序.食糧危機の不安の中で

・石油の価格がどんどん上がるのに伴って、穀物をはじめ、食糧の価格が高騰して、アフリカなどの貧しい国では穀物を買えない状態が起こって、世界的な食糧危機が起こりつつあります。食糧自給率が低いわが国でも、これでよいのだろうか、という声が上がっています。先々週はローマで食糧サミットが行われましたが、食糧危機改善に向けての大きな成果は得られなかったようで、7月の洞爺湖サミットへ持ち越された格好になっております。

・このような物質的な食糧の危機は、私たちの生活を脅かすもので、そのコントロールを誤ると、大変恐ろしいことになるわけですが、物質的な食糧危機よりももっと恐ろしいのが、霊的な食糧危機であります。先週の日曜日の真昼間、東京の秋葉原で無差別殺人事件が、また起こってしまいました。心の砂漠化が起こって、霊的食糧の危機が起こっていることの、恐ろしい現実を見る思いをさせられます。

・このような世界と日本の恐ろしい危機的状況の中で、私たちは今日、先程朗読していただいたヨハネによる福音書の435節にありますイエス様のお言葉、「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」というメッセージを聴くのであります。これは、今の私たちを取り巻く状況とは違う、2000年前のサマリアで語られた言葉であります。しかし、霊的状況は、今の世界や日本の状況も当時のサマリアと、根本的には変わっていないのではないでしょうか。先週私たちは「霊と真理をもって行われる礼拝」ということを学びましたが、そのような礼拝が、当時も今も行われなくなっているのであります。そのような中で主イエスは、「霊と真理の礼拝」を回復なさるお方であります。心の渇いた一人の女に対するイエス様の語りかけが、サマリア地方に多くの信じる人々を起しました。

・世界の霊的危機の中で、私たちの小さな礼拝がどれほどの効果を持ち得るのか、疑問に思われるかも知れません。しかし、イエス様は今も、小さな一人一人への語りかけを通して、世界を霊的危機から救おうとなさっているのであります。そのような主のお働きを信じつつ、与えられた今日の箇所から御言葉を聴いて行きたいと思います。

1.あなたがたの知らない食べ物

・さて、31節に「その間に」とありますが、それは、サマリアの女が水がめを井戸に置いたまま町に行って、イエス様のことを人々に話し、それによって興味をもった人たちがイエス様のもとへやって来るまでの間であります。弟子たちは町に食糧などの買物に出かけていましたが、まだイエス様が女と話しておられる間に帰って来ておりました(27)。そして、イエス様がお腹をすかしておられるだろうと思って、「ラビ(先生)、食事をどうぞ」と勧めますと、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」互いに言いました。先程まで話しておられた女が食事を提供したのだろうか、などと考えたかもしれません。

・しかし、イエス様が「あなたがたの知らない食べ物」とおっしゃったのは、その後のお話からすると、物質的な食べ物のことではありませんでした。ここでイエス様は、弟子たちが持って帰って来た食べ物など要らない、ということを言われたと考える必要はないと思います。イエス様は霞を食って生きておられるお方ではなくて、私たちと同じように、肉の食べ物が必要でありました。きっとイエス様は弟子たちが買ってきた食べ物を、「ご苦労さん」と言いながら、喜んでお食べになったのではないかと思います。そのような食べ物は弟子たちに用意が出来ました。

・けれどもイエス様にしか用意できない食べ物があります。それが34節で言われる「わたしの食べ物」であります。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言っておられます。「わたしをお遣わしになった方の御心」とは何でしょうか。23節では「父はこのように礼拝する者を求めておられる」と言っておられました。それは先週学びましたように、神様を「霊と真理をもって礼拝する」ということであります。この先の639節を見ていただきますと、イエス様御自身がずばり、こうおっしゃっています。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」別の言葉で言えば、<私たちが救われる>ということであります。

・しかも、「その業を成し遂げることである」とおっしゃいます。単に救いの業を遂行されるだけでなく、完成にまで導かれるのであります。救いの業は、父なる神様が旧約の歴史の中で行われて来たことでありますが、それをイエス・キリストが十字架と復活において完成されるのであります。実際に、御子を信じる者を復活の命に与らせ、永遠の命に至らせて下さるのであります。

・そして、そのことが、イエス様にとっての「食べ物」だと言われるのであります。人が食べ物を食べずには生きていけないように、主イエスは、私たちが救われること、「まことの礼拝」をするようになることをこそ、御自分の糧として下さるのであります。

・冒頭に「霊的な食糧危機」ということを申しました。人間が生物的な生命を維持するだけなら、物質的な食糧を確保するだけでよいでしょう。しかし、人間は神にかたどって(似せて)創られました。それは、神と対話して生きるものとして、神を礼拝するものとして創られたということであります。しかるに私たちは、神様の方を向くどころか、神様に背を向けて、生きようとします。あたかも自分の命は自分で保てるかのようにして生きています。物質的な食べる糧は、何とか自分で働いて確保する。その上、精神的な糧も、色々な所から自分なりに努力して吸収している。それ以上の霊的なものまで敢えて必要だとは思わない。――これが多くの善良な人々の考え方であり、生き方であります。しかし、それだけでは、神に似せて創られた人間としては不十分なのであります。人は神様との対話なしには、本当の意味で健全な生き方が出来ないのであります。それが、罪の中にある状態であり、霊的に死んだ状態であります。そのような私たちを霊的に生き返らせ、まことの礼拝をする者に変えるのが、イエス様がなさる救いの業であります。それがイエス様の御使命であります。イエス様はその使命に生きることを、御自分の食べ物(生きる糧)にして下さるのであります。

・イエス様はこの食べ物を食べることによって、御自分が満足されるのではなくて、人間の神様との関係を回復に導いて、人間が霊的な食べ物を食べるようにして下さるのであります。ですから、もう一歩踏み込んだ言い方をするならば、イエス様御自身が私たちの霊的な食べ物になって下さる、と言ってよいかもしれません。イエス様はそのような御使命をもって、サマリアの女と対話されたし、私たちとも出会って下さるのであります。

2.色づいて刈り入れを待っている畑

・次にイエス様は、35節から38節までの所で、刈り入れの話をされます。これは、霊的な食糧の収穫のことを言っておられるのであります。平たく言えば伝道の成果のことに話を進められます。

・まず、「あなたがたは『刈り入れまでまだ四ヶ月もある』と言っているではないか」とおっしゃいます。これは、当時の諺で、種蒔きから収穫まで四ヶ月あるので、その間は少し息抜きが出来る、或いは、忍耐して待つしかない、という意味であると思われます。

・しかし、霊的な食糧の収穫は、そんなのんびりしたものではないのであります。続いてイエス様はこう言われます。「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」――もう、霊的な穀物の穂は色づいて、刈り入れを待っている、と言われるのであります。その意味は、イエス様が来られたので、神様の救いの業がもう成し遂げられる、ということであり、具体的には、サマリアの人々への伝道も、既に刈り入れの段階に至っている、ということをおっしゃっているのであります。色づいて刈り入れを待っている畑というのは、サマリアの地のことであり、全世界のことでもあります。サマリアはユダヤ人の目から見れば、救いようのない地域であったかもしれないのですが、イエス様はそこにも救いをもたらされるのであります。イエス様から見れば、どんな地域であっても、色づいて刈り入れを待つ畑なのであります。当然、この米子の地域も、イエス様の目には、そのように写っている筈であります。

・「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」とおっしゃっています。37節では、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』という諺を引用されています。「種を蒔く人」とは誰でしょうか。旧約の預言者や洗礼者ヨハネのことでしょうか。いずれにしろ、神様がイスラエルの歴史の中で、救いの種を蒔き続けて来られたのであります。そして今や、「別の人が刈り入れる」のです。「別の人」とは、真っ先に挙げなければならないのは、34節で聴いたように、神様から遣わされて、御心を行い、御業を成し遂げられるイエス・キリストであります。しかし38節を見ると、「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」とおっしゃっています。弟子たちが刈り入れる者にされていると言われるのであります。弟子たちはサマリアの人々のために、まだ何もしていません。しかし、使徒言行録8章を見ると(46)、エルサレムにおいて起こった迫害のために散らされた人々の一人であるフィリポがサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えたところ、人々はこぞってその話に聞き入った、ということが書かれていますし、更に、このことを聞いたエルサレムの使徒たちはペトロとヨハネをサマリアに遣わす(8:14)のであります。そして、使徒言行録931節には、「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」と記されるまでになるのであります。イエス様はそこまで見通して、弟子たちを「刈り入れる人」と呼ばれ、「自分で労苦しなかったものを刈り入れる」と言われ、「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」とおっしゃるのであります。

・私たちの伝道も同様であります。私たちが労苦して、種蒔きから刈り入れまで全部しなければならないのではないのです。神様が既に、多くの先人たちを用いて、種蒔きをして下さり、育てていて下さっているのであります。私たちはただ、刈り入れの喜びに与かるだけであります。36節では、「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と言っておられます。この伝道所だけを見ても、伝道所建設から16年の間に10人の受洗者が与えられていますし、入会・転会した人もおられます。沢山の「永遠の命に至る実を集めている」のであります。それに加えて更に、多くの求道者が備えられています。私たちは「目を上げて畑を見」なければなりません。そこには、「色づいて刈り入れを待っている」「永遠の命に至る実」が沢山備えられているのであります。

3.イエスの言葉を聞いて信じた

39節以下には、この時のサマリアの町での刈り入れのことが報告されています。さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた、と書かれています。女の証言については、29節にも記されていました。女は、水がめをヤコブの井戸に置いたまま町に行き、イエス様が自分の過去を言い当てられたことを証言し、「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言いました。先週も言いましたが、この段階の彼女の信仰は未熟なものであったかもしれません。この女の言葉によって、多くのサマリア人がイエスを信じた、とありますが、その信仰も成熟した信仰とは言えないかもしれません。しかし、これまで人々とは口も利かなかったであろうこの女の言葉によって、多くの人々が町を出て、イエス様のもとにやって来たのであります。未熟な信仰のこの女が、イエス様によって用いられたのであります。

40節を見ますと、そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された、とあります。ここで「とどまる」と訳されている言葉も、「滞在された」と訳されている言葉も、元は同じでありますが、この福音書の15章のところで、イエス様が「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と言われましたが、そこで「つながっている」と訳されているのも同じ言葉であります。つまり、イエス様が二日間この町に滞在されることによって、イエス様とこの町の人々との間に、深いつながりが出来たのであります。

41節によれば、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた、のであります。直接、主の御言葉に接したのであります。

・その結果、サマリア人たちの信仰が更なる確信へと深められます。42節にはこう書かれています。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」――最初のきっかけは、女の言葉でありました。それは未熟な信仰から出た言葉であったかもしれません。しかし、それがきっかけとなって、人々はイエス様の言葉を直接聞くことが出来ました。私たちの伝道の言葉は未熟であるかもしれません。それが人を本物の信仰へ導くのではありません。本物の信仰はイエス様の言葉を自分で聞いて、確認することによって得られます。

・「この方が本当に世の救い主であると分かった」と言っております。「世の救い主」ということは、ユダヤ人やサマリア人だけというのではなく、この世に生きるすべての人々の救い主だという意味であります。サマリアの人たちは、25節にあったように、キリスト呼ばれるメシアが来られることを知っていました。しかし、その救い主が、ユダヤ人やサマリア人だけの救い主ではなくて、「世の救い主」であると告白したのであります。このような素晴らしい信仰が、半ば異教徒であったサマリア人の中から出たのであります。ここに主の大きな計らいを見ることができます。

・主イエスはガリラヤ地方へ向かわれるのに、普通はユダヤ人が避けて通らないサマリア地方をわざわざ通られました。そして、心に渇きを持っていて、町の人々を避けていたような一人のサマリアの女に、井戸の水を求めることから対話を始められました。そうして、この女の心の傷に触れるところから、そこに「生きた水」を注がれ、更にはこの女の中に、命の水がわき出る泉をつくられ、女は町の人々と共に「生きた水」を分かち合うことが出来るようにされました。こうして、多くのサマリアの人々がイエス様から直接に御言葉を聞き、「生きた水」を受けることが出来ました。

・主イエスは、サマリアの人々を救うために、一人の罪ある女を用いられました。彼女も一人の働き人とされました。そしてユダヤ人からは罪人とされていたサマリア人の中から、多くの人が主イエスの言葉を信じるに至りました。そして世界の人々が救われる道が開かれたのであります。このように、多くの人の救いが、一人の女に蒔かれた種から始まったのであります。イエス様の譬えに「種を蒔く人のたとえ」がありますが、そこでは、良い土地に蒔かれた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ、と言われています。正に、一人のサマリアの女に蒔かれた種が、多くの人々において実を結んだのであります。

結.種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ

・ところで、この間にした弟子たちの働きと言えば、町へ行って物質的な食べ物を買って来ただけであります。霊的な働きは何もしていません。霊的な種蒔きをしたのは、主イエスだけであります。弟子たちは食べ物のことでイエス様とトンチンカンな対話をするだけであります。しかしその弟子たちに、イエス様は「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」とおっしゃいます。霊的な刈り入れをするため、そして霊的な食糧危機から人々を救うために、弟子たちを遣わされたのであります。そして、刈り入れの喜び、永遠の命に至る実の収穫の喜びを、主イエスと共に味わう者とされるのであります。

・霊的な食糧危機の中で、私たちは、人を救い得る力も信仰も乏しいことを覚えざるを得ません。しかし、一人の罪ある女が用いられたこと、また何ほどのこともしなかった弟子たちに刈り入れの喜びが与えられたということは、私たちにとって、大きな励ましを与えられる事柄ではないでしょうか。

・イエス様は、貧しい私たち、間違いの多い私たち、何ほどのお役にも立たない私たちをも、刈り入れのために遣わして下さるのであります。そして、イエス様と共に刈り入れの喜びに与らせて下さるのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・救い主なるイエス・キリストの父なる神様!

・霊的な食糧危機の中で、御子イエス・キリストを遣わして、永遠の命に至る実を育て、多くの実の刈り入れへと導いていて下さいますことを覚えて感謝いたします。

・私たちの身の回りや、この地域にも、渇きを覚えている方、霊的な食べ物を必要としている方々がおられ、私たち自身もまた、霊的危機に陥りかねない者でございますが、どうか、主イエス・キリストの御言葉の糧をもって、私たちを養って下さい。どうか、自分自身と多くの方々の救いを、心から願い、遣わされて、主イエス・キリストと共に、刈り入れを喜ぶものとならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2008年6月15日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書4:31-42
 説教題:「刈り入れを待つ畑」     
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