その日には、お前たちは、森の家の武器に目を向けた。また、ダビデの町に破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。・・・・しかし、お前たちは、都を造られた方に目を向けず、遠い昔に都を形づくられた方を、見ようとはしなかった。        (イザヤ書228b−11

 アッシリア軍によって包囲されていたエルサレムが、多額の貢ぎ物を差し出すことによって、かろうじて征服を免れたとき、ユダの民は喜びに浮かれて、騒いでいた。だが、預言者イザヤは、再び周囲の谷が敵の軍隊で埋まり、彼らの雄叫びの声が響き渡る「幻」を見ざるを得ない。混乱と蹂躙と崩壊は敵の仕業というよりも、「万軍の主なる神から来る」(5)。それは、ユダの民の不信仰に対する神の裁きなのである。
 そうなったときに、彼らは何に目を向けるのか。森の家(宮殿)に貯えられた武器や、整備された城壁や下水道施設に目を向ける。つまり、軍事力と技術力に頼ろうとするが、都を造られた方(神)に目を向け、信頼しようとしない、とイザヤはユダの民の不信仰を厳しく糾弾している。そして、「嘆くこと、泣くこと、髪をそり、粗布をまとうこと」(12)つまり、自分たちの不信仰を悔い改めるべきことを告げる。だが、ユダの民は、死に対する不安を感じつつも、刹那的に、「肉を食らい、酒を飲む」だけで、「死」の問題の根本的な解決に向かおうとしない。このような、悔い改めのない不信仰の罪は「決して赦されることがない」(14)のだ。
 ひるがえって、現代の日本を取り巻く厳しい国際情勢の中で、私たちは軍事力と技術力に頼ろうとしているのではないか。教会を取り巻く困難な状況の中で、外形の充実で劣勢をカバーしようとしたり、心を酔わせる手段を用いて人集めをしていて、都(教会)を造り、それを今も支配しておられるお方に目を向けていないのではないか。神に目を向けない不信仰の罪は赦されない。だが、十字架の主イエスは、そのような私たちの罪をも負って下さった。この主に目を向けて、悔い改めるならば、主イエスの復活の命に私たちも与ることが出来るのだ。それが、「死」の不安からの根本的な解決なのである。 

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年2月24日 山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書22:1−14
 説教題:「神に目を向けぬ罪」                
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