序.ヨハネと自分を重ね合わせながら

・今日は、礼拝の後で、2008年度の定期総会が行われます。それに先立って、この礼拝では、与えられております主題聖句によって、今年の年間目標について考えてみたいと思います。

・今年の年間目標は、昨年に引続いて「わたしたちはキリストの使者」であります。この言葉はコリントの信徒への手紙の中から採ったものですが、私たちはキリストを証しする使者として、キリストから遣わされていることを覚えようという主旨であります。

・主題聖句は去年と変わりました。一つは、先ほど先に朗読していただいた詩編133編の1節の「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」という言葉で、もう一つは、待降節から聴き始めましたヨハネによる福音書に記された、洗礼者ヨハネが語った「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という言葉であります。

・今日は、ヨハネによる福音書の19節から34節までの個所から、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉がどのようにして出てきたか、ということを学ぶとともに、そのように語る洗礼者ヨハネと私たちとを重ね合わせながら、私たちの使命を考えてみたいと思うのであります。

・待降節の第三主日に、ヨハネによる福音書の16節から18節の御言葉を聴きました。そのときにも触れたことですが、福音書の執筆者であるヨハネが、主イエスのことを記すに当たって、洗礼者ヨハネのことをかなり詳しく書いているのには、執筆者ヨハネが、自分の証し人としての役割を、同じヨハネという名前の洗礼者ヨハネの役割に重ね合わせて考えていたのではないか、と思われるふしがあるのであります。そこで私たちも、洗礼者ヨハネと自分たちを重ね合わせながら、この個所の御言葉を聴いて行くのがよいのではないかと思うのであります。

1.「あなたはどなたですか」――私たち自身はだれなのか

19節を見ますと、エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させた、と書かれています。これはヨハネがヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていた時のことで、ヨハネの働きが大きなセンセーションを巻き起こして、大勢の人々が続々とヨハネのところにやって来て、洗礼を受けていました。この様子がエルサレムに伝えられると、ユダヤの指導者たちは、このヨハネなる人物が一体何者なのかを調査する必要を感じたのでありましょう。当時ユダヤはローマの支配下にあって、そのような状況から脱却させてくれる指導者が出現することへの期待がありました。革命を企てようとする者も現れていたようであります。そんな中で大勢の民衆を集めているヨハネを調査する必要があると感じたのは、指導者たちとしては当然のことであります。恐らくユダヤの最高議会の人々が祭司やレビ人の中から代表者を選んで、調査に派遣したのだと考えられます。

「あなたは、どなたですか」という質問は、ヨハネが何処の誰かわからない、ということではなくて、ヨハネが祭司ザカリアの息子であるというようなことは、分かっていた筈であります。聞きたかったのは、ヨハネが何をしようとしているのか、自分の役割をどのような者と考えているのか、ということであります。そこには、<あなたは旧約聖書が約束しているような救い主メシアなのですか>というニュアンスが込められていたのでしょう。

この質問に対してヨハネはきっぱりと「わたしはメシアではない」と言い表しました。「メシア」とはギリシャ語ではキリストであります。ユダヤ人が待ち望んでいた救い主のことであります。<わたしは皆が出現を待ち望んでいる救い主なんかではない>と、強い調子で答えたのであります。

すると質問者は、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ね、ヨハネが「違う」と言いますと、更に「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねますが、「そうではない」と答えます。

質問者が「あなたはエリヤですか」と尋ねたのは、旧約聖書のマラキ書に「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ3:23)と述べられているからであります。けれどもヨハネは、<エリヤでもなく、特定の預言者の再来でもない>と答えているのであります。この答えについては、少し注釈が必要であります。というのは、マタイによる福音書によりますと、イエス様がヨハネのことを「彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ11:14)と明言されていますし、「預言者以上の者である」(マタイ11:9)とも言っておられるからであります。

・イエス様はヨハネをそのように評価しておられる(位置づけておられる)ということであります。しかし、ヨハネ本人はそのようには考えていなかったのであります。このことは、現実にエリヤや預言者の役割を担っている本人は、自分がそうであるとか、そうでありたいなどとは思わない、ということを示しています。現実にイエス・キリストを証ししている者は、いつも自分自身がイエス様の立派な証人であるなどとは思っていないのであります。本当のイエス様の証人は、自分の地位とか名誉を求めないということであります。証人は、ただ押し出されるようにして、主イエスが救い主であることを証しするのみなのであります。

・私たちが自分をヨハネと重ね合わせようとするとき、このことを忘れてはならないでしょう。私たちがキリストを証しする使者となるということは、何か人から尊敬を受けるとか、特別に優れた人間になるとか、他の人に対して優越感を持てるような立場に立つというようなこととは違うのであります。

ヨハネが、エリヤでもなく預言者の一人でもないと答えましたので、質問者は、「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と問い質します。ヨハネはいよいよ、自分自身が何者なのか、何を使命と考えているのかを答えなければなりません。私たちもまた、神様との関係において、自分が何者であるのか、自分の役割を明らかにしなければなりません。この場合のように、具体的に問い質されるかどうかは別として、神様の前に誠実に生きようとする時には、自分自身が神様との関係において何者であるのかを曖昧にしておくことは許されません。

2.荒れ野で叫ぶ声

この問いに対してヨハネは、イザヤ書403節の言葉を用いてこう言いました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

ヨハネは自分のことを「声」だと表現いたしました。「声」とは言葉を伝えるための音声であります。語るべき内容をもった言葉がなくて、「声」だけでは、呻きのようなもので、殆ど意味内容を伝えることが出来ません。主イエスが真の言(ことば)であられます。言は意味を持ちます。しかしヨハネは、その言を指し示す「声」に過ぎない、ということであります。誰でも自分が何者であるかを誇らしげに語りたいものであります。自分はどんなに大切なことをしているか、どんなに人のため、神様のために役に立っているかを語りたいものであります。しかしヨハネは、あくまでも「声」に留まろうといたします。

ではヨハネは、自分には何の役割も使命もないと言ったのでしょうか。そうではありません。「声」のように空しい者ではあるけれど、「声」として、どうしてもしなければならないことがある。

それが、「荒れ野で」「主の道をまっすぐせよ」と叫ぶことだ、というのであります。「荒れ野」とは、実際にヨハネが人里離れた荒れ野で活動していたということですが、同時に、当時のイスラエルの霊的に荒廃した状態を表現していると思われます。「道をまっすぐにする」とは、王などが地方を訪れるときに、前以て先ぶれをして道を整える役目をする者に譬えているのでありますが、自分は主役でも脇役でもなく、ただ救い主の到来を告げ、人々が喜んで主をお迎えできるようにするだけだ、ということでありましょう。

・救い主イエス・キリストの到来を知らされたキリスト者の役割も同様であります。この世は正に荒れ野であります。神様の存在を知らず、神様の愛と恵みを知らない世界は、たとえ表面的には華々しく見えているにしても、その実体は、潤いのない、殺伐とした荒れ野であります。そこへ、救い主が来られるのであります。キリスト者が「道をまっすぐにする」と言っても、救い主が通りやすいように荒れ野を切り開いて、歩きやすい平坦な道を造成するというようなことは、とても出来ません。ヨハネが言ったのもそういう意味ではないでしょう。荒れ野は主イエス自身が切り開かれます。道をつけられるのは、「私は道である」とおっしゃっる主イエス御自身であります。主イエス自らが人に踏みつけられる道となられるのであります。私たちに出来ることは、主の到来を告げて、人々の注意を喚起するだけであります。

3.あなたがたの知らない方――聖霊によって洗礼を授ける方

・ところで、ヨハネのところへ遣わされた人たちは、ヨハネが何者であるかを質問しただけでなく、更に25節では、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と、非難を込めた詰問を始めます。

・というのは、ユダヤ人は、洗礼というのは神の民でない異邦人が改宗してユダヤ教会に受け入れられる際に行うもので、ユダヤ人は受ける必要がないと考えていました。しかるに、ヨハネは、ユダヤ人も悔い改めて洗礼を受けることを勧めたのであります。それに応えて、大勢の民衆がヨハネのところにやって来たのであります。それで、エルサレムの指導者たちは、ヨハネのしていることを放って置けなくなったのであります。ですから、彼らは<お前は何の権威によって、ユダヤ人にまで洗礼を授けているのか>と問い詰めているのであります。

・それに対して26節でヨハネは答えます。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」――「わたしは水で洗礼を授ける」と言っている裏には、29節以下の翌日の記事の中の33節で言っていることがあります。そこではこう言っております。「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」。つまり、ヨハネは既に主イエスと出会っているのであります。マタイによる福音書などに書かれているように、主イエスがヨハネのところに洗礼を受けに来られたのであります。その時、主イエスの上に聖霊が降るのを見ました。そして、主イエスは水でではなく、聖霊において洗礼を授けるお方であるということを確信したのであります。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」というのは、<あなたがたはまだ知らないが、救い主は既にこの世に来ておられる>と言う意味であります。「わたしはその履物のひもを解く資格もない」と言っておりますが、履物のひもを解くのは奴隷の仕事でありました。だから、<自分は来られた救い主の奴隷の役目さえ出来ない者である>という意味であります。ここでヨハネが言いたいことは、<あなたがたは私が水で洗礼を授けていることについて、何の権威によるのかと非難しているが、実は、あなたがたはまだ知らないが、救い主であるお方が既に来ておられる。そのお方こそ権威のある方で、私には何の権威もない。私はその人の奴隷以下の者である。本当の意味で悔い改めの洗礼を授けることが出来るのは救い主である主イエスであって、私はその準備をしているにすぎない>ということであります。そのような聖霊による権威ある洗礼は、ユダヤ人であっても受けなければならないものであります。もう一度悔い改めて生まれ変わらなければならないのであります。

私たちの教会でも、洗礼を行います。信仰を告白して洗礼を受けるまでに、教会で色々な勉強をしたり、色々な方がアドバイスをしたり、勧めたりいたします。けれども、そうした本人の努力や周りの人の援助が功を奏して、洗礼に至るのではありません。あくまでもそこに神様御自身の働き(聖霊の導き)があってはじめて信仰告白に導かれるのであります。洗礼に先立って牧師や長老(委員)による諮問会を行って、その人が洗礼を受けることが出来るかどうかを判定いたします。しかし、それは牧師や長老(委員)に固有の権威があるのではなくて、神様の権威のもとで、聖霊の導きによって判断される、ということであります。悔い改めを起して下さり、新しい命に生かして下さるのは神様であります。牧師や長老(委員)は、その神様の働きが洗礼を受けようとする人にあるのを見て、感謝して受け入れるだけであります。私たちもヨハネと同じように、洗礼は水で行いますが、そのとき、神様が聖霊によって洗礼を行なって下さることを信じているのであります。ヨハネ自身にも私たちキリスト者にも、何の権威もありません。人を救い、新しく生かすのは、救い主イエス・キリストであります。

4.見よ、神の小羊

さて、ヨハネと質問者が、今述べて来たようなやり取りを交わした翌日、主イエスがヨハネのところにおいでになりました。主がヨハネのところに来られたのは初めてではありません。先ほど申しましたように、主イエスは洗礼を受けるために既にヨハネのところに来られています。しかし、前日の質問者との問答の際にはおられなかったようであります。26節で、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」とヨハネが言ったのは、文字通りそこにおられるということではなくて、<既にこの世に来ておられる>という意味で言ったのであります。

・この日は、その主イエスが姿を現されたので、ヨハネは恐らく主イエスを指差しながら、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったのであります。この言葉の詳しい内容については、改めて学びたいと思いますが、ヨハネが言いたいのは、<この方こそ、人の罪を取り除くために神から遣わされた救い主メシアであって、この方こそ権威あるお方であって、私はこの方のために、道をまっすぐにしているのであり、この方が聖霊によって洗礼を授けられるのだ>ということであります。

翌日のこの時まで質問者たちがいたのかどうかは分かりませんが、この言葉を語るヨハネの姿の中に、「あなたは、どなたですか」という質問への決定的な回答が表わされています。23節では、ヨハネは自分のことを「『主の道をまっすぐにせよ』と叫ぶ声である」と言っておりました。そこではまだ、主が来られるのに先立って注意を喚起する「声」でありました。しかしここでは、「見よ」と言って、来られた主イエスを指し示しています。言わば、主イエスを指し示す「指」の役割をしているのであります。しかしここでも、主役は主イエスであって、ヨハネではありません。「声」と「指」の違いはあっても、ヨハネは脇役に過ぎません。

キリスト者の役割も同様であります。キリスト者の指が指し示すのは、あくまでもキリストであります。聖書の中に信仰の模範とされるような人物が沢山登場いたします。それらの人物から教えられることも多く、信仰の養いを得ることが出来るのも確かであります。ヨハネもそのような模範的な人物の一人かもしれません。しかし、ヨハネから学ぶべきこと(ヨハネに見習うべきこと)は、ヨハネがキリストを証しする「声」に留まっていることであり、キリストを指し示す「指」に留まっていることであって、決して、自分自身を声高に語ったり、「自分を見よ」と誇らしげに自分自身を指差していないことであります。キリスト者の役割は、あくまでも「見よ」と言って、キリストを指差すことであります。

結.兄弟が共に座っている――感謝と喜びの礼拝への招き

・では、なぜキリスト者はキリストを指し示したくなるのでしょうか。それはキリストを指し示すことがキリスト者の務めや義務だから、というのではありません。

・今年のもう一つの主題聖句は詩編133編の「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」であります。詩編133編は「シオン」すなわちエルサレムの神殿での礼拝の喜びを歌った歌であります。神様の御前に兄弟姉妹と共に座っている(礼拝している)ことが、神の恵みであり、喜びなのであります。この詩編は、ただ人間同士が仲違いせずに和合することの喜びを語っているように受け取られ勝ちでありますが、ここで歌われている喜びの元は、共に神の前にあるということであります。

2節の「かぐわしい油」とは、祭司アロンの頭に注がれて、ひげに滴り、更に衣の襟にまで垂れる良い香の油のことであります。それは礼拝の喜びと祝いの象徴であります。3節の「ヘルモンにおく露」とは、この地方に降りる夜露によって、乾いた大地や、草木が生き返るように、乾ききった人生に、礼拝において聖霊の露を注がれて、命を吹き返す恵みを表わしています。

そのような恵みと喜びに満たされるのは、礼拝において「世の罪を取り除いて下さる神の小羊」に出会うからであります。その喜びと感謝に押し出されて、他の人にもその喜びを伝えたいという、キリストを指し示すキリスト者の働きが自然と出てくるのであります。今年の目標である「わたしたちがキリストに使者」であることは、それがキリスト者の務めだからではなく、礼拝が感謝と喜びの場であり、そこに兄弟姉妹を招き入れたくなるからであります。詩編133編に記された礼拝の喜びから、ヨハネ福音書の「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」というキリスト者の姿が導き出されて来る、ということであります。そういうわけで、本年はこの二つの聖句をセットで主題聖句といたしました。
・祈りましょう。

祈  り

・御子イエス・キリストを小羊として私たちの所にお送り下さった恵み深い父なる神様!

今日もかぐわしい恵みの香りと御霊の露を注がれる礼拝に、兄弟姉妹と共に与ることを許されて感謝いたします。

どうか、この恵みを、更に多くの方々と共に受けることが出来るように、私たちも与えられたそれぞれの持ち場で、イエス・キリストを証しすることができますように。

どうか、このあと開かれる定期総会もあなたの導きのうちに、議事の中にあなたの御心が示され、新たな力を受けて、新しい歩みを始める時とならせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年1月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:19-34
 説教題:「見よ、神の小羊」     
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