序.真実の証しに対して

・先週聴きました使徒言行録261節から23節までの個所には、パウロがユダヤ人の王アグリッパの前で行なった弁明が記されていました。その内容はユダヤ人たちから訴えられていることに対する弁明というよりも、パウロの回心の体験を通して示された「天からの光」についての証しでありました。

・パウロは13節で「私は天からの光を見た」と言っておりました。単に、強い光に照らされたのではないのです。光を見たのであります。それは、強烈な光線を見てしまったということではなく、<光であり給うイエス・キリストに出会った>ということが言いたかったのであります。ユダヤ人と異邦人を闇の中から光の下へと引き出し、サタンの支配から神に立ち帰らせ、罪の赦しを得させる、「光」であるお方と出会った、という証言でありました。

23節にはパウロが何を語る使命を与えられたのかということが、凝縮して述べられています。「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」――ここに述べられているイエス・キリストの十字架と復活の出来事が、光の内容であり、パウロはこの救いの出来事を証ししたかったのであります。

・さて、今日の個所には、このようなパウロの真実の証しに対して、総督フェストゥスとアグリッパ王がどのように反応したかということが書かれています。総督フェストゥスはユダヤ社会に対する政治権力の代表者であります。現実的な力でもって、ユダヤ社会を支配しておりました。一方のアグリッパ王は、伝統的なユダヤ社会の代表者であります。ユダヤの宗教と生活に通じていた人であります。この二人の代表者が、パウロの光についての証しをどう受け止めたのか、――そのことを通して、私たちが真実の光とどう向き合うべきか、を考えてみたいと思うのであります。

1.現実主義者フェストゥス

まず、フェストゥスですが、ローマ皇帝に上訴したパウロをローマに送り届ける際に、罪状をどう書いたらよいか参考にするために、ユダヤ人の王であるアグリッパ王の前でパウロに弁明をさせたのであります。ですから、この弁明はアグリッパ王に聞いてもらうためのものでありました。

しかし、23節までのパウロの証しを聞いていて、フェストゥスは居たたまれなくなります。就任早々で、ユダヤの宗教というものをまだよく理解していなかったということもあるでしょうが、現実的・実際的な力と知恵で支配しようとする総督にとって、パウロが語る回心の話やメシアの復活の話などは、荒唐無稽に思われて、これ以上聞くに堪えない、と思ったのでありましょう。

パウロはまだ弁明を続けようと思っていたのでありましょうが、それを遮るように、フェストゥスは大声で、「パウロ、お前の頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」と言います。パウロが博学であることは、その経歴などから認めているようでありますが、学問をしすぎて、不健全な考えを持つようになったと考えたのでありましょう。「おかしくなった」というギリシャ語は「マニア」という言葉であります。日本語でも「マニア」という言葉は使われますが、ある物事に夢中になる人を指しますが、ただ一般の人より深く知っているというだけでなくて、その事については尋常ではない知識や興味を持っている、というニュアンスが含まれています。ここでも、パウロは宗教的に深入りしすぎて、異常な考えを持つに至っている、とフェストゥスは見たのであります。こんな話を聞き続けていても、自分が罪状を書くのに何の参考にもならない、と思ったのかもしれません。

これはおそらく、フェストゥスに限らず、パウロの話を聞いた普通の常識を持っている人が抱く印象(判断)ではないでしょうか。キリスト教の話、聖書に書かれている出来事というものは、常識を超えた事柄であります。物事を現実的にしか考えない人には、愚かなこととしか写らないことであります。処女降誕とか、嵐を鎮める話だとか、僅かのパンで数千人の人が満腹したとか、死人が甦ったというような話を聞いただけで、聖書の話を神話か作り話のように思ってしまう人がいます。聖書の教えに理解のある人であっても、奇跡的な話については、何とか合理的な理由を考え出して、辻褄を合わせようとしたりします。

聖書をただ盲目的に受け入れるのではなくて、近代的な合理性でもって、批判的に読むということは、ある面で必要なことであります。聖書が書かれた背景や成立の過程を分析することによって、より緻密に理解する、あるいは、現実に引き寄せて理解するために役立つことがあります。

しかし、救いの出来事というのは、そもそも人間の常識や合理性を越えた出来事であります。人間には誰も予想できない、天からの出来事であって、ユダヤ人で聖書に通じていたパウロのような人でも思いも及ばなかったし、最初は受け入れることが出来なかった事柄であります。けれども、神様の真実は、そのような人間の思いを越えたイエス・キリストの出来事の中にこそ、示されたのであります。

フェストゥスの言葉に対してパウロは25節で、こう言っております。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。」パウロは、「頭がおかしい」というフェストゥスの言葉を否定します。それは自尊心を傷つけられたことに対する反発ではありません。その後で「真実で理にかなったことを話している」と言っているように、パウロの方が、真実を捉えていて、理性にかなっている、と主張しているのであります。

フェストゥスには、パウロの言う、十字架による罪の赦しだとか、死者の中からの復活ということが、現実離れした妄想に過ぎないとしか考えられません。しかし、パウロにとっては、十字架による罪の赦しやキリストの復活によってもたらされた新しい命こそ、本当の現実なのであり、理にかなったことなのであります。

世の中の多くの人は、フェストゥスのように、罪の赦しとか復活ということは、人間の甘えや期待から生じる妄想に過ぎない、としか受け取ることができません。私たち自身も、そういう思いが頭をもたげることがあるかもしれません。けれども、神様はそのような人間の思いの中へ、ちょうど「天からの光」のように、イエス・キリストをパウロに出会わせて下さり、また私たちに出会わせて下さるのであります。そして、神様の本当の現実に目を開かせて下さるのであります。それが礼拝において、御言葉を通して起こるキリストとの出会いであります。

フェストゥスもそのような本当の現実に目が開かれる絶好の機会を与えられていながら、常識人としての彼、現実主義者としての自分を捨てることが出来なかったのであります。

2.決断を回避したアグリッパ

フェストゥスに理解してもらうのはとても無理だ、と判断したパウロは、本来の聞き手であるアグリッパ王に話の鉾先を向けます。「王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。」――「これらのこと」というのは、イエス・キリストに関する一連の出来事とその後のキリスト者たちの動きのことでありましょう。「このこと」と言っているのは、復活の出来事を指していると思われます。

キリストが地上におられた頃からは既に三十年近くが経っていたと思われますが、十字架や復活の出来事は歴史の片隅で起こった出来事として葬り去られるようなことにはなっておらず、むしろ公然の出来事として多くの人々に知られておりました。またキリストの出来事が旧約聖書の中で預言者たちによって語られている約束の成就であるという理解は、キリスト教会の宣教活動によって、(信じるか信じないかは別として、)ユダヤ人たちには広く知られていたのではないかと思われます。すぐ前のパウロの弁明の中でも、2223節で、「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません」と言った上で、それがつまり、「メシアが十字架の苦しみを受け、また死者の中から最初に復活した」ということだ、と強調していました。

そこでパウロは、「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」と申します。アグリッパ王は、ユダヤ人として当然、預言者たちを信じておられる筈だ、というわけであります。それならば、イエス・キリストの救いの業も信じられる筈ではないでしょうか、というのがパウロの言いたいことであります。

アグリッパは「預言者を信じていない」と言えば、正統なユダヤ教徒とは言えないことになって、ユダヤの王としての立場がなくなります。「預言者を信じている」と言えば、パウロの言うことを受け入れざるを得なくなりますし、そうなると、フェストゥスが「頭がおかしい」と言ってパウロを非常識扱いしたのと同じ扱いをされかねません。それはメンツに関わることであります。アグリッパは一種のジレンマに陥れられたわけであります。

そこで苦し紛れに、28節にあるように、「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と言って、パウロの議論から逃げようとします。

イエス・キリストの十字架と復活の出来事というのは、自分の罪の問題をまじめに考えるならば、避けて通れない事柄であります。私たちが神様とちゃんと向き合った生活をしているかどうか、ということは、誤魔化すことができない事柄であります。自分の生き方を真面目に考えるのであれば、誰でも、イエス・キリストの十字架と復活を受け入れるのか受け入れないのかを、はっきりしなければなりません。しかし、それをはっきりすると、私たちはこれまでの生活を変えなければならなくなります。自分の都合に合わせた生活から、キリストとの関係を第一にした生活・礼拝第一の生活に変えなければなりません。それを恐れて、私たちは十字架と復活の出来事を真正面に受け取らないのであります。

「まだ、聖書のことがよく分からないから」とか「まだ、教会に来て日が浅いから」とか、「私はまだ不信仰だから」というのは、謙遜な言葉のようですが、アグリッパ王と同じように、キリストの救いの出来事に真正面からぶつかることを回避しようとする言い訳の言葉に過ぎません。自分中心の生き方を悔い改めて、キリストに全てを委ねる生き方に切り替えることを渋っているに過ぎないのであります。

パウロは言います。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」――時間の長い短いは問題ではない、と言います。求道生活の長い短い、聖書の学びを長く続けているかどうか、信者になってからの経験の長さは、大きな問題ではありません。「今日この話」つまりキリストの十字架と復活の話を聞いて受け入れるかどうかが問題です。「私のようになる」とは、「天からの光」に打たれて、即ちキリストに捕えられて、キリストに従う者になる、そして光について、即ちキリストについて証しする者になる、ということであります。

最後にパウロが「このように鎖につながれることは別ですが」と言っているのは、ユーモアであります。<自分と同じようにキリストを証しする者になってほしい、それが私の切なる願いである、但し、私のように迫害を受けて、捕らわれの身になるようなことは別ですが>と言っているのであります。パウロは命を奪われかねない目に遭って来ました。しかし、そのことはパウロがキリストから受けた恵みに比べれば、小さな出来事であります。ユーモアをもって語ることが出来るような事柄なのであります。何が神様の真実(現実)なのか、何が神様と自分との間で大切なことなのか、ということに気付いて、その御心に従っている者にとっては、鎖に繋がれて自由を奪われていることは、二次的な問題であります。ない方がよいことには違いありませんが、神様との関係から避けられないことであるならば、喜んで受けることが出来ることなのであります。

一方、アグリッパはどうでしょうか。彼は自分の今の立場を守ることに汲々としています。誰も否定できないキリストの現実を突きつけられても、それを預言者たちの約束したことの実現だと素直に認めることができません。ユダヤの王の立場を奪われかねないし、ローマ総督フェストゥスからは馬鹿にされるに違いないからであります。アグリッパ王は鎖には縛られてはいなくても、現在の立場に縛られて、神様の真実に生きることが出来なくなっているのであります。そこにはユーモア(余裕)がありません。

この姿を、私たちも笑うことは出来ません。私たちもまた、自分の家庭(家族の中)での立場、仕事上の立場、地域社会での立場、過去の経緯などに縛られて、キリストの現実・神様の真実を自分に関わることとして真剣に受け止めることを回避しているのではないでしょうか。神が望んでおられることが何かを知りながら、神に全てを委ねて従うことを避けているのでないでしょうか。

キリストの現実・神様の真実を受け入れる生き方は、確かに、ある意味では厳しい生き方になります。自分がこれまで楽しみにして来たことや、この世のしがらみや、自分がかろうじて保っていたメンツなどを犠牲にしなければならないという面があります。けれども、パウロが鎖のことをユーモアを交えて語ることが出来たように、神に全てを委ねるとことから、余裕のある生き方が出来るようになります。人の目や人の評価ばかり気にしなければならないような生き方から解放されます。神様の真実に生きるという喜びと確信と、そして自由が与えられます。

3.浮き彫りになった真実

・今日、私たちは総督フェストゥスとアグリッパ王の姿を見て参りました。この二人の指導者の前に、パウロは神様の真実・キリストが成し遂げて下さった救いの出来事の現実を証ししました。

しかし、二人は立場の違いはあるものの、いずれもパウロによって示されたキリストの現実をまともに見ようとはせず、回避いたしました。神の真実から逃げたのであります。それは、キリストの現実を受け入れるならば、自分のこれまでの立場が崩れるばかりでなく、自分が如何に神様の御心から離れた罪深い存在であることを認めざるを得なくなるからであります。

この二人の姿を通して示されることは、他でもない私たちの罪の現実であります。キリストの救いの現実を受け入れようとしない頑なな私たちの姿が浮き彫りにされるような気がいたします。

しかし、それ以上にはっきりと浮かび上がってくることは、そのような私たちをも、闇の中に捨て去るのではなくて、何とか光の下へ導き出そうとして下さる神様の真実の愛であり、キリストによって実現された救いの現実であります。私たちが避けようとしても避けられない、本当の現実・神の真実が迫って来ます。

結.信仰の決断

・この神の真実を、自分に向けられたものとして、真剣に受け止めるのかどうかが、問われています。この問は、長い時間をかければ答えが出るというものではありません。いつまでも放っておくことが出来ません。もう少し頭の中を整理してから、とか、もう少し身辺が整理出来てから、というのは、アグリッパ王と同じように、自分の現状の立場に縛られていることにほかなりません。私たちはやがて、再臨の主の前に立たなければならない時が必ず来るのであります。それは、待ったなしに来るかもしれません。その時が来てからでは、もう遅いのであります。

・目の前に差し出されているキリストの現実・神様の真実を素直に受け入れるところから、全てが新しくなります。全てのしがらみからの解放が始まります。自由になります。おそらく、これまで心の奥深くにあった重荷からも解放されるに違いありません。

今日、お話したことは、まだ信仰に入っていない求道者だけに当てはまることではありません。既に信者になっている者も、キリストの救いの現実から目を逸らし、神様の真実を知らされた者であることを忘れてしまって、本当の現実から反れてしまった生き方になってしまってはいないでしょうか。長い信仰生活を続けるうちに、恐ろしいことですが、十字架と復活の出来事が、私たちの実生活と結びつかなくなってしまっていることがあります。キリストなしのクリスチャン生活があり得るということであります。それは、現実生活の中にキリストの愛が生きていないということにもなります。しかしそれは、本当の現実・神の真実を見なくなっているということに他なりません。私たちは礼拝において絶えず、神の真実に出会っていなければなりません。天からの光・聖霊の注ぎを、いつも受けていなければ、神の真実から離れた生き方になってしまうのであります。

信仰の決断というのは、求道中の方々に必要なことでありますが、既に信仰に入っている者にとっても、日々新たに必要なことであります。

信仰の決断はどうして与えられるのか。それは、天からの光によって、キリストの十字架と復活の現実を示されること、そして神の真実の愛に目覚めることによってであります。神様は、今年もそのような機会を、礼拝を通して絶えず与えて下さることを切に祈りたいと思います。
・祈りましょう。

祈  り
 ・真実な愛をもってキリストをお遣わし下さった父なる神様!

十字架の赦しと復活の命の恵みを感謝いたします。

どうか、過去のしがらみや人間的な思い、目先の現実から解放して下さい。どうか、あなたにある真実に身を委ねる者とならせて下さい。どうか、私たちの中に巣食っている根深い罪が、既にキリストによって解決済みであるという現実を受け入れて、諸々の捕らわれから解放して下さい。

・どうか、心の中に大きな重荷を抱えている人たちをも、あなたの真実によって自由へと羽ばたかせて下さい。心の病から癒して下さい。

まだ、あなたの真実に出会っていない人々が、御言葉との出会い

の機会が与えられるために、私たちが小さな「キリストの使者」となることが出来ますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2008年1月13日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録26:24-32
 説教題:「信仰の決断」     
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