彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシアに出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」と言われた。  (ヨハネによる福音書1:4142               
 私たちの人生には様々な出会いがある。だが、かけがいのない出会いはただ一つ、キリストとの出会いである。
 洗礼者ヨハネが「見よ、神の小羊」とイエスを証ししたので、二人の弟子がイエスに従った(ついて行った)。キリストとの出会いは、ともかくついて行くことから始まる。すると主は彼らを見て、「何を求めているのか」と言われる。この「見て」は漠然と見るのではなく、「深く理解する、霊的に見る」という意味をもつ。二人は自分が何を求めているのか、何を求めるべきかを知らないが、主は何が必要であるかを見抜いておられる。二人は「どこに泊まっておられるのですか」と問う。「泊まる」という語は、「留まる、つながる、住む」という意味をもつ。だから、「あなたはどこに存在の根拠を持っているか、どこに位置するお方ですか」という問いにもなる。イエスは「来なさい、そうすれば分かる」と言われる。「分かる」とは「発見する、見出す」こと。主イエスがおられるところに行けば、二人が真に留まるべきところを見出すことができる、ということなのだ。教会は、この主イエスの言葉を語り続けて来た。そして、この言葉から無数の出会いの連鎖が起こった。
 二人のうちの一人アンデレは、翌日、自分の兄弟シモンに会って標記のように言った。「メシア」とは、「油注がれた者」で、ユダヤ人が待望していた理想の王・預言者・祭司「キリスト」のことである。アンデレの言葉には真に求めるべきお方に出会った喜びが表わされている。喜びの出会いを経験した者は、すぐ人に伝える。そして次の出会いが起こる。
 アンデレがシモンをイエスのところに連れて行くと、イエスはシモンをケファ「岩=ペトロ」と呼ぶことにする、と言われた。彼が岩のように強く、揺るぎない信仰を持っていたからではない。むしろ、思慮が浅く、弱い人間であった。イエスを裏切ることにもなる。だが、それを主はご承知の上で、「岩」と呼ばれる。主が、彼を教会の「岩」にしようとされたからである。私たちが主と出会って、弟子とされるのも、私たちに見所があるからではなく、主が私たちを用いようとして下さるからだ。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年3月9日 山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:35−42
 説教題:「メシアに出会った」              
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