「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」     (ヨハネによる福音書3:3)

 ニコデモはファリサイ派に属し、ユダヤ議会の議員でありながら、イエスに対して批判的ではなく、むしろイエスの言動を見聞きして、素直に尊敬の念を抱き、この人から自分にはないものを得られるのではないかと期待し、秘かにイエスを訪れて、「神のもとから来られた教師」「神が共におられる」と、言葉を尽してイエスを称えた。
 ところが主イエスは、標記のように答えられたのである。これは、彼が今もっているものの延長や拡大では神の国に入ることは出来ず、全く新たに生まれ変わる以外にない、との宣告である。ニコデモは当惑しつつ、母親の胎内に入るように、これまでの人生で獲得したものを全部捨てて、最初からやり直すことが、どうして出来るだろうかと反問する。それに対して主イエスは、水と霊(洗礼と聖霊の働き)による新生の可能性を述べられ、滅ぶべき「肉」とは全く異なる「霊(=風)」の自由な働きについて語られた。ニコデモはますます分からなくなって、「どうして」を繰り返す。以後は、主イエスが独りで語り続けられ、かつてイスラエルの民が罪を犯したために多くの者が蛇に噛まれた時に、神がモーセに蛇を竿の先に掲げさせて助かった、という故事を引きながら、御自分が十字架に上げられることによって、イエスを信じる者が皆、永遠の命を得ると話された。
 ニコデモは主イエスの話を聞いた結果、あの金持ちの青年のように、すごすごと主のもとから立ち去ったのであろうか。カール・バルトは「この物語は、真の、正しい、典型的な回心の物語である」と言う。はじめ、イエスを高く評価し、断定的に語っていたニコデモが、やがて主の言葉によって、どうして」と問う者となり、遂には沈黙して、主イエスだけが語られる。ここに本当の回心があると言うのだ。私たちが、<これこそ素晴らしい生き方>と断言するのでなく、自分の欠点や罪にどうしてよいかわからなくなって、主の言葉に耳を傾けることしか出来なくなった時、私たちの新しい命がまるのだ。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年4月13日 山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書3:1−15
 説教題:「新たに生まれる」              
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