序.過越祭に神殿へ

・今日与えられておりますヨハネによる福音書213節以下の個所の冒頭に、ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた、とあります。この福音書のこれまでの記述によりますと、洗礼者ヨハネが活動していたヨルダン川の南の方のベタニアの付近で、主イエスは5人の弟子を召された後、北の方のガリラヤ地方に行かれて、そこのカナという所で、婚礼に出席されたのでありますが、その後、12節に書かれていますように、ガリラヤ湖畔にあるカファルナウムに下って行かれました。こうして、ガリラヤ地方での伝道活動を開始されたのでありますが、幾日か滞在されると、南の方のエルサレムに上られたのであります。それは過越祭が近づいていたからであります。

・他の福音書によりますと、エルサレムに上られたのは、十字架の時が近づいた、最後の受難週ということになっているのですが、ヨハネ福音書によりますと、それまでに少なくとも2回、エルサレムを訪問しておられ、しかもいずれも過越祭の期間中らしいのであります。他の福音書が最後のエルサレム行きのことしか記していないのに、ヨハネ福音書が3回も記しているのは、この福音書の著者は、主イエスが過越祭に出かけられたことに重要な意味を見出しているからであります。

・では、その意味とは何でしょうか。その手掛かりは、先に1章で洗礼者ヨハネが主イエスのことを弟子たちに「神の小羊」と言って紹介したことを2回記している(29節と36)ことに見出せるように思います。「神の小羊」というのは、人間の罪を贖うために犠牲となる羊という意味で、神殿で羊の血を祭壇に注ぐ儀式が過越祭の時に行われていたのですが、その羊の役割を主イエスがされる、ということを表わしております。そのことは、先週聴きましたヘブライ人への手紙でも言われていたことであります。

・その儀式が過越祭に行われるのは、かつてイスラエルの民がエジプトにいた時、エジプト中の初子が殺された時に、羊の血を柱と鴨居に塗っていたイスラエル人の家だけは、殺す者が過越したという故事を記念するためでありました。

・けれどもこの当時、その過越祭の儀式は形骸化しておりました。そして主イエスは、神殿で行われるそのような形骸化した礼拝を改革しなければならないと考えておられたのであります。主イエスが毎年の過越祭にエルサレムの神殿に上られたのは、一人のユダヤ人として宗教行事に参加するためというだけではなくて、過越祭と神殿礼拝の根本的な改革を御自分が行わなければならないと考えておられたからだ、ということを著者は言いたいのではないでしょうか。

・ところで、礼拝が形骸化するという問題は、実は2000年前にエルサレムの神殿で行われていた礼拝だけの問題ではありません。私たちのキリスト教の礼拝においても、形の上では礼拝が行なわれていても、いつのまにか真実の礼拝が失われてしまうことがあります。そのために、宗教改革をはじめ、礼拝の改革が行なわれてきました。私たち自身も、日曜ごとに礼拝に出かけていても、惰性で礼拝を行っているとか、自己満足しているだけで、真実の悔い改めや心からの賛美が失われてしまっているということがないでしょうか。

・主イエスは神殿の礼拝の改革を行なうために、過越祭にエルサレムに上られましたが、私たちの礼拝を改革するために、私たちのところにも来て下さるのではではないでしょうか。今日は、主イエスが私たちの礼拝をどのように御覧になっているだろうかということを問いつつ、ここに記されている主イエスの行動とお言葉を見て行きたいと思います。

1.鞭をふるうイエス

14節には、そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった、とあります。

・「神殿の境内」と書かれていますが、そこはおそらく神殿の外側の「異邦人の庭」と呼ばれていた所であると思われますが、そこで売っていた「牛や羊や鳩」というのは、神殿で献げる犠牲の動物であります。地方からやって来る人たちが牛や羊を連れて来ることは出来ませんので、境内で売っていたのであります。「両替をしている者」というのは、神殿にやって来るユダヤ人の中には外国に住んでいる人たちもいましたから、その人たちは普段使っているローマやギリシャの貨幣をユダヤの貨幣に両替しなければ、神殿で献げることが出来ませんので、そういう人たちの便宜をはかるために、両替所を開設していたわけであります。 

こうしたお店は、礼拝に来る人たちのために便利な施設で、神殿には欠かせないものでありましたから、神殿を管理する祭司はお金を取って許可を与えて、商売することを公認していたのであります。このように、境内のお店は、礼拝に来た人にとっては便利だし、祭司にとってはよい収入源になるし、商人たちにとっては儲けになるので、誰にとっても不都合はなかったのであります。

・ところが主イエスはそれらを御覧になって、不都合を感じられたのであります。というよりも、怒りを感じられたのであります。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒されたのであります。ここにはお優しいイエス様のお姿はありません。激しくお怒りになり、行動される主イエスがおられます。このように感情をあらわにされるお姿は、主イエスに相応しいのでしょうか。もっと泰然と構えておられる方が似つかわしいのではないでしょうか。なぜ主イエスはこれほど過激な行動に出られたのでしょうか。

・イエス様は罪人とされていた収税人を御自分の弟子にされました。夫を何人も換えたふしだらなサマリアの女から水を飲ませてもらわれました。姦通の現場で捕えられた女をお赦しになりました。そのイエス様が、礼拝する者にとっては便利であるし、公認されてもいる商売を、なぜ実力をもって妨害するようなことまでされたのでしょうか。

・確かに、境内で商売が行なわれている背景には、不正とは言えないまでも、祭司が利権を高く売りつけて、懐を肥やしていたことは十分に考えられることですし、商人たちは、礼拝者たちの弱みにつけ込んで、高い値段で売りつけたり、両替をしている者たちは法外な手数料を取っていたのかもしれません。神聖であるべき場所が、そのような利権の場になってしまっていることは、問題だと言えるかもしれません。しかし、それならもう少し穏便に、冷静に、彼らの問題を指摘して、不正が改められるように仕向けてもよかったのではないか、とも思えるのであります。なぜ、鞭を振るって動物を追い出し、両替人の金をまき散らして台を倒すような感情的とも思える行動をおこされたのでしょうか。

2.父の家を商売の家に

16節を見ていただきますと、こう書かれています。鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

・ここで主イエスは神殿のことを「わたしの父の家」とおっしゃっています。「父の家」という言い方で思い出すのは、イエス様が十二歳になった過越祭に、両親と一緒に初めてエルサレムに行かれたときのことであります。御両親が少年イエスを見失って、三日間探した挙句、神殿で学者たちと話しているのを見つけたとき、イエス様がおっしゃった言葉は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2:49)でありました。少年イエスはエルサレムの神殿を「自分の父の家」と思っておられたのであります。ということは、自分は「神の子」であると、自覚されていたということでもあります。そのイエスが成長されて、洗礼者ヨハネによって洗礼をお受けになったときに、天から聖霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)という声を聞かれたのでありました。その主イエスにとって、神殿は正に、「父の家」であり、父なる神の御支配に服して、礼拝を行う場所であり、「祈りの家」(マタイ21:13)であるべき場所であります。しかるにそこでは、動物を献げることはするけれども、心から悔い改めて神様を礼拝することも、祈ることも行われておらず、ただ商売が行われているのを御覧になった(見抜かれた)のであります。

・「商売の家」とおっしゃったのは、ただ神聖な場所で商売が行われているのが気に入らない、ということではないと思われます。商人や祭司たちが利益を得る場になっているのが、まちがっているということだけでもないように思います。そうではなくて、罪からの救いという人間の重要な問題が、お金で買った動物を献げるだけで解決するというような、安直に処理されていることが、我慢ならなかったのではないでしょうか。神殿で厳かに行われる儀式や、敬虔そうに献げられる動物の陰にある偽りを、主イエスは見抜かれたということではないでしょうか。神殿は、人々の偽善と我欲を覆い隠すために用いられていて、父なる神がただ利用されているに過ぎないことをお怒りになったのでありましょう。

17節にありますように、弟子たちは、このお怒りになる主イエスの様子を見て、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出しました。この思い出した聖句は、先程朗読いたしました詩編69編の10節の言葉であります。弟子たちがこの時すぐに、この詩編の言葉を思い出したのではなくて、主イエスの生涯を後から振り返りながら思い出したのかもしれないのですが、ともかく、この詩編の作者は、熱心に神に仕えることによって苦難を受けた人、あるいは、かつて神殿の再建を推進した人ではないかと考えられます。その熱心さのあまり、敵対者から命を脅かされるような苦難を受けているのであります。弟子たちは主イエスの真剣な姿の中に、命を賭けて神殿の改革を進めようとされていることを見て取ったのであります。

・そこで、私たちが弟子たちと共に見て取らなければならないのは、主イエスが、今も私たちの教会の礼拝の現状を御覧になって、真剣に憂えておられるのではないか、そして、その礼拝の改革のために、命をかけて戦っていて下さっているのではないか、ということであります。主イエスは私たちの礼拝をどのように御覧になっているのでしょうか。なるほど主の日ごとに、秩序正しく礼拝が行なわれております。聖書が読まれ、聖書の解き明しが行われ、祈りが献げられ、讃美が歌われております。しかし、そこで語られていることは、単なる聖書の註解に終わっていないだろうか。頭の中の論理が語られるだけで、魂に届く神様の言葉が語られていないのではないか。集まって来る人も、日曜日にはただ習慣的に、あるいは義務的に礼拝にやって来るけれども、御言葉を聞いて悔い改めるとか、自分の生き方を変えようとはせず、ただ気休めか教養の足しにしかなっていない、ということはないだろうか。主イエスはエルサレムの神殿で行なわれていることの真実を鋭く御覧になったように、私たちの礼拝の実像をはっきり御覧になっているに違いないのであります。しかし主は、第三者として、批判的に見ておられるのではありません。自分が食い尽くされることも厭わず、真実の礼拝へ導こうとされているのであります。

3.神殿を壊してみよ

・主イエスの怒りの言動を見聞きしたユダヤ人たちは主イエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言いました。

ユダヤ人たちは、律法の規定に基づいて正しい礼拝をしていると思っておりましたし、礼拝者に便宜を与えるための商売が何も悪いことだとは思っておりません。主イエスがそれらを攻撃して追い出される意味が分かりません。祭司でも何でもない主イエスにこんなことをする権利がある筈がないと思っています。神殿のことを「私の父の家」などと言うのは、神を汚す言葉だとしか思えなかったでありましょう。だから、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」、<そんなしるしは持ち合わせていないだろう>、<自分の行動を裏付けられる証拠があるのか、ある筈はない>、と迫っているのであります。

・それに対して主イエスは、19節でこう答えておられます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。――これは、<こんな偽りの神殿は私がぶち壊す>と言っておられるのではないのです。<あなたがたが、この神殿を壊すだろう>ということであります。ここで「神殿」とは、21節で筆者が解説しているように、「御自分の体」のことであります。ですから、この主の言葉は、<あなたがたが、この神殿の真の主(あるじ)である主イエス御自身を壊してみよ、亡き者にしてみよ>ということであります。これはユダヤ人に対する主イエスの挑戦の言葉であり、神殿礼拝に満ちている偽善に対する宣戦布告であり、人間の罪との最後の決戦をなさる決意を述べられたものであります。しかし主イエスは、そのことが礼拝の改革につながり、神殿の建て直しになる、と考えておられるのであります。御自分の身を挺して、礼拝の改革をしようと、決意しておられるのであります。

4.三日で建て直す

・ですから主イエスは「三日で建て直してみせる」とはっきりおっしゃいます。ユダヤ人は主イエスのおっしゃる真意を理解しておらず、建築物としての神殿のことと思って、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と、<大言壮語をするな>と言いたげであります。当時の神殿はヘロデ王が修築したものでありましたが、実際四十六年ほどかかって、立派な姿になっておりました。<そんなことが、お前のような者に出来るわけがない>と言っているのであります。弟子たちも、22節にあるように、この言葉の意味をすぐに理解できたわけではありませんでしたが、主イエスが復活された時に、この言葉を思い出して、やっと真意を理解できたのであります。この主イエスの言葉は、まさしく、主イエスの十字架と復活のことをおっしゃっているのであります。主イエスが三日目に墓から甦られることによって、人間の罪に対して勝利をされて、もはや古い神殿の意味がなくなり、イエス・キリストの体である新しい神殿に建て直されて、改革された新しい礼拝が始まるのであります。それが、この過越祭から3年後の過越祭に行われることであります。

・主イエスによる根本的な礼拝の改革は、それ一回きりのものでありますが、その後、今まで続けられている教会の礼拝も、完全な礼拝が行われてきたわけではなくて、絶えず形式化や形骸化が起こったり、偽善的な礼拝が行われたりするのであります。主イエスはいつも聖霊において礼拝に来て下さって、あの「父の家を思う熱意」をもって、偽りの礼拝を追い出して、真実の礼拝へと改革するために、御自分の命を注いでいて下さるのであります。

・私たちの教会は改革主義の伝統に立った教会であります。それは、「御言葉によって改革され続ける教会」という意味で、主によって絶えず改革されることを信じているのであります。

5.人を信用されない主

・さて22節までで、主イエスが商人を神殿から追い出した出来事の記述は終わっているのでありますが、その後の23節から25節に、過越祭の間エルサレムにおられた主イエスが、人々をどのように見ておられたか、ということが記されています。

23節には、イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた、と書かれています。「しるし」という言葉は、18節でもユダヤ人たちが使っておりますが、主イエスが権威をもっておられる方であることを示す証拠、という意味で、具体的には不思議な業(奇跡の業)のことであります。主イエスは引続きエルサレムに滞在されている間に、病気の人を癒したり、体の不自由な人を治したりなさったのでありましょう。それを見て、多くの人が主イエスを救い主と信じるようになった、と言うのであります。

では、主イエスの方はその人たちをどう御覧になったかと言うと、24節を見ると、しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった、と書かれているのであります。これは驚くべきことであります。恐ろしいようなことであります。今日、私たちは、神殿で行われていた礼拝の実態を厳しく御覧になっていた主イエスを見て来ました。そして、その厳しい目が私たちにも注がれていることを思いました。しかし、24節の記述を読むと、主イエスがエルサレムの人々を御覧になっている目が、想像以上に厳しかったことを知らされます。それと共に、主イエスは私たちをも信用されていない、というメッセージを受け取らなければならないのであります。

24節後半以降を読みますと、それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである、とあります。

ユダヤ人たちは、自分たち自身のことについてまだ自覚がなかったのでありましょうが、主イエスは、この人たちが御自分を十字架につけることを見通しておられた、ということでありましょう。しかし、ユダヤ人だけではありません。「すべての人のことを知っておられ」「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられる」のであります。主イエスは、私たちの心の中にも、何があるかを見通しておられます。私たちが主イエスを裏切るような者であることを見ておられるのであります。

今もし、主イエスが信用されないのは、ユダヤ人だけであるとか、私たちが信用出来ない誰それのことだと考えて、自分自身を除外して考えているなら、それこそ、私たち自身がユダヤ人たちと同様に、自分の本当の姿が分かっていないということであります。辛いことでありますが、<主イエスが私を信用しておられない>という事実を受け止めなければならないのではないでしょうか。

結.礼拝を建て直してくださる

・けれども、主イエスは、だからと言って、ユダヤ人を捨てられたわけではないし、私たちを見捨てられるのでもありません。むしろ主イエスは、私たちを信用出来ないことを、私たち以上に悲しんでおられ、苦しんでおられるのであります。だからこそ、自らの命を捨ててまでして、私たちの命が滅びてしまうことから救い出そうとされたのであります。そして、真実の礼拝を建て直そうとして下さったのであります。

私たちの米子伝道所の礼拝には、破れがあります。真実の礼拝が出来ているとは言えません。それを回復するのは、私たちではありません。主イエスが私自身のために、十字架にお架かりになり、今も心を痛めて下さっています。そのことを認めるところからこそ、真実の礼拝の回復が始まります。 ・祈りましょう。

祈  り

私たちの心の中をよく知っておられる主イエスの父なる神様!

私たちはあなたから信用していただける、如何ほどの信仰もないことを覚え、御前に立つ資格のないものであることを覚えます。

・そのような者に、今、主イエスの真実な愛の御業をお示しくださったことを感謝いたします。

・どうか、この罪深い者をもお赦し下さい。どうかまた、あなたの大きな赦しのゆえに、人を赦すことが出来る者とならせて下さい。

・私たちの礼拝は、貧しく、破れがありますが、どうか、教会の頭なる主イエス御自身が御言葉をもって、この礼拝を御支配下さり、絶えず建て直して、新たな命で満たして下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年4月6日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書2:13-25
 説教題:「神殿の建て直し」    
           説教リストに戻る