序.王の前で

・あけまして、おめでとうございます。

・年が改まって、皆さん新しい気持ちで礼拝に来られていると思いますが、今日、与えられております聖書の箇所は、昨年11月からの続きの使徒言行録であります。12月は待降節・降誕節がありましたので、ヨハネによる福音書の冒頭の部分からクリスマスのメッセージを聴きました。使徒言行録が終わると、引き続きヨハネによる福音書を連続して取り上げる予定ですが、2月いっぱいは使徒言行録の残った部分を聴いて参りたいと思います。

・今日の個所は、小見出しにもありますように、パウロがユダヤの王アグリッパ二世の前で行なった弁明が記されている部分であります。どうしてアグリッパ王の前で弁明することになったのか、その経緯について振り返っておきましょう。

・パウロはエルサレムにやって来て、神殿で誓願の儀式に参加しているときに、異邦人を神殿の中庭に連れ込んだという誤解を受けて、ユダヤ人たちに捕らえられて殺されそうになったのですが、ローマ兵によって保護されて、千人隊長と民衆の前で弁明をいたしました。それが一回目の弁明であります。その内容は22章に記されています。そのとき、パウロがローマの市民権を持っていることが分かって、千人隊長も手荒に扱えないことを知り、ユダヤ人たちの訴えの理由がよく分からないので、ユダヤの最高法院で尋問が行なわれました。これが二回目の弁明でありました。 その内容は23章の初めに書かれています。しかしその後、ユダヤ人たちによるパウロ暗殺の陰謀が発覚しましたので、パウロは総督が滞在しているカイサリアに護送されて、そこで総督フェリクスの前で、ユダヤ人たちの訴えに対する弁明が行なわれました。これが三回目の弁明であります。その内容は24章に書かれています。

・ところが、総督フェリクスは結論を出さずに裁判を延期したまま2年たって、総督は後任のフェストゥスに変わりました。フェストゥスは就任するとすぐ裁判を開きました。この席でパウロは皇帝に上訴することを希望しましたので、ローマへ送られることになりました。しかし、フェストゥスはパウロに罪を見出すことが出来ず、罪状をどう書いたらよいか困っている時に、ユダヤ王のアグリッパ二世が表敬にやって来ました。パウロのことを話すと、アグリッパ王も興味を示したので、彼ならユダヤの事情がわかっているので、罪状のヒントを得られるだろうと思って、王の前でパウロに弁明をさせることになりました。そういうわけで、パウロの四回目の弁明が今日の26章に記されているのであります。

・ところで、この弁明の内容は、先ほど朗読しました時にお気づきのように、パウロの回心のことが中心になっております。パウロの回心のことが使徒言行録の中に出てくるのは、これで三回目であります。最初は9章で、筆者のルカが出来事の報告として書いておりました。二回目は22章に書かれているエルサレム神殿で捕えられた時の、最初の弁明の中でパウロ自身が語っています。これらの三回の記述は、もちろん同じ一つの出来事を語っているので、基本的に同じでありまして、律法について熱心であったパウロが、祭司長たちからのお墨付きをもらってクリスチャンを迫害するためにダマスコに向かっていた時に、強い光を浴びて倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いて、「あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えがあって、これまでとは逆に、イエス・キリストを証しする務めを与えられた、という出来事であります。

・しかし、三回の記述には、それぞれ特徴があります。それは記された(あるいは語られた)状況が違うからであります。

・最初のルカの報告では、強い光を受けたパウロの目が見えなくなったこと、そしてダマスコのアナニアという人が備えられていて、彼の訪問を受けて、目が見えるようになり、洗礼を受けたことが書かれていましたが、今日の個所には、そうした経緯は述べられていません。二回目のエルサレムのユダヤ人民衆に対する弁明では、自分も生粋のユダヤ人で、律法について厳しい教育を受けた人間であるということが強調されているのと、アナニアというユダヤ人の間で評判の良い人の役割がやはり詳しく述べられていました。そこでは、パウロがもともとは、聞いているユダヤ人と同じ立場であったということが強調されていました。

・今日の個所も、相手はユダヤ人の王でありますので、パウロはかつての自分のことはよく理解してもらえる筈だ、というところから話を始めています。しかし、二回目の時の捕らわれた直後とは違って、パウロのローマ行きが決定した後でありますし、相手が王であるということ、場所は総督の謁見室であるということで、落ち着いた、厳かな雰囲気の中で話していて、単に自分の体験を語るというよりも、ユダヤ人に与えられた約束の実現という観点から、光として来られたイエス・キリストのことを証ししようという意図が色濃く出ている話しぶりで、弁明というよりもアグリッパ王への伝道メッセージと言ってもよい内容になっています。

・ですから今日は、私たちも、パウロの個人的な体験談を聞くというのではなくて、パウロの回心を通して語られている福音のメッセージを聴き取らなければなりません。

・ところで、今年の米子伝道所の年間目標は、昨年に引続いて「わたしたちはキリストの使者」ということであります。昨年一年間では、目標が達成できたとか、際立った前進が見られたということは、とても言えませんので、もう一度この目標を掲げることにいたしました。

・この年間目標と主題聖句については、改めて定期総会が行われる127日の礼拝で取り上げたいと思っておりますが、今日は、一年の初めに当り、パウロの回心とその使命に私たち自身を重ね合わせながら、「キリストの使者」としての私たちの使命を、もう一度思い起こしたいと思うのであります。

1.復活の希望

さて、パウロの弁明は、アグリッパ王に対する挨拶の言葉から始まっております。「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられているすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。」23節)これは、王に対する儀礼的な言葉のようにも聞こえますが、「王は、ユダヤ人の慣習や論争点もみなよくご存じだからです」という言葉には、ユダヤ人のことがよく分かっているこの人なら、これから語ることが理解してもらえるのではないか、という期待が込められているように思えます。「どうか忍耐をもって」というのは、少し話は長くなるかもしれないけれども、よく聞いてほしい、という気持ちでありましょう。

4節から11節までは、回心以前のパウロについて語っています。回心以前のパウロについては、私たちはもうよく知っています。ここで大切なのは、67節で言っていることであります。「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。」                ここで言われている「先祖にお与えになった約束」とは何でしょうか。それは旧約聖書が告げるところによれば、<ダビデの子孫に救い主メシアが現れる>という約束であります。これはユダヤ人が皆抱いていた希望でありました。パウロもこの約束の実現に望みをかけていたのです。それなのに、その希望を抱いているためにユダヤ人から訴えられ、裁判を受けているのは、おかしいではないか、というのがパウロの言い分であります。

しかし、8節を見ますと、パウロは、「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか」と問いかけています。パウロにとって、約束の希望とは、突き詰めて言えば、死者の復活ということであった、と言うのであります。ここに論理の飛躍があります。死者の復活ということについては、前にも23章のところで問題になったように、ユダヤ人の間でも、ファリサイ派とサドカイ派では見解が違っていました。死者の復活を信じる人たちと信じない人たちがいたのであります。しかし、死者の復活を信じていたファリサイ派の人たちも納得出来なかったのは、イエス・キリストが死者の中から復活したということであり、イエス・キリストが、ユダヤ人が希望を抱いていた約束の救い主であるという点であります。

パウロはそのことが分かっているので、次の9節ですぐ、イエス・キリストのことを持ち出します。「実は、私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。」パウロ自身も回心の出来事までは、イエス・キリストの復活なんか信じられず、イエス・キリストを約束の救い主だとは信じられなかったのであります。救い主の到来は皆信じていました。死者の復活については両論がありましたが、信じる人も大勢いました。しかし、ユダヤ人が信じられなかったのは、主イエスが約束された救い主であり、主イエスが復活されたということであります。 その点では、パウロも初めは同様に信じられなかったのであります。だから、10,11節に書かれているように、キリスト者を迫害し、彼らにイエスを冒瀆するよう、強制したのであります。

2.闇から光に

そのようなパウロに、天からの働きかけがありました。イエス・キリストを信じられないユダヤ人に対して、理屈で説得することは出来ません。上から働きかけを語るしかありません。それが12節から18節までで語られるパウロの回心の出来事であります。

13節でパウロはこう言っております。「王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。」 これまでの回心物語では、「天から強い光が周りを照らした」ということは言われていましたが、ここでは「光を見た」と言っております。太陽より明るい光を見てしまったので、目が見えなくなったのでしょうが、ここで「見た」と言っているのは、光線としての光を見たということもありますが、それと同時に、「光」として来られたイエス・キリストを見た、ということも含んでいるように思います。この時はイエス・キリストの声を聞いただけで、お姿を見たわけではありませんが、この出来事を通して、パウロはイエス・キリストに出会ったのであります。世の光として来られた救い主なるキリストを見たのであります。

光について述べているのは、13節だけではありません。15節後半からイエス様がおっしゃった言葉を述べていますが、その中で、17節以下でこう言われています。『わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』1718) 「闇から光に」と言われています。それは私たちがクリスマスに聞いたメッセージでありました。ヨハネによる福音書19節では、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と述べられていましたし、キャンドルサービスで聞いたヨハネによる福音書812節では、イエス様自身が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われていました。そしてここでは、主イエスが光を放ち、この世を闇から光に変えるだけではなく、主イエスの光を見たパウロが、人々を「闇から光」に転換させ、「サタンの支配から神に立ち帰らせる」と言われているのであります。ここに、光を見て、光について語る者の光栄があります。

このように、これまでの二回の回心物語では光に照らされたことが語られていたのでありますが、ここでは光に照らされただけでなく、「光を見た」と言い、更には光について語るという宣教の目的・内容にまで言及しているのであります。

このパウロに与えられた使命と目的は、また私たちのものでもあります。私たちもまた、          クリスマスに主イエスの光を見ました。暗闇に光が輝いたのを見たのであります。そして、光を見た者はまた、あの洗礼者ヨハネのように、光について語らなければなりません。そして光について証しをする者は、この世を闇から光に移し、サタンの支配から神に立ち帰らせるのであります。

3.とげのついた棒

・この段落の中に、もう一つ、これまで二回の回心物語にはなかった注目すべき言葉があります。それは、14節に述べられているイエス様の言葉の中にあります。『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。』

この前半は、これまでにも述べられていたのですが、後半の「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」という言葉は、この時が始めてであります。

・この言葉そのものは、古代によく言われていた諺のようでありますが、牛を仕事につかせる時に、トゲのある棒を用いたことから来ているようであります。トゲのある棒で打つと、牛はそれを嫌って、どうなるかも考えずに、棒を蹴り返すので、動き出して、仕事が始まるのであります。

「ひどい目に遭う」と訳されている言葉は、口語訳では「傷を負うだけである」と訳されていました。「困難である」とか「愚かなことである」とも訳せる言葉でありますが、ここでは、パウロがキリスト者を迫害したことによって、逆に伝道のために働くことになったのですから、辛い、困難なことではありますが、主人である神様の思い通りの役目に付かされるということであります。

イエス様がパウロに現れたのは、ただ迫害をやめさせるためではありませんでした。そうではなくて、パウロのような者を福音の宣教のために用いようとされたのであります。イエス様に刃向かう者を選んで、逆にキリストを証しする使命を担う者とされたのであります。回心とは、単に人間の側の反省や悔い改めによる方向転換ではありません。天からの方向転換であり、新しい召命と結びついたものであります。

このパウロの回心と召命の出来事の原理は、私たちの場合も同様であります。私たちが教会に来て、聖書のこと、イエス様のことを勉強するうちに、だんだんと神様のことが分かって来るとか、イエス様に近づいていくとか、信仰が成長するというよりも、(もちろん、そういうケースもないわけではありませんが、)重要な決め手は、上からの導き、イエス様の働きかけによって、人間の側の思いを超えて、方向転換させられるということであります。

結.光を語り告げる

19節から23節までは、パウロの弁明(演説)の締めくくりの部  分ですが、ここには、回心以後のパウロの活動の内容が凝縮して述べられています。ここに述べられていることは、パウロのみならず、すべてのキリスト者と教会がなすべき活動と語るべき宣教の内容であります。

19,20節は活動内容が述べられています。「私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」と言っております。これまでは、自分も神に背いていたが、回心以後は、「とげの付いた棒をける」ようなことをせず、むしろ、人々に悔い改めを説き、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えた、というのであります。

伝道とは、自分の意見を主張したり、我を張ることではなくて、あくまでも「天から示されたことに背かない」で、神様の指示に従って行なうということであります。それは、伝道という限られた活動だけではなくて、生き方そのものを、神様の指示に従って決めるということであります。自分の人生は自分が選び取るのではありません。神様の指示に従って作られるものであります。

・そして伝道とは、そのような生き方を自分だけでなく、人にも勧めることであります。悔い改めとは、犯した個々の罪を悔い改めるということもありますが、生き方そのもの、神様との関係そのものを改めることであります。「悔い改めにふさわしい行い」というのも、個々の行いが変わるということには違いありませんが、根本的には、神様の方を向いた生活に変えられるということであります。悔い改めとは、聖人のようになることであるよりは、天から示されたことに背かない生き方をすることであります。

・以上は、伝道の活動内容を述べたものでありますが、肝心なのは宣教の中身、証の内容であります。その内容は、22から23節にかけて述べられています。こう言っております。「ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」

「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません」と言い切っています。旧約聖書に約束されたこと、ユダヤ人が皆、望んでいたことから外れたことは何も述べていない、というのであります。昨年春の伝道礼拝で、鈴木先生から「人生の分水嶺」という題で、ルカによる福音書に書かれている「金持ちとラザロ」の話を聞きました。その中で、地獄に落ちた金持ちが、アブラハムに向かって「わたしの兄弟たちがこんな苦しい場所に来ることのないように、言い聞かせてください」と言いますと、アブラハムは「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言いました。つまり、聖書以外に福音は語られていない、ということであります。

では、その聖書に書かれている福音の中身とは何でしょうか。それが、23節に要約されています。ここにはキリストの十字架と復活の出来事が全ての人に光をもたらす、ということが語られています。「光」という言葉がここでも出て来ました。「光」とは、罪の赦しであり、永遠の命であります。

私たちの年間目標は「わたしたちはキリストの使者」であります。何を伝えるのかと言えば、ここに要約されているように、キリストそのものを示し、罪の赦しの光を語り告げることであります。
・祈りましょう。

祈  り
・光の源なる父なる神様!

年の初めに礼拝に導かれ、キリストの光を見ることを許されましたことを感謝いたします。

どうか、今年も、この光を見失わないように、またこの光を語り告げる使者とならせて下さい。

・どうか、まだ光を知らない人、光を受け入れようとしない人々を悔い改めに導き、あなたのもとに立ち帰らせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝(新年礼拝)説教 要 旨      2008年1月6日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録26:1-23
 説教題:「光を見た」     
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