米子伝道所 待降節第三主日礼拝説教 要 旨   2007年12月16日  山本 清牧師 

序.なぜヨハネが登場するのか

・今日はアドベント(待降節)に入って三回目の主の日であります。アドベントに入ってから、ヨハネによる福音書の冒頭の部分によって御言葉を聴いて参りました。

11節から18節までは、ヨハネによる福音書全体のプロローグ(序文)に当たる部分でありますが、ここには、イエス・キリストがどのようなお方であり、何のために地上に来られたのか、ということが簡潔に述べられています。

・これまでの二回の主の日には、1節から5節までの御言葉を聴いたのでありますが、ここには、神の言(ことば)であるイエス・キリストが世の初めからの永遠の存在であること、そして、暗闇の中にいる人間を照らす「命の光」であることが述べられていました。

・今日の6節から18節までの個所は、イエス・キリストが何のために地上に来られたのか、その役割について述べられています。その役割とは、一言で言えば、最後の18節に述べられています。いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである、と言われています。――つまり、イエス・キリストの役割は、神を示すこと、難しい言葉で言えば、神を啓示することであります。イエス・キリストだけが、神がどのようなお方であるか、その御意志・御心はどこにあるのかを示しているということであります。

・ところが、6節から18節までの間には、イエス・キリストのことだけが述べられているのではなくて、もう一人の人物のことが語られています。6節は神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネ、という言葉で始まっていて、「神から遣わされた人」というのは、イエス・キリストのことかと思いきや、「その名はヨハネ」と言って、洗礼者ヨハネと言われる人物のことを語り始めるのであります。

・このヨハネのことは、四つの福音書のいずれにも登場いたします。マタイによる福音書の場合には、ご承知のように、イエス・キリストの系図から始まって、イエス様の誕生の次第を述べた後に、洗礼者ヨハネのことが出て来ます。マルコによる福音書では、イエス様の誕生物語が一切なくて、いきなり洗礼者ヨハネのことから始まっています。ルカによる福音書はイエス様の誕生物語が他の福音書より詳しく述べられているのですが、その前に洗礼者ヨハネの誕生のことがイエス様の誕生と同じ位の分量で書かれています。そして、このヨハネによる福音書では、イエス様の降誕物語はなくて、18節までのプロローグの後は、洗礼者ヨハネの働きから書き始めるのであります。

・なぜ、福音書は洗礼者ヨハネを必ず登場させるのか、なぜヨハネのことをそれほど重視しなければならないのでしょうか。――私たちはヨハネがヨルダン川で人々に悔い改めの洗礼を授けていて、イエス様もヨハネから洗礼をお受けになったということを知っております。また、この後、ヨハネ福音書で学びますように、ヨハネはイエス様のことを「神の小羊」として、人々に紹介する役割もいたしました。そういう意味では大事な働きをしたことは確かであります。

・それにしても、なぜヨハネをイエス様と同程度に扱わなければならないのか、なぜヨハネなしではイエス様のことが語れないような扱いをするのか、不思議に思います。神さまのことを示す(啓示する)のは主イエスであります。主イエスのことだけを語れば十分なのではないか。ヨハネのことを記すにしても、ほんのエピソードくらいの扱いでもよいのではないか、と思ってしまいます。

なぜ、福音書の記者たちがかなりひつこく洗礼者ヨハネのことを取り上げねばならなかったのか。なぜ、きっちりとヨハネのことを位置づけなければならなかったのか。

・この問題について、聖書の学者たちは一つの理由を考えています。それは、福音書が書かれた第一世紀の後半には、洗礼者ヨハネの弟子が残っていて、イエス様の弟子たちの間に見解の違い或いは対立(確執)があったらしいということであります。ヨハネが生きていた時から、弟子たちの間で見解の相異があったということが聖書の中に散見されます。

・例えば、マルコによる福音書218節以下では、ヨハネの弟子たちは断食をしているのに、イエスの弟子たちはしていなかったことが問題視されていますし、ヨハネによる福音書41節以下には、イエスがヨハネより多くの弟子をつくって、洗礼を授けていると非難を受けています。

・このような見解の相異或いは対立が、洗礼者ヨハネやイエス・キリストの死後も尾を引いていたようで、福音書が記された頃にも、ヨハネ派と言われるような人たちが残っていたので、イエスとヨハネの違いを明らかにして、洗礼者ヨハネを主イエスとの関係から、きっちりと位置づけておく必要があったのではないかと考えられるのであります。今日の個所の中でも、8節では、彼は光ではなく、光について証しをするために来た、と言っておりますし、15節では、ヨハネの言葉として『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている』と言わせております。

・しかし、そのような、福音書が書かれた時代の特殊な事情だけでヨハネのことが取り上げられているのであるなら、今は無視してもよいことになりますけれども、福音書の書きっぷりは、洗礼者ヨハネを貶(おとし)めるというというよりも、その役割の重要性を語ろうとしているように思われるのであります。そのことは、四つの福音書がいずれもヨハネのことを、先ほど朗読したイザヤ書403節で「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え」と言われていた者であるとしていることから分かります。このヨハネによる福音書でも、19節以下で、祭司やレビ人たちがヨハネのところへ来て「あなたは、どなたですか」と質問したのに対して、23節で、預言者イザヤの言葉を用いて、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えています。つまり、ヨハネの役割は旧約聖書の預言の成就であり、神様から与えられた役割があるのだ、とういうことであります。

・それにしても、イエス様になぜ、「荒れ野で叫ぶ声」が必要なのか、なぜイエス様を指し示す者が必要だったのか、という疑問が残るかもしれません。このことは、単に洗礼者ヨハネの役割は何か、その存在意義はあるのか、という問題に留まりません。イエス様を指し示す役割は、主イエスが復活し昇天されて以後、主の弟子たちがして来たことでありますし、福音書の記者もこれを書くことによって、イエス・キリストを人々に指し示そうとしたのであります。そして同じことを2000年の教会の歴史に中でキリスト者たちがして来たのであります。すべてのキリスト者の先頭にヨハネがいるということであります。ですから、ヨハネの役割というのは私たちの役割でもあります。だからこそ、各福音書の記者はヨハネをはずせなかったのであります。ヨハネのことを書くことによって、自分たちの役割を確かめているのであります。

・そういうわけですから、今日は6節から18節までの個所の中でヨハネの役割について述べられている部分を中心に、私たち自身の役割について考え直してみたいと思うのであります。もちろん、この個所で福音書記者のヨハネが言おうとしていることの中心はイエス・キリストのことであり、洗礼者ヨハネはあくまでも脇役にすぎないのですが、今日はヨハネの役割を通して、主イエスと私たちの関係を考えたいと思うのであります。なお、来週のクリスマス礼拝には、同じ個所から、主イエスそのものについてのメッセージを聴く予定であります。

1.神から遣わされた人

前置きが長くなりましたが、6節の言葉から見て行きたいと思います。こう記されています。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。――ここに、ヨハネは「神から遣わされた人」だと言われています。先ほども触れましたように、主イエス・キリストが神から遣わされたお方であることは当然としても、そのイエス・キリストを証しするヨハネもまた、神から遣わされた者なのであります。主イエスがこの世に救い主として来られた御使命とセットで、ヨハネも救い主イエス・キリストを証しする使命をもって遣わされたのであります。まるで、ヨハネなしにはキリストの到来がなかったかのように、ヨハネの役割はイエス・キリストの役割と結びついていたのであります。

ということは、私たちもまた、神から遣わされた人であります。神様が私たちをヨハネに続く者たちとして、今の時代に、この場所に遣わしておられるということであります。もちろん、ヨハネが果たした役割と、私たちが果たすべき役割が同じだとか、同じレベルにあるということではありません。イエス様ご自身がヨハネについて、「預言者以上の者である」(マタイ118)とおっしゃいましたし、「はっきり言っておく。およそ女から生れた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」(マタイ1111)とも言われました。ヨハネの役割は特別な大きさを持っています。イエス様に洗礼を授けるという余人には代えがたい役割も果たしました。しかし、ヨハネも私たちも、神から遣わされたということには変わりないのであります。私たちにも、神様が与えられた役割があるということであります。

神様から遣わされるということは、私たちの選択や私たちの決心によることではない、ということをも意味しています。神様が私たちを召して、用いようとされているということであります。 私たちは自分で、神様のお役に立つだろうか、資格はあるだろうか、相応しい能力があるだろうか、と心配する必要はありません。必要なものは遣わして下さる神様が備えて下さいます。神様は私たちに力があるから選ばれるのではありません。神様は私たちの強いところ、優秀な部分を用いて下さるだけではなくて、私たちの弱さ、貧しさ、足りなさをも用いて、御用に当たらせなさるのであります。

2.光の証人

次に、7節前半には、彼は証しするために来たと書かれています。ヨハネがこの世に生を受けた目的は、主イエスを証しするためでありました。彼の人生の全ては主の証人となることでありました。

私たちキリスト者の生きる目的は何でありましょうか。――私たちの人生の目的もまた、究極的には主イエスを証しすることでなくて何でありましょう。この証人として生きるということは、私たちの人生のいくつかの目的の中の一つであるというのではありません。究極の目的はこれ一つであります。他の諸々の目的があるとしても、――例えば、仕事を通じて社会に貢献することも、奉仕によって人に仕えることも、家庭で家族のために働いたり、子育てすることも、大切な目的ではありますが、究極の目的ではありません。全ては主イエスを証しするという目的に収斂するのであります。

7節と8節に、ヨハネは光について証しするために来た、ということが二度繰り返して強調されています。ヨハネは人々に向かって「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ37.8)と言って、神の怒りを告げ、悔い改めを迫ることもしました。投獄や死をも恐れずに、ヘロデ王の悪を糾弾することもしました。

それらは、誰も真似の出来ないような立派な働きでありました。しかし、それらよりも重要なこと、究極的なことは、光である主イエスを指し示すことであったのであります。イエス・キリストが「命の光」であることは、既に4節で書かれていました。暗闇が覆っているように思えるこの世の中で、キリストは私たちに、真の命(=神とのあるべき関係)に生きることができるように、命を注いで下さったのであります。「命の光」で照り輝かして下さったのであります。

・私たちが証しすることも、ヨハネが証ししたことと同じであります。私たちもまた、悪と戦ったり、困っている人を助けたり、元気付けたりすることも必要であるかもしれません。しかし、究極的にしなければならないことは、イエス・キリストの「命の光」について証しすることであります。私たちにキリストから注がれた光を照り返して、この世の暗闇を明るくし、命を失いかけている人に光明を見出させることも出来るかもしれませんが、何よりも必要なことは、主イエス・キリストを指し示し、直接にキリストから「命の光」を受けることが出来るようになってもらうこと、イエス・キリストの方に顔を向けてもらうことであります。

3.すべての人が彼によって信じるようになる

7節後半には、すべての人が彼によって信じるようになるためである、と言われています。「彼」というのは、ここでもイエス・キリストのことではなくて、ヨハネのことであります。ヨハネの最終目的は、すべての人がヨハネによって、ヨハネの証しによって、キリストを信じるようになることであります。洗礼者ヨハネの意義は、単に旧約聖書的な律法による罪の告白と悔い改めの呼びかけではありませんでした。主イエスの弟子たちと同様に、人々にイエス・キリストを証しし、信仰へと導くことでありました。

・私たちもまた、「すべての人が信じるために」、主イエスを証しする使命を与えられているのであります。

・「信じる」とはどういうことでありましょうか。それは、光であるイエス・キリストを信頼することであります。それは、光を受け入れる、あるいは光の中に入る、ということであります。9節に、その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである、と言われています。イエス・キリストは真実の光であります。諸々の<光のように見えるもの>とは違います。一時は輝いているように見えても、やがて明るさを失い、燃え尽きてしまう灯火のようなものではありません。いつもどこかからエネルギーを送ってもらわないと光っておれない電灯のようなものではありません。自ら光を放ち続ける命のエネルギーを持ったお方であります。この方がすべての人を照らし、すべての人を生かすのであります。だから私たちのなすべきこと、私たちが出来ることは、この主イエスを指し示すこと、主イエスの方に顔を向けてもらうことであります。そうすれば、すべての人が主イエスの光を受けて、信じることへと導かれるのであります。

8節には、彼は光ではなく、光について証しをするために来た、と書かれています。ここではヨハネ自身が光ではないことが強調されています。ある人はヨハネのことを<朝日に照らされて見える山頂である>と申しました。暗い夜の帳(とばり)が下りている間は、山の姿を見ることは出来ません。一際高い山の頂であっても見ることはできません。しかし、朝日が昇り始めると、山の頂が最初に照らされて輝きます。まだ谷の間では朝日は見えませんが、照らされた頂だけが輝いて見えるのです。山頂自体が輝いているわけではありません。輝きの源は太陽の光であります。まさにヨハネは、朝日であるイエス・キリストの光を受けて輝いているのですが、ヨハネ自身は決して光そのものではありません。

・そのように、証しする者自身は光ではありません。せいぜいイエス・キリストの光を映し出す反射鏡に過ぎないのであります。  ところが私たちは、ともすると、イエス・キリストを証しするよりは、自分自身を人々に証ししようとするのであります。イエス・キリストの恵みを語っているようで、いつのまにか自分がどうした、自分がこうした、自分がいかに正しかったかを証ししてしまいます。いつのまにか自分が主人公になって、あたかも自分自身が光でもあるかのように証ししてしまっているのです。――それが私たちの罪であります。

・洗礼者ヨハネも、そのような人間の罪に囲まれていました。先ほ   ど申しましたように、福音書が書かれた当時、ヨハネを教祖とするヨハネ派あるいはヨハネ教団のようなものが作られていて、キリスト教の初代教会と並んで存在していたようであります。ヨハネ自身はそのようなことを意図したわけではないのですが、ヨハネの弟子たちは、ヨハネが示したイエス・キリストを見ることをせずにいたのであります。そのような事情の中で、福音書記者は、ヨハネが光なのではなく、ヨハネはただ、イエス・キリストの光を受けて輝いているだけであることを強調するのであります。

・私たちもキリストを証しする時、何よりも先ず、私自身が光ではないことを証ししなければなりません。むしろ、私自身は光を失っていた者であり、暗闇の中にいた者であって、絶えず天から光を受けないと生きて行けない者であることを認めなければなりません。それが、まことの光であるイエス・キリストを証しする第一歩であります。

4.後から来た先住者

次に少し飛びまして、15節を御覧下さい。ここには、洗礼者ヨハネによる具体的な証しの言葉が記されています。

 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
「声を張り上げて言った」とあります。淡々と自分の考えを述べた、ということではなく、押し出されるように、切迫感をもって語ったということであります。それは14節にあるように、神の言がこの世に語られたことに対応して、人間の言葉(すなわち、証し)が促されている、という関係を表しているように思えます。私たちは、自分の考えを述べるのではありません。神の言が語られることに対応して、押し出されるように、証しの言葉を語るのであります。

ヨハネが語った証しの内容は、<イエス・キリストは自分より後に来られるけれども、先からおられた方であって、わたしよりも優れた方である>ということでありました。時間的にはヨハネがイエス様より半年前に誕生し、イエス様より先に荒れ野で人々に教え始めたのでありますが、1章の初めに書かれていたように、主イエスこそ世の初めからおられた方であり、神の子であります。<イエス・キリストこそ、真の神でありつつ、真の人となって私たちのところに来て下さったのだ>というのが、証しの内容であります。

「わたしより優れている」というのは、比較して少し前からいたとか、少し力が勝っている、ということではありません。神と人との違い、救う者と救われる者との違い、証しされる方と証しする者との違いであります。イエス・キリストは私たちと比べて力が上であるとか、立派であるとか、善い事を教えて下さるというのではありません。イエス・キリストは単なる人生の教師であったり、模範であったりというのではありません。イエス・キリストは、世の初めからおられ、私たちを創り、私たちを御支配なさる、神と本質を同じくするお方であります。しかもそうでありつつ、私たちを愛するがゆえに、私たちのところに降って来られ、私たちに救いをもたらして下さる、恵みに満ちたお方なのであります。私たちは、ヨハネと共に、そのような主イエス・キリストを証ししなければならない、ということであります。

結.荒れ野で叫ぶ声

・今日は、16節から18節までの中で、証し人ヨハネについて述べている部分をピックアップして聴いて参りました。ヨハネの役割とは何であったか。それは先ほど123節でヨハネ自身が語っているのを見ましたように、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と言っておりました。ヨハネは自分のことを「声」と表現しました。「声」とは「言葉」を伝えるための「音声」に過ぎません。「言葉」のない「声」だけでは意味を持ちません。主イエスが真の「言(ことば)」であり給います。「言」は意味を持ちます。しかし、ヨハネは、自分のことを、「言」を指し示す「声」に過ぎないと言うのであります。自分は「声」のように空しいものであるけれども、「声」のように告げたいことがある、ということでありましょう。

・私たちは、自らが何であるかを誇らしげに語りたいものであります。主イエスを証しする証人であらねばならないのに、自分の証人になろうとし、自分を誇ろうとします。しかしヨハネは、あくまでも「声」に留まろうといたしました。これこそまことの証人であります。<キリストが大きくなって、自分は小さくなる>ことこそ、まことの証人であります。

・今日、私たちはヨハネのことを学んだようで、実はヨハネが指し示すイエス・キリストのことを聴いたのであります。

 イエス・キリストがヨハネを通して、私たちに命の光を注いで下さったのであります。私たちもまたヨハネのように、イエス・キリストの光の証人となりたいものであります。いや、神は私たちを光の証人として遣わすために、命の光を注いで下さっているのであります。
・祈りましょう。

祈  り
・命の光の源である父なる神様!

洗礼者ヨハネの姿を通して、彼が証ししたイエス・キリストを仰ぐことを許されまして、感謝いたします。

どうか、私たちもまた、主を証しする者として、己を空しくして、ただ主を伝える声として、御栄えをあらわす者とならせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 聖  書:ヨハネによる福音書1:6−18
 説教題:「光の証人」
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