序.主イエスと私と人々

・今日はペンテコステ(聖霊降臨日)であります。与えられております聖書の箇所は、初代教会が聖霊の降臨を経験したことを記した箇所ではありませんが、今日はこのヨハネ福音書の御言葉を通して、私たちも聖霊の賜物が与えられることを願っております。

・ヨハネによる福音書を順に学んで来ておりますが、これまでの所で、様々な人たちと主イエスとの出会いや対話が記されておりました。1章では、最初の弟子たちとの出会いが記されていました。2章の1節から12節の所では、カナでの婚礼の際の主イエスの母マリアとの対話が記されていました。213節以下は、神殿で商人たちを追い出された出来事が書かれていましたが、そこでは主イエスはユダヤ人たちと対決されました。そして3章に入ると、ニコデモという当時のユダヤで指導的な立場にあった人との対話が記されていました。これらの記事を通して、主イエスが私たちにとってどのようなお方であるのか、ということが次第に明らかにされて来たのであります。

・今日の箇所には直接イエス様は登場されないのでありますが、洗礼者ヨハネがその弟子たちに語った言葉によって、主イエスがどのようなお方であるか、そしてヨハネ自身は主イエスとどのような関係にあるのかが、明解に語られているのであります。

・そのような洗礼者ヨハネの明解な発言が、どのような状況から出てきたのかということが、22節から25節までの所に記されています。22節によりますと、主イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられました。主イエスは都のエルサレムを離れて、弟子たちと一緒に地方に行かれて、そこで宣教活動をされるだけでなく、ヨハネと同じように洗礼を授けておられた、というのであります。もっとも、後の42節を見ますと、実際に洗礼を授けていたのは、主イエス御自身ではなくて、弟子たちであった、と記されていますが、いずれにしましても、ヨハネの集団とイエス様の集団と両方で洗礼が授けられていたのであります。

・それぞれどこで洗礼を授けていたのか、詳しくは分かりませんが、23節によると、ヨハネはサリムの近くのアイノンという、水が豊かな所で洗礼を授けていたようであります。これは聖書の後ろの地図(「6新約時代のパレスチナ」)によりますと、ヨルダン川沿いで、中程より少し北寄りにあります。イエス様たちの一行は、次の4章でサマリアのシカルでの出来事が書かれていますので、洗礼を授けておられたのは、それより南の地域であると考えられます。ですから、すぐ近くで二つの集団が活動していたわけではなさそうですが、お互いの活動のことが知られることによって、問題が生じたようであります。

25節によりますと、ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こりました。おそらく、主イエスの洗礼とヨハネの洗礼と、どちらの方が清めの力があるかという論争であります。もともとユダヤ人の間では洗礼ということに疑問を持つ人たちがいました。悔い改めが必要なのは異邦人であって、ユダヤ人には洗礼は要らない、という考えです。その上、26節にあるように、この頃になると、イエス様の方に沢山の人が行くようになっていたので、このユダヤ人はヨハネの弟子たちを皮肉っぽく批判したのではないでしょうか。それで、ヨハネの弟子たちの心に妬みが生じたのでしょう。自分の先生に対して、もどかしさを感じたのかもしれません。そこでヨハネのもとに来て言いました。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」――あなたの方が先輩なのに、何でこんなことになってしまったのか、という不満が込められています。

・こういうことは、残念ながら現代の教会の間でも、ありがちなことであります。どこそこの教会の方が人を沢山集めているとか、どの先生の方が人気があるとか言って、よその教会を羨んだり、先生を批判したりすることがあります。先生自身が、嫉妬心を持ったりすることもないではありません。福音の真理が語られているかどうかよりも、どれだけ人を集めているかで評価してしまう愚かさが、教会の中にも入って来てしまうことがあります。

・ヨハネの弟子の訴えに対して、ヨハネ自身はどう答えたのでしょうか。今日は、ヨハネの答えから、ヨハネにとって主イエスはどのような存在であったのか、また、私たちにとって主イエスはどのようなお方であるのか、そして、私たち何を喜ぶべきなのかを、聴き取りたいと思うのであります。

1.天から与えられなければ

・まず27節でヨハネは、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と答えております。人が持っている能力とか健康とか財産とか環境といったものは、すべて神から与えられる賜物であります。もちろん、一般的なことであれば、成果は本人の努力次第という面も当然ありますが、こと福音の宣教ということに関しては、その人に神から与えられた使命とそれに相応しい賜物が備えられている筈でありまして、どれだけの人が集まるとか、どれだけの人がその人の働きによって救われるということは、神様がお決めになることであります。ヨハネにはヨハネに与えられた使命があったのでありまして、その使命に相応しい賜物は十分に与えれていたのであり、その使命を果たしていたのでありまして、ヨハネの弟子たちの不満は当たらないのであります。

・ヨハネは28節で、自分の使命について、これまで語って来たことをもう一度、繰り返して語っております。「わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」。――ヨハネの使命はメシアであるイエス・キリストを指し示すことでありました。当初は、悔い改めた人に洗礼を授けて、メシアの到来に備えさせることがその働きの中心でありました。しかし、主イエスが来られてから後は、その役割が減って、直接主イエスのところへ多くの人々が行って当然であります。むしろ、ヨハネの弟子は、そんなことを羨むのではなくて、ヨハネと一緒に主イエスを証しすることこそ、今のあなたがたの使命なのではないか、と言っているのであります。

「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」という言葉は、一人一人の個人だけでなく、教会にも当てはまる言葉ではないでしょうか。教会も、神から与えられた恵みと賜物によって、その使命を果たすのであります。教会は、その教会に属する人間の能力や努力によって、栄えるのではありませんし、その教会の牧師や会員の人柄とか人格的感化力で人が救われるのではありません。人が救われるのは、天からの賜物によるのであります。もちろん私たちの努力が不必要だということではないし、努力を怠る理由にしてはならないでありましょうが、如何に努力をしても、天から受ける福音の賜物がなければ、人を救うことはできないし、いくら人数を集めてみても、教会が教会の使命を果たしたことにはならないのであります。

ヨハネの弟子たちは、イエスの所にみんなが行っていることを妬ましそうに訴えましたが、彼らがなすべきことは、むしろ主イエスを証しすることであったように、私たちも、他の教会では人数が多いと羨んだり、自分たちの教会に来る人が少ないと言って嘆くのではなくて、なすべきことは、自らが主イエスを証しすることであります。

2.花嫁を迎えるのは花婿

・続いてヨハネは29節で、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」と言います。

ここで「花嫁」とは、信者のこと、或いは、救われるべき人々のこと、更に言えば教会のことであります。旧約聖書においては、先程朗読していただきましたイザヤ書62章5節にもありましたように、エルサレムの人々やイスラエル民族が「神の花嫁」とされています。新約聖書でも、ヨハネの黙示録で新しいエルサレムである教会のことを「小羊の花嫁」(黙21:9)と呼んでいます。

 「花婿」とは、言うまでもなくイエス・キリスト御自身であります。福音書では神の国が婚宴に譬えられることが多いですが、そこで花婿とは主イエスのことであります。

・ユダヤの婚礼では、花婿が花嫁を迎えに行きます。そのとき、花婿の友人が介添え人として同行します。花嫁は盛装して花婿を待ちます。花婿が到着すると、花嫁は友人たちと一緒に、花婿を先頭に、花婿の家に向かいます。マタイ福音書にある「十人のおとめ」の譬えは、その花婿と花嫁たちの一行が花婿の家に到着するのを待つ場面を用いて語られたものであります。一行が花婿の家に着くと、花婿と花嫁が婚姻の部屋に入り婚姻の儀式が行われ、その後、一週間にも及ぶ婚宴が行われるわけであります。ここで、「花嫁を迎えるのは花婿だ」と言われ、「介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」と言われているのは、恐らく、一行が花婿の家に戻って来て、花婿が花嫁を迎えたことで喜びの声を上げる場面を指していると思われます。花婿の友人の介添え人は、多分、家の外か別室で花婿の喜びの声に耳を傾けていて、声が聞こえると、一緒になって喜ぶということを言っているのだと思われます。

ここで「迎える」と訳されている元の言葉は、「持つ」という言葉であります。花婿が花嫁を自分のものとして「持つ」ということであります。そのことで表わされているように、花嫁である教会が花婿であるキリストを迎え入れるというよりも、むしろ花婿であるキリストが花嫁である教会を持つ(自分のものとなさる)のであります。そして、このことに関して、花婿の友人である介添え人は何も介入することが出来ません。介添え人は外で、花婿の喜びの声を聞くだけであるように、伝道に携わる人はキリストの許に人々をお連れするだけであって、人を捉え、救うのはイエス・キリスト御自身であり、主御自身が、花嫁となる人たちが救われて御自分の所に来ることをお喜びになるのであります。

3.花婿の声を喜ぶ

・では、ヨハネやヨハネの弟子たちは、何を喜ぶべきかと言うと、花婿の友人の介添え人が、花嫁を迎えた花婿の喜ぶ声を聞いて喜ぶように、救われた人を迎えてお喜びになる主イエスの声を聞いて喜ぶべきなのであります。自分たちのところへ多くの人が来ることを喜ぶのではなくて、主イエスのところに大勢の救われた人が集まって、主が喜び給うのを聞いて喜ぶのであります。

・私たちが何を喜ぶべきかと言えば、私たちの仲間が増えるとか、私たちの考えに同調する人が増えるとか、自分を慕ってくれる人が増えるということを喜ぶのではなくて、主イエスのところに大勢の人が来て、主イエスがお喜びになることを喜ぶのであります。ということは、たとえ私の考えと違う人、自分とは肌が合わない人、自分に反感を持っているような人であっても、主イエスがその人の来ることを喜んでおられるならば、私たちも喜ばなければならない、ということであります。教会は自分の気に入った人だけの集まりではありません。

牧師や教会員は、自分たちの教会に来る人が増えることを喜ぶのは当然なのでありますが、それは、教会が盛んになるからうれしいのではないし、自分たちの仲間が増えるとか、自分たちに共鳴する人が増えるから喜ぶのでもないのであります。私たちがいくら喜んでいても、主イエスが喜んでおられるのでなければ、教会にとって喜ばしいとは言えないのであります。イエス様を信じているのでなくて、教会の雰囲気が好きなだけで来ている人を、イエス様はお喜びにならないでありましょう。牧師や教会員が尊敬できるからとか好きだからというだけで来ている人を、イエス様はお喜びにならないでしょう。主イエスが喜んでおられるかどうかが、大切なことであります。

教会で起こるいざこざや分裂騒ぎというのは、大抵の場合、そのことが忘れられて、人間同士の間で、あの人とは意見が違うとか、あの人は間違っているとか、あの人は教会に相応しくないというところから起こります。教会の中で論争や意見の違いがあってはいけないというのではありません。大いに議論もすべきです。けれども、その議論が、自分の意見や自分の感覚を主張し合うだけではいけないのであって、イエス様が何を喜ばれるか、イエス様がどんな人を喜ばれるのかを正しく認識した議論でないといけないのであります。

・洗礼者ヨハネは、主イエスの前に遣わされた者として、花婿の友人(介添え人)に徹しようとしました。介添え人は、花婿の喜びの声が聞こえることを喜ぶのであります。ヨハネの弟子たちも私たち信者も花婿である主イエスの介添え人の役目を仰せつかったのであります。介添え人のなすべきことは、花婿の喜びの声を聞いて喜ぶことであって、自分を喜ばしたり、自分が主役になって人を裁いたり、自分の気に入った人だけを集めることではありません。主が何を喜ばれるのかに耳を傾けなければなりません。

・しかしそれならば、花婿の介添え人というのは、ただ花婿の喜びのために仕えるだけで、自分の喜びは抑えなければならない損な役回りなのでしょうか。自分はただ苦しい思いだけを味わって、ひたすら花婿の喜びのためにじっと耐えるだけなのでしょうか。――そうではありません。29節の後半で、ヨハネは「花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」と言っております。彼は心から喜んでいるのであります。彼は半分悔しい思いを持ちながら、相手がイエス様だから、我慢するしかない、などと思っているのではないのであります。彼は、自分の弟子が増えたことよりも、主イエスのところへ多くの人が行くようになって、主が喜んでおられることに達成感を覚えて、喜びで満たされているのであります。

・牧師や先に信者とされた者にも同様の喜びが与えられます。自分たちの気に入った人だけを集めて喜んでいても、やがて飽きられたり、躓きを与えてしまったりして、自分たちのところから去って行くかもしれません。しかし、ある人がキリストに捉えられ、キリストの花嫁になることが出来たならば、その人が天国に行けることは確実であります。たとえその人が過去において人間的に問題がある人であったとしても、罪人とされるような人であったとしても、一人の人が救われるならば、天に大いなる喜びがあるのであり、そのことに多少なりとも仕えることが出来た私たちも、ヨハネと同じように、喜びで満たされるのであります。それが、自己満足ではない、本当の喜びであります。

・パウロがテサロニケの信徒への手紙(Ⅰ・38-9)の中で、テサロニケの教会の人たちの信仰の様子を聞いて喜んでいることを、次のように述べています。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、私たちは生きていると言えるからです。わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。

 この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」――ここに花婿である主と花嫁であるテサロニケの人たちが堅く結ばれたことに対して、介添え人としてのパウロの喜びが表わされています。

4.あの方は栄え、わたしは衰えねばならない

・ヨハネは30節で、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という、素晴らしいことを言っております。ある人はこれを明けの明星と太陽に譬えています。つまり、夜が明けて太陽が昇って来るにつれて、明けの明星はだんだんと消え去っていくことになぞらえているのであります。星は消えて亡くなるわけではないのですが、より大きな光である太陽の輝きの前に見えなくなるのであります。洗礼者ヨハネとキリストの関係も同様でありますし、私たちとキリストの関係も同様であります。牧師や教会員がいつまでも目立っているような教会は、太陽であるキリストが沈んで行く教会であります。勢いのある教会は、太陽であるキリストがますます輝きを増して、私たちの光が目立たなくなる教会であります。

・「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言われていますが、この「ねばならない」というのは、義務とか努力目標を表わしているのではありません。「わたしは衰えるべきだ」とか「わたしはもっと謙遜にならなければならない」と言っているのではありません。牧師や信仰者はもっと控え目にならないといけない、と戒められているのではありません。この「ねばならない」は私たちの義務ではなくて、神様の必然を表わしています。キリストは決して衰えることなく、必ず栄えてくださる。私たちはその前で、介添え人の一人として小さな働きができたことを、一緒に喜び、大満足できる時が必ず来ますよ、という約束であります。

結.聖霊によらなければ

・このヨハネのような究極の介添え人に、私たちはどうしたらなれるのか。自分の誉ればかりを、教会においてさえ求めたがる私たちが、どうしたらヨハネのような謙遜を身につけることができるのか。そのことについてパウロはコリントの信徒への手紙の中でこう言っております。(Ⅰコリント123

 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。――聖霊こそが、私たちを花婿の介添え人にして下さるのであります。聖霊こそが、私たちを花婿の声を聞いて喜ぶ者にして下さるのであります。更にパウロは、聖霊の賜物について続けて語ります。(同411賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

・今日は聖霊降臨日であります。この日、弟子たちに聖霊が降って、キリストを証しし始めました。教会はそれ以来、聖霊の働きを受けて、宣教の活動を続けて来ました。そして主は、今も、聖霊において、私たち一人一人に相応しい聖霊の賜物を与えて、介添え人の働きに着かせて下さり、花婿の喜びに与らせようとして下さっているのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・私たちの花婿であるイエス・キリストの父なる神様!

・ペンテコステの礼拝に招かれ、洗礼者ヨハネの言葉を通して、私たちの立場と、私たちに与えられている喜びについて聞くことができまして、ありがとうございます。

・また、私たちが与えられている使命のために聖霊の賜物を与えて下さるとの約束を感謝いたします。
・どうか、主の前に謙遜な者とならせて下さい。
・どうか、主イエス・キリストの喜びを喜ぶ者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年5月11日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書3:22-30
 説教題:「花婿の声を喜ぶ」     
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