序.復活の喜びを最初のしるしによって

・復活節は、いうまでもなく主イエスの復活をお祝いする日であります。けれどもそれは、単に偉大な人物の栄光の復活を賛美する日ということではなくて、私たち自身の命の復活を喜ぶ日でもあります。主イエスの復活は、私たちの復活の初穂であり、私たちが新しく作り変えられることの保証でありますがゆえに、この日が私たちにとっても喜ばしい日なのであります。

・昨年暮れから、ヨハネによる福音書によって御言葉を聴いて来ておりますが、今日は順番から偶々、「カナでの婚礼」の記事になりました。この個所で復活節のメッセージを聴くことについて、初めは少し迷いがありました。聖書にはどのページにも、復活のメッセージが隠されている、ということは言えるのですが、復活節の礼拝では、やはり主イエスの復活の出来事を直接記してある個所が取り上げられることが多いのであります。しかし、この個所を読み、またこの個所について書いてある本などを読んでいるうちに、この個所が復活節のメッセージを語るのに、大変相応しい個所であることに気付かされました。

・ここには、婚宴の席で、主イエスによって、水がぶどう酒に変えられたという奇跡が書かれているのですが、これは正に、私たちの味気ない命が、主イエスによって、芳醇な、喜びに満ちた命に変えられるという、新しい命への復活の奇跡を指し示しているのではないか、ということに気付かされたからであります。

・そこで今日は、このカナの婚礼の物語を御一緒に辿りながら、この中に秘められている復活節のメッセージを聴き取りたいと思うのであります。

1.主が喜びの席に

・今日の個所の冒頭に、三日目に、とあります。何時から三日目なのか。1章の35節以下に書かれていた、最初の三人の弟子が出来た記事が一日目で、43節に「その翌日」と書かれている、フィリポとナタナエルが弟子になった日が二日目で、カナの婚礼が三日目ということなのか、あるいは、すぐ前のナタナエルたちが弟子になった日から一日置いて三日目ということなのか、はっきりしませんが、いずれにしても、最初の五人の弟子たちが誕生して間もなくのことになります。

・最初の弟子たちが誕生したのは、洗礼者ヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていたベタニア附近だと考えられますから、死海に近い所でありますが、今日の婚礼が行われたのはガリラヤのカナという所で、その場所ははっきりと特定できていませんが、ベタニアからは100km以上も北に行った所であります。主イエスは弟子になった5人を連れて、さっそく長距離の旅をされたことになります。そしてガリラヤ地方で伝道活動を始められます。

・カナは、イエス様が育たれたナザレの村から、歩いて1時間半くらいの所で、婚礼には主イエスの母も来ておられましたし、イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた、とあります。恐らくイエス様のご親戚の方の婚礼だったと考えられます。イエス様のお母様のマリアさんは、状況から判断すると、親戚としてお手伝いに来ておられて、裏方の責任者であったのではないでしょうか。

ユダヤの国の当時の婚宴というには、夕方から始まって、まず花婿が盛装して、友人に取り囲まれて花嫁の家に迎えに行き、盛装した花嫁と一緒に、花婿の家に帰って来る。そしてそこから祝宴が始まるのですが、それは1週間から2週間も続いたそうです。その間に大勢の客が次々とお祝いにやって来て、一緒に食事をしたり、お酒を飲んだりするわけであります。

・さて、私たちはまず、主イエスがこの喜びの席に共におられた、ということに注目したいと思います。主イエスは、弟子たちを引き連れて、これから伝道を始めようとされている時であります。主イエスには、神の国が近づいたことを人々に知らせ、罪の中にある人々を救うという大きな役目がありました。そのために備えられている時間は限られていました。伝道開始から十字架で亡くなられるまで、結果的には約3年間しかなかったのであります。私たちは聖書の記事から、イエス様が、貧しい人々や病気の人、孤独な人を訪ねられ、彼らを慰めたり、癒したりして、彼らの苦しみや悲しみを共に担われたことを知っております。イエス様は今もそのようなお方であることに変わりません。けれども、今日の個所から知ることは、主イエスはそうした苦しみや悲しみの場におられるだけではなくて、婚礼のような喜びの席にもおられた、ということであります。婚礼というのは、当事者にとっては、確かに、一生一度の大きな出来事でありますが、主イエスがなされなければならない大きな救いの御業からすれば、小さな出来事に過ぎないように思われます。わざわざイエス様が出席なさらなくてもよいようにも思えます。イエス様でも、親戚に対する義理があって、やむを得ず出席されたということなのでしょうか。――そういうことではありません。イエス様は、世界の片隅でなされた、この婚宴の席に、喜んで出席されていたのであります。主イエスは、このような私たちの小さな喜びの出来事を、決して無視したり、軽視したりされない、ということであります。

・キリスト教の結婚式に司式者が述べる式辞の中にも、「イエス・キリストもガリラヤのカナで婚礼につらなり、これを祝し」という言葉があります。主イエスは、私たちの悲しみや苦しみの時だけでなく、私たちの喜びの時にも、共にいて、喜びを共にして下さるのであります。

・逆に言いますと、私たちの喜びの時には、必ず主イエスをお招きしなければならない、ということであります。私たちは困った時や、淋しい時には、イエス様が近くにいて下さること、そして私たちを助けて下さることをお願いいたします。しかし、楽しいこと、うまく行っているところには、イエス様がいらっしゃらなくても、また、わざわざ関わって下さらなくてもよいように思ってしまっていないでしょうか。むしろイエス様がおられたのでは、堅苦しくて面白くなくなるとか、見られては困るなどと思ってしまうことがないでしょうか。しかし、イエス様のおられないところには、サタンが入り込んで来ます。そして私たちの喜びや楽しみの場を、罪を犯させる場にしてしまいます。ですから、私たちの日常のレクリエーションの場や、飲み食いの場にもイエス様がいて下さることを願わなくてはなりませんし、まして、結婚というような人生の大事な喜びの事柄が、イエス様抜きで行われることのないように気をつけなければなりません。

・もう一つ、婚宴とイエス様との関係で忘れてならないことは、イエス様は天の国のことをしばしば婚宴の譬えを用いて語られたということであります。マタイによる福音書22章にある「婚宴の譬え」では、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と語られて、あらかじめ招いておいた人々が、大事な用事が出来たと言って断ったので、招かれていなかった人たちが集められた、という話をされました。またマタイによる福音書の25章には、有名な「十人のおとめの譬え」があって、花婿が帰ってきた時にともし火を灯して迎えるべきだったのに、油を用意していなかったおとめは婚宴の席に入れてもらえなかった、という話であります。これらはいずれも、婚宴の喜びで、天の国に入るという究極の喜びを表わしておられるわけで、カナの婚礼にも究極の喜びを指し示す意味があったのではないでしょうか。

2.困惑の中で

・そこでカナの婚礼の話に戻りますが、3節を見ると、ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と言った、とあります。喜びの席にぶどう酒がなくなっては、興醒めですし、招いた方としては大変恥ずかしいことであります。

マリアさんが裏方の責任者であれば、とても困ったでありましょう。そこでイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言います。この言葉だけでは、単に困った状況の事実を述べただけなのか、何処かへ行って調達して来てほしいという依頼の言葉だったのか、イエス様なら特別な力を発揮して下さるに違いないという思いだったのか、それは分かりませんが、ともかくイエス様に困った状況を打ち明けたのであります。こんなことでイエス様を煩わしてはいけない、とは考えなかったようであります。

・私たちは日常生活の色々な場面で、困ったことに出くわします。小さなことで、心を痛めたり、悩んだり、心配したりいたします。誰かに相談したり手助けをしてもらって簡単に解決するならよいのですけれど、誰にも言えない悩みがあります。どう判断すればよいのか、どこに解決の糸口があるのか分からない問題があります。人から見れば小さなことでも、本人にとっては悩ましい問題があります。そのような問題に直面した時に、私たちはどうするのでしょうか。周りの人に当り散らすのでしょうか。落ち込んでしまうのでしょうか。<私には解決できません、私には責任がありません>、と言って放り出してしまうのでしょうか。

・マリアはそのどれもしませんでした。マリアは自分の困っていることを、イエス様の前に打ち明けたのであります。自分の悩みをイエス様の前に持ち出したのであります。そこにイエス様に対するマリアの信頼を見ることが出来ます。イエス様なら何かよい解決の道を開いて下さるに違いない、という信頼であります。

・私たちはどうでしょうか。自分の悩みを、イエス様の前に持ち出しているでしょうか。イエス様に祈っているでしょうか。こんなことはイエス様に解決してもらうような問題ではない、と思ったり、こんな問題はイエス様でも解決できない、などと思ってしまってはいないでしょうか。いずれにしても、イエス様を信頼していないということになるのではないでしょうか。たとえ小さな問題であっても、イエス様に祈るのが恥ずかしいような問題であっても、イエス様の前に持ち出さないで、そのままにしておくなら、サタンの餌食になるのではないでしょうか。私たちが永遠に神様から離れてしまうきっかけになるのではないでしょうか。たとえ表面的には何らかの解決が出来たように見える場合であっても、神様の御心とは遠く離れたところに行ってしまうのではないでしょうか。いつの間にか永遠の滅びへの道を歩み始めているのではないでしょうか。どんな問題でありましても、どんな小さな問題であっても、どんな恥ずかしい問題であっても、イエス様を煩わせる問題ではないように思えることでも、イエス様と関係がない問題はないのであります。イエス様の前に出せない問題はないのであります。そして、イエス様が解決して下さらない問題はないのであります。

3.わたしの時はまだ来ていない

・母マリアの言葉に対して、主イエスはこう言われました(4節)。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」――これは非常に冷淡な言葉に聞こえます。

・第一、「婦人よ」という呼びかけは、自分のお母さんに向かっての呼びかけとしては相応しくないように聞こえます。しかし、イエス様とマリアとの関係は、今や、息子と母親の関係を超えているのであります。息子だからといって、甘えるわけにはいきません。

・続いて主イエスは「わたしとどんなかかわりがあるのです」と言われます。これも、冷たい言葉に聞こえます。親子の関係は最も親密な関係である筈であります。それなのにどうしてイエス様は「わたしとどんなかかわりがあるのです」などとおっしゃったのでしょうか。マリアの気持ちの中には、息子だから親の言うことは聞いてくれる、という甘い思いがあったかもしれません。けれども、イエス様のなさることは全て、神様の御旨に従ってなされるものであって、いかに母親の頼みといえども、神様の御心を差し置いて、従うわけにはいかないのであります。

・私たちは神様・イエス様に何をお願いすることも許されています。小さなことでも、困ったことがあれば、何でも祈ってよいのです。けれども、私たちの願いを押し付けることは許されません。たとえ母親であっても、主イエスを支配することは出来ないのであります。私たちの勝手な願いが聞き入れられないからと言って、文句を言うことは出来ません。すべては神様が決められることであります。そこを忘れると、お叱りを受けなければなりません。

・イエス様は更に、「わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃいました。「わたしの時」というのは、イエス様が、人間の罪を負って十字架にお架かりになり、死なれる時のことであります。それこそが、イエス様がなさらなければならない、神様からの大切なお役目であります。今はまだ、そのための準備の時であります。ですから、今することは、その時の準備でないといけないわけで、マリアの思ったように、その場の都合だけでイエス様の不思議な力を用いることは出来ないのであります。

・私たちが何事かをお願いする時に、出会わなければならないのは、このような<すげない>お言葉であり、このような厳しいお方なのであります。私たちは甘えることは許されません。しかし、このようなお方であるからこそ、信頼出来るのではないでしょうか。

4.水をぶどう酒に

・この主イエスのお言葉を聞いたマリアは、それ以上勝手なお願いをすることはしませんでした。しかし、マリアはがっかりして諦めたわけではありません。自分の願いを押し付けることが出来ないのは分かりましたが、イエス様は最も善い解決を与えて下さることを信じました。ですから、イエス様がなさろうと思われる通りにして下さるように、お任せするのがよいと思いました。

マリアと言えば、ご承知のように、まだ処女であった時に、天使から身ごもったことを告げられて、驚き、戸惑うのですが、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言いました。ここでも、主イエスを信頼して、お任せすることにしました。そしてマリアは召し使いたちに、こう言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。――これがキリストを信じる者の態度であります。今、答が見えているわけではない。しかし、主は最も善い解決の道を備えて下さることを信じて、時が来れば必ず下るであろう命令に、いつでも応えられるように備えるのであります。

・そこには水がめが六つ置いてありました。これは、清めに用いるものだと書かれていますが、外から来るお客さんが足を洗うために使う水を入れておくものでした。大きさは二ないし三メトレテス入りのものであるとありますが、聖書の後ろについている換算表によると、一メトレテスが約39リットルですから、100リットル前後の大きな水がめであります。

・召し使いたちはイエス様の指示に従って、かめの縁まで水を満たしますと、イエス様は、「それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と命じられました。

世話役はそれを味見すると、とても良いぶどう酒だったので、驚いて花婿にこう言いました。

「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」――イエス様が水をぶどう酒に変えられたのであります。そのことを召し使いは分かりましたが、世話役は知りませんでした。知らずに言ったこの世話役の言葉が、この奇跡の素晴らしさを物語っています。

・それにしましても、マリアに対しては素っ気ないお言葉を言っておられながら、なぜ、すぐに求めに応じられたのでしょうか。―

イエス様は、おそらく初めからマリアが困っている様子を見て、ぶどう酒を与えようと思っておられたのでしょう。けれども、水をぶどう酒に変えるというような不思議なことをすぐになさると、人々はその不思議さに驚くだけで、マリアも最初思ったように、イエス様を自分たちに都合のよいことをしてくれる人だと思う間違いを起こします。そこで、先程のような厳しいお言葉をマリアに与えられたのでありましょう。イエス様が水をぶどう酒に変ええる奇跡をなさったのは、ただマリアの求めに応えるためではありません。もっと大きな意味が込められています。

5.栄光のしるし

11節を見ますと、イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された、と書かれています。

 「しるし」という言葉は「奇跡」とも訳されますが、奇跡はイエス様にとっては単なる不思議な出来事ではなくて、いつもイエス様の栄光を現す「しるし」つまり<証拠>であります。ここでも<栄光のしるし>という意味でしょう。「栄光」とは、単に<スゴイ人だなあ>と驚かすということではありません。「栄光」とは、イエス様が十字架において悪に勝利して、人間の救いを完成されることによって、神様の御栄光を現されることであります。

・イエス様が水をぶどう酒に変えられたということは、イエス様という方が、困っている人を助ける優しい方だということも表わしてはいますが、それ以上に、私たちの罪という最も厄介で、私たちを一番困らせているものを、イエス様が十字架にお架かりになって、滅ぼして下さる、そして、復活なさって、罪に勝利して下さって、ちょうど水をぶどう酒に変えられたように、私たちを新しく造り替えて下さる、ということを表わしているのであります。

・イエス様は、このカナの婚礼の奇跡から始まって、数々の奇跡をなさいました。しかしそれは、私たちが、ただその不思議さに驚いて、イエス様は凄い方だと感心するためではありません。主イエスの奇跡は、主が罪を滅ぼし、私たちを新しい人間に生まれ変わらせて下さるという救いの御業の「しるし」なのであります。

結.弟子たちはイエスを信じた
 ・11節後半に、弟子たちはイエスを信じた、と記されています。これは 、単に水がぶどう酒に変えられたという奇跡が確かに起こったということ を信じた、という意味ではありません。弟子たちは、ここで起こった出来 事を通して、主イエスを、罪と死の支配から救い出して、新しい命に甦ら せて下さるお方として、信じた、という意味であります。水をぶどう酒に 変えた奇跡だけなら、この婚宴に列席していた他の人たちも信じかもしれ ません。でもその人たちは、手品を見た時のように、<凄いなあ>で終わ ってしまいます。しかし、弟子たちは、罪からの救い主、命の創造者とし ての主イエスを信じて、従って行くのであります。

・私たちもまた、この出来事を通して、命の創造者である主イエスを信じる者となって、天国の宴席に連なる弟子の一人になることへと招かれているのであります。それがこの復活節の礼拝で起こっている恵みであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・命の主なるイエス・キリストの父なる神様!

・カナの婚礼でなさった奇跡を通して、主イエスが水をぶどう酒に変えられたように、私たちを造り変えて、新しい命に生かして下さるお方であることを覚え、御栄光を賛美いたします。

どうか、汚れた水が入っている自分の水がめを、あなたの前に差し出す者とならせて下さい。そしてどうか、その水を、人を喜ばせることの出来る生きた水に造り変えて下さい。

どうか、先に召された信仰の先輩たちや、ここに集められております兄弟姉妹と共に、天国の宴席に連なる者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 米子伝道所復活節礼拝説教        2008年3月23日 山本 清牧師
 聖  書:ヨハネによる福音書2:1-12
 説教題:「復活のしるし」    
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