序.永遠に変わることのない方のもとで

5年前に私が米子伝道所に赴任いたしましてから、このヘブライ人への手紙を隔月に取り上げて来まして、今日で23回目になりますが、13章後半の最後の部分に来ております。

13章の前半は、昨年の12月最後の主日に学びまして、3ヶ月も空いてしまいましたので、もう忘れておられるかもしれませんが、そこでは、キリスト者の日常生活において気をつけなければならないことが、語られていました。第一は、同じクリスチャンの兄弟姉妹を愛し、助け合うこと、第二は、夫婦の関係を汚さないこと、第三は、金銭に執着しないことが教えられていました。

・そのような勧めを語った上で、5節後半にあるように、神御自身が、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」との御言葉が引用され、更に8節では、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と述べておりました。私たちは日常生活の中で、兄弟姉妹の交わりにおいて、夫婦や家族の関係において、また金銭のことで、うまく行かなかったり、不安になったりすることが多いのでありますが、イエス・キリストは、「きのうも今日も、また永遠に変わることなく」、私たちを「置き去りにされることはない」、というメッセージを聴いたのでありました。

9節以下の今日の個所では、多くのことが教えられていますが、一言で言うならば、礼拝生活(教会生活)についての勧め、と言ってよいでしょう。礼拝生活と言っても、日曜日だけのことではありません。キリスト者の生活全体が、神様を礼拝する姿勢になっているかどうかが問われるのではないでしょうか。そして、8節の「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」という言葉は、当然のことながら、私たちの日常生活だけでなく、礼拝生活にも関わって来るのであります。

・そういうわけで、今日は、この永遠に変わることのないお方のもとで、私たちの礼拝生活(教会生活)はどうあるべきかを聴き取りたいと思います。

1.恵みによって心が強められる

・まず9節では、いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません、と言っております。教会の頭であるイエス・キリストは、永遠に変わることのない方であります。しかし、教会に属する私たちの現実は、不変の信仰を保っているとは限らないのであります。むしろ、色々な異なった教えに迷わされたり、聖書に書いてあることが信じられなくなったりすることがあります。

・当時の教会がどのような教えに迷わされていたのか、詳しくは分かりませんけれども、この後を見ますと、食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした、と記しておりますことから、旧約聖書のレビ記11章や申命記14章にある「食物の規定」に迷わされるキリスト者がいたと考えられます。そこには、あれを食べてはならない、これは食べてよろしいといった細かい規定が記されています。

・しかし、テモテへの手紙一の4章では、偽りを語る者について、こう言われています。「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからであります」(Ⅰテモテ4:3,4)。もちろん、食物には栄養のある物、ない物、食べ過ぎると体に良くない物はあるわけですが、食物規定に従っておれば魂が救われるということではありません。大切なのは、ヘブライ人への手紙の記者が9節で言っておりますように、「恵みによって心が強められること」であります。「恵み」とは、主イエス・キリストの御業の恵みであります。私たちが罪と死から自由にされる恵みであります。この恵みによって心の健康が与えられることこそ、最高の「よいこと」なのであります。

私たちの教会には、もちろん食物規定のようなものはないのですが、日本キリスト教会の憲法・規則というものがあり、明文化されていない様々なルールやしきたりもあります。そのような規定はすべて意味がないということではありません。教会の規定というものは、誤りやすい人間が出来るだけ御心に添った働きができるように、知恵を絞って決めているものであります。人が作った規定は意味がないと言って、例えば、聖餐式には洗礼を受けた人でも受けていない人でも、誰でも自由に参加出来るようにすべきだ、という意見があります。けれども、それで本当の喜びに与ることが出来るでしょうか。パンとぶどう酒の恵みは信仰をもって与るからこそ、味わうことが出来るものであります。そのように、規定というものは、神様の恵みをより豊かに受け取ることが出来るための知恵であります。しかし、規定が絶対化されて、それに縛られて、神様の自由な恵みが受けられなくなったり、前向きの自由な活動が出来ないようでは困ります。大切なことは、罪と死から自由にされる恵みが与えられて、心が強められること、そして、魂が諸々の捉われから解放されて生きることであります。

2.宿営の外に出よう

・さて、旧約聖書の食物の規定に触れたことから、著者は10節以下で、ユダヤ人が守ってきた贖いの生け贄(いけにえ)のことに話を発展させております。エルサレムの神殿では、人々の罪を贖うために、動物の血が聖所の祭壇に注がれました。

・そのやり方については、レビ記16章に詳しく記されています。大祭司は、雄牛と山羊を屠った血を祭壇に注ぐのですが、血を取った後の皮、肉、および胃の中身は、宿営の外に運び出して焼却するように定められていました。それは、動物の体に自分たちの罪が染み付いていると考えていたからであります。「宿営」というのは、荒れ野を幕屋で移動していた時代の言い方ですが、エルサレムで言えば、城壁の外側ということになります。

・ところで、このヘブライ人への手紙では「大祭司キリスト論」と呼ばれる神学が展開されて来ました。「大祭司キリスト論」とは、ユダヤ教における大祭司は、雄牛と山羊の血を祭壇に注いでイスラエルの民の罪を贖う儀式を行うわけですが、イエス・キリストは雄牛や山羊ではなくて、自らの体を裂き、血を流して、人類の罪の贖いとなって下さった大祭司である、という神学であります。

そこで、10節で、わたしたちには一つの祭壇があります、と言っておりますが、これは神殿(あるいは幕屋)の祭壇のことではなくて、主イエスが御自身を献げられた十字架のことであります。自分たちキリスト者には、このイエス・キリストの十字架という祭壇がある、と言っているのであります。そして12節で、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです、と言われているように、主イエスは、城壁の外のゴルゴタで十字架に架かられたのであります。

10節後半で、幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません、と言っております。犠牲にされた雄牛や山羊の肉は宿営の外で焼かれるので、幕屋(あるいは神殿)において祭儀に仕えた人々は、その肉を食べることが許されないわけですが、それと同じように、古い食物の規定に従って生活をしている人、或いは神殿の古い儀式に拘っている人は、キリストの十字架の恵みを受けることが出来ないという意味であります。

そこから、13節の勧めが出て来ます。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。――「宿営の外に出る」とは、直接的には、食物規定に従った生活を止めるとか、ユダヤ教で行われている動物の犠牲を献げる儀式から離れるということを意味しますが、ここで筆者が言いたいのは、「宿営の外」で十字架に架かられた主イエスが受けられた辱めを自分たちも受けよう、ということであります。つまり、ユダヤ教と妥協しながら、安全地帯にいるのではなくて、迫害をも覚悟して、主イエスの贖いにのみ救いを求める信仰へと踏み出すことを勧めているのであります。

私たちは、ユダヤ教とは関係ありません。私たちにとっての、宿営の中の安全地帯での生活とは何でしょうか。私たちがキリストに接する以前の生活、自分の幸せや楽しみを求める生活、自分の誉れを求める生活であります。この世の価値観や、異教の習慣を捨て切れずに、妥協的に生きることであります。けれども聖書は、そのような自分の安全地帯から出よ、自分の自我の城をキリストに明け渡せ、と呼びかけているのであります。それは、私たちにとっては不安であることは否めません。また、思い切って飛び出したところで、キリストが受けられた辱めをそのままに担うことなど、とても出来るわけではありません。しかし、恐れることはないのです。宿営の外は無防備で、誰もいないのではありません。宿営の外には、主イエスが待っていて下さるのであります。私たちは、宿営の外におられる主の御許に赴くのであります。宿営の中に留まっていては、主に出会うことが出来ません。主イエスのことを頭の中では知っているかもしれません。聖書を読んだり、教会へ来たりしているかもしれません。しかし、主イエスは宿営の中にはおられないのであります。本当の主イエスとの出会いは宿営の外へ出ることによってしか起こらないのであります。

3.来るべき都を探し求める

14節では、わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです、と断言しています。ユダヤ人は、首都エルサレムを「聖なる都」と考えて、それは永続する神の都であると考えていました。しかし、この手紙が書かれた頃には、既にエルサレムはローマの手によって陥落して、神殿は崩壊していたのではないかと思われます。この地上には永続する都がないことははっきりしたのであります。しかし、天に備えられている「来るべき都」は永続する都であります。だから私たちは、地上のものを拠り所とする安全地帯を確保しようとするのでなく、まして地上に自分の城や楽園を築こうとするのでなく、天上の永続する都に自分の住まいを確保しなければならないのであります。

・先に私たちは11章で信仰の先輩たちのことを学びました。13節以下でこう言われていました。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表わしているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」――これは何と励ましに満ちた言葉でしょうか。信仰の先輩たちは、地上ではよそ者であると公言しました。地上に留まろうと思えば留まる機会もありましたが、天の故郷に入ることを望み続けました。神は自分たちのために都を準備されている、と信じたからであります。神は私たちのためにも「来るべき都」を用意されているのであります。

4.神に喜ばれるいけにえ

・では、「宿営の外に出て」、「来るべき都を探し求める」生活とは、どのような生活なのでしょうか。15,16節に述べられています。だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。――ここには、「賛美のいけにえ」と「善い行いと施し」のいけにえをこそ、神はお喜びになる、と言われています。第一は「賛美のいけにえ」であります。ユダヤ人は、動物のいけにえを献げて、神様に喜ばれようとしました。しかし、宿営の外には既にイエス・キリストの十字架の祭壇が献げられています。「罪の宥めのいけにえ」は既に献げられてしまっているのであります。それ以上の宥めの供え物は不要であります。だから、私たちが献げるべきものは、「賛美のいけにえ」であります。

・「いけにえ」というと残酷なイメージがありますが、加藤常昭先生は、いけにえというのは、「命ある供え物」「生きた献げ物」という意味だと言っておられます。なるほどと思いました。生き生きとした賛美、心からの賛美、ということであります。

・「イエスを通して」の賛美と言われています。お祈りの場合に「イエス・キリストを通して」とか「主イエスの御名によって」ということを言いますが、賛美も一緒だということです。主イエスを通さないと、祈りも賛美も届かないし、真実の祈りや賛美にならないということであります。

・讃美歌を歌うのが好きだという人は多いようです。讃美歌が好きで教会へ行くようになったという人もいます。きっかけとしてはそれでも良いと思います。しかし、讃美歌は自分の心を慰めたり、自己陶酔するためのものではありません。あくまでも神様に献げられるものであります。その意味でやはりいけにえであります。ですから、祈り心を持って歌わない讃美歌はいくらきれいに歌っても意味がないということになります。しかし、真実の祈りと喜びをもって歌われる讃美歌は美しいし、神様も喜んで下さる筈であります。

・第二のいけにえは「善い行いと施し」であります。賛美が神に向けてのものであるのに対して、「善い行いと施し」は人に対するものであります。しかも、それも「いけにえ」即ち犠牲なのであります。主はどの人に対しても十分な犠牲を払っておられます。その上に私たちが何かを追加する必要がないようにも思います。しかし、私たちの、あまり足しにならないような犠牲を献げることをも神様は喜ばれる、というのです。「施し」という日本語は<上から恵んであげる>という語感がありますが、元の言葉の「コイノニア」は、「交わり」とか「分かち合い」という意味を持っています。「善い行い」にしても「施し」にしても、神様の大きな恵みを覚えつつ、私たちに出来ることで、互いに助け合い、分かち合うことを喜ぶことであります。そのような「いけにえ」を神様はお喜びになるということであります。

5.指導者たちのために祈る

・さて、17節、18節は、この手紙の最後の勧めになります。ここには教会の指導者に対して、教会員がどうあるべきかということが述べられています。指導者たちというのは、今で言えば、牧師とか長老と言われる人たちのことであります。ここでは二つのことが勧められています。一つは、17節の冒頭にありますように、指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい、ということであり、もう一つは、18節の冒頭にありますように、わたしたち(筆者を含めた指導者たち)のために祈ってください、ということであります。

私たちの教会の政治体制は、万人祭司の精神に立って考えられた制度であります。ですから、牧師や長老が上に立って、教会員を支配するという考え方はありません。牧師や長老というのは、教会の使命を果たすための職務であって、教会を支配するのは、あくまでも教会の頭であるキリストであります。では、ここで「指導者たち」と言われている牧師や長老に与えられている職務とは何でしょうか。「指導者たち」という言葉は、実は、ここで初めて出て来たのではなくて、7節にありました。そこでは、あなたがたに神の言葉を語った指導者たち、と言われています。指導者の第一の職務は神の御言葉を語ることであります。だから、指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい、と勧めるのであります。指導者の言うことに何が何でも従え、ということではありません。指導者は、自分の考えを言って教会員に従わせるのではないのです。ですから、指導者は、自分の言うことが神の御心に適っているかどうかを、絶えず謙遜に問い直さなければなりません。一方、教会員は、指導者の言うことが神の御心に適っているのであれば、たとえその指導者が若造であっても、自分の好みと違うタイプの人であっても、指導者の言うことを聞き入れ、服従しないといけない、ということであります。また、17節では、この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています、と言っています。「神に申し述べる」というのは、終わりの日に一人一人が神様の前に立つ時に、その傍らに立って、その人の魂について申し述べる、ということであります。だから、指導者たちは、教会の一人一人の魂の有り様について心を配るという牧会の職務があるわけであります。だから、指導者たちが教会員のことを申し述べる時に、困らないように、今から彼らを嘆かせず、喜んでそうする(神様に申し述べる)ようにさせなさい。そうでないと、あなたがたの益となりません、と勧めているのです。

・このように、指導者には、神の言葉を語るという役目と、教会員の魂のために心を配るという役目があります。しかし、同じ人間であって、弱さも欠点もある者が、その職務を全うするためには、大牧者であるイエス・キリストの導きが必要であります。そこで、

第二の勧め(願い)は、指導者たちのために祈ってください、ということであります。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています、と述べております。指導者は皆、このように願い、このように神様が導いて下さると確信しているでしょう。それなら、教会員は祈らなくてよい、ということではなくて、それだからこそ、祈って下さい、と言っているのであります。教会員の祈りがなくて、その職務を果たせる指導者はいないのであります。

結.平和の神が、すべての良いものを

・最後に、20節、21節の祝福の言葉を見て下さい。20節の主語は原文では、平和の神であります。そしてこの「平和の神」が何をして下さったかが述べられています。それは、この手紙で語られて来たことの要約でもあります。それは、永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた、ということであります。神は、主イエスが十字架の上で血を流すことによって、私たち羊を罪から救う大牧者になって下さった、その主イエスを死者の中から復活させて、永遠の契約を結んで下さった、この方こそ真の平和の神である、ということであります。

その平和の神によって、最終的に私たちはどうなるのか。そのことが21節に筆者の祝福の祈りとして記されています。御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。――つまり、最終目標は御心を行うことであります。

私たちの生活の(また人生の)最終目標は、自分が楽しんで生きる、自分が安楽に暮らす、ということではありません。神様の御心を行うこと、神様の御栄光をあらわす生き方をすることであります。

筆者は、そのために、神がすべての良いものを備えて下さるように、と祈っているのであります。主イエスによって十字架と復活の救いの業が成されたから、後は自分の力で御心を行え、というのではありません。御心を行うために必要なすべての良いものも神は備えて下さる、ということであります。私たちは全てを備えて下さるお方に、全てを委ねるだけでよいのであります。そのような、全てを神に委ねる生き方が、私たちの礼拝生活(教会生活)であり、「来るべき都」を待ち望む生活であります。

祈  り
・平和の神、イエス・キリストの父なる神様!

・イエス・キリストの十字架と復活によって、あなたとの永遠の平和の契約が結ばれたことを感謝いたします。

どうか、これまでの自分の宿営の外に出て、イエス・キリストの御許に赴くことが出来ますように。そして、どうか、賛美と御心に適う行いをいけにえとして献げることができますように。
・どうか、そのために必要なすべての良きものを備えて下さい。

どうか、この群に連なるすべての者が、来るべき天の都に入れられますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 米子伝道所主日礼拝説教        2008年3月30日 山本 清牧師
 聖  書:ヘブライ人への手紙13:9-25
 説教題:「来るべき都」    
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