序.渇いた心

・また、暑い夏がやって参ります。水が恋しい季節になります。水は夏に限らず、私たちの命を保つのに欠かすことの出来ないものであります。中国四川省の大地震の被災地では、雨水や汚い泥水を貯めて飲料水にしている様子が報道されていました。阪神大震災の時も、最初に一番求められたのは、ペットボトルの水でした。人が住める町を築くには、まず水源を確保する必要があります。昔から、川沿いや泉のあるところに、町が築かれて来ました。川や泉がなければ井戸が掘られました。

・今日の聖書の箇所は、水源の乏しいサマリア地方における、井戸の傍らでの、イエス様とサマリアの女との対話が記されているところであります。先日の槌本先生による伝道礼拝でも、聖書の箇所はヨハネ福音書737節以下でありましたが、今日の箇所に書かれているイエス様とサマリアの女との対話についても触れられました。渇いた女の心に主イエスが命の御言葉の水を注ぎ込まれたからであります。

・今日は、もう一度この「イエスとサマリアの女」の対話のうち、15節までの箇所を、学ぶのでありますが、14節に「永遠の命に至る水」というイエス様の言葉が出ております。私たちはヨハネ福音書を連続して学んで来ておりますが、これまでにも「永遠の命」という言葉は何度か出て来ました。最初に出て来たのは、イエス様とニコデモとの対話の中ですが、314節で、「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」とありまして、そのすぐ後の、有名な316節の中でも、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と言われています。そして、前回学びました、336節では、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命に預かることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と厳しい言葉が述べられていました。ここから後でも、ヨハネ福音書の中では、たびたび「永遠の命」のことが取り上げられます。「永遠の命」はヨハネ福音書の一つの大きなテーマなのであります。今日の箇所では、その「永遠の命」が、命を支える水、10節の言葉によれば「生きた水」との関連の中で語られているのであります。

・私たちは、イエス様の言われる「永遠の命に至る水」をいただいて、私たちの心は(魂は)潤っているのでありましょうか。私たちは、自分ではそれなりに、心が潤っているつもりでいるかもしれません。淋しいことがあっても、気を紛らす手段を心得ているかもしれません。心配なこと、不安なことがあって、心が渇く思いをすることがあっても、これまでと同じように乗り越えて行ける自信のようなものが、あるのかもしれません。何かのことから、自分の中に荒れ野のような、罪深い、恐ろしい乾いた一面があることに気付くようなことがあっても、それを隠して、自分の正しさを押し通してしまっているのかもしれません。そして、心が渇いているのは、私ではなくて、あの気の毒な境遇の人たちである、あの心に弱さを抱えた人たちである、あの罪深い人たちである、と決め付けてしまってはいないでしょうか。

・しかし、主イエスは、私たちの奥底にある、渇いた心を見ておられます。そこに生きた命の水が注がれなければならないことをよく御存知であります。私たちは、清涼な井戸や山の泉から汲み上げられるような澄んだ命の水を飲んで渇きを止めるのではなくて、お茶やコーヒーやジュースやビールやお酒のようなものを飲んで、心の底にある渇きを誤魔化してしまっているのではないでしょうか。しかし、私たちの心の奥底にある、自分でも気付かないような渇き、気付いても打ち消してしまっているような渇きは、一時的な気晴らしや慰めでは、潤おすことは出来ません。

・主イエスは、そのような私たちの心の内の隠れた渇きを憐れんで、誤魔化しではない、本当の命の水を注ごうとなさるのであります。

・では、主イエスはどのようにして、その命の水を私たちに与えて下さるのでしょうか。どのようにして、私たちに「永遠の命」を得させて下さるのでしょうか。今日は、41節から15節までの、イエス様とサマリアの女の対話の前半部分を通して、そのことを御一緒に聴き取りたいと思います。

1.サマリアを通らねばならなかった

・さて、最初の段落(1~6節)には、イエス様がサマリア地方のシカル(口語訳聖書ではスカル)という町に来られた経緯について記されています。

・当時のユダヤ社会で大きな影響力を持っていたファリサイ派の人々は、洗礼者ヨハネが人々に悔い改めを迫って、ヨルダン川で洗礼を授けて多くの弟子を集めているという事実に神経を尖らせていました。そのヨハネよりもイエス様が更に多くの弟子を集めているという噂は、ファリサイ派の人々にとっては放っておくわけにはいきません。彼らの影響力を揺るがしかねない重大な事態でありました。彼らはイエス様に対して、敵意を抱き始めるであろうことは明らかであります。イエス様もそのことを察知されたでありましょう。

3節に、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた、とあります。これは、ファリサイ派の人々が多くいるユダヤを避けて、故郷のあるガリラヤ地方に逃れようとされたのでしょうか。ヨハネ福音書の記者がしばしば記している言葉に、「わたしの時はまだ来ていない」とか「イエスの時はまだ来ていなかった」というのがあります。<イエス様がまだ十字架におかかりになる時はまだ来ていない、それまでに、この地上でなさらなければならないことがまだある>という意味であります。ここではそのような説明はなされていませんが、この時も、ファリサイ派の人々を恐れて逃げられたということではなくて、十字架につく前にガリラヤでしておかねばならないこと、語っておかねばならないことがあるということで、ガリラヤへ向われたのであると思われます。

・しかしその際、4 節にあるように、サマリアを通らねばならなかった、のであります。聖書の後ろについています「6新約時代のパレスチナ」の地図で確認していただくとお分かりのように、ユダヤからガリラヤへ最短距離で行くにはサマリア地方を通らねばなりません。このコースだとおよそ3日間で行けます。

・しかし当時は、ユダヤとガリラヤの間を往来する場合、サマリアを通るコースを取らずに、サマリアを避けてヨルダン川の東側を通って、1週間の旅をするのが普通でした。なぜそんな回り道をするかというと、ユダヤ人がサマリア人を嫌っていたからであります。サマリア人も元は同じイスラエル民族でありますが、南北の王国に分かれていた時代に、北王国のサマリア地方は、異邦人であるアッシリアに支配されたために、人種間の雑婚が生じました。ユダヤ人は信仰を保つために純粋な血統を保つことが必要だと思っておりましたので、サマリア人を汚れた人種であるとみなして、見下げて、交際をしなくなったのであります。ですから、ユダヤ人は余程の理由がない限り、サマリアを通るコースを避けて、わざわざ遠回りをしたのであります。

・ところがイエス様は、サマリアを通られたのであります。なぜか。その理由を聖書は書いていませんが、イエス様が旅を急いでおられたので近道をされたのではないことは、この後の40節を見ると、サマリアの人たちの要請に応じて二日間滞在されたことからも分ります。そういうことから考えると、イエス様がサマリアを通られたのには、ある目的があった、と考えられるのであります。それはサマリアの人たちとの対話であります。今や神様の救いからはずされてしまったかのような扱いをされているサマリアの人たちを救いたいというお考えがあったのではないかと思われるのであります。イエス様が話された「善いサマリア人の譬え」は、皆様よく御存知ですが、そこでは、強盗に襲われたユダヤ人を助けたのは、サマリア人でありました。これから見ても、イエス様がサマリア人に対して、特別な思いを持っておられたことが分かります。ですから、「サマリアを通らねばならない」というのは、止むを得ず通らなければならない、ということではなくて、どうしても通らなくてはならない、ということなのであります。サマリアを通って、救いの道を開くことが、イエス様の強い御意志であったのであります。

・主イエスは、それと同じ御意志と熱意をもって、私たちにも出会って下さるお方なのではないでしょうか。主は、不信仰で、渇いた心を秘めている私たちを救うために、こうして礼拝において、私たちに出会おうとしておられるのであります。

2.「水を飲ませてください」

・さて、イエス様はそのサマリア地方のシカルという町の郊外にあ る「ヤコブの井戸」と呼ばれる所に来られて、6節にあるように、旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられました。正午ごろのことであります。炎天下の旅で、喉も渇いておられたことでありましょう。しかし、水の乏しい地帯の井戸は、通りすがりの者が勝手に汲まないように、水を汲む者がいちいち釣瓶(つるべ)を持って来て汲んだそうで、旅の途中のイエス様は釣瓶を持ち合わせておられませんから、誰かが来るのを待たなければならなかったのであります。

ちょうどそこへ、サマリアの女が水を汲みに来ました。

実は、これは普通ではないことでありました。というのは、この「ヤコブの井戸」というのは、シカルの町から1キロ半も離れているそうです。暑い日中に重い水を女手で運ぶには遠い距離であります。町の中には当然水源もありました。それなのにわざわざこの井戸まで来るということは、この女が町の中の井戸を使わせてもらえないか、使いたくない事情があったと考えられます。他の人が来ない暑い真昼に来たのは、人目を避けなければならない事情があったと思われるのであります。その事情というのは、16節以下で明らかになるのでありますが、彼女の異常な生活のために、人々から変な目で見られ、彼女の方も人目を避けなければならない、孤独な状態にあって、まさに、心の渇いた状態であったのであります。イエス様は後で分かるように、そういうこの女の状態を見通しておられたようであります。

そのような女に、イエス様の方から声をかけられます。しかも、イエス様の方からお願いをなさるのであります。イエス様はその女に「水を飲ませてください」とおっしゃいました。それほどにイエス様は喉が渇いておられたということかもしれません。しかし、それだけとは思えません。イエス様は、心の渇いた女に接するために、まず、自ら渇いた者になられたのであります。この孤独な女と対話し、心を開き、救い出すために、自らをこの女と同じ、渇いた者として接しようとされたのであります。十字架の上で、「わたしは渇く」とおっしゃった主イエスであります。主は心の渇いた私たちのためにも、自ら渇かれるお方なのであります。

喉の渇いた旅人が、水を汲みにやって来た女の人の親切で水を飲ませてもらうことは、普通に起こり得る情景として思い浮かべることも出来ます。ところが、当時のユダヤの事情では、このような事は殆ど起り得ないことだったのであります。第一に当時は、男は女に外では声をかけてはいけないことになっていたそうであります。それはたとえ妻や娘であっても、話し掛けてはいけなかったということであります。しかも相手は単に女というだけでなくて、サマリアの女でした。サマリアとユダヤの関係については先程も述べた通りでありまして、ユダヤ人はサマリア人を見下げていました。その点から言っても、イエス様のこの発言は異常でありました。ですから9節で、サマリアの女がイエス様に対して、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と反問したのは、当然と言わなければなりません。しかしイエス様は、そのような人間がこしらえた壁を突き破られます。つまり、男が女と対話しないという壁、ユダヤ人とサマリア人の間に築かれた厚い壁、乱れた人間関係の中で、町の人を避けなければならないという壁、――そのような人間のしきたりと罪が作った壁を、主イエスは破って、この渇いた女の傍らに立ち、その心の深みに近づこうとされるのであります。

・イエス様にとっては、水を手に入れることだけなら、奇跡を行なえばわけのないことでありましょう。しかしイエス様は、今は自分の方からこの女に水を求められます。それはこの女と話をし、この女の中に立ち入るためであります。

私たちの周りにも様々な壁があります。これまで自分の生まれ育った境遇があります。これまでそれなりに苦労して築いた自分の立場があります。自分で思い描いて来た人生があります。プライドがあります。それらが崩されないように、自分の周りに壁を立てています。また、人には見られたくない裏側もあります。触れられたくない恥部があるかもしれません。

・しかし、イエス様は、そのような壁の中に閉じこもる私たちの不幸を、見過ごしにはされません。そして憐れみをもって、それらの壁を突破して、私たちの内側に入って来られるのであります。

3.生きた水

・さて、イエス様の方は、厚い壁を突破してこの女の傍らに立とうとされるのに対して、女の方は依然として、ユダヤ人とサマリア人とを区別している壁の中に立てこもって、そこから出て来ようとはいたしません。

・そこでイエス様は、10節にある言葉を発せられます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

・地上の壁にこだわる女に、イエス様はいきなり直球のボールを投げて来られます。これまで女に水を乞い求めていたイエス様が、実は水を与えるお方であることをお示しになります。それも、只の水ではありません。「生きた水」であります。

・人間には確かに、物理的な水はなくてならぬものであります。特に、この暑い乾燥地帯にあっては水はとても貴重なものでありました。しかし、そのような水は、1314節でイエス様がおっしゃっているように、一時的に人間の渇きを癒すに過ぎません。この女にとって本当に必要なものは、イエス様だけが与えることの出来る「生きた水」であります。

10節に「神の賜物」という言葉が出て来ます。この言葉は今日の箇所の中のキーワードであります。ヨハネ福音書は1章の最初から、神の言であるキリストが、肉となってこの地上に来られたのだ、ということを言って来ました。316節では、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、と言われていました。「神の賜物」とはズバリ、イエス・キリストのことであります。そして、キリストこそが「生きた水」であります。

・この女がその悲惨な境遇の中で、自分では知らずに求めているもの、この女にとって本当に必要なものは、そのような「生きた水」すなわちイエス・キリストそのものだったのであります。イエス様はここで、御自身こそが、彼女にとって必要な「生きた水」であることを宣言なさいました。このようにしてイエス様は、この女の問題の核心へ踏み込んで来られたのであります。

・しかしそれに対して女は、イエス様の語られる意味を理解できずに、まだトンチンカンなことを言っております。(1112節)

 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

・この女は「生きた水」と言われても、まだ物質的な水のことしか理解していません。というのは、当時の言葉づかいで「生きた水」というのは、溜まり水ではなくて、湧き水を指す言葉でした。だからこの女は、そいう湧き水はどこにあるのか、汲む物を持たずにどうして手に入れるのか、この井戸を掘ってくれたヤコブよりもあなたは偉いのですか、と聞いているわけであります。

女がヤコブに拘っているのは、サマリア人こそ真のヤコブの子孫であり、本当のイスラエルであると主張している背景があるからです。サマリア人はいつもユダヤ人から軽蔑されています。そしてこの女は常に人から罵られ、いじめられてきました。しかしそんな女にも誇りがあります。見知らぬ旅人に対して少しでも優位に立とうとします。自分の弱みを隠して逆らおうとするのです。イエス様は既に、この女の問題の核心に入って来ておられるのに、この女はまだユダヤ対サマリアという枠の中に留まっているのです。そしてまだ、自分に本当に必要な「生きた水」に気が付いていません。

私たちも、この女と同じように、神様が私たちの方に近づいて来て下さっているのに、まだ神様の助けを借りなくてもやっていけるとでも言うように、神様に逆らってみたり、自分の方から神様に何かしてあげる立場(奉仕して役立つ立場)であるかのように振舞っているのではないでしょうか。しかし、自分の僅かばかりの貢献や誇りを振り回している限り、私たちは神様を見ることも、知ることも出来ないのであります。

4.永遠の命に至る水

・さて、そうは言いましても、この女の言葉にも少しずつ変化がみられます。11節で女は「主よ、」と呼びかけています。イエス様のお言葉をよく理解しないながらも、ある迫力を感じたのでありましょう。「ヤコブよりも偉いのですか」という言葉にも、それが現れています。これまでの枠を超える何かを感じたのでありましょう。

・そういう彼女に対してイエス様は1314節でこう語られます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

この言葉によって、イエス様は彼女に与えようとされている「生きた水」がどういう水であるかを余すところなく語っておいでになります。この女が汲みに来た水は、どれだけ飲んでも心の渇きを癒すことは出来ません。肉体の欲望や金銭欲・名誉欲を満足させるものが、どれだけ豊富にあっても、心を満たすことは出来ませんし、趣味や芸術などの楽しみに耽ったり、仕事やボランテイア活動に打ち込んで、ある程度の心の慰めや満足は得られたとしても、また、渇いてしまいます。それらによっては、魂の奥深くの渇きは癒されないのであります。

それに対して、イエス様が与えて下さる水、「生きた水」を飲む者は、いつまでも渇くことがありません。溜まり水ではなくて、湧き水のように、飲んだ者の中で、泉となってこんこんと湧き続けるのであります。イエス・キリスト御自身が私たちの中で「生きた水」となって下さるからであります。それは「永遠の命に至る水」であります。「永遠の命」とは、前回も申しました。神様とちゃんと向き合って生きる命のことであります。礼拝において絶えず神様の方に向き直されながら生きる生き方のことであります。それをヨハネ福音書173節では、父なる神と、神がお遣わしになったイエス・キリストを知ることだ、と言っております。イエス・キリストによってはじめて、私たちの魂は渇くことがないのであります。

結.その水をください

・サマリアの女は15節で、「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と言っております。この言葉からみると、女はまだ、物質的、この世的な平面から抜け出ていないように見えます。でも、イエス様が与えようとしておられるものが何か特別なものであることは感じて、イエス様にそれを与えてくださいと言います。今日の箇所で最初は、イエス様が女に水を求められましたが、ここでは逆転して、女の方がイエス様に求めています。まだ、不十分な求めであります。イエス様御自身を求めるところまでは行っておりません。しかし、これでよいのです。私たちも、本気で真剣に、イエス様に求めるならば、イエス様は御自身を惜しまず与えて下さいます。そして、私たちの中で永遠の命に至る水となって下さいます。
・祈りましょう。

祈  り
 ・主イエス・キリストの父なる神様!

・今日、私たちを主イエスとの対話の中に導いて下さいましたことを感謝いたします。

・あなたは私たちのすべてを御存知であります。私たちの思いと行動は、罪にまみれています。どうか、そのような私たちをあなたの「生きた水」で絶えず満たして下さい。そしてどうか、その水を他の人々にも分け与えることの出来る者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年6月1日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書4:1-15
 説教題:「永遠の命に至る水」     
             説教リストに戻る