序.出会いの人生

・ヨハネによる福音書を連続して学んでおりますが、1章の19節以下では、洗礼者ヨハネの証しを聴いてまいりました。

28節までのところでは、ヨハネはエルサレムのユダヤ人たちから遣わされた人たちの質問に対して、自分は、来るべき方に先立って荒れ野で叫ぶ「声」ないし、来るべき方を指し示す「指」に過ぎないことを示してきたのであります。

・次に29節から34節(先週の個所)では、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」というヨハネの証しによって、主イエスがどのようなお方であるのかを聴きました。そして、ヨハネは、主イエスが洗礼を受けられたときに、聖霊が降るのを見て、主イエスが聖霊によって洗礼を授ける「神の小羊」であるとの確信を得たことをお話ししました。

・このように、28節まででは、ヨハネ自身の使命について語られ、29節から34節では、主イエスその方がどのようなお方であるかがヨハネによって証しされたのでありますが、今日の35節以下では、ヨハネの証しを聞いて動いた弟子たちのことが書かれていて、そこには初めて、イエス様御自身の言葉が記されるのであります。そこには、弟子たちと主イエスの最初の出会いがあります。そしてこれは、それ以来続く、無数の弟子たちと主イエスの出会いの連鎖の始まりであります。

・私たちの人生には様々な出会いがあります。親戚関係とか、近隣関係とか、教師と学生、上司と部下といった、社会の仕組みに伴う必然的な出会いもありますし、偶然の出会いもあります。自ら求めて実現した出会いもあるでしょう。一生のうちに無数の出会いがあるでしょうが、中には私たちの考え方・生き方に大きな影響を与える出会いがあります。どんな出会いがあったか、どんな人と出会ったかが、その人の人生を大きく左右すると言えます。

・貴重な出会いはたくさんあるかもしれませんが、かけがいのない出会いは、一つであります。それは、キリストとの出会いであります。たとえ、どんなにすばらしい人物や、どんな高邁な思想や、どんなやりがいのある仕事や、どんなに豊な生活に出会ったとしても、もし、キリストに出会わないまま一生を終わるとしたら、何のために生きていたのか、ということになりかねません。キリストとの出会いは、人生の根本を変える出会いであり、人生に本当の意味を与える出会いであります。

・では、キリストとの出会いは、どのようにして起こるのか。人生に何をもたらすのか。今日は、イエス・キリストと弟子たちの最初の出会いの記事を通して、そのことを聴き取りたいと思います。

1.見つめて、言った/聞いて、従った

35節の冒頭に、その翌日、とあります。前日に主イエスが洗礼者ヨハネたちのいたところに来られて、ヨハネの弟子たちとイエス様との初対面がありました。そしてヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言って主イエスを紹介いたしました。しかし、その日のうちには、まだ決定的な出会いは起こらなかったようであります。主イエスと弟子たちは顔と顔を合わせ、ヨハネの証しも聞いていながら、最初の日には、まだ人格的な出会いは起こらなかったのであります。人が教会へ来て、聖書を通してイエス様の話を聞いても、すぐに主イエスとの人格的な出会いが起こるとは限りません。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」というヨハネの証しが間違っていたわけでも、足りなかったわけでもありません。次の日には、同じ「見よ、神の小羊」という言葉で、決定的な出会いが引き起こされることになるのであります。ですから、出会いには神様が定められた時があるということであります。私たちは忍耐を持って証しし続けなければなりません。

・さて、その翌日、ヨハネは二人の弟子と一緒にいたときに、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言いました。前日に紹介したのに、何の反応もなかったから繰り返すのはやめるということはせずに、また、同じことを語りました。しかし、ただ同じ言葉を一つ覚えのように繰り返したのではありません。「歩いておられるイエスを見つめて」とあります。ヨハネはあらためて主イエスのお姿を見つめた上で、語ったのであります。ある註解者は、「ヨハネは、群衆の中を、つき従う者なく、ただお一人で歩いておられるイエスを、しかも、誰からもメシアと認められないでいるイエスを見た」のだと解釈しています。そのお姿の中に、人から捨てられて犠牲となられる「神の小羊」である主イエスの使命を、あらためて「見つめた」ということでしょうか。キリストを証しするためには、このような「見つめなおし」が必要である、ということを示しているように思います。

二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従いました。「従った」と訳されていますが、元の言葉は「ついていく」ということで、この段階ではまだ、「弟子として従って行く」という意味ではないと思われます。それにしても、ヨハネの弟子であった二人が、ヨハネのもとを離れて主イエスの方についていったのであります。ヨハネは自分の弟子を留めようとはしません。むしろ、主イエスについていくように仕向けているのであります。

・伝道というのは、自分の仲間や子分を増やすことではありません。自分がどんなすばらしい知識や思想を持っているか、自分がどんなに正しい生き方をしているかを語って、人々を自分に引き付けることではありません。「見よ」と言って、人々の目を主イエスに向けさせることであります。牧師や教会員は尊敬されているけれど、人々の目をイエス様の方に向かせていないような教会があれば、それはキリストの教会とは言えません。

ここには、まず、「イエスをみつめる」ことから始まって、そこから「見よ」と「言って」、主イエスを指し示すことが続き、それを「聞いて」、「従う(つまり、ついていく)」ということが起こっています。これが伝道の基本パターンであります。ここにはイエス様についての詳しい説明や難しい神学論議は語られていません。ただ「神の小羊である主イエスにこそ、救いがある」との思いが、二人の弟子を動かしたのであります。

・「見よ、神の小羊」という言葉を聞いた二人の方も、「イエスについてもっと詳しく説明しろ」とか「なぜ、イエスが神の小羊なのか」と言っておりませんし、また<イエスについて行くべきかどうか>と迷った風もありません。十分に納得してから行動を開始したのではなく、ともかくも主イエスについて行ったのであります。キリストとの出会いは、納得づくで起こるのではありません。ともかくキリストについて行くことから始まるのであります。

2.「何を求めているのか」

・二人の行動に対して、38節には主イエスの反応と第一声が書かれています。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、とあります。この「見て」という元の言葉は、ただ肉眼で見る、という以上に、「よく観察する」とか「深く理解する」とか、更には「霊的・超自然的に見る」という意味を持った言葉であります。ただ眺めたのではないのです。すべてをお見通しになる霊的な目で御覧になったのであります。もう、この二人を自分の弟子にしようとの、御意志を込めて御覧になったのかもしれません。

・その時に発せられた主イエスの第一声は「何を求めているのか」でありました。これは、主イエスが彼らの心の内を知っておられない、とか、彼らに何が一番必要であるかが分かっておられない、ということではありません。

・むしろ、何を求めているのか分からないのは、ついて行った二人の方ではなかったでしょうか。彼らは自分自身が何を求めているのか、何を求めるべきなのかを、はっきりと意識していなかったと思われます。

・私たちはどうでしょうか。私たちは、特定の願いを持って主の前に出ることがあります。病を癒してほしいとか、よい仕事を与えてほしいとかいう、具体的な願いを持って祈ることがあります。そうかと思えば、現状に特別不満があるわけでなく何となく主の周りをうろついているとか、問題を抱えているのだけれども、主に真剣に求めるというのでなくて、つかず離れずの状態であるということが、よくあるのではないでしょうか。何を求めたらよいか、分からないのです。いずれにしても、私たちも何を求めるべきかを、よく弁えていないのであります。

そのような私たちに、主イエスは「何を求めているのか」と問いかけられます。主イエスは私たちに何が必要であるのかをご存じであります。そして、それを満たすことがお出来になるお方であります。しかし、「何を求めているのか」と問いかけられます。自分が何を求めているのかを、考えさせられます。もちろん、「病を癒して下さい」「〇〇を与えてください」と、自分の当面の求めをお願いしてもよいのです。聖書の中には、そのようにお願いした人のことも沢山出て来ます。あるいは、「私の敵を滅ぼしてください」とか、「自分の気に入らないあの人を退けて下さい」というような勝手な求めもあるかもしれません。しかし、主イエスは、「それだけでよいのか」「そんな求めでよいのか」と問われます。「もっと求めなければならないものがあるのではないのか」と問われるのであります。そして、真に何を求めるべきかを、本当には知らない自分に気づかされるのであります。二人の弟子も何を求めてよいのか、分からなかったのではないでしょうか。

3.「どこに泊まっておられるのですか」

・二人は、何を求めているのかという問いには答えずに、逆にこう問い返しました。「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」。――「ラビ」というのはヘブル語で、そこに翻訳されているように、「先生」という意味です。律法の教師が「ラビ」と呼ばれていました。この時点では、二人は主イエスのことを一人の教師としてしか捉えていなかった、ということであります。

・「どこに泊まっておられるのですか」という問いは、表面的には、主イエスの宿泊場所を知らせていただければ、そこへ行って、先生から教えをいただきたい、という意味であります。しかし、ここで遣われている「泊まる」という言葉は、「留まる」とか「つながる」とか「住む」という意味を持っている重要な言葉で、例えば、33節に「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら」とありましたが、この「とどまる」に同じ言葉が使われています。また、有名なイエス様の言葉で、「わたしはまことのぶどうの木」というのがありますが、そのときに「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15:4)とおっしゃいました。その「つながっている」というところに同じ言葉が使われています。また、聖書研究会で読んだヨハネの手紙では、この言葉が重要な言葉として沢山使われていて、「御子の内にとどまりなさい」とか「神の内にいる」という言葉が随所に出て来ます。つまり、この「泊まる」という言葉は、生きる基盤をどこに据えているか、存在の根拠を何処に持っているか、ということを表す言葉なのであります。ですから、「どこに泊まっておられるのですか」という問いは、単に一時的な宿泊場所を尋ねるというよりも、「あなたはどこに存在の根拠を持っておられますか」「あなたは神様の歴史の中で、どこに位置するお方なのですか」という意味にもとれる問いかけなのであります。

二人の弟子が、そこまで深い意味で質問したのかどうかは分かりませんが、これまでヨハネの弟子であった者が、別の先生と関わりを持つに当たっては、相手がどういう立場の人なのか、どこに生活の根拠を持っている人なのか、ということを知りたく思ったのは当然であります。

4.「来なさい。そうすれば分かる」

・二人の質問に対して、主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」とおっしゃいました。これは、<一緒について来れば、宿泊場所がどこかが分かる>というだけの意味でおっしゃったのではないことは明らかです。<私が居るところに来れば、私がどんな人間であるかが分かる>ということであります。「分かる」という言葉は、「見つける」とか「発見する」という意味を持った言葉であります。ですから、<主イエスの泊まっておられるところ、主が留まっておられるところに一緒に留まることによって、主イエスがどのようなお方であるかを発見することが出来るし、二人の弟子が真に留まるべきところを見つけることが出来る>ということであります。

・この「来なさい。そうすれば分かる」という主イエスの言葉について、ある註解者は「この日以降、今日まで、主が絶えず人間に語り続けておられる言葉の、喜ばしい原型である」と述べています。主イエスは今も私たちに、「私がいるところに来なさい。そうすれば分かる」と呼びかけておられるのであります。そして、教会は2000年の間、この主イエスの言葉を語り続けて来たのであります。「教会に来なさい。そうすれば、イエス様という方のことが分かります」「教会に来て、主イエスが留まっておられるところを見るならば、あなたがたがどこに留まるべきかが分かります」というのが、伝道の基本的な言葉であります。

二人は主イエスについて行きました。そして、どこにイエスが泊まっておられるかを見ました。そしてその日は、イエスのもとに泊まりました。それは午後四時ごろのことである、と時間まで書き残しています。

40節を見ると、ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった、と記されています。では、もう一人は誰であったのか、という疑問が生じます。これ以降にも、誰であったかという記述はどこにもありません。しかし、このヨハネ福音書では、固有名詞を書かずに、「主が愛しておられた弟子」という表現が随所にあります。これは、ゼベダイの子ヨハネであると考えられ、そのヨハネがこのヨハネ福音書を書いたとされて来ました。「午後四時ごろのことである」と時間まで書かれているのは、筆者のヨハネにとって、忘れることの出来ない時であったからではないか、という推測も成り立つわけであります。しかしこの時というのは、アンデレやヨハネだけが忘れられない時であったばかりでなく、主イエスに最初の弟子が出来た日であり、最初の教会が誕生した日として、世々の教会にとって、忘れられない日でもあるのであります。

・ところが、この日二人は主イエスからどんな話を聞いたのか、主イエスのどのような人柄に触れたのか、主イエスのどのような力を感じたのか、どうして引き続き主イエスの弟子として従って行くことになったのか、というような説明は何も書かれていません。<そんな説明は要らない>、ということでありましょう。主イエスに出会って、主イエスが泊まって(留まって)おられるところに一緒にいただけで、十分である、ということでありましょう。

・教会は、主イエスがおられるところであります。そこで主イエスと一緒に居さえすれば、分かる(発見できる)ということであります。余計な説明は要りません。

5.「メシアに出会った」

41節には、早速、アンデレが起した次の行動のことが記されています。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。

・アンデレはすぐ、一番身近な兄弟であるシモンのところへ行きました。そして、「わたしはメシアに出会った」と言います。「メシア」というヘブル語は、そこに言い換えられているように「油を注がれた者」という意味ですが、ギリシャ語では「キリスト」であります。旧約聖書では、王や預言者や祭司の任職にあたって、油を注がれました。しかし、ユダヤの中では、現実の王や預言者や祭司ではなくて、理想的な王であり預言者であり祭司である「メシア=キリスト」の出現が待望されるようになっておりました。主イエスに出会ったアンデレは、主イエスのことを、その「メシア」と呼んだのであります。

主イエスに最初に出会ったときは、「ラビ」と呼んでおりました。それは普通の「律法の教師」という意味であります。しかし、主イエスのところで一日過ごした間に、「メシア」と呼ぶように変わったのであります。「わたしたちはメシアに出会った」という表現には、待ちに待ったお方に出会った、真に求めるべきお方に出会えた、という喜びが表されています。これまでにも様々な出会いがあった。洗礼者ヨハネとの出会いも大きな出会いではあった。しかし今、他の出会いとは比べようもない出会いを経験した。人生における、かけがえのないお方に出会った、ということであります。

そして、アンデレは直ちにシモンを主イエスのところに連れて行きます。そしてそこで、次の出会いが起こります。こうして出会いの連鎖が始まります。

教会の歴史は、このような「メシア=キリスト」との出会いの連鎖の歴史であります。その連鎖が、私たちのところにも続いているのであります。

「メシア」との出会いが「ラビ」との出会いと違うのは、「ラビ」からは、何か有益なことを教えてもらうだけでありますが、「メシア」との出会いは、単に人生にとって何らかの足しになるとか役に立つというレベルの出会いではありません。これまでの人生がすっかり変わってしまう出会いであります。生き方が変わってしまうのであります。アンデレとシモンは、これまでヨハネの弟子でありましたが、他の福音書に記されているように、漁師の仕事を続けておりました。しかし、主イエスに出会ってからは、漁師の仕事を投げ打って、主イエスに従って行くのであります。具体的な生き方も変わったのであります。主イエスとの出会いが、いつも仕事を変わることに結びつくわけではありませんが、何らかの形で具体的な生き方が変わるのであります。生きる意味や目的が変わってしまうからであります。

結.「『岩』と呼ぶことにする」

・シモンがアンデレに連れられて主イエスのところにやって来ると、イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われました。この「岩」という言葉が「ペトロ」であります。このシモン・ペトロが主イエスの弟子の中の筆頭弟子になり、初代教会の中心人物とされるのであります。

なぜ、シモンが「ペトロ」と呼ばれたのでしょうか。シモンには、「ペトロ=岩」と呼ばれるような確かさ・強さ・重々しさがあったということでしょうか。決してそうではなかったことを、私たちは知っております。

シモンは、おっちょこちょいで、思慮が浅く、弱さを持っていました。主イエスが捕らえられた時には、裏切ってしまいました。決して「岩」と呼ばれるに相応しい人物ではありませんでした。

しかし、主イエスはそのようなシモンの弱さをご承知の上で、彼を「ペトロ=岩」と呼ばれるのであります。それは、主イエスがシモンを「岩」の役割を果たす者になさる、ということであります。頼りないシモンをペトロにされるのは、主イエスであります。

私たちが主イエスと出会って、弟子とされ、救いに加えられのも、私たちに見所があるからではありません。私たちに弟子たるに相応しい資格や、主イエスに従い続けられる篤い信仰があるからではありません。シモンが主イエスによって「ペトロ」とされたように、主イエスが私たちを主の使命を担える者にして下さるのであります。

教会は、このような主イエスとの出会いの連鎖であり、私たちをもそのような連鎖の一つの輪に選んで下さったのであります。
・祈りましょう。

祈  り
・私たちのメシア、イエス・キリストの父なる神様!

・アンデレ、ヨハネ、シモンに始まった出会いの連鎖に、私たちも加えて下さったことを感謝いたします。

・私たちは、その連鎖を疎かにし、場合によっては断ち切りかねない、罪深いまた信仰の薄い者でありますが、主はこの出会いの連鎖を決して断ち切ることがないばかりか、新しい連鎖をどんどんと生み出すお方であることを覚えて、賛美いたします。

・どうか、ここで行われる礼拝が、主イエスとの新しい出会いが次々と起こる場所として下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年3月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:35-42
 説教題:「メシアに出会った」    
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