序.嵐からは助かったものの

・パウロの乗った船がひどい暴風に見舞われ、助かる望みが消えうせようとしていた時に、神からの天使が現れて、「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」2724)と言いました。

・この神様からの言葉を信じたパウロがいたことで、一同は食事をとって元気を取り戻すことが出来ましたし、小舟を降ろして逃げ出そうとした船員を留まらせることが出来ましたし、兵士たちに殺されそうになった囚人たちも殺されずに、天使が伝えた通り、全員が無事に上陸出来たのでありました。一同はパウロの働きに対して、大いに感謝し、また尊敬の念を持ったことでしょう。

・パウロはローマで宣教するという使命を与えられておりました。その神様から与えられた使命は、自然の猛威の中でも潰えることはありませんでしたし、神様の栄光を表わすことが出来ました。

・上陸したのは、マルタ島でありました。地図で御確認いただいたらわかるように、もうイタリア半島は目と鼻の先であります。しかし、まだ冬の季節でありましたので、航海が出来るまで三ヶ月間は、このマルタ島で過ごさねばなりませんでした。

・今日の28章の1節から10節までは、そのマルタ島での出来事が記されています。2節には、島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれた、と書かれていて、マルタ島の人々の素朴な暖かいもてなしの様子が述べられています。何日間も身の危険に曝された後だけに、一同はどんなにほっとしたことでしょうか。

・ところが、パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮(まむし)が出て来ました。この蝮の出現で、事態は一変いたします。住民のパウロに対する見方が一転するのであります。

・嵐の災難の中で、パウロは神様の御栄光を表わすことが出来ましたが、ほっとする間もなく、また新たな災難に遭遇しなければなりませんでした。

・パウロが同船の人たちやマルタ島の住民から注目されたように、キリスト者は、絶えず周囲の人々から注目を集めざるを得ません。教会はいつも周囲の人から特別な目で見られています。キリスト者や教会に出入りする者の言動が、周囲の人を躓かせたり誤解を与えたりしかねません。それだけに、キリスト者の信仰に基づく言動が主を証しすることにもなるのであります。

・今日は、マルタ島で起こった出来事と、ローマに到着するまでのパウロとパウロを迎えた兄弟たちの様子を通して、キリスト者が、周囲の人々や兄弟姉妹に対して、どのように主を証し出来るのかということを考えてみたいと思います。

1.教会が与える躓き

さて、パウロが集めた枯れ枝の中に、蝮が潜んでいたようであります。現在のマルタ島には蝮は生存していないそうで、これは蝮ではなかったのではないかという説もありますが、今と昔は違いますし、少なくとも地元の人たちは毒蛇だと見たのであります。

パウロの手に絡みついたと書かれているところは、口語訳聖書では「かみついた」と訳されていました。実際はどうだったのか判りませんが、いずれにしろ、命を失いかねない事態でありました。

これを見た住民は、互いにこう言いました。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」――おそらく、船には囚人が乗っていてパウロもその一人であることを住民も知らされていたのでありましょう。パウロがどんな訳で囚人にされているのかは知る由もありませんから、こう考えたのも無理のないことであります。

これは一種の誤解でありますが、キリスト者はいつも周囲から厳しい目で見られているので、ちょっとしたことが周囲の人に躓きを与えかねません。いつも誤解を受けないように言動に注意が必要であります。

ここで少し、この場面からは逸れますが、キリスト者や教会の様子が教会外の人々からどう受け止められるかということについて、気をつけなければならないことを二つお話ししておきたいと思います。

一つは、教会には色々な人が来て、中には人々に誤解や躓きを与えかねないことがあるかもしれないけれども、それは教会が耐えないといけない、ということであります。教会は、世間から疎まれているような人、後ろ指を指されているような人であっても受け入れなければならない、ということであります。教会を紳士淑女ばかりにしておきたい、周囲の人々から尊敬を受けるような人々の集まりにしたいという気持ちは、正直拭い切れませんが、それでは、弱い人や落ちこぼれた人を救うことが出来ません。イエス・キリストは当時の世間からつま弾きされていた収税人や罪人と交わりを持たれました。イエス様はおっしゃいました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ531,32)。イエス様ではない私たちには、そういう人を受け入れるには抵抗があるかもしれません。教会の恥になるように思えるかもしれません。確かに教会においては、相応しくない態度や過ちは正されなくてはなりません。しかし、イエス様は私たちのような醜い者の恥を負って十字架に架かって下さったのであります。ですから、イエス様の受けられた恥の一端を担う心構えが教会にもなければ、教会は人に救いを与えるところとはならないのではないでしょうか。

教会が与える躓きということについて、もう一つのことは、今申し上げたこととも関連するのですが、キリスト者は自分を傷つけた者や過ちを犯した者をも赦さなければならない、ということであります。「七の七十倍までも赦しなさい」とイエス様が言われたことは、クリスチャンなら誰でもよく知っています。しかし、自分が傷つけられたことは、なかなか赦せないのであります。善悪のけじめをつけることと、赦せないこととは別であります。そして教会にとって恐ろしいのは、赦せないクリスチャンを見て、他の人が躓いてしまうということであります。キリスト者が過ちを犯すことによって人を躓かせることも避けなければなりませんが、赦さないことによって躓かせることは、教会の本質に関わる由々しきことであります。

「躓き」ということから少し横道に逸れましたが、パウロの場合は、彼に落度があったわけではありませんが、マルタ島の住民は誤解から躓いたのであります。住民の素朴な暖かさの陰には、疑いの目が隠されていたのであります。教会はこのような誤解や疑いから来る躓きにも耐えなければならない時があります。

ところが、この場合にはすぐさま神様からの助けがありました。パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかったのであります。これは、パウロ自身に蝮の毒をも制する力があったとか、神がかり的な力があったということではありません。

ところが住民たちは、パウロの体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと様子をうかがっていましたが、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを180変えて「この人は神様だ」と言い始めます。今、「正義の女神」というようなことを言ったかと思うと、今度はパウロを神様扱いするのであります。真の神様が知られていないところでは、このようにすぐ神様を作り出す迷信が頭をもたげます。

こうしたことは、未開の土地だから起こったのだと、マルタ島の人たちを蔑んではいけないでしょう。現代においても、おまじないとか祟り(たたり)といった迷信が生きています。そういうものは信じないと言っている人でも、科学技術やマモンの力を偶像化してしまっています。何よりも自分の正しさとか名誉が神様になってしまっていることがあります。それは、キリスト者であっても陥る過ちであります。

2.真の癒しと命

パウロが神様なのではありません。パウロを蝮の毒から救ったのは真の神様であります。神様の使命を担ったパウロの命は、自然の猛威の中でも、蝮の毒からも、神様によって守られました。

・更にこの場合は、パウロの命が守られただけではありませんでした。7節以下には、マルタ島の長官であるプブリウスという人の父親をはじめ島の病人たちが、パウロが祈って手を置くことによって癒されたことが記されています。しかしこれも、パウロに奇跡を行う力が備わっていたということではありません。パウロが神様によって命を守られたことによって、その命がマルタ島の人々にも分けられたのであります。神様の人を生かす力が、パウロを通してマルタ島の人々にも及ぼされたのであります。

このことはまた、キリスト者の働きを象徴的に(典型的に)表わしているように思います。主イエスが復活された後、弟子たちにお現れになった時に、全世界へ福音を宣べ伝えるように命じられたあと、こう言われました。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ1617,18)――正に、この主イエスの言葉通りのことが、ここで起こっているのであります。

・主イエスが弟子たちに約束されたこと、そして実際にマルタ島でパウロを通して行われたようなことは、深い意味で、私たちキリスト者にも当てはまるのであります。私たちは、蝮ならぬ悪魔の毒に侵されて、罪を犯してしまって、死ななければならない者たちであります。キリスト者であっても、その罪の姿によって、人々を躓かせてしまい勝ちな者であります。しかし、神様はそのような罪深い私たちを、主イエス・キリストの十字架の故に赦し給うて、主イエスの復活の命に与って、新しく生きる者として下さいました。それだけでなく、私たちに与えられた新しい命は、私たちの周囲の人たちにも及んで行くのであります。私たちが人の病を癒すことが出来る奇跡的な力を持つということではありません。主イエスの復活の命が、心や体を病んでいる人、苦しみや不安の中で喘いでいる人々にも及んでいく、ということであります。

これは迷信でも誇大妄想でもありません。もし、私たちが自分の力で、病人に手を置いたら癒される、などと言えば、それは迷信か異端になってしまいます。そうではなくて、主イエスが、信じる者と共にいて働いて下さるのであります。主イエスが私たちを生かして下さる命が、苦しみの中にある人々にも及んでいくのであります。

そのようなすばらしい出来事を、私たちの周囲で見ることが出来ないではないか、とおっしゃるかもしれません。確かに私たちの周囲には、心や体の病に長く苦しんでおられる方がいらっしゃいます。祈っても祈っても癒えない病があります。しかし、主イエスの十字架と復活による約束が反故になったのではありません。主が与えて下さる命が消えてしまったわけではありません。その命がどのような形で現れるのか、現われ方は一様ではありませんが、必ず現れることを信じていなければなりませんし、命の現われを見る目を開いていなければなりません。

病を癒されたマルタ島の人たちは、パウロに深く敬意を表わして、パウロたちの船出のときには、その後の旅に必要な物を持って来てくれました。癒された人たちがパウロに対して感謝の気持ちを表わしたいと思ったのは、極く当たり前の光景ではありますが、嵐の中で、また蝮の一件で九死に一生を得たパウロにとっては、自分の守られた命によって、このような働きを出来たことに、神様の大きな恵みを覚えたのではないでしょうか。パウロが三ヶ月間マルタ島に滞在している間に、マルタ島の人たちに、主イエスの福音を語ったのかどうか、ルカは特にそのことに触れてはいませんが、あのパウロが三ヶ月間、主イエスの恵みを何も語らなかったとは考えられません。パウロとマルタ島の人たちとの間に、神の恵みを知った者同士の兄弟姉妹の交わりが芽生えていたことを想像することも許されるのではないでしょうか。

3.兄弟たちとの交わり

11節から16節には、冬が過ぎてマルタ島を出発してから、ローマに入るまでのことが記されています。地図で見ていただくと良く分かりますが、島で冬を過ごしていたアレキサンドリアの船に乗った一行は、シチリア島のシラクサに寄港したあと、イタリア半島の先端のレギオンに着き、更に海路でプテオリというところまで行って上陸いたしました。

・パウロたちはその町で、兄弟たち、即ち信者の仲間を見つけるのであります。この時代にすでにこのような地方の町にまでキリスト教の福音が伝わっていたことは驚きでありますが、ローマをはじめイタリアに福音宣教を行う目的でパウロは遥々遣わされて来たのでありますが、神様はパウロが到着する前に、もうちゃんと福音の種を蒔き、群の形成を始めておられたのであります。パウロは復活の主の働きをここでも知ったことでありましょう。

パウロたちはこの兄弟たちに請われるままに、プテオリで七日間滞在しました。パウロを護送する百人隊長も、融通を利かせたということでしょうか。初めて出会う兄弟たちであったでしょうが、パウロはここまで神様が守って下さったことを語り、プテリオの兄弟たちは、自分たちに福音が伝えられた次第を物語ったにちがいありません。そこには、神様の導きを覚える者たちの喜びに満ちた交わりの時が持たれたことでありましょう。

そのあと、一行は陸路ローマに向かいましたが、パウロたちのことを伝え聞いたローマの兄弟たちが、ローマから80キロ南のアピイフォルムまで、また別の人たちはローマから50キロ余りのトレス・タベルネというところまで迎えに来てくれました。こうして、パウロがローマの信徒への手紙で「あなたがたにぜひ会いたい」(ローマ111)と言っていたローマの兄弟たちに会うことが出来たのであります。パウロにとって長年の念願がかなった、というだけではなく、ローマの兄弟たちも、この時を待ち焦がれていたからこそ、ここまで迎えに来たのでありましょうし、何よりもこれは、神様の御計画と約束が成就したことでもありました。

結.神に感謝

15節の後半に、パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた、と記されています。パウロはローマの兄弟たちが、わざわざ遠くまで迎えに来てくれた、暖かい歓迎に感謝したことでありましょう。しかし、それだけではありません。パウロは「神に感謝」したのであります。長い間の労苦や、危険な旅の間も守って下さり、ローマの兄弟との出会いを実現して下さった神様の恵み全体に対して感謝しているのであります。兄弟姉妹の交わりは一般の社会での親しい交わりを超えた喜びがあります。それは、互いに神の恵みを知って感謝している者同士の交わりであります。

パウロは神に感謝しただけでなく、勇気づけられた、と書かれています。ということは、ローマの兄弟たちに出会うまでは、パウロには一抹の不安があったということであります。パウロとローマの兄弟との間には手紙による交流はあったと考えられます。しかし、ローマの信徒がどんな信仰を持っているのか、不安であったでありましょう。だからこそわざわざローマの信徒への手紙を書いて、パウロの確信するところを述べたりもしたのであります。また、パウロがローマの囚人として来たことについても、ローマの兄弟たちが、どう受け入れてくれるのか、不安もあったのではないでしょうか。ローマへ行くことは神様の御計画であるとは言え、人間パウロにとっては、心配なことが一杯あったに違いありません。他の都市で経験したように、ユダヤ人たちによる迫害が待っているかもしれません。異邦人たちが福音をすんなりと受け入れてくれるとは思えません。しかし、出迎えに来てくれた兄弟たちに会って、その不安は解消されたということでありましょう。

しかしそれは、兄弟たちの暖かい出迎えや兄弟たちから聞いたローマ教会の様子によって単に安心したというだけではなくて、「勇気づけられた」のであります。パウロが福音を携えてきて、ローマの人々に勇気を与える筈でありましたが、逆にパウロがローマの兄弟から勇気を貰ったのであります。それは、兄弟たちも困難な中で勇気を持って戦っていることを知ったからでありましょう。それは、彼ら自身の強さということではなく、彼らが主に対して確かな信仰を持っていることが分かったからでありましょう。神様が彼らに勇気を与えておられることを知って、パウロも勇気づけられたのであります。

パウロはローマの信徒への手紙の中で、こう言っておりました。「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(ローマ112)。  

今まさに、そのことが実現したのであります。キリスト者の交わりとは、互いにキリストを信頼することによって、励まし合い、勇気づけられる交わりであります。

・教会というのは、いつも、この世の逆風や嵐に悩まされなければなりません。それだけでなくて、キリスト者に罪を犯させるサタンの毒と周囲からの誤解と躓きに取り囲まれています。しかしその中でも、神様のご計画は着々と進められます。神様は遣わされたキリスト者と共にいて下さいます。そして兄弟姉妹のキリストにある交わりは、私たちに勇気を与えてくれるのであります。

祈りましょう。

祈  り
 ・救いのご計画をもって私たちに臨んで下さる父なる神様!

この世の厳しい逆風や誤解の中でも、私たちをお見捨てにならないこと、また主にある兄弟姉妹によって勇気づけられていることを覚えて感謝いたします。

どうか、私たちの不信仰や軽はずみな言動が、周囲の人々や兄弟姉妹に躓きを与えることのないようにして下さい。どうか、あなたの御栄が表わされますように。

どうか、病や困難の中にある者に、御言葉の慰めと癒しと力づけが届きますように、お願いいたします。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年2月10日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録28:1-16
 説教題:「神に感謝」     
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