序.嵐の中の教会

・「嵐の中の教会」という物語が、戦後間もなくドイツ人のオットー・ブルーダーという人によって書かれました。これは、ナチズムの嵐が吹きすさぶ中で、ドイツの小さな村の福音主義教会が戦った姿を描いた物語であります。一回一回の礼拝や物事の決定が、身の危険を伴う、信仰告白の戦いであったことが描かれています。

・現代の私たちのこの小さな教会は、幸い世の中の嵐に翻弄されるようなこともなく、一見平穏のうちに航海を進めているように見えます。先週定期総会を開きましたが、外部から何の抵抗もなく、周囲の誰に対しても気兼ねすることなく、自由に審議し、決定することができました。

・けれども、この教会は本当に平穏なのでしょうか。確かに、戦争や弾圧や迫害といったことが、差し迫った問題にはなっていません。しかし、この国の行く末は安心していられるのでしょうか。いつの間にか教会も戦争の嵐に巻き込まれていたということにならないと言えるのでしょうか。

・一方現代は、世俗主義とか無関心とか宗教への警戒といった逆風が教会を苦しめています。人々が直接教会に対して妨害をしたり、抵抗して来るわけではありませんが、伝道が一向に前に進まないのはこの逆風も一因であることは確かです。

・しかし、伝道が進まないのを、そうした教会の外部の逆風の所為だけにするのは過ちであります。昨年の教勢報告でも明らかになりましたように、求道者の出席の落ち込みが目立っております。それは、伝道集会などで新しく礼拝にやってくる人が少ないということもありますが、それよりも問題は、長く求道生活を続けていた人が、次第に礼拝から足が遠退いたり、来なくなってしまっているということであります。教会に何かを求めていたのに、教会がそうした人を捕えきれていないという問題であります。

・現代生活には問題がないどころか、ストレスを引き起こすようなことがいっぱいあって、心の病に苦しむ人は沢山おられるのに、教会が必ずしもそうした人たちの救いとなっていません。教会に救いがないわけではありません。イエス・キリストという救い主がおられます。しかし、様々な重荷や心の病を負って苦しんでいる人に、イエス・キリストの救いを伝えきれていないということであります。それはどこに問題があるのでしょうか。説教に魅力がないということがあるでしょう。一人一人への牧会が行き届いていないということもあるでしょう。伝道の仕方に工夫が足りないということもあるでしょう。しかし、一番の問題は、私たち自身が救われているのかどうか、私たち自身が福音から慰めや喜びや希望を得ているのかどうか、ということであります。

・確かに現代は、教会に対しても容赦なく逆風は吹いています。まだ大波が来て転覆させられるようなところまでは行っていませんが、いつの間にか嵐の中に巻き込まれつつあることを感じざるを得ません。けれども問題は、外から襲ってくる嵐や逆風にどう対処するかということよりも、嵐の中で私たち自身がどうしているかであります。ただ心配したり、右往左往しているだけでは、教会はこの世の人々と共に、大風に吹き飛ばされるか、波に流されてしまうだけであります。

・今日は、使徒言行録27章の後半の個所を与えられています。先々週に前半を学びましたが、そこでは、ローマで皇帝の裁判を受けるために護送されるパウロが乗った船が、ひどい暴風に襲われて、もはや助かる望みが消えうせようとしていたときに、神からの天使がパウロのそばに立って、「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」2724)と言ったことが記されていました。

・神様からローマでの宣教の使命を与えられたパウロが乗っていたために、船に乗っていたすべての者が命を失わずに助かる、というのであります。ひどい暴風の中で、積荷や船具も捨て、もはやなすすべがなくなって、パウロとて、どうすることも出来ない中で、天使によってこの言葉が与えられたのであります。

・この世が現代の嵐に巻き込まれる中で、教会も馬耳東風でいることは出来ませんし、教会こそ、逆風に最も悩まされるのかもしれません。しかし、そこで教会は、パウロが天使を通して神様の御心を聴いたように、神様の御言葉を聴かされているのであります。それは、ローマ行きの使命を与えられたパウロが乗っているので乗船者の全員が助かるように、神様から福音宣教の使命を与えられた教会がこの世にあることによって、この世が救われるということであります。

・では、神様の御心を聴いたパウロは、どうしたのでしょうか。パウロは25節で、同船の人々にこう語っています。「ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」――私たちも確信をもってこのように語らなければなりません。私たち自身にこの確信がなくて、どうして嵐の中で平静でいることができ、どうして、人々に安心や喜びを分かつことができるのでしょうか。

・さて、このことがあったのは、パウロたちの乗っている船が「良い港」と呼ばれる港を出発してから三日目か四日目のことですが、今日の27節以下の個所には、十四日目以降、上陸するまでのことが記されています。すんなりと全員が助かったということではなくて、いくつかの際どい事件が起こります。その中でパウロはどうしていたのか、信仰者はいかにすべきか、ということを今日は見て行きたいと思うのであります。

1.あの人たちが船にとどまっていなければ

さて、また地図で確認しておいていただくと分かりやすいのですが、クレタ島の「良い港」からフェニクスの港へ移動しようとして、風に流されて西に向かって漂流を始めた船が、十四日目にはどこかの陸地に近づいていることを、船員たちは感じました。

そこで水深を測ってみると、船が進むに従って浅くなって行くことが分かって、暗闇の中で暗礁に乗り上げると危険ですので、錨を投げ込んで、夜の明けるのを待ちました。ところがそこで一つの事件が起こりました。30節以下ですが、船員たちが錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろして、逃げ出そうとしたのであります。

なぜ船員たちがこっそりと逃げ出そうとしたのか、その理由は説明されていませんが、彼らは経験から陸地が近いことを知って、自分たちだけ助かろうとしたのでありましょう。

パウロがそれに気づいて、百人隊長と兵士たちにこう訴えました。「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」(31)。そこで、兵士たちは降ろしかけていた小舟の綱を断ち切ってしまいました。小舟が失われると、港でないと上陸できなくなるかもしれないので、困ることになるかもしれませんが、船員を確保しておく方が重要だと判断したのでありましょう。

しかし、ここでのパウロの判断は、単に技術や経験からの判断ではないと思われます。パウロが十数日前に神の天使から聞いた言葉はこうでした。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」(24)。――パウロは船員も含めて一緒に航海しているすべての者を神様から任されたのであります。この天使の言葉を聞いて、パウロは一人の命も失われることなく、全員が助かることを信じたのであります。だから、船員も船に留まっていなければならないのであります。

このことは私たちにも重要なことを教えているように思えます。先々週の説教で、航海する「船」というのは運命共同体である、私たちの生活共同体を象徴しているということを申しましたが、私たちの共同体の運命は、その中にいるキリスト者たち、即ち教会に委ねられている、ということであります。その共同体の中から、自分たちだけが助かろうとする者が現れます。神の言葉を信頼するのでなくて、手近にある救いの手段を用いて、逃げ出そうとするのであります。それは、神様を信じない者であれば、当たり前の判断であると言えます。しかし、パウロが天使から神様の御意志を聞かされていて、それを信じていたように、キリスト者は神様が用意されている救いの約束を信じているのであります。

しかも、全員が助かるために、神様を信じていない人々の協力も必要なのであります。ここでは、パウロが「この人たちが船に留まっていなければ、あなたがたは助からない」(31)と言っているように、この世の信仰を持っていない人も含めて、全ての人の協力と働きがあって、最終的に救いは実現するのであります。だから私たちは、私たちの周りに信仰以外に救いの道を求めようとする人がいるならば、引き止めなければなりません。その人たちの働きもあって、私たちの共同体の皆が救われるのであります。

2.嵐の中のパン裂き

次に33節以下には、パウロが一同に食事をするように勧めたことが書かれています。こう言っております。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」 嵐の中で船酔いもあったでしょうし、不安もあって、皆は何も食べる気がしなかったのでしょう。

しかし今、パウロは生き延びるために食べることを勧めます。神様が救ってくださることを信じているからと言って、自分たちは何もしないでよいということではありません。食事をとって体力をつけておかないと、いざという時に、動けなくなって、船から脱出することも出来なくなってしまいます。

私たちの本当の救いである天国行きについても、同じことが言えるのではないでしょうか。私たちはイエス・キリストを信じることによって、罪が赦されて、神の国に入ることが約束されています。だからと言って、キリスト者は何もしないで天国に行けるということではありません。私たち自身も、終りの時に天国に入ることが出来る体力を養っておかなければなりません。

私たちが養っておかなければならない体力とは何でしょうか。肉体的な体力ではありません。信仰の体力であります。終わりの時まで信仰を持ち続けることが出来るための養いが日々必要である、ということであります。御言葉の養いを受け続けていなければ、信仰の体力は見る見るうちに弱ってしまいます。肉体的な体力を維持するためには三度の食事が欠かせないように、信仰の体力を維持するためには、主の日ごとの礼拝で御言葉の糧をいただくことを欠かせないのではないでしょうか。

35節によると、パウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めました。ここに記されているパウロの仕草は、ユダヤ人が食事の時に行う習慣に従ったものでありましょうが、主イエスとの最後の晩餐のことや、エマオに向かっていた弟子たちに復活の主イエスが現れてなさった仕草を思い出させるものであり、初代の教会が「パン裂き」と呼んだ聖餐の儀式を思わせるものであります。パウロがその聖餐を意識して行ったのではないかもしれませんが、私たちの救いのために聖餐が必要であることを思い起こさせる仕草であります。 私たちは終わりの時に至るまで、御言葉の糧の養いを受けると共に、聖餐に与って、キリストの体の象徴であるパンと流された血の象徴である杯によって、キリストの十字架の犠牲を覚え続けることが必要であります。こうした信仰の生活習慣を身に着けるということが、具体的に信仰の体力をつけるということであります。

パウロの勧めに従って、一同も元気づいて食事をしました。全部で二百七十六人も乗っていたようですが、彼らが十分に食べる食糧があったようであります。

その上で、残った穀物を海に投げ捨てて船を軽くしました。助かるために、余分な荷物を捨てたということであります。このことも、私たちの天国行きにおいてなすべきことを示唆しているように思います。私たちはこの世で色々な荷物を持っています。残された人生を歩むのに必要になるのではないかと思って、確保しているものがあります。それは財産であったり、仕事であったり、人脈であったり、趣味であったり、思い出の品であったりします。それらの中には、必要になるものも確かにあるかもしれません。しかし、それらを切り離すことが出来なかったために、天国行きの重荷になるということもあるのであります。人生の最後まで、生きる術(すべ)や楽しみを確保しておきたいという気持ちは誰にもありますが、それらのために、肝心の天国に行けるための信仰の体力が損なわれては何もなりません。天国を目指す者は、不必要な荷物を投げ捨てる勇気も必要なのであります。

3.囚人たちも救われる

・さて、39節以下に進みます。

翌朝になって明るくなると、どこかの陸地に近づいていることが分かりました。砂浜のある入り江も見つけることが出来ました。そこで、その砂浜のある入り江に乗り入れることになりました。

・ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船が乗り上げて、動かなくなって、激しい波のために船が壊れだしました。もう船は岸に近いところまで来ていて、岸まで泳いで行ける位の距離でした。その時また、一つの事件が起こりました。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったのであります。兵士は囚人を逃がさないのが役目ですから、囚人を逃がしてしまっては、自分たちの責任が問われることになります。こういう非常時には殺すことも許されていたのでありましょう。パウロも囚人の一人であります。兵士たちの勝手な思惑のために、パウロのローマ行きが実現しないばかりか、生命さえも奪われそうになったのであります。

・しかし、神様はそうはさせなさいませんでした。司令官の百人隊 長は、パウロの言動に敬意を抱くようになっていたのでありましょう。パウロを助けたいと思ったので、兵士たちの計画を思いとどまらせました。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令しました。こうして、結局、パウロが言ったように、全員が無事に上陸したのであります。

パウロが食事をするようにと励ましたので、乗客たちは元気を出して岸まで泳ぎ着くことが出来ましたし、乗客だけでなく、パウロの存在によって、殺されそうになった囚人たちも救われたのであります。ここにも神様の不思議な摂理が働いたと思わざるを得ません。

同様に、キリスト者がいることで、罪人が救われ、教会がこの世に存在するが故に、この世は滅ぼされずにいるのであります。  それは、キリスト者の力でこの世を支えているとか、キリスト者の良い行いによって、罪ある人も赦されるということではなくて、神様が信じる者を救おうとなさっているからであります。

結.嵐の中の聖餐

・改めて、パウロが乗った船が暴風に襲われた出来事を振り返ってみると、ローマでの宣教の使命を担ったパウロがこの船に乗っていたことで、一般乗船客をはじめ、兵士も船員も、そして囚人までも全員が助かったのであります。乗船客は、一時は食事をする元気さえ失っておりました。しかし、全員が助かるという神様の言葉を信じたパウロがいたことで、元気を出して食事をしたので、岸に泳ぎ着く体力を回復することが出来ました。小舟を降ろして逃げようとした船員たちにパウロが気付いて止めたことで、この船員たちによって船を岸の近くまで寄せることが出来ました。殺されかかった囚人たちも、パウロがいたことで、百人隊長は囚人を殺さないように命じました。こうして自分のことしか考えなかった船員や兵士や、そして罪人である囚人までも、全員が無事に上陸することが出来たのであります。ここにこの世におけるキリスト者の働きと教会の存在意義が象徴的に表わされています。

・今日は、この後、聖餐式を行います。パウロが「パンを取って感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べた」ことは、必ずしも聖餐式を意識した行為ではなかったかもしれませんが、私たちが行っている聖餐式の意味を思い起こさせるものでありました。冒頭で述べましたように、教会はこの世の逆風の中で、行き悩んでいるとも言える困難な現実があります。しかし、教会はその嵐の中で、パウロが天使の声を聞いて信じたように、聖書を通して御言葉を聴いて、救いを信じています。そして、嵐の只中で静かに聖餐式を行なって、主イエスの十字架の恵みを味わうのであります。ウイリモンという人は、「聖餐とは、嵐の最中に分かち合われた信頼の食物である」と言っております。私たちはこれから、その信頼の食物に与ることによって、私たち自身と世界が救われることへの望みを確かにしたいものであります。祈りましょう。

祈  り

・全ての者を救おうとして下さる、憐れみ深い父なる神様!御名を賛美いたします。

私たちが生活しておりますこの世界には、私たちの力では如何ともし難い嵐が吹き荒れております。その中で、教会も翻弄されているように、私たちには見えますが、あなたは計り知ることの出来ない御計画によって、この世に教会を建てて、福音の宣教の業に就かせて、全ての者を救いへと導こうとされていることを知らされて、感謝いたします。

どうか、この小さな教会も、この世の嵐の只中でも、動じることなく、静かに御言葉に耳を傾け、終わりの日まで聖餐を続けることが赦されますように。

どうか、不安や恐れの中にある人々が、この教会の存在を通して救いの確信を抱くことが出来、安らぎと希望をもつことが出来ますように。

どうか、私たちの日々の生活が、終わりの日の救いに向けて、整えられ、信仰の体力を養われることが出来ますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年2月3日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録27:27-44
 説教題:「嵐の中の食事」     
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