「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」  (ヨハネによる福音書4:1314

 主イエスの一行がユダヤを去り、ガリラヤへ行くのに、「サマリアを通らねばならなかった」(4)と記す。ユダヤ人は、異邦人と血の混じったサマリア人を汚れた者とみなし、サマリアを避けて遠回りするのが普通だった。主イエスがサマリアを通らねばならなかったのは、急いでいたからではない。サマリア人をどうしても救いたかったからである。
 シカルの町の郊外にあるヤコブの井戸で、イエスは旅に疲れて座っておられた。そこへ一人のサマリアの女が水を汲みに来た。町の中にも井戸はあるのに、わざわざ炎天下を遠くの井戸までやって来たのは、人を避けなければならない事情があったのだ。彼女の心の内は渇いていた。その女に主の方から「水を飲ませてください」と声をかけられた。イエスの喉が渇いていたのも事実だろうが、声をかけたのはそれだけの理由ではない。主は、心の渇いた女と対話し、その心に命の水を注ぐためであった。当時、外で男は女に声をかけてはならなかったし、ましてユダヤ人がサマリア人に水を求めることはあり得なかったので、女は驚く。主は、人間のしきたりと罪が作った壁を打ち破って、この渇いた女の傍らに立ち、その心の深みに近づこうとされた。そして、驚く女に対して、御自身が「神の賜物」であり、「生きた水」を与える者であることを示され、更に標記のように、この水が人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出ると語られた。
 私たちは、自分の周りに立つ壁の中に留まりつつ、手近なもので心を潤そうとする。だが、主イエスは、私たちの奥底にある、渇いた心を見通して、これに命の水を注ごうと、私たちに近づき、自ら渇く者となって、声をかけ、壁を突破して、私たちの内側に入って来られる。私たちが「その水をください」(15)と本気で真剣に求めるならば、主は御自身を惜しまず与えて下さり、私たちの中で永遠の命に至る水の泉となって下さるのである。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2008年6月1日 山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書4:1−15
 説教題:「永遠の命に至る水」                
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