序.花婿との出会い

・先週の礼拝では、すぐ前の322節から30節までの箇所から御言葉を聴きました。そこでは、洗礼者ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人から、イエスも洗礼を授けていて、多くの人を集めているということを聞いて、動揺したのに対して、ヨハネが自分の立場をはっきりと表明したことを学びました。ヨハネは、自分はメシア(救い主)ではなく、救い主である主イエスを指し示すために遣わされたと言って、それを婚宴における花婿の介添え人の役割に譬えて、介添え人は花婿が花嫁を迎えて喜ぶ声を聞いて喜ぶのだ、ということを述べておりました。

・このように、先週の箇所では、ヨハネが自分の役割について述べたのでありますが、今日の箇所では、花婿であるイエス・キリストがどのようなお方であるのかを証ししております。

・私たちが、このようにイエス・キリストがどのようなお方であるかを聴くということは、ヨハネからイエス・キリストに関する情報を得て、単に知識が増す、ということではありません。礼拝というのは、イエス・キリストとの出会いの場であります。聖書に書かれたヨハネの言葉によって、説教者を通して、キリストのことを聞くことによって、そこにキリストとの出会いが起こるのであります。花婿と花嫁の譬えで言いますならば、花婿であるキリストが、花嫁である私たちを迎えて喜んでくださるという出来事が起こるのであります。花婿と花嫁の出会いは、単に相手を知識として知るとか、友人としてつきあうというようなことではなくて、そこから二人が一体となって、共同の新しい生活が始まるように、私たちがキリストと出会う時には、そこにキリストと共なる新しい人生が始まるのであります。礼拝は、そのようなキリストと共なる歩みを確認する場であります。

1.天から来られた方

・では、今日の箇所で介添え人であるヨハネは、私たちにどのようなイエス・キリストを示してくれるのでありましょうか。どのようなイエス・キリストが私たちをお迎え下さるのでしょうか。

・まずヨハネは31節でこう言っております。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」

ここでは「上から来られる方」と「地から出る者(地に属する者)」が対比して語られています。「天」と「地」は全く別の世界であります。「天」とは、私たちが住んでいる「地」から遠く離れた所であります。私たちの手が届かない所であります。ですから、天におられる父なる神様を知ることは容易ではないし、ここで「上から来られる方」とか「天から来られる方」と言われているイエス・キリストを、私たちが知ることは、少なくとも、私たちが勉強したり、努力を重ねれば出来るというものではないのであります。イエス・キリストは、私たちが努力すれば近づけるとか、熱心に研究すれば知り得るということではありません。

その点では、他の、この世に生きた偉人とか聖人とか言われる人たちとは全然違うのであります。洗礼者ヨハネはイエス様から「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタイ1111)と言われましたが、そのヨハネさえ、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われました。ですから、どんな地上の偉大な人物とも比べることが出来ないのであります。もともと出所(でどころ)が違うのであります。「天から来られる方」と言うのは、「神の子」と言っているのと同じであります。イエス・キリストは元々、天に属するお方、神と性質を同じくするお方、「神の子」なのであります。

この「天から来られる方」は、「すべてのものの上におられる」、と言っております。それは、おられる場所が天であるというだけでなく、天において、すべてのものを治めておられる、全被造物を支配しておられる、という意味であります。ですから、主イエスと私たちの関係は、支配する者と支配される者の関係であります。その点では、現代の花婿と花嫁の関係のように、対等な関係とは違います。私たちは今、地上のすべてのものを御支配なさるお方と出会っているのであります。

・しかし、主イエスは、私たちから遠く離れた天において御支配なさっているだけではなくて、「天から来られた」お方であります。「天」と「地」は、全く別の世界なのですが、主イエスは「天」におられるだけでなく、「地」に来て下さいました。それがクリスマスの出来事であります。そして、私たちと同じように地上の生活をされたのであります。ですから、主イエスは(信仰告白で告白しているように)「まことの神」でありつつ、「まことの人」にもなられたのであります。こうして、上から来られた方と地に属する私たちとの出会いが起こったのであります。ですから、主イエスとの出会いは、「上から」起された出会いであります。私たちの方から、探し求めて実現したとか、私たちが精進努力して高められた結果、辿り着いたということではなくて、「上から」の働き、「上から」の接近によって起されたのであります。

・私たちがこのように礼拝に来て、主イエスと出会うというのも、私たちが求めてやって来た、私たちが自分のモチヴェーションを高めて出掛けて来たということではなくて、実は主イエスの方から私たちと出会うために来て下さっているのであります。主イエスは、ただ天の高みから私たちに指図をしたり、声を掛けたりというのではなくて、私たちが悪戦苦闘しているこの世の生活の只中に来て下さっているというのが、この礼拝なのであります。

2.真実の証し

・では、主イエスは私たちに出会って、何をなさるのでしょうか。そのことが32節以下に語られています。まず32節では、「この方は、見たこと、聞いたことを証しされる」と言われています。同じようなことは、311節でイエス様ご自身がニコデモにおっしゃっています。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証している」と言われています。主イエスは、天上で父なる神様と共にあって、神様のことはすべて見聞きしておられるのであります。神様がどのようなお方であるかをつぶさに知っておられるのであります。それを私たちに証しして下さるのであります。主イエスは、人間が頭で考え出したようなことをお語りになるのではありません。高遠な思想や哲学のようなものを私たちに教えられるのではありません。神様のなさること、神様が語られることを、そのまま私たちに伝えて下さるのであります。

・しかし、人間は「だれもその証しを受け入れない」という現実があります。そのことは後で、もう一度触れます。

33節は、主イエスの証しを受け入れると、どうなるかということが語られています。「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」と言っております。「神が真実である」というのは、神が真心をもって私たちに関わって下さる、神には偽りがないということであります。これは神様がなさる全てのことについて言えるのでありましょうが、特に聖書では、神様の語られる言葉、神様の約束について言っていると受け取るのがよいと思います。神様はイスラエルの民を守ると約束され、救い主メシアを遣わすと約束して下さいました。その約束に対して神様は真実であり、偽りがないということを、主イエスの証しを受け入れることによって確認出来る、というのであります。

・「確認した」と訳されている言葉は、<捺印する><封印する>と言う意味の言葉から来ております。お金を受け取って、確かに受け取りましたという印(しるし)に判を押す。それと同じように、主イエスの証しを聞いて受け入れる者は、神様が真実な方であり、神様は約束されたことを実現して下さるお方であることを確認するのであります。

34節では更に、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される」と言って、神がお遣わしになった主イエスの語られる証しが、「神の言葉」であると言い切っております。預言者たちやヨハネ自身も神の言葉を語りました。けれどもそれは、神の言葉を託されて、それを伝えたに過ぎません。しかし主イエスは、神の言葉そのものをお語りになります。主イエスの語られることはすべて神の言葉であります。なぜかと言うと、「神が“霊”を限りなくお与えになるからである」と説明しています。「限りなく」という言葉は、<物差しがない>という言葉で、<秤で量ることが出来ないほど豊に>すなわち<無限に>という意味であります。主イエスには聖霊が無限に与えられているので、その語られるお言葉は神御自身がお語りになるのと同じだということであります。神がお語りになる言葉は、天地創造の時に、すべてのものが言葉によって創られたように、無から有を生み出す力を持っています。主イエスのお言葉も、単なる記号や意思の伝達手段ではなくて、言葉自体に力があります。人に力を与え、病を癒し、命を注ぐのであります。それは主イエスに聖霊が満ちているからであります。

・そうでありますから、私たちが礼拝において主イエスと出会い、主イエスの言葉を聴くということは、主イエスに限りなく満ちている聖霊を受けるということでもあります。私たちは御言葉を聴くことによって、神様の力を受け、命を注がれるのであります。

3.御子にすべてをゆだねられた

・次の35節ではこう言っております。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」――これは前の節と話が変わったのではなくて、前の節を受けています。主イエスが聖霊を限りなく与えられているということが、父なる神様から限りなく愛されているということでもありますし、父なる神様のすべての権能をその手に委ねられたということでもあります。

・「すべてをゆだねられた」とありますが、その「すべて」というのは、口語訳聖書で訳されていたように「万物をお与えになった」という意味もありましょうが、それは単に万物を自由に支配できるということではなくて、神がすべてを愛されるその愛の行使を主イエスに委ねられた、或いは人間の救いに関するすべてのことを主イエスに委ねられた、と受け取ってよいのではないかと思います。つまり、父なる神様は、御自分の救いの御計画を主イエス・キリストを通して実現しようとされた、ということであります。

・そうであれば、御子イエス・キリスト以外に救いの道はない、ということであります。神様が万物を支配し、人間を愛し、救おうとされる道を、すべて主イエス・キリストに委ねられたのであれば、人が神の愛を受ける方法、人が救われる道は色々な可能性があるというようなことではないのであります。すべての宗教は行き着くところは同じではないか、などと言う人がいます。一神教は独善的で、世界の争いの種になる、だから、色々な宗教の救いの道も認めた方がよいという考え方をする人がいます。しかし、そんな呑気なことを言っていてよいのでしょうか。私たちも他の宗教の存在を認めないわけではありません。何らかの慰めを与える力も持っているかもしれません。しかし、神様が救いの道を主イエスの手に委ねられたことが事実であるのであれば、私たちもその主イエスに委ねるのでなければ、滅び去るほかありません。

・これは、どうでもいい問題ではありませんし、もう少しじっくりと考えてから選択すればよい、というような問題でもありません。神様が本当に救いの道を全面的に主イエス・キリストに委ねられたのであれば、私たちは今、ヨハネの言葉を通して出会っているイエス・キリストにすべてを委ねるしかないのであります。

4.信じる人は永遠の命を得ている

36節では、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と言っております。ここに「永遠の命」という言葉が出て来ました。ここまで私は、<神様の愛を受ける>とか<救われる>という言葉で言ってきたことが、ここでは「永遠の命を得る」という言葉で言い換えられていると考えていただいてよいでしょう。

先日の中連婦修養会の全体協議の中で、「永遠の命とは何ですか」という質問が出されました。ある牧師は、その答が、このヨハネによる福音書の173節に書いてあることを指摘されました。それは十字架を前にしたイエス様の祈りの中の言葉でありますが、こう書かれています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」――「イエス・キリストを知る」というのは、知識として知るというようなことではなくて、イエス・キリストを信じて、主に委ねて生きるということであります。

「永遠の命」というのは、いつも言いますように、時間的にいつまでも生きる命というようなことではなくて、神様との関係の中で生きる命であります。ですから、死んでから与えられるものではなくて、今、主イエス・キリストを信じることによって与えられる命であります。神様に背いていた私たちの罪が赦されて、神様とちゃんと向き合って生きる命であります。礼拝において絶えず神様の方に向き直されながら生きる生き方のことであります。この命、この生き方を与えられた者は、たとえ死んでも生きるのであります。イエス・キリストによって回復された神様との間の関係は、切れることがないからであります。

このような神様との関係は、他のどのような宗教でも与えられるものではありません。ですから、「御子に従わない者は、命にあずかることがない」のであります。「御子に従わない」というのは、「御子を信じる」ということの反対を言っているように受け止められますが、<御子を信じない>と言わずに、「従わない」と言ったその言葉はもっと強い言葉で、単に信頼しないというだけではなく、他での使い方を見ると<反抗する>というような意味を込めた言葉であります。つまり、信じないことは、中立の立場にあるのではなくて、神様に反抗することになる、せっかくの神様の恵みに対して敵対することになる、ということをヨハネは言いたかったのかもしれません。

「命にあずかることがない」という言葉は直訳すれば、<命を見ない>ということであります。命を経験しない、命を持たない、死んでいるのも同然だ、ということであります。たとえ体は生きていても、生きている値打ちがないということになります。

更にヨハネは、「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と言っております。この言葉は318節でイエス様が言われていた「信じない者は既に裁かれている」という言葉に似ています。「神の怒りがとどまる」というのは、信じないと神の怒りが始まるということではなくて、神の怒りが留まったままになる、怒りが居座るということであります。私たちの元来の生き方、神様との関係は、神様に背を向け、神様に反抗する生き方でありました。それは、神様の怒りを受けなければならない生き方でありました。その神様の怒りを取り除くために来て下さったのが、主イエス・キリストであります。そのイエス様を受け入れず、従わないならば、神様の怒りはそのままにならざるを得ないのは当然であります。

神様がお怒りになるということは、神様の御心を理解せず、反抗的な人間に対して、感情的に怒っておられるということではありません。神様が人間を救おうとされる御意志はちっとも変わりません。しかし、神様は人間の罪をどうでもいいとか、見過ごすということが出来ないお方であります。33節に「神の真実」という言葉が出てきましたが、これは神様がお語りになった言葉を破られないということであると申しましたが、そのことは人間の罪という問題もいい加減には扱われないということでもあります。神様は人間の罪を憂えて、御子イエス・キリストを遣わされたのであります。人間の罪の処理はイエス・キリストの命に負わせられたのであります。これ以外に救いの道はないのであります。その唯一の道を受け入れない限り、神様の怒りを解き、赦される道はないのであります。

結.花嫁となる決断

32節に、「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない」とありました。「だれも」というのは、<ひとりも>という意味ではなくて、<極くわずかの人しかという意味でしょう。一時的にはイエス様の所には大勢の人が集まって、ヨハネの弟子たちが羨むような状況であったのでしょうが、やがて遂には、主イエスは弟子たちにも捨てられて、十字架に架けられるようなことになってしまうのであります。

・私たちもまた、せっかく礼拝に導かれて、主イエスにお会いしていても、その証しを受け入れない者になってしまいかねません。

・しかし今日、私たちは、ヨハネの証しを通して、「神の真実」の一端に触れることが出来ましたし、神の“霊”に満ちた主の御言葉を聴くことも許されました。そして、御子を信じる者には、永遠の命が与えられるという約束も聴くことが出来たのであります。私たちがなすべきことは、ただ、この約束の御言葉を信じて受け入れるだけであります。そこから、新しい命が始まります。永遠の命に生き始めます。花婿である主イエスは私たちを花嫁として迎えようとしていて下さいます。どうか、花婿の愛に応えて花婿のもとに身を投げ出す花嫁でありたいと思います。そして、主イエスとの新しい人生を歩み始める者でありたいと思います。
・祈りましょう。

祈  り
 ・天にあって私たちを救おうとしていて下さる父なる神様!

・御子イエス・キリストをお送り下さって、私たちを罪の中から救い出し、永遠の命をお与え下さいますことを感謝いたします。

・どうか、頑なな私たちを御赦し下さい。どうか、イエス・キリストにすべてを委ねる素直な信仰をお与え下さい。

・どうか、礼拝生活を続けることによって、真の命を持ち続ける者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年5月18日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書3:31-36
 説教題:「天から来られる方」     
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