上のぶどう酒に変わっていた、という出来事であります。

・なぜ筆者は46節で、カナについて、わざわざ「そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である」と説明しているのでしょうか。――それは、カナの婚礼の席での出来事が最初のしるし(奇跡)であり、今日の箇所で語られる王の役人の息子の癒しの出来事が、54節に書かれているように、ガリラヤに来てなされた、二回目のしるしであるから、ということもありますが、単に一回目、二回目という以上に、深い結びつき(共通性)があるからであります。というのは、どちらの出来事も、しるし(奇跡)と信仰の関係を示しているからであります。そのことは、今回の出来事を見ていく中でお話ししたいと思います。

2.「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」
 ・さて、46節の後半からが、今回の出来事の記述であります。

さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。

「王の役人」というのは、ヘロデ王に仕える役人という意味で、身分の高い人物であったと考えられます。「カファルナウム」はイエス様が来られているカナと同じガリラヤ地方でありますが、カナから30キロほど離れたところにある町であります。片道で一日くらいかかります。

王の役人の息子が病気になって、色々と手を尽したのでしょうけれども、その甲斐もなく、今や死にかかっていました。その時にイエス様がガリラヤに来られたということを知りました。おそらく、イエス様がエルサレムやカナでなさったことなどを聞いて、イエス様が只者ではない、と思っていたのでしょう。藁をも掴む思いというのか、矢も盾もたまらず、カナへやって参りました。そして、イエス様に、カファルナウムまで来て、息子を癒して下さるように頼みました。厚かましいというよりも、何とか息子を救いたいという一心の表れであります。イエス様はすぐに、この王の役人の切実な思いを理解されたのに違いありません。

・ところがイエス様は、「大変だね」とか「よく来たね」といった同情的なことはおっしゃらずに、48節にあるように、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのであります。突き放したような、冷淡とも思えるお言葉であります。

・ここでカナの婚礼の際の出来事のことを思い出して下さい。あの時も最初、ぶどう酒がなくなって困った母マリアがイエス様に訴えると、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」という冷たいお言葉を返されました。それは、<わたしはあなたがたの勝手な都合に利用されるために、来ているのではないよ>という意味に受け止められます。それと同じように、<わたしは、あなたがたの願いに応じて、病気を治すなどの不思議な業を行う者ではないよ>と言われているようでもありますし、<あなたがたの信仰というのは、病気を癒してもらうとか、自分に御利益を求める信仰ではないか>と非難しておられるようにも受け取れます。ここでイエス様は「あなたがたは」と言っておられます。王の役人にだけ言っておられるのではありません。むしろ、王の役人を飛び越えて、イエス様の周りにいたガリラヤの人々におっしゃったと考えられますし、私たちに向けたお言葉であると受け止めた方がよいのかもしれません。私たちはイエス様というお方が、自分にメリットをもたらして下さる方であることを具体的に目にしなければ信じようとしません。私たちの信仰がそういうレベルにあることを鋭く指摘しておられるのであります。この指摘を私たちも認めざるを得ないのではないでしょうか。

・しかし、イエス様が王の役人にこのように言われたのは、単に突き放すためではありませんし、単に非難しておられるのでもありません。主イエスは彼らの現実を指摘された上で、次のステップに進もうとされているのであります。主イエスはこの言葉の表面的な印象以上に、深くこの父親のことを思っておられます。私たちが同情する以上に、この父親を深く憐れんでおられるのです。そして主イエスは、この父親が、ただ息子を癒してもらって喜ぶだけでなしに、本当の信仰を持つに至るように導こうとされているのであり、ガリラヤの人々に本当の信仰を植え付けようとされているのであります。

3.「帰りなさい。あなたの息子は生きる」

・そういうイエス様のお気持ち・お考えが、この父親にどれだけ伝わったか分かりませんが、この父親は、とにかく今はイエス様におすがりする他ありませんでした。そこで、49節にあるように、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と重ねてお願いしました。これは真剣な、必死のお願いであります。

・この言葉には、<イエス様なら子供を死なせないように出来るかもしれない>、という大きな期待があるのを読み取ることが出来ます。そこには単に御利益を求める気持ちだけではなくて、イエス様に対する大きな信頼がある、と見ることも出来ます。それを「信仰」と呼んでも良いようにさえ思えます。

・しかし、イエス様は、この言葉によっても動こうとはされません。「よし、カファルナウムまで一緒に行ってやろう」とはおっしゃいませんでした。王の役人が期待するような行動は、起されなかったのであります。なぜでしょうか。

・ある人は、この王の役人の言葉には、イエス様のお力に対する無知(理解不足)があると言います。イエス様は、病気の息子に会いに行かなくても、癒すことが可能であるということに気付いていない、と言うのです。またある人は、この王の役人は地上的な考え方しか出来ず、イエス様が息子を復活させることさえ出来るお方である、ということまで悟り得なかった、と言います。この王の役人は異邦人ではなかったかとの推測が出来ます。そうであれば、旧約聖書のことをよく知らないでしょう。旧約聖書の中には、預言者エリアが、息を引き取ってしまった男の子を生き返らせたという話が出ていますが(列王記上17:22)、そういう話を知らないので、イエス様であれば息子を生き返らせることだって出来るお方であることまで、思い及ばなかった、そういう点で、まだ信仰が不十分であった、というように考えることも出来ます。

・しかし、イエス様が動かれなかったのは、そういう理由でしょうか。イエス様のお力に対する認識のレベル、或いは信頼のレベルが低かったので、対応されなかった、ということでしょうか。

・そうではありません。イエス様は、この王の役人の信頼を十分に受け止めておられます。決して、まだ信仰が足りないとか、不十分であると言って非難しておられません。イエス様が48節で指摘されたのは、「しるしや不思議な業を見なければ信じない信仰」であります。この王の役人や、ガリラヤの人々や、私たちは、見て信じる信仰に留まっているのであります。そこでイエス様は、そのような信仰を非難されるのではなく、本当の信仰を産み出そうとされるのであります。それが次の50節のお言葉であります。

イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。

 イエス様は「あなたの息子は生きる」とおっしゃいました。51節に僕たちが報告として言った「その子が生きている」という言葉がありますが、原文は同じです。<元気に生きている>ということであります。

・しかし、この時点では、そんなことを言われても、息子が本当に生きているのかどうか、元気になったのかどうか、分かりません。でも、イエス様は「帰りなさい」とおっしゃいます。役人は、もう一度、「そう言われても不安だから、やっぱりカファルナウムまで来て下さい」とは言いませんでした。イエス様の言葉を信じて帰って行ったのであります。イエス様のお言葉が、役人を信じさせたのであります。息子が元気になったという証しを見たわけではありません。見ないで、ただイエス様の言葉を信じたのであります。イエス様が、見ないで信じる本物の信仰へと引きずり込んで下さったのであります。

・王の役人は「帰って行きました」。イエス様の言葉を信じて歩み始めたのであります。不安が全くなくなった、というわけではなかったかもしれません。しかし、イエス様の言葉に信頼するしかないところへ追い込んで下さって、そのお言葉に従って歩み始めたのであります。そこに、御言葉を信じる本物の信仰が芽生え始めたのであります。

・ここでもう一度、カナの婚礼の席での出来事を振り返ってみましょう。イエス様から冷淡とも思える言葉を受けたマリアは、召し使いに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っております。王の役人がイエス様の突き放したようなお言葉にもかかわらず、「子供が死なないうちに、おいでください」と言って、なおイエス様に期待したように、マリアもイエス様がどうにかして下さるという期待を持っております。するとイエス様は、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じられました。召し使いたちは、それがどういう意味があるのか分からないままに、イエス様のお言葉に従って、かめの縁まで水を満たしました。更にイエス様が「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われるので、その通りにしました。召し使いは、「こんなにたくさんの水を持って行ってどうするのか」とは尋ねませんでした。イエス様のお言葉に従ったのであります。召し使いたちに、イエス様に対する信仰があったということは出来ないでしょう。マリアの指図に従っただけかもしれません。しかし、その場を支配しているのは、イエス様のお言葉であります。そこから信仰が始まるのであります。

・王の役人も同様であります。イエス様のお言葉を信じて帰って行ったところから、本物の信仰が始まったのであります。

51節以下には、その結末が記されています。

ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。5153a)。

 イエス様が「あなたの息子は生きる」と言われた言葉は、その時点でその通りになっていたのであります。こうして、イエス様の言葉の確かさが明らかにされました。

・この父親(王の役人)は、僕たちの報告を聞いて、どんなに喜んだことでしょう。その喜びは、単に、死にかかっていた息子がよくなったという喜びだけではありません。<イエス様のお言葉を信じることが出来た>という喜びが与えられました。

・もしイエス様が、この父親の願いどおりにカファルナウムの息子の所へいって病気を癒されたとしたら、それでもうれしいには違いありませんが、イエス様のことを、ただ不思議な力を持っている人だと思って尊敬したでしょうが、イエス様のお言葉を信じる人になることは出来なかったかもしれません。でもイエス様はこの役人に、主の御言葉を信じる信仰をお与えになりました。

結.彼もその家族もこぞって信じた

53節の後半には、そして、彼もその家族もこぞって信じた、と書かれています。家族みんなが信じました。その信仰は、ただ病気を癒すすごい力を持っておられる方を尊敬したというだけではなくて、イエス様のお言葉には真実があり、間違いがないことを信じたということでありましょう。おそらく、この役人の家族だけでなく、一部始終を聞いたガリラヤの人たちも、主の御言葉を信じる信仰へと、目を開かれたに違いありません。

・私たちが今日、このような出来事を伝える箇所を聴かされているのも、主が私たちにも、「しるしを見て信じる信仰」ではなくて、ここで示されたような「御言葉を信じる信仰」へと引きずり込もうとされているからであります。私たちには、イエス様のお力によって何とか解決していただきたい問題がたくさんあります。私たちはこの父親のように、何とかイエス様が、私たちのところに来て下さって、直接手を伸べて解決に当たってほしいと願います。しかし、イエス様がなかなか動き出そうとして下さらないので、もどかしさを感じてしまいます。けれども私たちは、今日の箇所を通して、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という主の言葉を聴かなければなりません。言い換えれば「立ち上がりなさい。私が最善の道を既に備えている」という主の言葉を聴いて、それを信じて、私たちが与えられている持ち場、問題が山積する中で、私たちが日々難渋している所に帰っていかなければならない、ということであります。<御言葉を信じて歩む者に、主は既に最善の道を備えていて下さる>というのが、今日の箇所が伝えるメッセージであり、私たちを本物の信仰へと引きずり込んで下さる主イエスの御言葉であります。
・祈りましょう。

祈  り

・御言葉をもって世界を創造し、御言葉なるキリストを私たちの所にお遣わし下さった、父なる神様!

・今日も、真実なる御言葉をもって、語りかけ、導いて下さいましたことを感謝いたします。

・どうか、しるしを見ないで、御言葉を信じる信仰をお与え下さい。どうか、揺れやすい私たちを、いつも御許に招いて下さって、御言葉を聴かせて下さい。

・様々な不安の中にある多くの方々が、どうか御言葉の下に立ち帰って、あなたに全てを委ねることが出来るようにして下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年6月22日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書4:43-54
 説教題:「御言葉を信じる」     
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