序.幻の谷

・今日はイザヤ書22章の1節から14節までの個所から神様の御言葉を聴こうとしておりますが、その冒頭に「幻の谷についての託宣」と記されています。「幻の谷」というのが何をさしているのか、ということですが、読み進んで行くと、「ユダ」(8)とか「ダビデの町」(9)とか「エルサレム」(10)が出て来ますので、ほぼエルサレムのことを指しているであろうと考えられます。

・ではエルサレムのことをなぜ「幻の谷」と呼んでいるのかということですが、これは推測になりますが、エルサレムの町は東をキドロンの谷、南をヒノムの谷に囲まれた要塞都市でありますが、時代はアッシリアの王センナケリブによってエルサレムが包囲された紀元前701年の直後ではないかと推定されます。ヒゼキア王は多額の貢ぎ物を差し出すことによって、かろうじて征服を免れたのであります。しかし、それでアッシリアの脅威が去ったわけではありません。エルサレムの周囲の谷には、アッシリア軍が今も包囲しているような幻を、預言者のイザヤは見ないわけには行かなかったのではないでしょうか。

・エルサレムの人々は、アッシリア軍が引き上げたことで、安堵して、何もなかったかのように町中が浮かれて、喜び楽しみに興じていますが、イザヤには、やがて再び町の周囲の谷が敵の軍隊で埋まり、エルサレムが崩壊する時が見えていたのであります。

・翻って、現代の私たちの状況はどうでありましょうか。わが国を取り巻く国際情勢は厳しいものがあります。殊更に危機を煽るつもりはありませんが、周辺諸国は経済力・軍事力がどんどん成長していて、国力・文化力の点で、わが国の相対的な力は低下しているのではないかと言われます。テロの恐怖が他人事ではない時代が来るのかもしれません。冷凍ギョーザの中毒事件の対応に見られるように、国民の間に疑心暗鬼があります。

・そのような様々の脅威に満ちた幻の谷に取り囲まれる中で、何に頼るのかということが重要になります。強い国に追随し、軍備を増強して、力による平和を求めることが必要なのでしょうか。

・日本の教会を取り巻く状況も厳しいものがあります。一部の教会を除いて、教勢は年々低下しております。日曜学校の生徒数の減少は特に著しくて、教会の高齢化はどんどん進んでいます。牧師のなり手が少なくて、無牧や兼牧の教会が増えています。教会の周囲は、世俗化とか無宗教という幻の谷に取り囲こまれています。そうした中で、教会は何によって力を得ようとしているのでしょうか。何に頼ろうとするのでしょうか。

・今日は、イザヤを通して語られた神様の「幻の谷の託宣」によって、私たち自身の愚かな現実に気づかされると共に、私たちは何に頼るべきなのか、何処に立つべきなのか、ということを聴き取りたいと思うのであります。

1.束の間の喜び

・イザヤはまず1節後半で、「どうしたのか、お前たちが皆、屋上にいるのは。」と言って嘆いております。パレスチナの家は屋根が平らであります。敵が引き上げたことで、自分たちが勝ったかのように、屋上に出て喜ぶ様を見て、イザヤは驚き、勘違いも甚だしい、と嘆いているのであります。

・「騒音に満たされ、どよめく都、喜びに浮かれた町よ。」と言っております。まるでお祭り騒ぎなのであります。しかし、現実は多額の貢ぎ物によって、一時的に攻撃が止んだだけなのであります。

イザヤはもっと情けない現実を語ります。「お前の死者たちは、剣に倒れたのではない、戦って死んだのではない。お前の将校たちはすべて逃げ出したが、弓を引くこともなく捕えられた。遠くに逃げた者も皆、見つけられ、共に捕えられた。」―――     戦士たちに死者が出ましたが、それは勇敢に戦って死んだのではなくて、指導者である将校たちが包囲された町から逃亡しようとして捕えられ、見せしめとして処刑されたというのであります。

・そしてイザヤは言います。「わたしから目をそらしてくれ。わたしは激しく泣く。あえてわたしを慰めるな。娘なるわが民が滅びたのだ。」――ここで言っていることは、深い嘆きの中にある預言者から本当に目をそらし、放っておくことを求めているのではなくて、「娘なるわが民」即ちユダヤの民の慰めなき状態をもっと真剣に受け止めなければならない、ということであります。

・ここで私たちも聴かなければならないことは、わが国や教会が置かれている状況を、どれだけ真剣に受け止めて、憂えているか、と問われていることであります。戦後60年間、平和を貪って来ました。驚異の復興を遂げて、曲がりなりにも豊かさを享受して来ました。華やかな一面を見ている限りでは、喜びや楽しみのどよめきに満ちています。しかし、その陰では、やがて襲う滅びから自分だけが助かろうとして逃げ出す者がいます。イザヤが皮肉を込めて「目をそらしてくれ」と言うように、私たちもまた、そのような慰めなき現実から目をそらしてしまって、浮かれた町を見るために屋上に出て来てしまっているのではないでしょうか。神様は私たちを御覧になって、「どうしたのか、お前たちが皆、屋上にいるのは」と言って、嘆かれるのではないでしょうか。

2.混乱と蹂躙と崩壊の日が来る

5節に参りますと、「混乱と蹂躙と崩壊の日が、万軍の主なる神から来る。」とあります。喜び浮かれている間に、「混乱と蹂躙と崩壊が」始まっているのであります。今や世界に混乱があります。無数の人権の蹂躙が行われています。明らかに崩壊が始まっているところもあります。

・それは遠い国だけではなく、私たちの身の回りでも、始まっているのではないでしょうか。広がる格差はワーキングプアーを生み出しています。人権の尊重が叫ばれ、旧来の差別は緩和したのかもしれませんが、競争社会の効率主義の中で、格差は広がって、弱いものが取り残されて行っているのではないでしょうか。いじめや家庭内暴力は昔からあった人権蹂躙でありますが、減るどころかますます増えているように思われます。

・しかもそうした混乱と蹂躙と崩壊が、「万軍の主なる神から来る」と言われています。神の裁きとして始まっているということであります。間違った指導者や自己中心の人がいるために、そうなったというのではなくて、神に選ばれた民であるユダの罪に対する神の裁きとして起こっているということであります。キリスト者もまた、自らの罪の責任を思わなくてはならないのであります。

幻の谷に、騒音が響き渡り、山に向かって叫ぶ声がある。」と言われています。再び「幻の谷」という言い方が登場しましたが、今度の「騒音」は、「喜び浮かれた町」の騒音ではなくて、アッシリア軍の騒音であり、彼らがエルサレムに向かって叫ぶ雄叫びの声であります。

更に6節から8節には、エラムとかキルが出て来ます。エラムというのは、バビロニア東方の国ですが、アッシリアに破れて、その軍隊がエルサレム攻撃に差し向けられたのであります。キルというのはアラム人の原住地で、正確な場所はわかっていませんが、アラム人もアッシリアの傭兵として、エラムと共にエルサレムにやって来て、城門の前に陣取る時が来るであります。そして堅固だと思われたユダの防備をはぎ取った、と言うのであります。

・これはイザヤの見る幻であります。しかし、やがてバビロンによって現実となるのでありますが、そのすべてが万軍の主なる神の裁きとして行なわれることになるのであります。

3.何に目を向けるか

8節後半から、11節にかけては、そうした脅威が迫っている中で、ユダの民は何に頼ったかということが述べられています。

・まず、「その日には、お前たちは、森の家の武器に目を向けた」と言われています

・「森の家」とは、室内がレバノン杉で覆われたエルサレムの宮殿のことでありますが、そこが武器庫に当てられたということでしょうか。いずれにしろ、エルサレムの住民は、主により頼むのではなくて、蓄えてあった武器により頼んだのであります。

・また、9節から11節には「ダビデの町の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。エルサレムの家を数え、家々を倒して、城壁の破れをふさごうとした。二つの城壁の間に水溜めを造り、古い池の水を入れた」とあります。これらはヒゼキア王の時代に整備した水路の工事などのことを言っているのか、もっと後の時代の整備のことを言っているのか確定できませんが、いずれにしろ、自分たちが戦闘に強い町づくりをしたことを誇っているのであります。自分たちの軍事力と技術力に頼っているのであります。

しかしイザヤは言います。「お前たちは、都を造られた方に自分を向けず、遠い昔に都を形づくられた方を見ようとしなかった」と、 イザヤは、自分たちの力を過信して、神の恵みに目を向けようとしないユダの民の不信仰を糾弾いたします。

これは正に私たちの国の実情でありますし、私たち自身の姿でもあります。わが国の厳しい国際情勢の中で、軍事力と技術力に頼ろうとしています。この国を形づくり、守られる主を見ようとせず、自分たちが祀り上げた偶像を神としようとしています。

教会さえも、困難な状況の中で、主により頼むのではなくて、外形の充実で劣勢をカバーしようとしたり、心を酔わせる手段を用いて人集めをしたりしてしまい勝ちであります。

・厳しい状況の中で、何に目を向けるべきか。それは、遠い昔に都を造られた方、そして今も都を支配しておられるお方であります。かつてキリストの体なる教会を建て、今も御言葉を通して生きて働き、世界を治めておられるお方に目を向けるべきであります。そしてそのお方にこそ、信頼すべきであります。

4.赦されない罪 

12節には、「その日には、万軍の主なる神が布告された。嘆くこと、泣くこと、髪をそり、粗布(あらぬの)をまとうことを」と述べられています。イザヤは主なる神に代わって布告を告げます。「髪をそり、粗布をまとう」というのは、深い嘆きと悔い改めを表わすしぐさであります。今、ユダの民がなすべきことは、喜び浮かれることではなく、また、自分たちが蓄えた武器や、築いた町の施設に頼ることではなくて、自分たちの現状を嘆き悲しみ、自分たちの不信仰を悔い改めることだ、と告げられているのであります。

・それに対して、ユダの民はどうであったか、13節にもう一度、彼らの実状が述べられています。「しかし、見よ、彼らは喜び祝い、牛を殺し、羊を屠り、肉を食らい、酒を飲んで言った。『食らえ、飲め、明日は死ぬのだから』と。」――彼らは束の間の平穏の中で、刹那的な喜びに身を委ねているのであります。彼らも、今の状態が長続きしないことは知っているのでありましょう。「明日は死ぬのだから」と言っております。将来の死に対する不安を感じているのであります。しかし、その不安の根本的な解決に向かおうとするのではなくて、今手に入る安直な喜びに浸っているのであります。

・これはまた、現代の多くの人の生き方であります。あからさまに刹那主義に生きているわけではなくて、時には神仏を拝むことはあったとしても、「死」の問題の根本的な解決はお預けにしたまま、人生とは儚(はかな)いものだと諦めながら、今手に入れることの出来る楽しみで誤魔化しているのではないでしょうか。それは単純に「食らえ、飲め」ということではないかもしれません。仕事に没頭することであったり、趣味に打ち込んだり、奉仕に打ち込むことかもしれません。そうしたことが悪いことではありませんが、「死」の問題の根本的な解決にはなりません。

・パウロはコリントの信徒への手紙の中で13節の言葉を引用しております。コリントの信徒への手紙一の15章でありますが、そこはパウロがキリストの復活のことを述べた後、私たち人間の復活(死者の復活)のことを語っている部分であります。(p32020節で「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」と語った続きで、32節に至って、イザヤ書の言葉を引用しながら、こう言っております。「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。」――そうなのです。「死」の問題の根本的な解決である「復活」ということを信じているのでなければ、たとえ生きている間にどんなに立派なことをしようが、根本的には「食らえ、飲め」という刹那的な生き方と変わらないのであります。結局、自己満足に陥らざるを得ないのであります。

・(イザヤ書に戻って)14節には、神様の厳しい裁きの言葉が述べられています。「万軍の主はわたしの耳に告げられた。『お前たちが死ぬまで、この罪は決して赦されることがない』と万軍の主なる神が言われた。」――「この罪」というのは、飲み食いのことではありません。あれこれの罪のことでもありません。厳しい状況の中で、神に目を向けず、悔い改めなかったことであります。

・人間は色々な罪を犯します。悪事を働きます。しかし、根本的な罪は、神に目を向けないこと、神の言葉に耳を傾けないこと、そして神の前に悔い改めないことであります。この罪は赦されることがありません。死に至らざるをえません。

結.都を造られた方

・ユダの民が、厳しい状況の中で目を向けるべきは、森の家に蓄えられた武器ではなく、エルサレムの堅固な城壁や整った設備でもなく、都を造られた神でありました。

・私たちを取り巻く厳しい状況の中で、私たちもまた、自分たちが築き上げたもの、自分たちが蓄えて来た物に目を向けて、それに頼るべきではなく、都を造られた方に目を向けるべきであります。この方に目を向けない罪は決して赦されません。しかし、主イエスが十字架の上で私たちに代わって負って下さった罪は、私たちが神様に目を向けない不信仰の罪のためでありました。私たちは悔い改めて、この主イエスの救いの御業を信じるならば、ユダの民が赦されなかった罪も赦されるのであります。そして、主イエスの復活の命に、私たちも与ることが出来るのであります。永遠の命に生かして下さるのであります。憐みに富み給う神は、罪深い私たちのためにそこまでして下さったのであります。

・神様は今日、イザヤの言葉を通して、私たちの耳に告げておられます。「お前たちが、私に目を向けない罪は、死ぬまで赦されることがない。しかし、お前たちが自分の不信仰を悔いて嘆き、泣き、悔い改めて、私の方に向き直って、私のもとに立ち帰るならば、救われる。」――私たちはこの主の御言葉に素直に従う者でありたいと思います。そうすれば、どのような厳しい状況の中にあっても、刹那的ではない、永遠に確かな平安が与えられます。
・祈りましょう。

祈  り

世界を創造し、都を造られた万軍の主なる神様!御栄光を賛美いたします。

・人間が作り出したものや、人間の知恵に目を向けて、あなたに目を向けていない私たちの罪は、本来、赦されることがない罪でありましたのに、イエス・キリストの十字架の故に赦していただけることを知り、感謝いたします。そして今日もイザヤを通して、私たちに悔い改めへの招きをいただき、ありがとうございます。

・どうか、私たちを取り巻く厳しい現状を、勇気をもって見る者とならせて下さい。そして、どうか、唯一の救い主であるお方に、目を向け、全てをお委ねする信仰を堅くしてください。

・あなたを知らずに、はかない喜びに浸っている方、あるいは、将来に希望を持てなくなっている方々に、どうか、あなたと出会う機会が与えられますように、お願いいたします。

 ・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年2月24日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書22:1-14
 説教題:「神に目を向けない罪」     
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