米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年4月13日  山本 清牧師 

序.主イエスに信用されない者として

・先週は、ヨハネによる福音書2章の後半に書かれている、イエス様が神殿から商人を追い出された御業について聴きました。

・神殿に献げる動物を売っていた商人や、献金をするための貨幣を両替する人たちを、イエス様が神殿の境内から追い出したのは、ただ、神聖な場所で商売をしていることが気に入らないということではなくて、神殿で行われている事柄全体が、偽善に満ちていて、真実な礼拝が行われていなかったことをお怒りになったからでありました。そして、イエス様が「神殿を三日で建て直してみせる」とおっしゃったのは、神殿の建物のことを言われたのではなくて、イエス様御自身の体のことであって、主イエスは御自分が十字架で殺され、三日目に復活されることによって、礼拝を根本的に改革されることを宣言されたのでした。

・この礼拝の改革というのは、制度や組織の改革のことではなくて、私たちが心から悔い改めて、神様の前にぬかずく真実の礼拝を回復することでありました。

・さて、今日の3章前半は、ニコデモというファリサイ派の議員とイエス様の対話が記されています。これは、一見、先週の話とは独立した話であるように見えるのですが、実は深くつながっているのであります。先週の神殿での話と、今日の箇所との間の、223節から25節には、イエス様が過越祭の間、エルサレムにおられたが、その間にイエス様がなさった「しるし」即ち奇跡の業を見て、多くの人がイエス様を信じたのだけれども、イエス様は彼らの心の中を見通しておられて、彼らを信用されなかった、ということが書かれています。つまり、主イエスは人々がやがて主を裏切り、十字架につける人々であると見ておられ、彼らが主イエスを見る目は改められなければならず、彼らの礼拝は改革されなければならないと考えておられたのであります。

・そして、今日の箇所に登場するニコデモは、イエス様の目から見るならば、信用できない人であり、主イエスに対する見方を変えなければならない人、礼拝を改革されなければならない人の代表としてイエス様の前にやって来るのであります。――このように、先週の箇所と今日の箇所は、真実の礼拝への改革というテーマでつながっているのであります。

・先週、私は、<主イエスが私たちを信用しておられないという事実を厳粛に受け止めなければならない>ということを申しましたが、その主イエスが私たちと同じように信用されていないニコデモと、どのような会話をされたのか、そこには何が起こっているのか、そして主は私たちに何を起そうとしておられるのかを聴いて参りたいと思うのであります。

1.夜、イエスのもとに

・さて、1節を見ますと、ニコデモのことを、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった、と紹介しています。ファリサイ派というのは、忠実に律法を守って、自分たちの正しさを誇っている人たちで、福音書の中ではしばしばイエス様と対決する人たちであります。彼らは、イエス様が神殿で商人たちを追い出されたことについても、けしからぬことをする奴だと考えていたに違いないのであります。しかし、ニコデモの見方はちょっと違っていたようであります。2章の23節に「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」と書かれていますが、おそらくニコデモもイエス様のなさった素晴らしい業を見て、素直に尊敬の念を抱くようになった一人ではないかということが、この後の2節の言葉からも推測されるのであります。また、ユダヤ議会の議員でもあったようで、ユダヤ社会の中で、かなり高い地位を得ていた人物でもありました。

・このニコデモという人のことは、ヨハネ福音書では、ここ以外に二回出てきます。一つは、750節以下ですが、ファリサイ派の人たちが、<誰もイエスを信じる人なんかいない>と言っていたときに、ニコデモは、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と、公平な立場での発言をしております。今一つは、イエス様の遺体が十字架から取り降ろされた時、弟子たちは皆、逃げてしまっていましたが、ニコデモは香料を持ってきて、遺体に添えて亜麻布で包んだと書かれています(19:39以下)。こうした行動から、ニコデモは誠実な人物であり、イエス様に対して、最後まで敬意の念を持っていたことが伺えるのであります。

そのニコデモが2節によれば、ある夜、イエスのもとに来ました。わざわざ「夜」に来たと書いているのは、人目を避けて来たということであります。ファリサイ派に属しているという立場、議会の議員であるという身分から、昼間に公然とイエス様を訪れると、あらぬ噂を立てられることを恐れたのでしょう。イエス様に深い関心を寄せ、敬意の念さえ抱いていましたが、昼間に堂々と来ることが出来なかったところに、ためらいと弱さを見ることが出来ると言わざるを得ません。

では、私たちはどうなのでしょうか。私たちはこうして教会にやって来て、イエス様の前に出ることで、人の目を気にしなければならない、ということは殆どないかもしれません。今はキリスト教が白い目で見られたり、迫害されていた時代ではないことを喜ばなければなりません。しかし、キリスト教にのめり込むことには、警戒心があるかもしれません。家の宗教と違うので深入り出来ないとか、キリスト教の信仰というものに、まだ身を投げ出すというところまで行かない求道者もおられるかもしれません。

・では、洗礼を受けて、長く信仰生活を続けている人は、このニコデモのようなことはないと言えるのでしょうか。「イエス御自身は彼らを信用されなかった」と言われているのは、まだ信仰告白に至っていない人のことで、既に信仰を持った人は、イエス様に信用されていると言えるのでしょうか。そのことは、ここから始まるニコデモとイエス様の対話の中で明らかになって参ります。

2.神のもとから来られた教師

・イエスのもとに来たニコデモは、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言います。

・まず、「ラビ」と言っております。これは「先生」という呼びかけであります。ニコデモの方が年長者で高い地位にありながら、若い青年のイエス様に向かって、このように呼びかけているということは、それなりの敬意を込めていることが伺えます。

・そのあと、イエス様について述べていることは、おべんちゃらでも外交辞令でもありません。「あなたのなさるようなしるし」というのは、奇跡が行われたことを指します。イエス様がなさっている奇跡の業などから判断すると、イエス様は只者ではない、きっと神様の力を受けておられるに違いない、と心底思っているのであります。だからこそ、わざわざやって来たのであります。

ニコデモがイエス様を訪れたのは、イエス様の様子を探ろうとか、イエス様の弱点を探し出そうというような悪い魂胆からではなくて、イエス様の言動に、本気で惹かれるものを感じたのでありましょう。仲間のファリサイ派の人たちや議会の人たちは、イエス様を、神を恐れない不届き者、人をそそのかす危険な人物と見ていました。しかしニコデモはそのようには見ていません。

ニコデモがこれまでに築いてきた人生は、他人から見れば羨まれ、尊敬されるような人生でしたが、自分の中では何か物足りないものを感じていたのではないでしょうか。イエス様の言動を見聞きして、この人には自分にはない素晴らしいものがありそうに思えたのでありましょう。

「神から来られた教師」という表現を使っています。当時のユダヤ人はモーセのような預言者が遣わされて、奇跡を行うということを信じていたようですから、このニコデモの表現はイエス様を「モーセのような預言者」と見做していることを示しています。

「神が共におられるのでなければ」とも言っております。これは人間に与えられる普通の賜物を越えた、神から特別に与えられる賜物を持っているということを意味しています。この人こそ、自分に欠けているものを満たしてくれる方、自分に新しい光をもたらせてくれる方、という思いを、精一杯述べているのであります。

こういう思いや期待は、求道者に限らず、長く信仰生活を続けている者も持っているものではないでしょうか。私たちは、キリスト教がいわゆる御利益宗教ではないと分かっていますから、商売繁盛とか試験に受かるとかいうような願いが直接かなえられることだけを期待はしていないかもしれません。しかし、私たちがなぜ教会に来ているかと言えば、私たちの心の持ち方とか生き方にプラスになるものが与えられるのではないか、自分の苦しみや重荷を軽くされるような心の癒しを受けられるのではないか、自分の足りないところが補われて、将来に向けて生き方の指針や希望が与えられるのではないか、というような期待を抱いているからではないでしょうか。そういう意味で、ニコデモのこの言葉は、私たち自身の思いと期待を代弁したものであるということが出来ます。このような期待を込めた言葉を、イエス様は喜んで受け入れて下さる筈だ、と私たちは思っています。

3.新しく生まれなければ

・ところが、ニコデモの言葉に対する主イエスの答はこうでした。 「はっきり言っておく。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3)

「はっきり言っておく」と訳されている元の言葉は、「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」でありまして、ヨハネ福音書ではイエス様が非常に大切なことを告げられる際に用いられる言い方であります。だから、心して聴かなければなりません。

「神の国」というのは、<神の支配>という意味であります。ですから、「神の国を見る」とは、<神の御支配を知る>とか<神の御支配の下に入る>ということであります。

・ニコデモが「あなたが神のもとから来られた」とか「神が共におられる」と断言したのに対して、主イエスは、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と断言されました。ニコデモが、いかにも神のことが分かっているかのような言い方をしたのに対して、主イエスは、<あなたは神の国のことがまだ分かっていない>し、<生まれ変わらなければ、神の国を知ることも、神の国に入ることも出来ない>と言っておられるのであります。これは、ニコデモや私たちの願いや期待を拒否されたかのようなお答えであります。

「新しく生まれる」とは、どういうことでしょうか。「新しく」と訳されている言葉の本来の意味は、「上から」ということです。つまり、地上の私たちの方から生まれ変わるのではなくて、上からの力を受けて生まれ変わる、ということであります。今持っている条件や現実の延長上とか、その拡大としてでは、神の国を見ることは出来ず、全く新たに、上からの(神からの)働きかけによって生まれ変わるのでなければ、神の国を見ることは出来ない、とおっしゃったのであります。

ニコデモは、イエス様から何かアドバイスをいただいたり、示唆を与えられれば、光が見えてくる、展望が開ける、神の救いに到達できる、と思って期待していたのでしょうが、主イエスの答えを聞いて、大きな壁にぶち当たったような気がしたのではないでしょうか。それで、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言いました。

「母親の胎内に入る」というようなことは、誰もできません。イエス様の言われたことは、それほどに不可能に近いことだ、とニコデモは理解したのであります。イエス様のおっしゃることは、母親の胎内に入るほどに、これまでの人生や自分の立場を全部捨てて、最初からやり直すことであって、現在の自分を否定するようなことで、自分にはとても出来ない、と思ったのであります。

私たちは皆、それぞれに、これまでの人生を引きずっています。ニコデモほどに高い身分を獲得していないにしても、それなりに築いて来た立場があります。先祖伝来のものや、家族との大切な絆もあります。仕事の上での繋がりや経済的な拠り所もあります。それらを全部捨てて新しく生まれ変わることが出来るでしょうか。けれども、神の国を見るには、これまでの人生の延長ではだめだ、と言われるのであります。私たちの人生には、既に罪が纏(まと)いついています。今後、少しずつ軌道修正すれば神の国に入れるとか、善い行いを積み重ねれば神様の御心にかなった人物になれるというものではないのであります。私たちは皆、新しく生まれなければ、神の国に入ることは出来ない、と宣告されているのであります。そんなことは、とても出来ないことであります。

それに対して、主イエスは5節で、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいます。新しく生まれる方法がないわけではない。それは、「水と霊とによって生まれる」ことだ、と言われるのであります。「水と霊」というのは、洗礼のことを指していると理解してよいでしょう。私たちは、洗礼では、水で清める儀式を行いますが、そのときに聖霊が働いて、古い人間が死んで、新しい人間に生まれ変わる、と信じています。それは、肉体的な人間の生まれ変わりではありませんし、今までの人生を反省して、もう一度人生を一からやり直すことでもありません。聖霊によって生まれ変わることであります。

イエス様は更におっしゃいます。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」――ここでは、肉と霊とが、全く対立するものとして語られています。「肉」というのは、やがて死んで滅びる命のことであります。それに対して、「霊」というのは、上から(神から)与えられる新しい命のことであって、それらは別々のもので、その間には、何の橋渡しもない、と言われているのであります。ニコデモはまだ、肉の命、即ち従来の人生の延長線上で生きることしか頭になくて、新しい霊の命に生きることと結びついていない、ということを御指摘になったのです。

しかし、イエス様がこのようにおっしゃっただけでは、ニコデモには通じないと思われたのでしょう。それに続いて、「霊」のことを「風」に譬えてお話になっています。「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」――実は「霊」という言葉と「風」という言葉は、ギリシャ語では、同じ言葉であります。どちらも目には見えませんが、風が吹いて物が動かされるのは分かるように、霊が働いて人間が変えられるのを見ることは出来ますし、風が自由に吹くように、霊も人間の思いを超えて自由に働くのであります。

4.人の子も上げられねばならない

・けれども、このようなイエス様のお言葉を聞いて、ニコデモはますます訳が分からなくなって、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言っております。イエス様のおっしゃるように、人の手の届かないところから聖霊が下るのを待たなければならないとしたら、自分たちはどうしようもないではないか、何をしていいか分からないではないか、ということになります。それでは納得できません。

・このあとイエス様は10節で、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」とおっしゃり、一人で話を続けられます。謎のような言葉が続いていて、ニコデモが結局、分かったのか最後まで分からなかったのか、よく分かりません。

・しかし、13節以下を見て下さい。こう言われています(1315)「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

ここで「人の子」と言われているのは、イエス様自身のことであります。結局、神様のところから来られたイエス様しか、神様のことは分からない、ということです。そして、「モーセが荒れ野で蛇を上げた」と言われているのは、民数記21章に記されている故事のことですが、イスラエルの民の中で罪を犯した者が、神から遣わされた蛇に噛まれて、多数の死者が出たときに、人々は悔い改めて、蛇を取り除いて下さいと祈ると、神はモーセに、蛇を旗竿の先に掲げて、それを蛇に噛まれた者が見たら、命が助かる、と言われたのであります。主イエスはその蛇に自分を重ねながら、「人の子も上げられねばならない」と言われて、十字架に上げられることによって救われることを言われたのであります。

・これまでニコデモとイエス様の話が噛み合わなかったのは、ニコデモはイエス様のことを、自分を向上させて下さる指導者、神の国に入るにはどうすればよいかを教えて下さる教師として尊敬していましたが、天から降って来た神の子とは考えていなかったからであります。

イエス様は単なる指導者や教師ではありません。イエス様御自身 が神の国を治めるお方であります。イエス様の御支配に服することが、神の国に入ることであります。ですから、イエス様をいくら尊敬して、熱心に何かを教えてもらおうとしても、トンチンカンな会話しか出来ないのであります。神の子であるイエス様の前にひれ伏して礼拝するのでなければ、神の国に入ったことにはならないのであります。

私たちが教会の教えに従って何らかの努力をしたら、神の国に入れるのではなくて、何の取り柄もない私たちですけれど、自らの罪を悔いて赦しを乞うならば、イエス様が私たちを救って下さり、神の国へ入れて下さるということであり、それが新しく生まれるということなのであります。

結.本当の回心

・ところで、ニコデモとイエス様の対話の結末はどうなったのでしょうか。すごい意気込みでやって来たニコデモは、イエス様のお話しを聞いて、納得できたのでしょうか。それとも話が噛み合わないまま、すごすごと立ち去ったのでしょうか。

他の福音書では、イエス様を陥れようとしてやって来たファリサイ派の人たちや律法学者は、イエス様との論争に完敗して立ち去っています。イエス様から永遠の生命を得る方法を教えてもらおうとしてやって来た金持ちの青年の場合は、持ち物を売り払って貧しい人々に施すように言われて、悲しみながら立ち去りました。

ニコデモの場合はどうだったのでしょうか。イエス様のお話について行けないまま、スゴスゴと立ち去ったのか、それとも、悔い改めて主イエスを礼拝するところまで導かれたのか、聖書に結末は書かれていません。

しかし、神学者カール・バルトは、その説教の中で、「この物語は、真の、正しい、典型的な回心物語である」と言っております。なぜそう言えるのでしょうか。――最初は、ニコデモは極めて雄弁でありました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」などと、断言しています。この段階では、ニコデモが主人公になって、イエス様の評価を下しています。これは、イエス様を尊敬しているようでいて、実は最も信仰から遠い状態であります。

このニコデモに対して、イエス様は「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ここで、ニコデモの断言に対して、いわばストップがかけられます。

自分の判断を超えることを言われて、ニコデモは、「どうして、生まれることができましょう。」(4)、「どうして、そんなことがありえましょうか」(9)という問を発します。ニコデモのこれまでの経験や判断が役に立たないのだということが示されます。そしてただ、イエス様に「どうして」と問うことしか出来なくなります。

そして10節以下では、遂に、ニコデモは沈黙してしまって、イエス様だけがお語りになります。そして、一方的に、神様の救いの御業、即ち十字架のことだけが語られるのであります。

ニコデモの断言が、問いかけに変わり、遂に沈黙してしまい、イエス様だけが語られる――これこそが、本当の回心であり、真に「新たに生まれる」ことなのであります。つまり、真の回心とは、私たちが何かを理解出来たとか、真理を悟ったとか、私たちが大きな決心をしたとか、確信出来たというように、「私」が主人公になることではなくて、イエス様が、私たちの新しい生き方の主人公になられる、ということであります。

私たちが<これこそ新しい生き方だ><これこそクリスチャンに相応しいあり方だ>と断言することではなくて、自分ではどうしてよいか分からなくなって、自分の欠点や罪の大きさの前に、おののきつつ、途方に暮れて、もはやイエス様の語られるお言葉だけに耳を傾けることしか出来なくなった時――それが、回心というものなのであります。

224節に、「イエス御自身は彼らを信用されなかった」とありました。イエス様は、人間の称賛や人々の評価に枕することをなさらず、孤独な十字架の道を歩まれました。そして、その道だけが、私たちを救い得る道なのであります。それは、他の者が代わったり、助けたりすることが出来ない道であります。そして、このイエス様の御業を、ただ聴いて受け入れることが、私たちの本当の回心の道であり、永遠の命を得ることなのであります。
・祈りましょう。

祈  り

主なる神様!

私たちは罪深い者であります。私たちが主イエス・キリストを評価しようとしていました。そのような思い上がりをお赦し下さい。

・今日、あなたが、私たちの勝手な思いを打ち砕いて、イエス・キリストの前にぬかずかせて下さいましたことを感謝いたします。

・どうか、私たちの弱さも欠点も、すべて御存知の主が、御心のままに、私たちを導き、用いて下さい。

・どうか、新しい命に生きることを許して下さい。そして神の国を信じて、待ち望む者とならせて下さい。 
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 聖  書:ヨハネによる福音書3:1-15
 説教題:「新しく生まれる」    
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