序.船―運命共同体

・エルサレムでユダヤ人たちから訴えられたパウロは、ローマ総督がいたカイサリアという地中海に面する町で裁判を受けましたが、パウロがローマ皇帝に上訴いたしましたので、ローマへ護送されることになりました。使徒言行録27章には、カイサリアからローマへ護送される船旅のことが記されています。今日は、その前半部分から御言葉を聴きたいと思います。

・海は古代人にとって恐ろしいところでありました。海は魚などの食糧の宝庫であり、自由に行き来の出来る交通路でもありますが、一旦荒れ狂うならば、大きな船であっても、波に翻弄されて、海の藻屑とされてしまいます。海には魔物が住んでいると考えられていました。

・船が嵐に遭う話は、聖書の中にもいくつかあります。旧約聖書ではノアの箱舟の話に始まって、神様から使命を与えられたヨナが、それを嫌ってニネベに行こうとして嵐に遭い、巨大な魚に呑み込まれた話はよく知られています。新約聖書でも、ガリラヤ湖で船に乗っていたイエス様と弟子たちが嵐に遭い、弟子たちが助けを求めると、イエス様が嵐を鎮められたという話が出ています。

・そのような嵐の中を航海することは、しばしば人生行路に喩えられます。逆風と荒波を受けつつ、その苦難を乗り越えて目的地に到達するドラマは、まさに人生のドラマの写し絵であります。

・「船」というのは、一種の運命共同体であります。単身で太平洋を横断した堀江謙一さんのような場合は別として、複数の人が乗っている場合は、小さな船であれ大きな船であれ、乗船者が赤の他人同士で交わることがなかったとしても、船に命を預けているという点では運命共同体であります。一旦嵐に遭遇して船が沈めば、底なしの海の上に皆、投げ出されてしまいます。そこには階級の差、身分の差、貧富の差はありません。

・最近は宇宙から写した地球の映像を見たりすることが出来ますが、それを見ると、地球全体が一つの船のようにも見えて、運命共同体であることを思わせられます。

・地球全体のことまで考えなくても、私たちが普段生活している、家庭や職場や学校や地域といった社会も、ある意味では運命共同体であります。一人一人は個性があり、人生観も違うのですが、一つの共同体を形成して限り、運命を共有している部分があります。そこで起こることは、皆に影響があります。一人の言動が共同体全体の運命に大なり小なり影響を及ぼします。

・「船」というのは、そのような私たちの共同体の象徴であります。

 今日のローマへの航海では、最初のミラというところまでに乗った船と、それ以後とでは船を乗り換えましたが、いずれの船も、パウロたちだけではなくて、護送する兵隊や他の囚人も乗っていましたし、一般の商人や旅行者も乗っていたと考えられます。 それらの人とは、同じ船に乗り合わせるまでは何の関係もなかったでありましょうが、船に乗った以上、運命共同体であります。

・彼らは逆風に悩まされ、遂には暴風に遭遇いたします。その中で起こる人間模様と申しますか、一つのドラマが描かれています。

 今日は、そのドラマの渦中にあるパウロの姿を通して、一つの共同体の中にある信仰者(キリスト者)の役割というものを共に考えたいと思うのであります。

1.ローマへの船出

パウロと他の数名の囚人が、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡されて、カイサリアから船出します。一行の目的は、ローマ皇帝のもとで裁判を受けることであります。パウロも同様に、皇帝に上訴したことで裁判を受けるために、他の囚人たちと一緒に護送されているわけであります。

ところが実は、パウロにはもう一つ別の目的が隠されているのであります。パウロは既に第三次宣教旅行でエフェソに滞在していた頃に言っていたことですが、更に進んでマケドニア州とアカイア州(ギリシャ方面)に行った後、一旦はエルサレムに戻るけれども、その後、「ローマも見なくてはならない」と言っておりました(1921節)。ローマの信徒への手紙は、パウロがその後コリントに滞在中に書かれたのではないかと言われていますが、その中で、「何とかしていつか神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(ローマ1:10)と述べています。このように、パウロはかねてからローマ行きを願っていたのであります。それだけではありません。使徒言行録2311節によれば、パウロがエルサレムでユダヤ人たちに訴えられて、ローマ兵の兵営に保護されていた時に、夜、主がパウロのそばに立って、こう言われました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」つまり、パウロのローマ行きは単にパウロの個人的な願いではなくて、主の御計画であり、そこで福音を宣べ伝えるために主がパウロをお遣わしになるのであります。パウロのローマ行きの表向きの目的は裁判のためでありますが、その裏には、神様の宣教計画が隠されていたのであります。

2節の後半には、「テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった」と記されています。アリスタルコという人は、パウロがエフェソで大混乱に巻き込まれた時、一緒に捕えられたことがありました。パウロと行動を共にしていたからであります。今回、同行しているのはどういう目的であったのか、明らかではありません。故郷に帰る目的で、途中まで一緒に行こうとしただけかもしれませんが、コロサイの信徒への手紙を見ると(4:10)、彼がローマでパウロと一緒に捕らわれの身となっていることが分かります。ということは、ローマまで一緒に行って、その後もパウロと運命を共にしたことが分かるのであります。また、このあたりの文章は「わたしたちが・・・」という表現になっていることから分かりますように、使徒言行録の筆者であるルカも同行しているのであります。アリスタルコやルカは、ただパウロの身を案じて同行しただけなのかもしれませんが、主はローマでのパウロの働きのためにも、こうした記録を聖書に残すためにも、二人を備えておられたのであります。

この船旅の行程は聖書の巻末の9番目の地図「パウロのローマへの旅」を見ていただくとよく分かりますが、最初の船では、カイサリアを出て、シドンに立寄って、向かい風を避けてキプロス島の陰を航行して、小アジアのミラというところまで行きます。この船は「アドラミティオン港の船」で小アジアの海岸線に沿って北へ上って行く船だったので、ミラで別の「イタリアに行くアレクサンドリアの船」を見つけて、乗り換えました。

この船には、後に38節に書かれているのですが、穀物が積まれていました。エジプトからローマへ運ぶ穀物であったと考えられています。船には荷物だけでなく、穀物の取引に関わる商人たちも乗っていたと考えられます。一般の乗船者もいたかもしれません。それぞれ行く先は異なり、旅行の目的は様々であったと思われます。しかし、先ほど申しましたように、一つの船に乗れば、運命共同体であります。

その様々な目的を持った乗船者の中に、神様からローマへ行って宣教する使命を与えられたパウロたちが乗り合わせているのであります。それは、先ほども述べましたように、私たちが属している家庭や職場や地域社会を象徴する共同体であります。そこに、神様から使命を与えられた人間がいるということが、この集団の運命に大きく関わるのであります。

2.逆風の中で――人間の判断

ミラを出た船は、逆風に阻まれて難渋したようですが、クレタ島の南側に回り込んで、北風で流されないようにしながら、西へ航行を続けて、「良い港」と呼ばれる所に着きました。すでに予定よりもかなり遅れていて、9節にある断食日も過ぎていたというのは、9月の終わりか10月の初めでありますが、9月中旬以後にこの先を航海するのは危険であるとされていました。それで、もはや冬を迎える以前に外洋を渡ってイタリアまで行くのは不可能であることがはっきりしましたので、どこで冬を過ごすかということになりました。

パウロはこれまで何度も船旅をし、難船の経験も一度ならずしておりましたので、もはやこれ以上航海を続けることは危険であると判断しました。それで、パウロは人々に忠告しました。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります」10節)。 神様の守りを信じているパウロにしては慎重論でありますが、神様から何らかの示しを受けたとは書かれていませんので、パウロの経験から来た判断であったのでしょう。

ところが、船長や船主(ふなぬし)は別の見解でありました。「良い港」と呼ばれる所も、その名の通り良い港でありましたが、風を避けるにはやや難点があったようで、もう少し先のフェニクス港まで行って冬を過ごすのがよいというのが、彼らの意見でありました。もしかすると、商売上の理由もあったかもしれません。船長や船主は航海のベテランでありますから、最終判断を行う百人隊長も、パウロの言うことよりも彼らの方を信用しましたし、大多数の者もフェニクス港まで行こうという意見でした。ちょうど南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、西に向かって出航いたしました。

パウロの慎重論にしろ、船長や船主の楽観論にしろ、人間の経験や知識から来た判断であります。自然の状況を予測しきることは出来ませんから、どちらの判断が正しかったかは、結果を見なければ分かりません。この段階でパウロも神様に問うことをしなかったようですし、神様もご指示を出されなかったようであります。

私たちも人生の岐路に立ったとき、何らかの判断を迫られます。そのとき、私たちは人間の経験や知識や情報を動員して判断いたします。しかし、大切なことは神様に祈ることであります。神様の判断を求めることであります。パウロはこの時、祈らなかったのでしょうか。祈ったに違いありません。しかし、祈っても必ず明解な答が返ってくるとは限りません。この時どうであったかは想像の域を出ないわけですが、パウロがあくまでも自分の意見を押し通さなかったのは、神様の答をはっきりと受け取ることができなかったのかもしれません。私たちもそういう時があります。

大切なことは、人間が何らかの選択を行った後で、いざ問題が生じた時にどうするか、であります。

3.暴風に巻き込まれて

・この時は、北風がおさまって、折りよく南風が静かに吹いて来たので、出航しましたが、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来ました。こうなると風に逆らうことはできず、流されるに任せざるを得ません。ちょうどカウダという小さな島の陰に来ましたので、そこで曳航(えいこう)していた小舟を引き上げたり、船体がバラバラにならないように綱を巻きつけたりして、あとは流されるにまかせました。どんどん沖の方へ流されて行くことになります。クレタ島の西の方には大きな洲があったので、そこに乗り上げることを恐れて、船を軽くするために、積荷や船具も捨てたようであります。

・更に暴風が何日も続いたので、長い間食事をとることもできず、助かる望みは遠くなるばかりでありました。

4.皇帝の前に――神の「必ず」

そのような中でパウロはどうしていたでしょうか。21,22節は後回しにして2324節を見ますと、夜、神からの天使がパウロのそばに立ったことを述べています。「わたしが仕え、礼拝している神」と言っております。これは<普段から仕え、礼拝している神>という意味ですが、恐らくパウロは、助かる望みが消えそうになっていた中で、必死に礼拝し、祈っていたのではないでしょうか。パウロもそうするしかなかったのでありましょうが、神を信じる者には、あらゆる望みが消えかかった時にも、祈ることが出来ます。そして、神様の御心を聴くことが許されています。

・パウロが天使を通して聴いたことは、こうでした。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」――何と言う力強いお言葉でありましょうか! 神様は、以前にもパウロに、「ローマでも証ししなければならない」とおっしゃっていました。ローマに行くことは神様の御計画であります。人間の望みが消えかかった時でも、神様の計画は消えることがないのであります。「あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」と訳されておりますが、以前の口語訳聖書では「あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない」と訳されていました。原文には「必ず」という言葉が入っています。神様が必ずパウロをローマまで導き、皇帝カイザルの前に立たせて下さるのであります。それは単に皇帝の前で裁判を受けるということではありません。皇帝の前でキリストを証しするということであり、更にローマで人々にキリストを証しするということでもあります。

しかも、パウロ一人が助かるという話ではありません。「一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」と言われています。これは、パウロの指示に従えば、皆が助かるということもありますが、パウロが使命を果たすのに、他の人々も備えられた、ということでありましょう。

この天使の言葉を聴いて、パウロは皆の前に立って言いました。21節後半からです。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。」―これは今更言っても仕方ないことですが、今後、パウロの言うことに従ってもらうために言ったのでしょう。そう言った後で、パウロは人々を元気づけます。「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」神様の使命を受けた者がいることで、一人も命を失わずに済むのであります。むしろ、皆が、その神様の使命のために用いられる、ということであります。

「船」というのは、この世の共同体の象徴であると申しました。船に乗っている人の行く先や目的はまちまちであります。この世の家庭や職場や地域社会という共同体の一人一人の生きる目的は違っているかもしれません。しかし、そこにキリスト者がいるということは、その共同体全体が神様に生かされるということであります。たとえその共同体が、望みを失うような困難に遭遇しても、生きる元気を失わずに済む、ということであります。

皆さんの属しておられる共同体では、他の人はキリスト者でない場合の方が多いでありましょう。その共同体の中で、キリスト者の発言権は決して大きくないかもしれません。物事の判断は、この世の経験や知恵によって進んで行ってしまうかもしれません。大きい声に引きずられるかもしれません。

しかし、そこに一人でも二人でも、キリスト者がいることは、その共同体にとって救いなのであります。いざという時に、神様に祈る人がいます。神様の御言葉を聴き取る人がいます。神様の使命を帯びた人がいます。そこから、共同体全体に生きる望みが与えられます。神様の御計画に失敗や挫折はないからであります。

この地域に教会が建てられているということも、同じことであります。この地域でも、キリスト者は少数者であります。教会に来る人は多くありません。教会がこの地域のためにどれほどの貢献ができるのか、殆ど何の影響も与える力がないように見えるかもしれません。しかし、ここに教会があることが、この地域にとって救いなのであります。ここに神様の御言葉を聴き、祈る群があるということが、この地域を救うのであります。それは、何事か大きな災害が起こるような場合に明らかになるかもしれません。

13年前に起こった阪神大震災では、地域の教会が大きな心の支えになりました。そのような非常時でなくても、日常的な営みの中で、目立った形にはならなくても、ここで神の言葉が聴かれているということが、地域の命を支え、元気を生み出すのであります。そのことを、少なくとも私たちは確信していなければなりません。

日曜学校の働きは、地域の片隅で行われている小さな営みに過ぎません。日曜学校の営みは、そこで養われた子供たちが将来信仰を持って、教会の一員に加わるようになるということを私たちは望み見ているわけですが、それだけではなくて、地域の子供たちにとって、ここに教会があるということ自体が、心の支え・命の支えになるということがあるのではないでしょうか。子供たちは子供たちなりに、心の内に悩みを持っています。平生は学校の行き帰りにこの前を通り過ぎて行くだけの子供にとっても、ここで子供の礼拝が行われているということが、隠されてはいますが、神様が共にいて下さることの証しになっているのであります。

結.元気を出しなさい

25節以下でパウロはこう言っております。「ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」

・この時点では、まだ一行が助かるのかどうかは何もわかりません。むしろ、20節に書かれているように、「助かる望みは全く消えうせようとしていた」のであります。しかしパウロは、天使を通して語られた神様の言葉を信じているのであります。キリスト者がこの世の共同体の中に存在する意味はここにあります。多くの人は望みを失いかけているかもしれません。あるいは、そのような危機的状況すら感じていないかもしれません。しかし、そのような中でキリスト者は、神様の御言葉を聴いています。そして信じています。そのようなキリスト者がいる限り、その共同体には、「だれ一人命を失う者はない」のであります。もちろん、この世に何の不幸もない、肉体の命を失う者が誰もいない、ということにはならないかもしれません。しかし、キリストを通して与えられる真の命は滅びることはありません。その命がある限り、生きる希望がなくなることはありません。

・「元気を出しなさい」というのは、ただの励ましの言葉ではありません。心の病の人に「元気を出しなさい」とか「頑張りなさい」と言うのは、むしろ禁物だと言われます。それは本人が更に頑張らなくてはならないというストレスになるからであります。しかし、ここでパウロが言う「元気を出しなさい」は違います。神様の言葉を信じるところから来る「元気を出しなさい」であります。私たちもまた、神様の言葉を信じているので、どんなに望みが消えたように見える中でも、「元気を出しなさい」と語ることが出来るのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・命の源である父なる神様!

「元気を出しなさい、命を失う者はない」との御言葉をいただき感謝いたします。

どうか、この言葉をいつも信じさせて下さい。またどうか、私たちの属する共同体や地域社会の中で、御言葉を信じる者として、人々に元気を与えることができますように。

・どうか、教会が命の御言葉を力強く語り続けることが出来ますように。

・どうか、望みが見えなくなって、不安の中で元気を失っている人たちが、キリストと出会い、真の命を与えられ、希望に生きることが出来ますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年1月20日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録27:1-26
 説教題:「命を失う者はない」     
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