序.天国の鍵はどこに?

・木村光子姉が天に召されて10日がたちました。もう一度一緒に礼拝できるようになることを願っておりましたが、この時に御許に召されるのが神様の御心であったようであります。

・長く一緒に礼拝して来た方を天に送ることで、私たちは、自分が召される時のことを思わざるを得ません。そして、<自分は果たして、天国に入れていただけるのであろうか>と、改めて問い直さざるを得ないのではないでしょうか。

・今日の説教の題を「天国の鍵」とさせていただきましたが、これは木村姉のことがあって考えたということではなくて、今日のイザヤ書の22節にあります「ダビデの家の鍵」という言葉との関連からの題であります。今日の箇所に書かれていることの背景には、直接的には紀元前701年に、エルサレムがアッシリア帝国のセナケリブによって包囲された出来事が関係していると考えられていますが、「その日」という言葉が二回出てきますように、預言者イザヤは、その出来事から終わりの日を見据えて語っているのであります。また、「ダビデの鍵」という言葉は、先程読みました、ヨハネ黙示録3章にもありまして、そこでもやはり、ヨハネは終りの日(再臨の日)を見据えつつ、救いか滅びかの決定的な鍵を持つておられる主イエスのことを語っているのであります。

・先週は月末の主日で、イザヤ書を取り上げる日でありましたが、伝道礼拝のために、出来ませんでしたので、今日、取り上げさせていただいたのですが、今、私たちが改めて問い直さざるを得ない「天国の鍵」に関わる御言葉を、ちょうど備えられたということであります。

・今日は、このイザヤの預言とヨハネの黙示の言葉を通して、私たちが天国に入るための鍵はどこにあるのか、ということを、ご一緒に聴き取りたいと思うのであります。

1.高い所に墓を掘る者

・さて、2215節を見ますと、万軍の主なる神は、イザヤにこう命じておられます。「さあ行け、あの家令のところへ。宮廷を支配しているシェブナのところへ。」

・今日の箇所には、このシェブナと、もう一人20節以下でエルヤキムという人が出て来ますが、この二人は、アッシリア王セナケリブから遣わされた大軍がエルサレムに攻めて来たときに、ユダのヒゼキヤ王に代わって対応した宮廷長エルヤキム、書記官シェブナとして登場する人物であります。(列王記下1813-37、イザヤ36:1-22参照)

今日の箇所の16節から19節にかけては、シェブナに対する裁きの言葉が語られ、その地位を奪われて、20節以下では、その地位がエルヤキムに渡されることが述べられているのですが、セナケリブの攻撃に対応した段階では、既にエルヤキムの方が上位に挙げられているので、イザヤの指摘によってシェブナが降格された後なのか、そのあたりの事実関係は定かではありません。

研究者の中には、アッシリア対策についてエルヤキムとシェブナの間に意見の相異があったのではないかと推測する人もいます。シェブナは反アッシリアで、エジプトに助けを求める考え方であったのに対して、エルヤキムはアッシリアに貢を送って属国になって神の助けを待つという考え方で、イザヤはどちらかというとエルヤキムの考え方に立っていたのではないか、という推測であります。しかし、明確な根拠はありません。

聖書がここに記しているシェブナの問題点は、そういう政治的なことではなくて、16節では、こう述べられています。

ここでお前は何をしているのか、ここでお前は何者だというのか。ここに自分の墓を掘るとは何事か。高い所に墓を掘り、岩をえぐって住みかを造ろうとする者よ。

 ここでイザヤが問題にしているのは、シェブナが高い所を掘って自分の終の住みかである墓を造ったということであります。

・シェブナの家系については、はっきりしませんが、外国人(アラム人)ではなかったかと言われています。先代のアハズ王の時に用いられて、ヒゼキヤ王になってからも権力者として、豪華な生活を送っていて、高貴なユダヤ人しか墓を造ることが許されていなかった高い所に、自分の墓を造った、その思い上がりと無軌道ぶりを非難しているのではないかと考えられます。

古来、権力者は自分の力を誇示するために、生前に立派な墓を造ります。しかし、ユダヤにおいては、真の権力者は神様であって、王でさえ神から支配を委ねられたに過ぎません。

17節以下には、審きが告げられています。「見よ、主はお前を放り出される。人よ、主はお前を衣のように巻き、ターバンのように丸めてまりを作り、広大な地へ放り出される」と、神がぼろ切れのように捨てられることを告げています。「広大な地」というのは、アッシリアのことであります。アッシリア軍の捕虜になって、連れ去られて、そこで死ぬということであります。造った墓は役に立たないし、権勢の象徴である馬車も捨てられ10節にあるように、地位を追われ、職務から退けられる、というのであります。

イザヤがこのように厳しい審きを語るのは、ただシェブナを非難するためだけではなくて、ユダの民全体に対して警告を発したいからであります。前回22章の前半で学びましたように、アッシリアに貢ぎ物を出したことで、包囲が解かれたのでありますが、エルサレムの民が、まるで勝利したかのように喜んで、「食らえ、飲め」(13)の騒ぎをしていることに対して、イザヤは「この罪は決して赦されることがない」(14)と、鋭い警告を発したのでありましたが、その延長であります。

・この警告はまた、私たちに対する警告として聴かねばなりません。私たちもまた、「高い所に墓を掘る」ような人生を送っていないか、と問われているのではないでしょうか。「高い所に墓を掘る」ということは、この世的な豊かさ、この世で力を持つことを求め、人々から誉れを受けることを望む生き方を象徴的に表わしているのではないでしょうか。そのような生き方に対して、「主はお前を放り出される」、お前の地上の誇りも地位も、天国には持って行くことは出来ないし、むしろサタンの世界に放り出されて、天国に設けられた席からは退けられる、という厳しい警告として受け取らなければならないのではないでしょうか。

2.ダビデの家の鍵

20節から24節までは、一転して、宮廷長エルヤキムの栄光が語られています。21節には、彼にお前の衣を着せ、お前の飾り帯を締めさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる、と述べられていて、シェブナに代わって、エルヤキムが宮廷長の権威を示す衣服を身に着け、支配権を手にし、ユダ族の父と慕われるような存在になる、と宣言されています。

・それだけではありません。22節には、わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう。わたしは、彼を確かなところに打ち込み、かなめとする。彼は父の家にとって栄光の座に着く、とまで言われています。「ダビデの家の鍵を置く」ということは、当時の王であるヒゼキア王以上の権威と力を持つ、と言っているに等しいわけで、これは宮廷長としてのエルヤキムのことを言っているというよりも、終末的人物を視野に入れた預言的な言葉だと考えざるを得ません。

そのことは、これまでイザヤ書の中に何度も出てきた「その日には」という、終わりの日を示す言葉が使われていることからも言えますし、20節で「わが僕」と言われている言葉は、このイザヤ書の後半(42章、49章など)で出てきます「主の僕」に対するのと同じ言い方で、それは、来るべきメシアであるイエス・キリストを示すものだと、新約聖書では受け取られています。

「わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く」という表現は、当時の鍵は大きくて重いものだったので、肩に担がなければならなかったからでありますが、「ダビデの家」とは王の宮廷のことで、その全ての扉の開閉の権限をエルヤキムが受けたということですが、それはダビデの子孫に誕生すると信じられていた救い主メシアが、天の宮廷への扉の開閉の権限を持っておられるということをも意味するわけであります。

お前たちは、選ばれた民だと思って驕り高ぶっているけれども、終わりの日に天国の鍵を握っておられるのは、救い主メシアである、だからイエス・キリストの許しがなければ、誰も天国に入ることは出来ない、というのが、ここで私たちが聴くべきメッセージであります。

冒頭にも触れましたが、ヨハネの黙示録37節は、今日のイザヤ書2222節を引用して、イエス・キリストのことを述べている箇所であります。もう一度、黙示録37節以下を読みます。

 フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった……」(378

・ヨハネ黙示録はアジア州にある七つの教会に宛てられた手紙ですが、この箇所はフィラデルフィアの教会に宛てた部分です。この教会はユダヤ人たちから異端視されて、迫害を受けていました。しかし、「わたしはあなたの行いを知っている」と言われ、「わたしの言葉を守り」と言われているように、忠実に信仰を守り通したことが評価されているのであります。だから、「ダビデの鍵を持つ方」であるイエス・キリストが、「あなたの前に(天国の)門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない」と約束しておられる、という励ましの言葉を伝えているのであります。

・イエス・キリストが私たちのために、天国に至る扉を開いていて下さるのであります。私たちが、天国の扉をこじ開けなければならないのではありません。また、様々な妨げによって、天国への扉が閉ざされてしまうこともないのであります。サタンは私たちが天国に入ることを妨げようとするでしょう。天国へ向かう気持ちを萎えさせようとするかもしれません。しかし、誰も、どんな勢力も、天国への扉に鍵をかけることは出来ないのであります。

3.天の国の鍵を授かった教会

・ところで、「天の国の鍵」という言葉で、もう一つ忘れることが出来ないのは、弟子たちがイエス様から「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われた時に、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた際に、イエス様が言われたお言葉であります。マタイによる福音書1617節以下によりますと、イエス様は、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とおっしゃったあと、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。……わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われました。つまり、天国に入る入らないの鍵は、イエス・キリストを神の子と信じる信仰の上に建てられた教会に授けられた、のであります。

・これは教会自体が、天国に行ける人と行けない人を選別する権限を持っているという意味ではなくて、救いの御言葉が語られるのは、教会をおいて他にはなく、そこでイエス・キリストを信じる信仰が与えられる以外に、救われる道がない、従って天国に通じる扉は教会にしか開かれていない、ということであります。

・この世的な幸せを得る道は色々あるでしょう。安心立命を得る道も色々な教えや宗教があるかもしれない。しかし、天地を創造された神様の許で真の平安を得る道は、主イエス・キリストの体なる教会の他にはありません。それは、神の御心に背くという私たちの根本的な罪の問題が解決されるのは、主イエス・キリストの十字架の贖いによるほかないからであります。

私たちは自分が罪深い人間だとは思いたくありませんし、後ろ指を指されるようなことはしていないと自負している人は多いのであります。何も神様に特別に気に入ってもらわなくても、何とか自分でやっていけるし、今、精一杯生きることが出来さえすれば、死んだ後のことなど、あまり考えたくない、と思っている人が多いのかもしれません。

しかし、歳とともに体が衰えない人はいませんし、突然の病や怪我に襲われることもあります。仕事がうまく行かないこともあります。人間関係がこじれたり、破綻を生じることもあります。ちょっとしたことから、私たちの心は不安に襲われ、元気をなくしたり、まともな判断が出来なくなってしまいます。普段は冷静で強そうに見える人でも、弱さが現れる時があります。

そういう時には、心から頼れるものがほしいのですが、そんな時には、何も信用できなくなってしまうのではないでしょうか。普段から、真に頼れるもの、祈れる対象を持っていないと、急ごしらえでは頼りになりません。これはクリスチャンであっても、言えることであります。神様を信じているといいながら、本気で信頼し、人生を委ね切っていなければ、いざという時に、祈ることも出来ず、信じることも出来なくなってしまいます。天の国の扉は開かれているのに、入ろうともしないということが起こりかねません。

私たちは、イエス・キリストの体なる教会にこそ、天の国に入る鍵があるということを、普段からしっかり身につけておかねばなりません。天国というのは、死んでから初めて行く所ではなくて、普段から出入りするところであります。礼拝というのは、正に地上におりながら天国に出入りすることであります。普段から礼拝に出て、御言葉において神様と出会っていなければ、いざという時に、神様に祈ることも出会うことも出来ません。

4.かなめが抜け落ちることがある

23節を見ますと、わたしは、彼を確かなところに打ち込み、かなめとする。彼は、父の家にとって栄光の座に着く、と言われています。思い上がったシェブナに代わって、国の指導者のかなめとして、エルヤキムが確かなところに打ち込まれたのであります。ダビデ家の宮廷の重要な役割を担う立場に着いたのであります。

・そして、24節に、彼の父の家の栄光はすべて、彼の上に掛けられる。木の芽から葉に至るまで、また、小さな器もすべて、鉢からあらゆる壷に至るまで、とあるように、エルヤキムの働きに大きな期待が掛かけられ、小さなことから大きなことまで、すべて彼の肩に掛かってくるのですが、そのことによって、ダビデ王国の栄光が輝く、というのであります。――この言葉はまた、イエス・キリストこそが、天の国の栄光のために、確かなところに打ち込まれた「かなめ」であることを暗示しております。

更にまた、キリストの体なる教会こそが、父なる神の国の栄光のために、この世に打ち込まれた「かなめ」であることをも告げていると受け取ることが出来ます。

ところが、25節には、恐ろしいことが語られています。

だが、その日には、と万軍の主は言われる。確かなところに打ち込まれていたかなめは抜け落ち、それに掛けられていた重荷は、壊され、落ち、断たれる、と主が語られた。――ここは非常に難解な箇所だとされています。確かなところに打ち込まれた筈のかなめが、抜け落ちて、そこに掛けられた重荷が落ちて壊れる、というのであります。これは、シェブナに代わって職務に着いたエルヤキムも、頼りにならないことがある、という警告であります。この世の指導者であれば、そういうこともあるかもしれません。むしろ、そういうことが常であると思った方がよいでしょう。

しかし、ここで言われているのが終末的な支配者のことであり、新約聖書の立場で読めば、イエス・キリストのことを言っているのであるとすれば、その確かな「かなめ」が抜け落ちて、掛けられた重荷が落しまうというようなことがあるのでしょうか。

・それは、ユダの民が、神の許から遣わされたイエス・キリストを結局は十字架につけてしまうことになることを指し示しているのか、あるいは、キリストの体なる教会といえども、人間の集団である以上、そこに間違いが起こって、父なる神の栄光を現すどころか、人々から委ねられた重荷に耐え切れなくなることがあることを警告しているのでしょうか。――いずれにしましても、イエス・キリスト御自身が、「打ち込まれたかなめ」として耐え切れなくなって、抜け落ちるということはあり得ないことであり、そんなことを語る筈はないのであって、ここではやはり、地上においてイエス・キリストの体を形成している人間の集まりである教会の弱さを指し示していると受け取るのがよいと思われます。

結.わたしはすぐに来る

・最後に、ヨハネの黙示録の先程朗読しました箇所の最後の部分を御覧ください。311節以下を、もう一度読みます。

 「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」(黙示録31113

・厳しい試練の中にあるフィラデルフィアの教会、イザヤの言葉を使えば、「打ち込まれていたかなめが抜け落ちそうになっている」教会に向かって、主は「わたしは、すぐに来る」と言われます。再臨の時が迫っている、ということであります。だから、「あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」と命じられます。「あなたの栄冠」とか「持っているもの」とは、その前に書かれている、「わたしの言葉」すなわち、御言葉、または御言葉への信頼に固く立った生き方を指していると思われます。「あなたは力が弱かった」(8)と言われるフィラデルフィアの教会、そして小さな私たちの伝道所が、打ち込まれたその場所から抜け落ちないために、守らなければならないのは、御言葉への信頼であります。そして、御言葉を守り続ける者には、大きな約束が語られます。それは、「神の神殿の柱にする」つまり、神の教会の重要な構造物の一部にしよう、という約束であり、また、「神の名」と「エルサレムの名」と「わたしの名=イエス・キリストの名」が記されると言われるのであります。

・「ダビデの鍵を持つ方」が約束して下さるこの御言葉を、終わりの時まで、信頼し続ける私たちでありたいと思います。

・お祈りいたします。

祈  り

 ・「ダビデの鍵を持つ方」=イエス・キリストの父なる神様!

・弱い、迷いやすい私たちでありますが、終わりの日に向けての約束の御言葉をいただき、感謝いたします。

どうか、この御言葉を信頼しつつ、残された地上の歩みをなし、与えられた使命を全うする者たちとならせて下さい。

どうか、多くの方々が、ここに開かれている扉から、天国に入ることが許されますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年5月4日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書22:15-25
 説教題:「天国の鍵」     
             説教リストに戻る