「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」                            (ヨハネによる福音書129より)

 標記は、本年の二つの主題聖句のうちの一つで、洗礼者ヨハネが主イエスを指し示して語った言葉である。
 ヨハネが大勢の人々を惹き付けて、洗礼を授けているのを知って、ユダヤの指導者たちは調査の必要を感じて、祭司やレビ゙人を遣わして、「あなたはどなたですか」と、ヨハネが自分の役割をどう考えているのかを問い正した。ヨハネはユダヤ人が出現を待ち望んでいるようなメシア(キリスト)でないことを明言した(20)。質問者は更に、「エリヤですか」「あの預言者ですか」と問うが、ヨハネはいずれでもないと言い、自分は「荒れ野で叫ぶ声であると言う。神の「言」であるキリストとは違って、救い主の到来を告げて、人々に注意を喚起する「声」に過ぎないと言うのである。
 質問者は次に、洗礼を授けていることについて、その権威の根拠を問うたのに対して、自分は水で洗礼を授けているが、後から来られるメシアは聖霊によって洗礼を授ける方(33)であって、その方にこそ権威があって、自分はその方の「履物のひもを解く」奴隷以下の者であると答える。
 そして、その方は既にこの世に来ておられることを告げ(26)、翌日、主イエスが現れた時に、標記のように証ししたのである。私たちキリスト者は、このヨハネの姿と自分の役割を重ね合わせて考えなければならない。真の証し人とは、自分を声高に語ったり、「自分を見よ」と誇らしげに自分自身を示して、自分の地位や名誉を求めることをしない。キリスト者の役割は、あくまでも「見よ」と言って、キリストを指し示す「指」に留まることである。
 このような役割は、それがキリスト者の務めや義務だから行うのではない。本年のもう一つの主題聖句である「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)という言葉が示すような、礼拝に連なる恵みと喜びの中から、兄弟姉妹をもそこに招き入れたいとの願いへと自然に導かれるのである。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年1月27日 山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:19−34
 説教題:「見よ、神の小羊」                
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