序.生きた水を与えられた者が、まことの礼拝者へ

・今日与えられているヨハネによる福音書416節以下の箇所は、先週聴いた、主イエスとサマリアの女の対話の続きであります。先週の41節から15節までの箇所には、心を閉ざしていたサマリアの女に、主イエスの方から近づき、渇いたその女の心に命の水を与えようとされたことが記されていました。

・今日の箇所では、主イエスは更に女の内面に踏み込まれて、まことの礼拝へと導いて行かれる様子が書かれています。女のそれまでの生活には問題がありました。でも、その問題が主の前に出されるときに、真実の礼拝へと向うきっかけとなったのであります。

・私たちはこの女とは違って、問題のない生活をしているのでしょうか。この女とは違って、まことの礼拝が出来ているのでしょうか。そうであれば幸いであります。しかし、パウロがローマの信徒への手紙3章で言っておりますように、神の前に正しい者は一人もいないのであります。その生活の中に、罪の影を持たない者はいないのであります。神様と正しい関係を持ち、神様に対して真実の礼拝が出来ていると言える者はいないのであります。

・そうであれば、私たちは誰も、この主イエスとサマリアの女との対話を、聞き逃すことは出来ません。この対話の物語を通して、主イエスは今、私たちの渇いた心に立ち入って、そこから救い出そうとしておられます。私たちは、サマリアの女と一緒に、謙遜に主の御言葉に耳を傾けなければなりません。そうすれば、主は私たちをまことの礼拝へと導いて下さいます。

・主の御言葉というのは、決して耳障りのよいものではありません。サマリアの女も、その深い内面の傷を暴かれなければなりませんでした。しかし、それが救いにつながるのであります。今日は、このサマリアの女と共に、主の前に自分を曝け出して、真実の礼拝をする者へと変えられたいと思います。

1.夫はいません――罪の告白へ

・さて、主イエスは先週のところで、「生きた水」「永遠の命に至る水」を与える、とおっしゃいました。それに対してサマリアの女は15節で「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と言っております。主イエスがおっしゃる「生きた水」というのは、物理的な水でないことは明らかであります。人を本当の意味で潤し、生かす水であります。けれども女は、まだよくそのことが呑み込めていないようであります。でも、普通の水ではなくて、何か大切なものを与えようとしておられると思ったのでありましょう。「その水をください」と申しました。

・それに対してイエス様は、16節で、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。「水」の話から、突然話題が変わったように思えます。ところが実は、そうではないのであります。この言葉が、サマリアの女に対する「生ける水」の最初の一杯なのであります。

イエス様はいきなり、この女の夫のことを持ち出されました。イエス様は後で分かるように、この女のことをすべて見通しておられます。そしてこの女の問題点は、夫との関係にあると見ておられます。イエス様はそこにズバリと踏み込まれたのであります。そこに最初の「生きた水」を注がれたのであります。

・女は、いきなり夫のことを持ち出されて驚いたと思います。この女にとって、最も触れられたくないところであり、最も悩ましいところであったのではないでしょうか。しかし女は、「あなたになぜそんなことを言われなければならないのですか」とは申しませんでした。戸惑いつつも、正直に、「わたしには夫はいません」と答えました。過去に夫がいたことはあるが、少なくとも今は、まともな夫婦生活をしている夫はいなかったからであります。

・この答えに対して、イエス様はこう言われます。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」――「五人の夫がいた」というのは、どういう事情なのか、特に説明はされていません。五人の夫に次々と先立たれたとは考えにくいですから、少なくとも何回かは別れたということでありましょう。離婚の原因は分かりませんが、彼女に何のやましいこともなかったとは言えないでしょう。彼女に浮気があったかもしれません。夫と一緒にやって行けない我が侭があったかもしれません。いずれにしろ、そこには暗い罪の影があります。そして次々と夫婦の関係が破れ、今は正式の結婚をしていない男と、連れ添っているのであります。

・「五人の夫」というのは象徴的表現だという解釈もあります。北王国イスラエルが滅亡してから、五つの他国との雑婚が行われたことを示していると言うのです。この女の結婚にそういう背景があったかもしれませんが、ここで行われている対話は、そんな象徴的な内容ではなくて、赤裸々な実際の生活に関わる問題が露わにされていると見るべきでありましょう。

・しかし、注目したいのは、ここで彼女の罪に汚れた過去が主イエスの前に隠せないことが、明白になっていながら、イエス様は彼女を鋭く非難するのではなくて、「あなたは、ありのままを言ったわけだ」と言って、むしろその正直さを褒めておられることであります。主イエスの言葉は、この女に自らの罪を覚えさせることになりました。そして彼女は、自らの罪がイエス様の前に隠すことが出来ないことを悟りました。だから、素直に自分の罪の現実を告白するしかありません。それでよいのであります。それが、イエス様の言葉によって与えられた「生きた水」がもたらすものであります。

主は、私たちに対しても、こんな風にして、御言葉をお与えになり、「生きた水」を注いで下さるのではないでしょうか。聖書に出てくる様々な人物とイエス様との対話は、そのまま私たちの現実に当てはまらないかもしれません。しかし、イエス様が語られたお言葉から、自分の最も暗い罪の部分が知られていることを聴き取らねばなりません。そして、素直に自分の罪を認めて告白するとき、主は「ありのままを言った」と言って、褒めて下さるのであります。しかし、主に対し、また人に対して自分の正しさを主張するだけで、自分の罪を見ようとしないならば、不幸であります。苦しむだけであります。イエス様は、サマリアの女にされたように、自分の罪に気付かせるお言葉をお語りになります。聖書の中には、そういう御言葉がいっぱい用意されています。私たちはそこを通り過ぎないようにしなくてはなりません。そのような、自分の罪に気付かされる御言葉に出会うことが、主が私たちにお与えになる「生きた水」の最初の一杯にあずかることになるのであります。今、自分の罪を告白出来る者は幸いであります。

・イエス様が「ありのままを言ったわけだ」と言って下さる優しいお言葉に、サマリアの女は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言っております。これは、イエス様に対する正確な見方ではありません。主イエスは単なる預言者ではありません。主イエスは、単に人の隠れた部分もお見通しになるお方というに留まりませんし、単に神様の御言葉を預かった預言者ではありません。神様の御言葉そのものであり、救い主であられます。しかし、彼女は、イエス様が只の人ではないこと、自分の罪の深みにまで迫って来られるお方であること、しかもなお、ただ罪を咎めるのではなくて、自分に愛をもって臨んで下さっていることを知って、自分が知っている最高の人物を表現する言葉でもって、精一杯の告白をしたのであります。

2.霊と真理をもって礼拝する時

・主イエスを預言者だと告白したサマリアの女は、続いて20節で、礼拝のことを話し始めます。唐突な感じもしますが、彼女が自分の罪のことを思い知らされ、只の人ではないお方の前にいることに気付いたときに、自然と神様を礼拝することへと思いが導かれたのではないでしょうか。しかし、礼拝のことで引っかかるのが、サマリア人とユダヤ人とで、異なる主張があることでありました。そこで彼女はイエス様に問いかけます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

・「この山」というのは、このヤコブの井戸の目の前にそびえているゲリジム山のことで、ユダヤ人たちはダビデ以来、エルサレムの神殿が唯一の礼拝場所だとしているのに対して、ユダヤ人から差別されていたサマリアの人々は、もっと以前から礼拝が行われていたゲリジム山を伝統的に礼拝場所としていたのであります。

・彼女のこの問いかけに対して、イエス様は思いがけないことをおっしゃいました。21節です。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」――ゲリジム山だとかエルサレムだとかいう礼拝場所に拘らずに礼拝する時とは、イエス・キリストによって、新しい礼拝が始まる時のことであります。先に2章で私たちは、イエス様が「神殿を三日で建て直す」と言われたことを聴きました。それは、イエス・キリストの復活とともに始まる新しい礼拝が、エルサレム神殿ではなくて、教会において行われる日が来ることを告げられたのでした。マタイによる福音書の1820節には、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とおっしゃったことも記されています。それがキリストとともに始まる新しい礼拝であります。

・そのあと22節では、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」とおっしゃって、サマリアで行われている異教的な礼拝よりも、エルサレムで行われている礼拝の方が正統的であると言っておられるようでありますが、今日は、この言葉に深入りすることは避けます。ただ、「救いはユダヤ人から来る」とおっしゃっている意味についてだけ触れておきます。これは<ユダヤ人が人々を救う>という意味ではありません。「救い」とは「救い主」のことで、<救い主はユダヤ人の中から出る>と約束されていることをおっしゃっていると解釈できます。神様の救いの計画は、やはりユダヤのエルサレムにおいて実行されるのであります。やがてエルサレムにおいて、十字架と復活の御業が行われます。そこから、「まことの礼拝」が始まります。

23,24節は、その「まことの礼拝」について述べられている大事な箇所であります。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

・「まことの礼拝」とは、「霊と真理をもって行われる礼拝」であるとおっしゃっています。ここで「霊をもって行われる礼拝」とは、形式的・儀式的な礼拝に対して、心からの礼拝のことを言っておられるのだと思われます。当時は、贖いの供え物を捧げる儀式的な礼拝が行われていました。それに対して、神の前に罪を言い表して、心からの悔い改めをもって、祈りのうちに捧げる礼拝のことでありましょう。「神は霊である」と言われています。本来、神様が霊的存在であり、自由で形式を超えた真実なお方であります。だから私たちも、霊をもって、真心をもってお応えしなければならないのであります。また、「真理」とは、正しいこと、偽りのないこと、真実であることであります。それは、私たちの側の正直さ、偽りのなさ、ということもあるかもしれませんが、真理と正義は神様から来るものであります。神様がイエス・キリストにおいて、真理と正義を顕して下さったのであります。ですから「真理をもって行われる礼拝」とは、イエス・キリストによって顕された神の真実に基づいて行われる礼拝であります。

・そのような「霊と真理をもって行われる礼拝」をする時が来るのは、遠い将来のことではなくて、「今がその時である」と言われています。それは、主イエスがこの世にこられた今、救いの御業をなされる今、ということであり、面と向って対話している今、ということでもあります。サマリアの女はまだ、主イエスの十字架や復活の御業を知りませんから、「霊と真理の礼拝」ということの意味を正確に理解できたわけではないでしょう。しかし今、女は自らの罪を覚えつつ、主イエスの前に立って、主の真実の愛と赦しから湧き出る「生きた水」を注ぎ込まれて、まことの礼拝へと導かれているのであります。私たちもまた、自らの罪を明らかにされて、十字架の主イエスの前にぬかずく時に、「霊と真理の礼拝」へと導かれるのであります。

3.主イエスこそメシア

・こうしてイエス様によってまことの礼拝へと一歩ずつ前進したサマリアの女は、次にこう言います。25節です。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」サマリアの人たちも旧約聖書によって、メシアの到来を待ち望んでいました。メシアというのはヘブル語で「油注がれた者」という意味で、預言者や、王や、祭司の務めに就く者を指します。人々は、それら三つの務めを兼ね備えた「救い主」が来られることを待望していたのであります。その「メシア」のギリシャ語が「キリスト」であります。女は、<「霊と真理の礼拝」ということは、まだ漠然としか分からないけれども、やがて来られるキリストと呼ばれるメシアが、一切を知らせてくださるのでしょうね>、と言っているのであります。

・それに対して主イエスは、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(26)と、はっきり宣言なさいました。御自分が人々の待望しているメシアであることを、公言されたのであります。サマリアの女は12節で「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」と言っておりました。その後もイエス様の謎のような言葉が続いておりました。しかし今や、そのモヤモヤがこの言葉によって、一気に吹き飛んだことでしょう。イエス様からの決定的な「生きた水」が注ぎ込まれたのであります。14節でイエス様は、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃっていました。その泉が、この言葉によって、今、この女の中に造られた、と言ってよいのではないでしょうか。なぜなら、女はこの後、今知らされたことを町へ行って、人々に告げ始めるからであります。それまでイエス様から「生きた水」を注がれた彼女が、今度は、人々に「生きた水」を分け与える者になるのであります。

結.さあ、見に来てください

27節以下に進みます。ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのに驚いた、とあります。前にも言いましたように、当時は外で男が女に話しかけることは禁じられていました。だから驚きました。やむを得ず話さなければならない事情があったのではないか、食べ物や水を早く欲しいと思われたのではないかと考えたことでしょう。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった、とあります。なぜ弟子たちが敢えて尋ねようとしなかったのか、理由はよく分かりません。イエス様は、人々から罪人とされている人たちとも食事をされたりしました。いつも弟子たちの常識を超えた行動をなさいました。だからこの時も、敢えて尋ねることをしなかったのでしょう。

・一方、女は、水がめをそこに置いたまま町に行きました。彼女は水を汲みに来たはずでありました。しかるに、水のことはすっかり忘れたかのように、水がめを放り出して町へ行きます。イエス様から「生きた水」を与えられた今は、もう物理的な水のことはどうでもよいかのように、水がめを置いたまま町に急ぎます。今までは、人に会うことも避けていたと思われる彼女ですが、今は人の大勢いる町の方へ向います。ある人は、女が水を置いて行ったのは、イエス様や弟子たちに水を飲んでいただきたかったのだ、と言います。美しい想像ですが、ここでは、重い水がめを置いたまま、女が町へ急いだことの方が重要であるように思います。

・そして女は人々に言いました。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(29)と。――この言い方にはまだ未成熟な信仰をお感じになるかもしれません。自分が隠して置きたかったことを言い当てられたことの不思議さに重点があるような言い方であります。また、「メシアである」とは断定しないで、「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」という言い方をしていて、まだ、確信を持っていないようであります。

・しかし私たちは、この女の言葉を批判するのではなくて、彼女を突き動かしているお方に心を向けなければなりません。彼女にとって、イエス様がおっしゃたことを正確に人に伝えることは、まだ難しかったかもしれません。けれども、渇ききっていた心に、イエス様から生きた水が注がれて、これまでの人生が大きく変わる予感がしたのではないでしょうか。この方こそ私を生き返らせて下さるメシアにちがいない、と思ったのではないでしょうか。彼女はそのことを、自分なりの言葉で人々に伝えずにはおれなかったのであります。

・「さあ、見に来てください」と言っております。これは、前に1章の終わりの所で、イエス様に従ったフィリポがナタナエルに出会った時に言った言葉と似ています。あの時も、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と疑うナタナエルに対して、うまく説明は出来ないけれど、とにかく「来て、見なさい」と言いました。槌本先生は修養会で、ここに伝道の素朴な原型があることをお話されました。この女も、うまく説明は出来ないながら、とにかくイエス様の所へ「見に来てください」と伝道を始めたのであります。「生きた水」がわき出る小さな泉となったのであります。ここに、「霊と真理の礼拝」が始まっているのであります。

私たちの、主の日ごとに行なわれるこの礼拝も、ただ堅苦しい聖書の話を聞いて勉強したり、反省したり、新らたな重荷を背負わされる所ではありません。居丈高なイエス様の命令を聞いて従わなければならない所ではありません。主イエスは、心が渇いた罪あるサマリアの女に「水を飲ませてください」と言って近づかれたように、私たちにも、御自分が私たちを必要とされているかのようにして、近づいて下さいます。そして、御言葉によって私たちの心を開きつつ、私たちの心の奥底にある渇きに気付かせ、そこに命の水を注がれます。主イエスは私たちの罪や過ちを責めるのではなく、主の自由な霊と愛の真実をもって覆って下さいます。そして今度は、私たちの霊と真理をもって礼拝することへと導いて下さり、ついには、主から与えられた「生きた水」を、人々にも分け与える小さな泉ともならせて下さるのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・霊なる、父なる神様!

・今日もまた「生きた命の御言葉の水」をもって私たちに近づいてくださり、渇きがちな私たちの魂を潤して下さいましたことを、感謝いたします。

・どうか、この世の務めや、楽しみや、心の重荷のために、礼拝に向かう足が重くなりがちな私たちを憐れんで下さい。どうか、あなたの霊と真理を受け止めることが出来る者とならせて下さい。どうか、主の日ごとに、貧しいながらも、心からの礼拝を献げる者とならせて下さい。どうか、あなたの与えて下さる「生きた水」の泉を心に持ち続ける者とならせて下さい。

 ・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年6月8日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書4:16-30
 説教題:「霊と真理の礼拝」     
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