米子伝道所 主日礼拝(歳晩礼拝)説教 要 旨   2007年12月30日  山本 清牧師 

序.一年を振り返って

・今年も押し迫って、最後の主の日となりました。

・皆様にとって今年はどんな年でありましたでしょうか。教会にとってはどんな年であったと言えるのでしょうか。わが国にとって、また世界にとってどんな年であったのでしょうか。―一年の終りに当たって、この年の歩みを振り返って、何が良かったか、どこに問題があったかを冷静に分析して、次の一年に備えるということは、個人にとっても、教会にとっても、国にとっても大切なことであります。

・しかし、何が良かったか、どこに問題があったかを、自分の判断基準で評価していたのでは、大きな進歩がないと言えるかもしれません。私たちは自分に甘く、他人には厳しい評価をし勝ちであるからであります。逆に、自分の思いや願いと実際とのズレの大きさに気付いて、落ち込んでしまって、新しい年に向けての意欲を失ってしまうかもしれません。そもそも、私たちが掲げた目標や願いが妥当だったのかどうか、ということが問われなければならないのかもしれません。

・ところで、神様に捕らえられ、キリストと出会った者にとって、一年の歩みを振り返るということは、自分が立てた目標や自分の願いに対して、自分や自分たちの歩みがどうだったかということではなくて、神様の御心、神様が示して下さる目標に対してどうであったか、ということが問題であります。

・この伝道所の今年の年間目標は『わたしたちはキリストの使者』ということで、<一人一人が伝道の業に仕える>ことを目標にして参りました。そのことがどうであったのか、そして新しい年は何を目標とするのか、については、改めて定期総会などの機会に御一緒に考えることになりますが、今日は、与えられた聖書の箇所から一人一人の生活の歩みを振り返ってみたいと思います。

・ヘブライ人への手紙を、隔月の最後の主日に聴いて参りましたが、4年半たちまして、最後の章に差しかかっております。ちょうどキリが良いので、今日でこの手紙の終りまで行ってしまおうかとも思いましたが、この1章の中にも学ぶべきことがたくさんあって、もったいないので、2回に分けて聴くことにいたしました。

・ヘブライ人への手紙は三つの説教から成っていると言われます。その三つ目の説教は10章の32節からだとされますが、当時の教会が迫害を受けている厳しい状況の中で、<信仰とは何か>ということに立ち返って論じて参りまして、現実の困難を、主による鍛錬と受けとめて、忍耐を持って走り抜くことを勧めて来ました。そして、12章の最後の方の28節には、こう勧められています。

 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。

・このように、12章は非常に高い調子で終わっているのですが、13章に入りますと、先ほど一読してお分かりのように、<兄弟としていつも愛し合いなさい>とか<牢に捕らわれている人たちを思いやり、虐待されている人たちのことを思いやりなさい>とか<夫婦の関係は汚してはなりません>とか<金銭に執着しない生活をしなさい>といった、言って見れば、極く当たり前というか、一般的な道徳的勧めがなされているように思われます。このため、聖書学者によれば、13章は別人が書き足したのではないかとか、著者が実際に手紙として送る際に、その教会の実情に合わせてつけ加えたのではないか、などと推測するのであります。

・しかし、ここに書かれているようなことは、現実の生活の中で経  験することでありまして、神の御心に従って生活するときに、決してどうでもよい問題ではありません。自らの一年を謙虚に振り返る時に、通り過ぎることが出来ないことでもあります。

1.罪に満ちた一年

そこで1節からの勧めについて一つ一つ点検することから始めたいと思います。

まず1節には、兄弟としていつも愛し合いなさい、と勧められています。ここで「兄弟」と言われているのは、クリスチャン同士のことであります。兄弟愛についての勧めは、聖書の中でもあちこちに記されています。イエス様自身も、こう言っておられます。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。(ヨハネ13:34,35)  クリスチャン同士で互いに愛し合っているかどうかで、主の弟子であるかどうかを皆が判断する、とおっしゃるのであります。私たちは、イエス様の弟子として認められるほどに、教会の兄弟姉妹を愛したと言えるのでしょうか。自分のことだけで精一杯であったかもしれません。時には兄弟姉妹のことを気遣ったり、世話をしたかもしれませんが、独りよがりになってしまったり、中にはどうしても愛せない人がいたかもしれません。そんなことで人を躓かせるようなことがあったかもしれません。主の弟子であるとは、人にも主イエスにも認めていただけないのではないか、という思いがいたします。

2節には、旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました、とあります。旅人を歓待することは、荒れ野の多いユダヤでは旧約の時代から伝承された美徳でありましたが、当時の教会においても、巡回の伝道者や他の土地から来たクリスチャンをもてなすことは、兄弟愛の実践の筆頭にあげられるほど大切なこととされていたのであります。

「ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなした」とあるのは、創世記18章に書いてあることで、アブラハムが3人の旅人を天の使とは知らずにもてなして、妻のサラに子供が生れるという約束を与えられた、という物語であります。

気付かずにもてなすことについては、イエス様の教えの中にも出て来ます。マタイ2535節では、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し・・・」とおっしゃっています。自分で気付いているかいないかはともかく、旅人をもてなすことが、天国に入るか入れないかの決め手になるとおっしゃるのです。

現代の私たちにとって、旅はそれほど苦痛ではありません。むしろ楽しみでさえあります。しかしそれは、帰るべき安住の地があり、憩うことのできる家庭があるからよいのであります。事情があって家庭から離れて生活しなければならない人、一人暮らしの老人、死の病を負って、死ぬまで病院から家に帰ることのできない病人、災害で家を失って行き場をなくした方など、人生の旅路で寄る辺なき人々こそ、ここでいう旅人でありましょう。私たちはそういう方々に同情を寄せても、寄り添ってお助けするということまではなかなか出来ません。

3節には、自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい、と勧められています。「牢に捕らわれている人たち」というのは、信仰のために捕らわれた人を指していたのかもしれませんが、たとえ一般的な犯罪者であっても、ただ辛い目にあわせるだけでは更生させることは出来ません。思い遣りが必要であります。

「虐待」や「いじめ」が多発しています。それも、思いやりの欠如から来ることであります。「自分も体を持って生きているのですから」と言われています。虐待をうけている人の身になったら、その痛みがわかる筈です。いじめを受けている子供の気持ちになったら、その辛さがわかる筈です。私たちは、どうして虐待やいじめが起こるのか、不思議に思ってしまいます。しかし、虐待やいじめの根にあるのは、自分のことだけを考えて、思いやれない心であります。自分が正しい、自分が優位に立ちたい、自分がしんどい目をしたくない、というところから来ます。それは私たちの中にもあることであります。私たちは表立って虐待したりいじめたりしなくても、自分の楽しみや自分の立場が侵されないために、特定の人を毛嫌いしたり避けたりすることがあるのではないでしょうか。

4節は夫婦の関係について述べられています。結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。「結婚はすべての人に尊ばれるべき」という言葉は結婚式の式辞に引用されている言葉でありますが、結婚することだけが尊ばれるべき生き方だという意味ではありません。ここでは結婚によって結ばれた夫婦の関係が尊ばれなければならない、ということであります。ここは、端的に言って、不倫を戒めているのであります。しかし、不倫さえなければ、夫婦の関係は汚れていないと言えるのでしょうか。夫婦は神様が結ばれた間柄でありながら、そこには思いの行き違いや亀裂があります。相手を思いやるよりは自分の思いを通そうとしてしまいます。自分の思い通りにならない相手にしんどくなったり、辛く当たったり、淋しくなって、他の人に心を引かれることが起こり得ます。

5節は、金銭欲について述べています。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい、と勧められています。  しかし、金銭的に不自由な目に遭うと、執着せざるを得ません。ある程度恵まれていても、自分で手に入れたお金が、自分の利益にならない形で使われることには抵抗があります。人のために使ったり、慈善や教会のために献げる場合でも、自分の名誉を求め勝ちであります。生活に困っているわけではなくても、今持っているもので満足できないのが私たちであります。

このように見て来ますと、この一年も私たちはここで勧められていることは、どれも守って来なかったと言えるのではないか、御国を受ける者とされながら、相応しくない生き方を続けていたのではないか、神様に喜ばれるようには仕えて来なかったのではないか、と思わざるを得ないのであります。

2.決してあなたを置き去りにはしない

ところが、5節の後半で、筆者は突然、申命記3章の言葉を引用して、こう言います。

神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。

これは、5節の前半で述べられた、金銭に執着しないで、今持っているもので満足するために、言われたことと理解されることが多いようであります。神様があなたから離れずにいて下さるのだから、金銭に執着して心配することなく、むしろ満足すべきである、と言っているように読めます。

しかし筆者は、この神様の言葉を、金銭の問題だけではなく、兄弟愛から始まる全てのことで、神様の御心から離れてしまっているような私たちに向けて語られている言葉として、引用しているのではないでしょうか。確かに、私たちはここで勧められているようなことを、守っておらず、神様の御心を痛めているに違いありません。御国を受ける者には相応しくない者であります。神様の「焼き尽くす火」(12:29)で焼かれるべき者であります。

しかし、筆者がここまで具体的な勧めを述べて来たのは、私たちが神様から遠く離れてしまっていて、もはや神様から置き去りにされている、ということを言いたかったのではないのであります。その反対であります。神様は「決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」ということが言いたかったのであります。――それなら、私たちがここまで聴いてきたことは、不十分だったのでしょうか。取り違えて聴いてきたということでしょうか。もう一度、1節から聴き直してみたいと思います。

まず1節ですが、新共同訳では、「兄弟としていつも愛し合いなさい」と訳されているのですが、口語訳では「兄弟愛を続けなさい」と訳されていました。ギリシャ語を直訳すれば、「兄弟愛に留まれ」であります。ということは、「兄弟愛を生み出しなさい」とか「兄弟になりなさい」とは言っていないのであります。既に教会には兄弟愛がある、ということが前提になっています。既にある兄弟愛に留まり続けなさい、と勧めているのであります。

ヘブル人への手紙211節の最後の部分を見ますと、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」とあります。これは先ほど気付かずにもてなすことに関連して引用しましたマタイによる福音書25章の続きの部分で、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とおっしゃっていることに基づいているのですが、イエス様自身が、飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人たちを「わたしの兄弟」と呼んでおられるのです。ただ呼ばれるというだけではなく、事実、兄弟となって下さったのであります。旅人と言われている人は、現代で言えば、家庭を持てない一人暮らしの人たち、施設で暮らさなければならない人、寄る辺なき人のことだと言いましたが、イエス様はそのような人たちの兄弟となって下さったのであります。

だから、兄弟愛をいまさら新たに創り出す必要はないのです。既にある兄弟愛、イエス・キリストによって創られた兄弟愛に留まっておればよいのであります。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」という神様の言葉は、イエス様がクリスマスに地上に来られ、人々を愛し抜かれたことによって実現したのであります。たとえ私たちの愛が足りなかったり、人を憎むようなことがあったとしても、イエス様の愛が不十分ということはないのであります。イエス様が置き去りになさる人はないのです。それは、人を愛することにおいて欠けがある私たちをも置き去りにされない、ということでもあります。

牢に捉えられている人、虐待されている人も同様であります。私たちはそのような人たちに対して、自分の体のような、自分のことのような思いやりを持つことはなかなか出来ないかもしれません。しかし、イエス様は捕らわれの身となり、十字架の虐待を経験されました。イエス様は牢に捕らわれている人、虐待されている人から決して離れられることはありませんし、置き去りにされることはありません。私たちはそのような人たちと一つになることは出来ないにしても、イエス様はそのような人たちを置き去りにはされないなお方であることを証しすることが出来ます。そのように証しすることによって、イエス様は私たちにも近くいて下さいます。

夫婦の関係は、お互いの努力だけでは崩れやすいものであります。しかし、神様が結び合わせて下さった結婚は尊ばれるべきものであります。神様は縁結びの神様のように一度だけ結び合わせるのではなくて、夫婦の間にいつも神様が離れずいて下さいます。神様が二人を見守っていて下さり、置き去りにされることがないことを知っているならば、お互いは相手を置き去りにしたり、裏切ったりすることは出来ないのであります。

金銭の問題も、神様が守って下さることを忘れた時に、今持っているものでは不安になったり、金銭に執着した生活に陥ってしまいます。どんなことがあっても、仮に無一文になったとしても、神様は決して私たちを置き去りにはされない、という言葉を信じることが出来るならば、不安から解放されるのであります。

6節では、詩編118編の言葉を引用してこう言われています。

だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」神様が置き去りにされることがないなら、何も恐れることはありません。これも、金銭に執着する問題だけではありません。私たちが兄弟を愛せない・赦せない問題、不自由な中にある人やいじめられている人を思いやれない問題、夫婦の間の亀裂の問題についても当てはまることであります。私たちの愛は不十分であり、自己中心であり、不安定であります。だから人を躓かせたり、仲たがいさせたりしまう。そのことが、個人の生活を不安定にするだけでなく、教会の兄弟姉妹の交わりに傷をつけ、教会の発展を阻害するかもしれない、という不安が生じるかもしれません。しかし、主は決して兄弟姉妹の交わりからも離れることはなく、私たちの群を置き去りにされることはないのであります。だから、恐れることはないのであります。

3.神の言葉を語った指導者たち
・続いて7節の言葉は、以上のことに関連があると思います。

 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい、と言っております。「神の言葉を語った指導者」というのは、5節や6節に述べられているようなことを語り、また自らの生活や生涯の終わりの姿を持って示している諸先輩のことであります。

私たちの伝道所はまだ歴史が浅いので、そういう先輩や指導者を多く持っているわけではありませんが、今生きている方々の中にそれを見ることができるかもしれませんし、私たちの伝道所を生み出して下さった出雲今市教会の中に見ることが出来るかもしれません。私は残念ながら、笹森修先生のことを殆ど知らないのでありますが、出雲今市教会から移ってきた人たちは皆、笹森先生の影響を受けておられますし、7節の言葉を聴いて、すぐに笹森先生のことを思われたかもしれません。出雲今市教会の「教会建設70周年記念誌」の中に、福岡城南教会の澤正幸牧師が書かれた「笹森先生の葬儀に列席して」という一文が掲載されています。澤牧師は、神学校時代に夏期伝道に出雲にこられたことから、笹森先生との交流が続いたようでありますが、葬儀に列席されて、笹森夫人が挨拶の中で笹森先生の最後の様子を話されたことを記されています。その個所を読んでみます。

「先生は土曜日から昏睡状態に入り、火曜の早朝、息を引き取られたが、意識を失う前の土曜日に先生は奥様を呼んで『僕の生涯は終わった』と告げ、言い残すべきことを逐一伝えられた後、最後に一言、『僕のために祈ってくれ』と言われ、奥様が渾身の思いで祈られた祈りに『アーメン』と唱えてから静かに死に向かわれたとのことだった。この先生の最期をわたしは先生が残してくれた最後の教えとして心に大切に持ち続けようと思っている。」

澤先生が、笹森先生の最期の姿からどんな教えを聴き取られたのか、説明はありませんが、笹森先生がすべてを神様に委ねておられるお姿を見倣いたいということではないかと思われます。今日の聖書の個所で言うならば、「わたしは、決してあなたを離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という神様の言葉を信じて、天に召されたということではないでしょうか。私たちもまた、このような信仰を見倣いたいものであります。

結.きのうも今日も、また永遠に
8節の言葉は、これと同じ信仰を言い表した言葉だと言えます。

 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

・「永遠に変わることのないお方」というのは、5節の「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」ということが、永遠に変わらない、ということであります。

この一年の自分自身の生活や教会の歩みを振り返るときに、私たちは、自分自身の至らなさの数々を思い起こします。愛の足りなかったこと、祈りの足りなかったことを思わされます。教会の中にも多くの課題が残されたことを思います。礼拝が本当に喜びと感謝に満ちたものになっていたのか、聴くべき御言葉に聴き、語るべき福音を語って来たのか、兄弟姉妹の愛の交わりに欠けを残したままになっていなかったか、重荷を負っている人たちの荷を軽くすることが出来なかったのではないか、といったことを思わざるを得ません。果たして私たちは、1228節で言われているように、御国を受け継ぐ者たちとなることが出来るのか、不安を覚えざるを得ません。

しかし、その不安は正しくないのであります。たとえ、私たちの愛が揺らいだとしても、たとえ、この世がどんなに変化しても、主イエスの愛は変わることはありません。主イエスが私たちから、また教会から離れられることはありませんし、私たちが置き去りにされることはないのであります。私たちは御国へと確実に一歩前進したのであります。それは、イエス・キリストが、「きのうも今日も、変わることのない方」であるからであります。

そして、イエス・キリストは「永遠に」変わることのないお方であります。来るべき年も、変わることなく私たちから離れず、決して私たちを置き去りにはされないのであります。祈りましょう。

祈  り
・永遠に変わることのないイエス・キリストの父なる神様!

この一年の間も私たちをお見捨てになることなく、私たちから離れることなく、この最後の礼拝の時も、御言葉によって私たちに恵みの御心をお示し下さいましたことを、感謝いたします。

どうか、私たちの、自分中心で思いやりのない歩みをお赦し下さい。どうか、躓きを覚えている人、不安の中に孤独でいる人を、私たちと同じように置き去りにしないで下さい。

どうか、来るべき年には、ほんの少しでもあなたの愛を、先輩の信仰を見倣うことが出来ますように。どうか、変わることのないあなたの愛を、受け続け、伝え続けることが出来ますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 聖  書:ヘブライ人への手紙13:1−8
 説教題:「きのうも今日も」
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