「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」                 (ヨハネによる福音書7:37より)

 仮庵祭で泉の水を神殿の祭壇に注ぐ儀式が行われていた時に、主イエスは標記のように述べられ、心の渇きを癒すのは誰であるかを示された。
 イエスは、エルサレムに来られる前に、サマリアで心の渇いている一人の女に出会われた。ヤコブの井戸で、水を汲みに来た女に、旅に疲れたイエスが水を乞われたことから会話が進み、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われた。女は体の渇きや料理に必要な水を求めて井戸に来たのだが、夫を次々と変えて、今は夫がおらず、心の渇きがあることを主は見抜いておられたのである。そしてサマリアの人々も、やがて霊と真理をもって礼拝する時が来ることを述べられ、女が待っているメシアが、「あなたと話しているこのわたしである」と言われた。
 私たちも、この世で生きて行くために必要なものはあるかもしれないが、それらはこの水のようなもので、欲望にはキリがない。「生老病死」の中に思いがけない苦しみが襲うこともある。人には知られない心の傷があり、老人も若い人も渇きがある。主はそのような私たちの渇きを知っておられ、真の命の水を与えて下さる。
 主イエスは十字架上で「わたしは渇く」と言われた。私たちは罪を持っているので、心の渇きがあるが、主は私たちに代わって渇きを体験して下さった。そして、永遠の命に至る水を与え続けて下さる。
 「星の王子さま」は砂漠で水を求めて井戸を探すが、月の光が反射して砂漠が美しく見えた。それは、どこかに泉があるから。でも、その泉は人の目には見えない。そのように、主イエスは目に見えない。しかし、そこに泉があり、その泉を私たちも持つことができる。主は隠れたところに、心の中に、教会を通して、聖霊によって、命の水を注ぎ続けて下さる。
                     (要約文責:山本 清)

米子伝道所特別伝道礼拝説教 要 旨       2008年4月27日 槌本和子牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書7:37−44
 説教題:「渇いた心に いのちの み言葉を」      
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