序.見よ

・今日のヨハネによる福音書129節にあります、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という言葉は、今年の主題聖句の一つであります。それで、今年の定期総会が行われました127日の礼拝では、ヨハネによる福音書1章の19節から34節をテキストにして説教をいたしました。

・しかし、その時お話ししましたのは、1節から28節までが中心で、そこにはエルサレムのユダヤ人たちから遣わされた人たちと洗礼者ヨハネの問答が記されていました。彼らはヨハネに<あなたは何者なのか、メシアなのか、預言者なのか>を質しましたが、ヨハネは<メシアでも預言者でもなく、荒れ野で叫ぶ声に過ぎない>と答えました。すると彼らは、<では、なぜ洗礼を授けるのか、そんな資格はあるのか>と迫りますと、ヨハネは、<わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの知らない方が後から来られて、わたしはその方の奴隷の資格もない>ということを言います。

・そんなことがあった翌日(今日の個所になりますが)、イエス様がヨハネのところに来られたので、ヨハネはイエス様を指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったのでありました。

・前回は、この「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉の詳しい意味内容についてはお話せずに、ヨハネと私たちキリスト者の姿を重ね合わせながら、ヨハネやキリスト者の役割というのは、荒れ野で「キリストを見よ」と叫ぶ「声」乃至はキリストを指し示す「指」に過ぎないのだ、ということを申しました。

・今日は29節以下の個所から、ヨハネの証しに従って、<イエス様ご自身はどういうお方なのか>、また<そのイエス様が聖霊によって洗礼を授けられるというのは、どういう意味なのか>ということについて聴いて行きたいと思うのであります。

1.世の罪を取り除く神の小羊

・洗礼者ヨハネは、自分の方へイエス様が来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。ヨハネによる福音書では、ここで初めてイエス様が登場されます。しかし、イエス様がヨハネのところへ来られたのは、初めてではないと考えられます。この福音書には、イエス様御自身がヨハネから洗礼をお受けになったという直接の記事はないのでありますが、他の三つの福音書では皆、イエス様がヨハネから洗礼を受けられたことが記されています。ヨハネははじめ、思いとどまらせようとするのですが、イエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃって、洗礼を受けられたのであります。その時はヨハネの弟子たちはいなかったのでしょうか、今回初めてヨハネは自分の弟子たちにイエス様を紹介しています。

・イエス様は今回、どういう目的で来られたのでしょうか。34節までの中では、イエス様が言われたことや、なさったことは記されていなくて、35節以下の、翌日になってから、ヨハネの弟子を御自分の弟子にされたことが書かれているのですが、いずれにしろ、イエス様の方からヨハネのところに来られたということに、まず注目したいと思います。ヨハネというのは、前回に学びましたように、イエス様を証しする「声」ないし「指」であります。そのような、キリストを証しする者がいるところに、イエス様は来て下さるということであります。キリストを証しする者の「声」や「指」が無駄になることはありません。キリストを証しする者が、弟子たちを引き連れてイエス様を捜し求めなくても、キリストを証しする者がいるところに、イエス様の方から来て下さり、そこでキリストと弟子たちの出会いが起こるのであります。このことは私たちにとって、大きな励ましであります。

さて、ヨハネが言った「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉を、ギリシャ語原文の順序に従って、まず「神の小羊」という言葉から見て行きましょう。

「小羊」ということで、イスラエルの人々は色々なことを連想すると思いますが、一つは、信仰の父とされているアブラハムが、我が子イサクを捧げるように神様から命じられた時のことがあります(創世記22章)。高齢になってからやっと与えられたイサクを、いけにえとして捧げよと命じられたアブラハムは、神様の御命令ですから、イサクを縛って祭壇の上に載せて、刃物をとって屠ろうとした時に、主の御使いが「その子に手を出すな」と言って、見回すと、木の茂みに一匹の小羊が用意されていました。それでアブラハムはイサクの代わりにその小羊を捧げた、という話であります。

「小羊」ということで、イスラエルの人々がどうしても忘れることが出来ない歴史的な出来事は、「過越し」のことであります。イスラエルの人々がエジプトで奴隷になっていた時にあった出来事であります(出エジプト記12章)。ある日神様は、イスラエルの一家族ごとに小羊を一頭用意して、それを屠って食べて、その血を家の入口の柱と鴨居に塗るようお命じになりました。その晩、エジプト中の人間と家畜の初子が全部殺されたのですが、入口に血が塗ってあるイスラエルの家だけは過ぎ越したという出来事であります。この出来事があったので、エジプト王ファラオは恐ろしくなって、もう、イスラエルの人たちはエジプトから出て行ってくれと言うようになって、結局、奴隷から解放されることになるわけです。その出来事を思い出すために、毎年、過越しの祭をするようになりました。ですから、「小羊」というと、イスラエルの人々は、自分たちのために犠牲になった小羊のことを思い出すわけであります。

・もっと日常的には、エルサレムの神殿では、毎日二頭の小羊が祭壇に献げられていました。一頭は朝に、一頭は夕方に献げる儀式が行われていました。

・こうしたことが背景にあって、預言者イザヤは、イザヤ書53章の中で、「主の僕の苦難と死」について、こう言っております。

 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。(イザヤ書537

・このように、「小羊」という言葉は、犠牲になって血を流すということに結びついているわけです。ですから、ヨハネがイエス様を指して「神の小羊」と呼んだときには、神様の御心によって、身代わりになって血を流して死ぬお方だ、ということを意味しているわけであります。洗礼者ヨハネはイエス様の十字架のことを知る筈もないのに、このようなことをこの時に言ったのは驚きでありますが、イエス様が後にヨハネのことを「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタイ11:11)とおっしゃったのは、ヨハネのこのような預言者としての特別な働きのことを言われたのでありましょう。

次に、「世の罪を取り除く」という言葉ですが、「世の罪」というのは、この世の人間の罪ということで、私たちの罪のことであります。それも、あれこれの悪いことをした罪というよりも、私たちが神様に背を向けているという根本的な罪であります。「取り除く」という言葉は、汚い物を掃除するように取り除く、というように受け取られかねませんが、そういうことではなくて、元の言葉は「負う」とか「かつぐ」とも訳される言葉で、自らが身代わりになって背負うことによって、取り除くということで、そこには命を失うという大きな犠牲が伴うのであります。

2.わたしはこの方を知らなかった

・次に30節で、「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」、と言っております。同じことは15節にも書かれていたのですが、これはその時にも申しましたように、時間的にはヨハネの方がイエス様より六ヶ月先に誕生し、イエス様より先に荒れ野で人々に教え始めたのでありますけれども、1章の初めに書かれていましたように、主イエスは世の初めから神とともにおられた方であって、その方が真の人となって私たちのところに来て下さったのだ、というヨハネの証しであります。

・ところが次の31節では、意外なことを言っております。「わたしはこの方を知らなかった。」33節でも同じことを言っております。――ルカによる福音書によれば、イエス様とヨハネは親戚であります。まだ二人が胎内にいた時に、お母さん同士が挨拶したことが記されています。だから、二人は幼な馴染みであった筈であります。お互いによく知り合った間柄であった筈であります。ですから、ここで「知らなかった」ということは、イエス様という方のことを何も知らなかったということではありません。むしろ、よく知っていて、イエス様を偉大な人物として見ていたにちがいありません。だからこそ、イエス様が洗礼を受けさせてほしい、と言って来られた時には、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」(マタイ3:14)と言ったのでありましょう。

・それなのに、「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返して強調しているのは、イエス様のことをよく知っているつもりで、実は主イエスの本質を知らなかったことに気がついた、という意味でありましょう。ヨハネが主イエスの本質を知ったのは、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった時でありました。

3.“霊”が鳩のように降って
 ・そのことを3233節で語っています。そしてヨハネは証しした。「わ たしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるの を見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授ける ためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人に とどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である 』とわたしに言われた。」

・聖霊が鳩のように天から降って、主イエスの上に留まるのを見た、と言っております。ここには、それが主イエスに洗礼を授けた時であった、とは書かれておりませんが、他の三つの福音書では、いずれも、主イエスが洗礼を受けられた時に、聖霊が鳩のように降って来たと述べております。

聖霊は目に見えるものではありません。しかしこの時は、聖霊が鳩のように見える姿をとって降ったということなのか、あるいは聖霊が降ったしるしとして実際に鳩が降ったのか、そのあたりは分りませんが、他の福音書によれば、聖霊が鳩のように御自分に降るのを主イエス御自身が御覧になったのであり、ここではそれを洗礼者ヨハネも見た、ということであります。いずれにしても鳩は聖霊が降ったことを示す「しるし」であります。聖霊が降ったら、必ず鳩のようなしるしが見えるかというと、そうではなくて、ご存じのように、ペンテコステに弟子たちの上に聖霊が降ったときは、「炎のような舌が分かれ分かれに現れた」と使徒言行録には記されています。炎にしろ、鳩にしろ、目に見えない聖霊が現実に降ったことを示す「しるし」であります。

ヨハネはあらかじめ神様から、「聖霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」という示しを受けていました。ヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けていました。イエス様にも同じように水で授けたのであります。しかし、その時に聖霊が降ったので、主イエスこそ聖霊によって洗礼を授ける人だ、と言うのであります。

他の福音書によれば、この時同時に天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたと記しています。ヨハネもおそらくその声を聞いたのでありましょう。

この主イエスの洗礼の出来事は、ヨハネにとって非常に喜ばしい決定的な出来事であったに違いありません。それまでもヨハネは、やがて来られるメシアのことを人々に語ってきました。そして自分が尊敬しているイエス様こそが、そのメシアに違いない、と考えていたかもしれません。そして人々に悔い改めを勧め、水で洗礼を授けてきました。しかし、ヨハネの言うことをユダヤ人たちの皆が受け入れたわけではありません。前回の個所にあったように、ヨハネが授けている洗礼の権威に対して疑問を投げかける者もいました。そうした中で、ヨハネ自身も不安に陥ることがあったかもしれません。ヨハネが「わたしはこの方を知らなかった」と言っている後ろには、主イエスの上に聖霊が降るのを見るまでは、自分も、本当に主イエスを知っているとは言えず、主イエスに対して確信を持っているとは言えない状態だった、という正直な気持ちが込められているように思われます。

しかし、今は違います。主イエスの上に聖霊が留まるのを見ました。「これはわたしの愛する子」という天からの声も聞きました。主イエスこそが聖霊によって人々に洗礼を授けてくださることも確信できました。自分がこれまで言ってきたこと、水で洗礼を授けてきたことが、無駄でなかったことがはっきりしました。それどころか、自分が遠慮がちに主イエスに授けた洗礼によって、主イエスの上に聖霊が降って、こんどは主イエスが聖霊によって洗礼を授けられるという主イエスの地上での働きが始まるのであります。これほどうれしいことはありません。

ですから、この日は、自分の方へ来られる主イエスを指差して、確信をもって「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証しすることが出来たのであります。イエス様に聖霊が降るのを見たヨハネは、主イエスの本質を確信し、それをまた人に証しすることが出来るようになりました。そこには聖霊の働きが主イエスを通してヨハネの上にも働いているのを見ることが出来るのであります。

結.この方こそ神の子である

・今日は、初めに「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉の意味を学びました。続いて、ヨハネがイエス様に洗礼を授けたときに、イエス様の上に聖霊が降るのを見て、イエス様こそ聖霊によって洗礼を授けるお方であるとの確信を持つことが出来た、というヨハネの証しを聴きました。

・しかし、このことが私たち自身とどう関係するのでしょうか。2000年前に、ヨハネという人がイエス様という方の本質に目覚めた、というだけのお話でしたら、私たちには何の変化も起こりません。でもよく考えて下さい。ここには、主イエスが聖霊によって洗礼を授けるお方であることが証しされているのであります。

私たちは、今もヨハネの時と同じように、水で洗礼を受けてキリスト者になります。しかし、それはヨハネの時の洗礼と全く違うのであります。今行なわれる水の洗礼は、主イエスが行なわれる聖霊による洗礼の「しるし」であります。私たちが洗礼を受ける時には、私たちにも聖霊が降るのであります。そして私たちの心のうち(魂のうち)に聖霊を宿らせて下さるのであります。

聖霊が宿るというのは、どういうことでしょうか。何か夢見心地になることではありません。超人的な能力を備えた人間になることでもありません。ヨハネと同じように、主イエスの本質がはっきりと見えるようになる、ということであります。

ヨハネは主イエスに聖霊が宿るのを見て、主イエスのことを「世の罪を取り除く神の子羊」と、確信をもって証ししました。そのように私たちもまた、聖霊の導きによって、主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」であるとの確信に導かれ、それを証し出来るようになる、ということであります。

主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」であるとは、どういうことだったでしょうか。神様に背いて来た私たちの罪が、犠牲の小羊になって下さった主イエスによって負われ、赦される、ということであります。それは、私たちが古い命に死んで、新しい命に甦るということでもあります。私たちは洗礼を受けることによって、主イエスの愛による新しい命に生かされる者になるということであります。

ヨハネは最後に、34節でこう言っております。「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」――ヨハネが最終的に導かれたのは、<主イエスこそ神の子である>という告白でありました。目の前に来て下さっている主イエスこそ、神の子であるという告白であります。それは神御自身が今、自分と一緒にいて下さるとの確信でもあります。どのようにしてそのような確信に導かれたのか。それは「わたしがそれを見た」つまり主イエスに聖霊が降って、留まるのをヨハネが見たからであります。ヨハネの目が聖霊に対して開かれることによって、主イエスが神の子であるとの告白に至ったのであります。

私たちもまた、私たちのところへ来て下さる主イエスに目を向けているならば、聖霊が目を開かせて下さいます。そして、私たちもまた、主イエスを告白し、証しする者とされるのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・イエス・キリストの父なる神様!

・洗礼者ヨハネの証しによって、聖霊によって洗礼を授けて下さる主イエス・キリストを仰ぐことを許され、感謝いたします。

・どうか、私たちのような者にも、主イエスの真実を見る目をお与えください。そしてどうか主イエスを神の子と告白させて下さい。どうか聖霊の豊な導きが、既に洗礼を受けた者にも、また今、求道を続けている方々の上にも、ありますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年3月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:29-34
 説教題:「この方こそ神の子」    
           説教リストに戻る