序.光そのものについて

・先週は、今日と同じヨハネによる福音書16節〜18節の個所の中で、イエス・キリストを証しする役割を持って遣わされたヨハネという人物について書かれている部分(6〜8節、15)を中心に、アドベント(待降節)のメッセージを聴きました。

・ヨハネの役割は、人間を照らす光として来られたイエス・キリストを証しする(指し示す)ことでありました。そのようなヨハネの役割と、キリスト者の役割を重ね合わせながら、私たちのあり方(生き方)について考えたのでありました。

・しかし、ただヨハネを見ているだけでは、またヨハネと重ね合わせて私たち自身を見ているだけでは、実は何も見えて来ないし、光に照されることもないのであります。ヨハネが指を指し、声を上げて証ししている光そのもの、イエス・キリストそのものを見るのでなければ、光について知ることも、光を受けることも出来ないのであります。

・今日は、6節〜18節の個所の中で、光そのもの、キリストそのものについて書かれている部分(9節〜14節、16節〜18節)から、クリスマスのメッセージを聴き取りたいと思うのであります。

1.神を見た者はいない

まず、一番最後の18節を御覧ください。ここは「今月の聖句」として取り上げている個所であります。こう言われています。

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

神を見る、神を知るということは、全ての宗教が目指すところであり、全ての宗教は、神と呼ぶかどうかは別として、神について教えています。しかし、聖書は「いまだかつて、神を見た者はいない」と言うのであります。

神の声を聞いたという者は時々あります。夢か幻の中で神を見たという者も、(少々胡散臭いですが、)時々現れます。しかし、人は神そのものを見ることは出来ないのであります。

先ほどお読みしました旧約聖書の出エジプト記には、神様がモーセに言われた言葉が書かれていましたが、その中でこう言われていました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」――モーセのように、神から十戒を授けられたような人でも、神の姿を見ることは許されませんでした。人は神を見ると、生きていることができないのであります。

だからこそ、人は神について色々想像したり、思索をしたり、自然の偉大さに感動したり、時には霊感を受けて、神とはこういう方だ、と語ったり、教えたりするのであります。

ところがキリスト教では、神のことを、想像や思索から語りませんし、自然を見ることから神を知るということもしません。18節にありますように、「父のふところにいる独り子である神(すなわちイエス・キリスト)、この方が神を示されたのである」と受け取っているのであります。「神を示された」というのは、イエス・キリストという方が自分の考えを示されたとか、自分の体験を語られたとか、霊感を受けてそれを人々に示されたということではありません。イエス・キリストそのものが神を示している、イエス・キリストの地上の御生涯・その御業そのものが神を示している、ということであります。このことを、難しい言葉では「啓示」と言っております。神はキリストによって啓示されたのであります。これがキリスト教の神認識の中心であります。キリスト教では、このキリストによって示される(啓示される)以外に、神を知る方法はない、と考えているのであります。神がそのような方法で御自身を人間に示されたと信じているのであります。

ですから、このキリストの啓示以外の手段でもって、人が神について何事かを語るならば、それは人間が勝手に作り出した偶像に過ぎないと考えます。神は、自然の事物の中に示されているのではありませんし、人間が営む歴史を通して御自分を表されるということもありませんし、教師や哲学者や宗教家の教えや思想によって示されることもないのであります。人が神について語り得るとすれば、キリストによる啓示について、すなわちキリストの御業と御言葉について語ることが出来るだけであります。

もちろん、神様は人間とは縁のない遠いところにおられて、人間世界には何も関与されないのではなくて、自然に働きかけ、人間の歴史に働き、人間に語りかけ、私たちの日常にも働きかけられるお方でありますから、それらを通じて神様の御力を覚えたり、神様の導きや恵みを感じることは大いにあるのでありますが、そのことから神様の本質、神様の御心の真髄を知ることは出来ないのであります。神様御自身がどのようなお方であるか、ということは、イエス・キリストを見なければ、その本質は見えないし、間違って把握してしまうのであります。

17節を見ますと、こう書かれています。

律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

旧約聖書に記されている、十戒を初めとする律法はモーセを通して神様から与えられました。そこには、神様の御意志が表されています。神様が人間に何を望んでおられるか、ということが示されています。そういう意味では、律法によって神様を知ることが出来るのであります。旧約聖書に書かれている律法とイスラエルの歴史を見れば、神様の思いと、歴史に働き給うその力を知ることが出来ます。ユダヤ人はそう思っていました。――しかし、それだけでは、不十分だったのであります。

・人間は与えられた律法を守ることをせず、神様に背いてしまいました。神様に対して罪を犯してしまいました。そのような人間を神様はどう扱われるのか、正しい神様は人間の罪の決着をどうつけられるのか、そのことが示されなければ、神様がどのようなお方であるのか、分かりません。それを現されたのが、イエス・キリストでありました。罪深い人間をどう扱われるのか、いかに大きな恵みと真実とをもって扱われるのか、ということが、イエス・キリストによって現されたのであります。そのことを、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と述べているのであります。

2.言は肉となって

それでは、イエス・キリストは神様の御旨を受けて、罪を犯した人間のために何をして下さったのか。イエス・キリストはどのような神様を現わされたのでしょうか。

14節前半にはこう書かれています。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

「言」とは、イエス・キリストのことであります。神様の御意志・御心を現す言葉としてのキリストが「肉」と成られました。「肉」というのは、聖書では単に<肉体>という意味ではなくて、罪に支配されて、死を免れることのできない存在となっている人間のことであります。精神的にも肉体的にも限界を持った存在としての人間のことであります。

神の子であるイエス・キリストが、「肉」である私たちと同じ人間となられて、私たちの住む地上に宿られたのであります。イエス・キリストは地上に来られたからといって、神様の御心に反するような罪を犯されたわけではないので、その点は私たちと違っていますが、その他の点では私たちと同じ人間になられました。

そのことを神学用語で「受肉」と言います。神と等しいお方が人間と成られたのであります。人間に似た姿をとったとか、一時的に仮の姿をとられたということではなくて、人間と同じ肉体や精神を持って、人間の弱さや悲しみ苦しみが分かる方として来られた、ということであります。

しかも、普通の人間として平凡な一生を過ごされたということではありませんでした。1011節には、こう書かれています。

 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

 「世は言によって成った」というのは、前に2節に書かれていたことですが、天地の初めからおられたイエス・キリストが万物の創造に関わられたということで、今日はこのことには触れません。その後に「世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とありますように、主イエスは神様と特別な関係を持っていたイスラエルの民の一員としてお生まれになったのですが、イスラエルの人々は主イエスを受け入れなかったのであります。主イエスはイスラエルの民の利益に反するようなことをされたわけではありません。むしろ、困っている人、病を負っている人、差別を受けている人の友となって、彼らと苦しみを共にし、彼らのために力を尽くされたのであります。しかし、反って妬みを買うような形で、神を汚すものだと言われ、遂に十字架の死へと追いやられたのであります。人間の罪を一身に引き受けられて、本当は人間が受けるべき死の審きを自ら負われて、死へと赴かれたのであります。――けれども、それが神様の御心でありました。主イエスはその神様の御心に従って、罪深い、死すべき人間のために、身代わりとして、神の審きを受けられたのであります。その一生は徹底的に神に仕え、人に仕える一生だったのであります。

・そのイエス・キリストの一生、そのキリストの十字架に至る御業こそ、人間に対する神の限りない愛と真実を現している、ということであります。神は高みに鎮座ましまして、人間に向かってあれをしろ、これをしろと命じて、思い通りに従わない者を罰せられるようなお方ではなくて、イエス・キリストという形で、人間と共に住まわれ、人間の弱さや罪を自分のことのようにして負い給い、愛し抜かれるお方であることが、分かるのであります。

・リュティという人が、この14節について短い説教を書いていますが、その中でこう言っております。

 <これは、神が与え給う決定的な打撃である。しかし、それは、破滅させるための打撃ではなくて、救うための打撃――いわば愛の強襲である。ちょうど、母親が、火に焼かれている子供の上に身を伏せるように、また、父親が立ち向かってくる波に対して子供を救おうとして身を投げ出すように――ちょうどそのように、「言は肉となり」給う>と。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というクリスマスの出来事は、このような神様の愛のほとばしりを示す出来事なのであります。

3.すべての人を照らす光

・このクリスマスの出来事は、また、人間の罪や悪が覆うこの世の闇に光をもたらす出来事でもあります。9節を見ていただきますとこう言われています。

 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

・ここで「光」と言われているのは、4節で「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と書かれていたように、神の言であるキリストの内にある命から発する光であります。神様とキリストの深い愛の関係から発せられる命の光、愛の光であります。その光は、ここでは「まことの光」と言われています。真実の光であります。神とキリストの真実な関係から発せられる光であります。そこには罪のかけらもありませんし、ウソ偽りがありません。そればかりでなく、その光がこの世にまで届いて、地上の人をも照らすのであります。

「世に来てすべての人を照らす」と言われています。世の片隅だけを照らすのではありません。一部の理解ある人々とか、優れた人だけを照らすのではありません。すべての人を照らすのであります。この世では見捨てられた人、陽が当たらないところにいる人、居場所がないような人、除け者にされているような人、人間の屑と思われているような人、そこにもキリストの光が届くということであります。キリストの「まことの光」は、誰もが称賛するような良い業や立派な業が行なわれているところとか、善意があるところだけに当てられるのではなくて、失敗とみられるところ、挫折を味わっているところ、人間の罪が満ちているようなところにも当てられて、闇を取り除いて、命と愛の光で明るくするのであります。

光の中には人工的な冷たい光もあります。暗い部分を暴き出して、醜いものを白日の下に曝すという機能もあります。しかし、キリストの「まことの光」は醜いものも温かく包みこむ光であります。もちろん、罪を覆い隠して見えなくするとか、誤魔化すということではありません。罪は暴かれなければなりませんし、鋭い光によって焼き尽くされなければなりません。しかし、それは愛の光であり、ただ焼き尽くして滅ぼすのではなく、命を甦らせる光であり、新しい命で輝かせる光であります。

14節の後半を見ていただきますと、このようにも言われています。

 わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 ここで「栄光」と言われているのは、キリストの栄光であります。キリスト御自身の輝きであり、誉れであります。

イエス・キリストの誕生は、人の目にはみすぼらしいものでありました。王宮ではなく、馬小屋でお生まれにならなければなりませんでした。多くの人々に祝福されるのではなく、極く限られた人だけが、馬小屋の幼子を訪れました。そこには何の栄光らしきものも現れていないような状況でありました。

しかし、そのようなみすぼらしいお姿での誕生こそ、栄光に満ちた誕生であったのであります。ルカによる福音書は主イエスの誕生物語の中で、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした、と報告し、天の大軍が「いと高きところには栄光、神にあれ」と神を賛美した、と言っております。多くの人々は、この栄光を見ることが出来ませんでした。しかし、天には栄光が輝いたのであります。

そしてヨハネによる福音書の筆者も、「わたしたちはその栄光を見た」と言います。筆者のヨハネが主イエスの誕生に立ち会ったわけではありません。主イエスの御生涯全体を振り返って、その誕生が栄光に満ちたものであった、と言っているのであります。主イエスの御生涯全体も、人の目には決して輝かしい成功に満ちたものとは言えず、むしろ失敗と挫折のように見え、悪に敗北したかに見える生涯でありました。その終わりは十字架の死でありました。しかし、そこにこそ、神の愛の御心が現れており、神の独り子としての勝利があり、栄光が輝いており、恵みと真理が満ちているのを見たのであります。

「恵みと真理」という言葉は、先ほど見た17節にもありました。そこでは、神の恵みと真理がイエス・キリストを通して現れたと言われていましたが、その神の恵みと真理が、独り子イエス・キリストにも満ちていたと言うのであります。

結.恵みと真理に生きる

・ところで、今日私たちは、2000年前に起こったキリストの誕生という出来事について、聴いてまいりましたが、この出来事によって起されたことは、イエス・キリストが天に昇られたことによって、終わったのでしょうか。もはや過去の出来事となってしまったのでしょうか。イエス・キリストによって示された神を、私たちはもう見ることが出来ないのでしょうか。イエス・キリストから注がれた「命の光」「愛の光」は、2000年後の私たちのところには届かないのでしょうか。この世は再び、罪と悪に覆われた暗闇に戻ってしまったのでしょうか。神とキリストの恵みと真理は、もはや私たちの住んでいる世界に現れることがないのでしょうか。キリストの栄光を、私たちはもはや見ることが出来ないのでしょうか。
・決してそうではありません。

私たちは、イエス・キリストのことを記した聖書というものを持っています。多くの証人たちを通して、キリストの出来事は私たちにも伝えられております。また、キリストは教会によって語り継がれ、キリストは今も生きた御言葉として私たちに語り続けておられますし、命の光を注ぎ続けて下さっています。キリストは御言葉において、今もわたしたちの中に宿って下さっています。この世には確かに、まだ罪と悪が蔓延っています。私たち自身もまだそれらに捕らわれがちであります。暗闇は完全に消え去ってはいません。しかし、光は既に闇に勝利しました。死は命によって克服されました。救いの出来事は今も起されています。

キリストの光はこの世界全体・人類全体に注がれているだけではなく、世界の隅々まで、私たちの一人一人にまで注がれています。神様の恵みと真理は、2000年前に現されただけでなく、今も生き生きと、現されています。何か抽象的な理念とか教義というような、私たちの日常生活と遊離したところで語られているだけではなくて、私たち一人一人の具体的な状況の中で、一人一人に相応しく差し出されています。その神様の恵みと真理を仰ぐことの出来る場所、キリストの命の光を受けるとる場所、それは御言葉を聴く礼拝の場であります。ここで私たちは神様との関係を回復し、新しい命に甦ります。神様とキリストの御栄光を仰いで、賛美しつつ生きる者とされます。愛に生き始める者とされます。
・祈りましょう。

祈  り
・恵みとまことに満ち給う父なる神様!御栄光を賛美申し上げます。

クリスマスの光の中に導き出されて、御言葉を通して、2000年前の出来事を知るだけでなく、私たちの中に今も宿り、生きて働き給う主を仰ぐことを許されて感謝いたします。

どうか、私たちの破れと不安と恐れに満ちた日々の歩みの全てをあなたの前に差し出すことを許して下さい。どうか私たちと共に歩んで下さい。どうか、あなたの光で、私たちの行く先を照らし出して下さい。どうか、自分勝手な道を進むのではなく、あなたの指し示される道を歩ませて下さい。どうか、あなたの御栄光を現す生き方をさせて下さい。

まだ、イエス・キリストの光に気付いていない人々、苦しみの中にあって出口の見えない人々に、あなたが直接働いて、救い出して下さい。明るい光の中に導き出して下さい。
どうか、多くの方々と共に、あなたを賛美させて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 クリスマス礼拝説教 要 旨     2007年12月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:6−18
 説教題:「神の子がわたしたちの間に」
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