米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年4月20日  山本 清牧師 

序.福音中の福音――滅び行く者に対して

・今日与えられておりますヨハネによる福音書316節以下の箇所のうち、冒頭の16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉は、「黄金の聖句(ゴールデン・テキスト)」と呼ばれる箇所の一つでありまして、皆様の中には暗誦しておられる方もいらっしゃると思います。

・宗教改革者マルティン・ルターは、この箇所を「福音中の福音」とか「聖書のミニチュア」と言っております。この一句に、聖書の福音が凝縮して語られている、ということであります。

16節以下は、イエス様御自身のお言葉ではなくて、筆者のヨハネが記したものだという説があります。現に、口語訳聖書では、そのような解釈のもとに、「カギ」の外にしてありました。しかし、ヨハネが勝手な自分の見解を述べているのではなくて、伝え聞いたイエス様のお言葉をもとに記している筈でありますから、イエス様自身のお言葉と思って聴けばよいと思います。

・ところで、なぜ、このような貴重な言葉が、この箇所で語られたのか。その経緯を思い起こしてみる必要があります。

・先週学びましたように、この言葉は、イエス様とニコデモとの対話の中で、最初は雄弁だったニコデモが、イエス様に「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われて、「どうして、そんなことがありえましょうか」と黙ってしまい、そこから後(10節以降)はイエス様の言葉が続く、その中で語られたものであります。ニコデモはイエス様のことを、「神のもとから来られた教師である」(2)と評価して、この方から自分の成長につながる何物かを得たいと思って、やって来ていました。しかしイエス様は、「新しく生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」と見られたのであります。2章の24節には、「イエスご自身は彼らを信用されなかった」という厳しい言葉がありますが、イエス様はニコデモをも、そのようなユダヤ人の一人として、信用されなかったのであります。これまでの延長上では、いくら努力しても、滅びに至るしかない者と御覧になったのであります。

・そこでイエス様は、滅びに至らない新しい道をお示しになりました。それが、5節で言われている「水と霊とによって生まれる」ということであり、13節以下で語り始められた、天から降って来て十字架に上げられた人の子(=イエス・キリスト)を信じる道であります。

・私たちもまた、イエス様の目から見るならば、神様に背く罪人であり、イエス様を十字架に架けかねない、信用できない者たちであり、そのままでは滅びに至るしかない者たちなのであります。

・しかし今、主イエスはニコデモをお見捨てにはならずに、渾身の思いを込めて、滅びに至らない新しい道をお示しになったように、私たちにも今日、救いに至る道をお示し下さろうとしておられるのであります。それが、「福音中の福音」と言われる16節の御言葉を中心とした、今日の箇所であります。ここには、神の独り子イエス・キリストによって成して下さった救いの出来事と、それが何のためであったのか、ということが語られています。ここに福音の真髄があります。今日は、この恵みの言葉に、御一緒に耳を傾けたいと思います。

1.神の愛の出来事

16節の前半は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という、神様の愛の御業が語られています。こんなことは、もう皆様よく御存知のことで、改めて言われなくても分かっていると思われるかもしれません。しかし、ここで語られていることは、一度聞いて頭に入れたら済むようなことでしょうか。

そもそもイエス様のお言葉というのは、口先だけのものでもありませんし、単なる情報とか知識ではありません。イエス様のお言葉の後ろには、渾身の愛が込められています。その愛というのは、頭の中、心の中だけのものではありません。御自身の命をかけた行動を伴ったお言葉であります。

「世を愛された」と言われています。「世」というのは、単に世の中一般、というような意味ではなくて、聖書では「神に敵対する人間世界」のことを指します。ヨハネによる福音書110節に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」とありました。この「言」とはイエス・キリストのことであります。人間は皆、主イエスを受け入れず、無視し、亡き者にしようとするのであります。そのような世に、主イエスは来られたのであります。これは、神が起された一つの事件(=出来事)であります。決して、精神上のこと・理念上のことではなくて、血の出るような痛みや苦しみを伴う出来事なのであります。

ですから、聴く方も、ただ頭の中に収めるだけの、単なる知識として聞くだけでは、本当に聴いたことにならないのであります。イエス様の行動に込められた愛を受け止めて、こちらも行動をもって応えなければならないのであります。行動をもって応えるということは、イエス様の真似ごとをして、人に親切にするとか、優しい言葉をかけるとかいうことに留まりません。もちろんそういうことも含まれるかもしれませんが、イエス様が命を賭けて御自分を私たちに差し出して下さったのですから、私たちも、私たちの生き方の全てを、すなわち人生を差し出すということで応えなければ、イエス様のお言葉を本当に受け止めたことにならないのであります。

「その独り子をお与えになったほどに」と言われています。この一言に神様の愛の強さ・深さ・大きさが込められています。

「独り子」とは、二つの意味が込められています。一つは、神の子として<神と類を等しくするお方>という意味で、今一つは<他に同じような方がいない、唯一人の方>という意味であります。つまり、神様は御自身に等しい最高のものを、他にかけがえのない仕方で唯一度だけ、お与え下さった、――それほどの渾身の愛を込めて、私たちに関わっておられる、ということであります。

・「お与えになった」ということは、敵の手に引き渡すということであって、命を差し出すということであります。私たちに命を任されたのであります。と言っても、神の子の命が人間の手によって滅ぼされる筈はありません。十字架の上で死なれた神の子の命は甦ります。しかし、その命は人間に与えられたのであります。私たちが、神の子の命を貰ったのであります。神の子の命に生きる者とされるのであります。――それが、神の愛であります。

2.永遠の命を得る

16節の後半からは、「・・・ために」という言葉が21節までに三度出て来ますが、それは、神様が世を愛して、独り子をお与え下さった目的および結果が語られるのであります。

・まず、16節の後半は「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と言われています。

「滅びる」とは、どういうことでしょうか。この言葉が聖書の中で、どういうところで使われているかを見ますと、ルカによる福音書15章の、「見失った羊の譬え」「無くした銀貨の譬え」「放蕩息子の譬え」の中で、「見失った」とか「無くした」とか「いなくなっていた」といった箇所で使われています。つまり、愛する者のもとから消えてなくなることを意味しているのであります。神の愛のふところから消え去って、失われてしまうことであります。放蕩息子のように、自滅することであります。

「滅びる」の反対が「永遠の命を得る」ということであります。「永遠の命」というのは、いつも言いますように<永久に死なない命>のことではありません。今申しました「滅びる」ことの逆ですから、神の愛のふところに抱かれて生きることであります。放蕩息子が父のもとに立ち返ったように、神様との間の本来の良好な関係を取り戻して生きることであります。

ニコデモとの対話では、3節で「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われ、5節で「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」と言われているように、「新たに生まれる」ということと「神の国に入る」ことに結び付けて語られていましたが、それが15節や、今の16節では「信じる者が…永遠の命を得るためである」と言われていますから、「永遠の命」とは、「新たに生きる」ということであって、それは「神の国に入る」ということにつながっているわけであります。「神の国に入る」とは、どこか別世界に行くことではなくて、神の愛のふところで生きること、神様の御支配のもとで、安心して生きることであります。

先程、ダニエル書12章を朗読していただきましたが、そこには、終わりの時についてのダニエルが見た幻が書かれていました。「その時まで、苦難が続く、国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」(13行目~2節)――ダニエル書というのは、紀元前200年前後に書かれたものと考えられますが、苦難の中で解放の時の幻を見ているわけであります。ですから、終わりの時と言っても、救い主イエス・キリストの最初の到来の時と、再臨の時とが重なった幻であると見た方がよいかもしれません。

・この中で、「その時には、…多くの者が…眠りから目覚めて、…ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と言われています。イエス様は、この幻の中で言われていた「永遠の生命」が、イエス様を信じることによって得られる、とおっしゃるのであります。

3.裁くためでなく、救われるため

・さて、独り子が与えられた目的の二つ目は、17,18節で言われていることになりますが、17節には、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁かれるためではなく、御子によって世が救われるためである」とあります。

・「裁く」と訳されている言葉は「区別する」「分ける」という意味の言葉であります。神様が御子を世に遣わして下さった目的は、「世」の人々を裁いて(つまり区別して)、救われる人と救われない人に分けるのではなくて、御子によって「世」の全ての人が救われるためである、と言われているのであります。神様を受け入れる人も、受け入れない人も、罪深い人も、そうでない人も、ユダヤ人も異邦人も、区別なく救われるために、御子が来られた、というのであります。救いの扉は全ての人に開かれているのであります。永遠の命は全ての人が受けられる可能性があるのです。神の国は全ての人に開かれているのであります。

・ところが、18節で言われているように、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」のであります。御子イエス・キリストによって、区別なく救われるのでありますが、その御子を信じるか信じないかは、決定的であります。信じないならば救いの扉は閉じられてしまい、裁き(=区別)が行われるのであります。それは、18節後半に「神の独り子の名を信じないからである」と語られている通りであります。

・ここで「御子を信じる者は裁かれない」と言われている部分は、現在形で書かれています。将来裁かれないということではなく、現在裁かれないということで、終わりの時ではなくて、今キリストを信じるなら、救われる、ということであります。一方、「信じない者は既に裁かれている」とありますが、ここは現在完了形という形が使われていて、既に裁かれた状態にあるということであります。――当時のユダヤ人は、裁きというのは、将来やって来る終わりの時に行われる、と考えていました。私たちも、決定的な裁きは、終末の時に行われる、それまでに態度を決定すればよいとか、それまでに信仰の研鑽を積めばよい、と呑気に考え勝ちであります。しかし、イエス様が言われているのは、御子イエス・キリストが来て下さった時、即ち、私たちにとっては御言葉によってイエス・キリストに出会った今、信じるかどうかで、裁かれるか裁かれないか、救われるか救われないかが決まってしまう、ということであります。

・これは、脅しではありません。主イエスが来られたということ、そして、このようにして礼拝において御言葉が語られているということは、決定的な救いの御業が行われているのであって、終末的な出来事が起こっているのであります。

4.闇から光へ

・独り子か来られた目的として、三つ目に語られていることは、19節以下であります。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

ここには、光であるイエス・キリストがこの世に来られた目的は、世の人々を闇から光へ移す、ということにあると言われています。

「闇」とは、「光」のない世界であります。悪と罪が覆っている世界であります。この世は「闇」でありましたが、そこに「光」であるキリストが来て下さいました。しかし、世の人々は光よりも闇を好んだのであります。なぜ、光よりも闇を好んだのか。それは、「その行いが悪いので」と言われており、更に20節では、「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」と説明されています。光であるイエス・キリストが来て下さったのに、その光のもとに来ようとしないのは、悪い行いが明るみに出されるのが恐ろしいからなのだ、と言われているのであります。なぜ、礼拝に来てイエス様の前に出たがらない人がいるのか、なぜ、礼拝に出ていても私たちに喜びがないのかと言えば、イエス様の光に照らされて、悪い行いが明るみに出されるのが恐しくて、まともにイエス様と向かい合っていないからだ、と言われているのであります。

・「悪い行い」とは、私たちが日頃行なっている悪いこと、神様の御心に反する行いのことでありますが、より根本的には、神様の方を向いていない罪の中にあることであります。神様の御心に従うのではなくて、自分の思いで生きていることであります。そこに光が当てられるのが恐いのであります。

19節の最後には「それが、もう裁きになっている」と言われています。「裁き」をなさるのは、神様かと思っておりますが、17節でも言われていましたように、神様は、世を裁くためではなく、世を救うために御子を遣わして下さったのであります。裁きは神様がなさるというよりも、むしろ私たちの方が闇の中に逃げ込んで、それが、もう裁きになっているのではないか、と言われているのであります。この言葉を厳しく受け止めねばなりません。

・次の21節は、悪を行う人とは反対の、「真理を行なう者」について語られています。真理を行なう者は、悪を行なう者と違って、喜んで光の方に、イエス様の方に来る、と言うのであります。それは、なぜでしょうか。自信があるからでしょうか。光のもとに曝されても、恥ずかしくないほどに、自分は正しい人間だと思っているからでしょうか。――そうではないようであります。21節の後半を見ますと、「その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と言われています。「神に導かれてなされた」というところは、直訳しますと、「神において(の中で)なされた」となります。<自分において(の中で)>ではなくて、その行いが神様の導きの内に行われるから、真理を行なうことにつながるのであります。神様の御心を伺わずに、自分の考えで、自分の力だけでやっているだけでは、たとえこの世で立派だとされていることであっても、それは「真理を行う」ことにはなりません。神に問いつつ、祈りつつするからこそ、それが神に導かれてなされたのだということが、神に光のもとで明らかになるのであります。

・イエス様は光としてこの世に来られました。しかし、人々は光を憎み、受け入れませんでした。そしてついに、光である方を十字架につけて、光を消そうとしました。しかし、そのことで光が消えることはありませんでした。むしろそのことによって、光は闇に勝ったのであります。そのような主イエスの光に導かれて歩む人のことを「真理を行う者」と言っているのであります。私たちは皆、闇の中に隠れて、光の方に出て来ようとしません。しかし、主イエスが私たちのところに入り込んで来て下さって、その光で明るみに連れ出して下さるのであります。それが、2000年前に行なわれた出来事であり、今、礼拝において私たちに起こっている救いの出来事であります。

結.一人も滅びないで

・今日の箇所には、独り子が遣わされた三つの目的が語られていました。一つは16節にありました、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であり、二つ目は17,18節にあったように、「御子を信じる者が裁かれずに、救われるため」であり、三つ目は19節以下にあるように、「光を憎んで悪を行うのでなくて、光の方に来て、神に導かれて真理の行いがなされたことが明らかになるため」でありました。これら三つのことは、別々のことではなくて、神の国に入れられるという一つのことの言い換えであります。私たちは、神が遣わされた御子イエス・キリストを信じることによって、永遠の命に入れられ、救われ、光のもとに引き出されるのであります。

最後に、16節の「一人も滅びないで」という言葉に注目したいと思います。「一人も」と言っても、<万人が>という意味ではありません。万人救済を言っているのではありません。その前に「独り子を信じる者が」という条件がつけられています。独り子を信じるならば、「一人も滅びない」のであります。しかし、神様は、クリスチャンになった者だけを愛されて、それ以外の人には関心がない、ということではありません。神様は御自分が造られた全人類を愛されており、お救いになりたいし、全ての人が永遠の命に生きることを望んでおられるのであります。万人救済を望んでおられるのであります。だからこそ、独り子をも惜しまず、お遣わしになったのであります。けれども、その主イエスを受け入れて信じないならば、どんなに立派なことをしても、どんな悟りを開いても、決して救われることはありません。しかし、神が遣わして下さった独り子イエス・キリストを信じるならば、たとえ、はじめは光を憎んでいた者も、行いが悪かった者も、一人も滅びないどころか、光のもとで、永遠の命に生かしていただけ、救われて、神の国に入れられるのであります。これは、大きな福音――まさに、福音中の福音であります。
・祈りましょう。

祈  り

独り子をお与えになったほどに、私たちを愛して下さった神様!

滅びるべき者、裁かれるべき者、闇の中にある者である私たちを、御子によって赦し、光のもとに引き出し、永遠の命をお与え下さいました恵みを感謝いたします。

どうか、明るみを恐れて、いつの間にか闇の方へ向かいがちな私たちを、常に御言葉をもってお導き下さい。どうか、私たちの行いや言葉を清めて下さって、明るみの中に出されても恐れる必要がないようにして下さい。

どうか、御子を信じるかどうか、まだ迷いの内にある者を、強い御手をもって、光のもとに引き寄せて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 聖  書:ヨハネによる福音書3:16-21
 説教題:「一人も滅びないで」    
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