序.言は初めに神と共に

・先週からアドベント(待降節)に入りましたが、ヨハネによる福音書の冒頭の個所によって待降節の御言葉を聴き始めました。

・先週は、11節から3節の言葉を中心に聴きましたが、そこには、「言(げん)」と書いて「ことば」と読ませる神の言(ことば)のことが書かれていました。神の言とはキリストのことであります。

・言葉とは、その人の意志や思いを現わすものでありますが、イエス・キリストが神の言とは、キリストが神の御意志・御心を現わすということであります。

・冒頭に「初めに言があった」と書かれていました。それは、キリストが世界の初めから在ましたということであります。今から2000年前に初めて出現されたのではなくて、万物が造られる以前からおられたのであります。冒頭から、主イエスが永遠の存在であるということが表明されているのであります。

・次に、「言は神と共にあった」と言われています。神の言であるキリストが神と共にあった、ということは、神と密接な人格的関係にあった、ということであって、神の御意志・御心そのものであったということであります。人間の言葉は往々にして本心と異なることがありますが、神の言であるキリストは神の御心そのものであります。

・そして、「言は神であった」とあります。キリストは神であると言い切ります。2000年前に地上に誕生されたイエス・キリストこそ、神の子であるとの告白であります。

2節の「この言は、初めに神と共にあった」というのは、1節の「言は神と共にあった」ということの繰り返しであり、強調であります。

3節には、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。言であるキリストが万物の創造の御業に関わられたということであります。キリストは神によって造られた被造物ではなくて、万物の創造の業に神と共に関わられたのであります。

・以上が3節までに書かれていたことでありました。ここまでですと、私たちとは直接には関わりのない遠い昔の話であるように思われます。しかし、造られた万物の中には人間が含まれます。人間もまた神の言によって造られたのであります。人間には命があります。人間の命もまた、神の言によって造られたのであります。

4節には、その「命」のことが書かれています。更に、その「命」   が照らす「光」と、その対極にある「暗闇」のことが書かれています。「命」や「光」のこととなると、私たちが無関心でいることが出来ません。私たちの生死に関わることであり、現実の暗闇のような世界の中で、何に光を見出すかという問題に関わることであります。――今日はその「命」と「光と闇」のことについて、ヨハネが伝えるメッセージを聴きたいと思います。

1.言の内に命があった

4節の初めには「言の内に命があった」と言われています。神の御心である神の言には命があるのであります。神の言であるキリストには命が込められていると言うのであります。

創世記1章には、神は「我々に似せて、人を造ろう」との神様の言葉によって人が造られたと書かれており、また創世記2章には、神が「人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と書かれています。神が人間を造られる時に、命を注ぎこまれたということでありますが、その創造の業は神の言によってなされたのですから、神の言であるキリストの内にある命が注がれたということになります。人間は既に創造の御業の段階において、キリストの命を受けたのであります。

ところで「命」とは何でしょうか。普通考えるのは、肉体的・生物的な命であります。母親の胎内で生まれ、死と共に消え去る命であります。

しかし、「言の内に命があった」と言われるキリストの内にある「命」はそのような肉体的・生物的命だけでしょうか。神の言であるキリストは1節、2節で語られていたように、神と共にあるお方であって、その神の言であるキリストの内にある命とは、肉体的・生物的な命ではなく、神の御心と共にある命、神との人格的な結びつきの中にある命であります。

従って、このキリストによって人に注がれた命もまた、神との人格的な結びつきの中にある命であります。神様との人格的な関係の中に生きる命であります。人は創造に当たって、そのような神との関係に生きる命を与えられたのであります。人はその命によって、神様との間に良好な関係をもって生きる筈でありました。

聖書の中では「永遠の命」ということが、しばしば問題にされます。金持ちの青年がイエス様のところへやって来て、「永遠の命」を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか、と質問しました(マタイ1916)。イエス様は「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得る」(ヨハネ524)と約束されました。これらの聖書で言われる「永遠の命」とは、肉体の寿命が永遠であるという意味の命ではありません。「永遠の命」とは<本当の生き方><あるべき生き方>のことであります。それは、神様との関係があるべき状態にある、良好な人格的関係にある、ということであります。

・人間は創造に当たって、ただ肉体的命を注がれたばかりでなく、そのような神様との良好な関係に生きる命、即ち「永遠の命」、言い換えれば「霊的な命」を吹き入れられたのであります。それは神の言であるキリストの内にある命でありました。

ところが、そのような人間に「罪」が入り込みました。創世記に記されているアダムとエバの物語に示されているように、人は神様の言葉に背いて、罪を犯すことによって、神様との間の良好な関係を失ったのであります。その結果、命は死すべきものとなったのであります。霊的な命を喪失することによって、肉体的な命も失う者となるのであります。

けれども、4節前半でヨハネが言いたいことは、神の言であるキリストの内には、命があった、永遠の命・霊的な命があったのであります。この「あった」というギリシャ語の動詞は先週も申しましたが、未完了形と言って、過去の一時点に「あった」だけでなく、今も「あり続けている」という意味を持っています。人間は罪を犯して永遠の命を失いました。神様との良好な関係を失ってしまいました。しかし、キリストはずっと神様との良好な関係を持ち続けておられて、永遠の命がその内に充満しているのであります。ヨハネが4節の前半で言いたいのはこのことであります。

2.命は人間を照らす光

次に、4節後半でヨハネは、「命は人間を照らす光であった」と言います。ここでは人間を照らす命の光について語られています。

神は天地創造に当たって、光も造られました。物理的に我々の住んでいる地球に注がれている光は、太陽から注がれています。その光によって植物や動物の自然的な命は育まれています。人間の肉体的命も、この太陽から注がれる光によって支えられています。けれども、神様との良好な関係を保つ霊的な命は、この自然的な光では育まれませんし、罪が入り込んだことによって死すべきものとされた霊的な命は、この自然的な光によっては命を取り戻すことは出来ません。

では、どうすれば失われた霊的な命が甦るのでしょうか。

それは、神の言であるキリストの内にある「命の光」によって照らされなければなりません。「命は人間を照らす光であった」とは、神の言であるキリストに満ちている命から発せられる光こそが、人間を照らし出し、そこに新しい霊的な命を甦らせることが出来、その命を育み、真の命、本来の生き方を営ませる、という意味であります。クリスマスとは、この「命の光」が私たちのところに輝き始めた日であります。

3.光は暗闇の中で

・続いて5節には、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われています。4節で命の光について語ったあとで、ヨハネはすぐに、光と対照的な「暗闇」のことを語らざるを得ませんでした。

天地創造の時、混沌として闇が覆っていた世界に、神は最初に「光あれ」と言われて、光を造られました(創世記13)。そのあと、創世記には、こう書かれています。「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」。――神様は光を創造されたのでありますが、闇を創造されたわけではありません。神様は光を創造されて、光と闇を分けて、混沌の中に秩序を創られたのであります。

・この創造物語は物理的な光のことを述べているのでありますが、  今ヨハネは、キリストの命から発せられる光のことを述べた時に、光と対照的な暗闇のことを語らざるを得なかったのであります。ここで述べられている「命」は肉体的な命ではなく、ここに述べられている「光」は物理的な光のことではありません。ここに述べられている「命」は、先ほどから言っておりますように霊的な命、すなわち神様との関係における「命」のことであり、キリストの内にある命のことであり、ここに述べられている「光」は、そのキリストから人間に向かって照らされる「命の光」のことであります。そうであれば、ここで語らざるを得なかった「暗闇」も霊的な暗闇、すなわち神様との関係における暗闇、光に照らされることによって明らかにされる神様との間の失われた関係のことであります。

この世界には罪の暗闇が覆っています。神様の御言葉に耳を傾けようともせず、神様の御心に従おうともしない暗闇が広がっています。私たち一人一人の中にも罪の暗闇が入り込んでおります。この世に起こっている無数の諍(いさか)い、紛争、憎み合い、敵意、いじめ、差別といった人間関係のひずみも、自分の利益や楽しみや誉れだけを求めるような生き方も、全て、神様との適切な関係を損なって、創造の時に与えられた命を失って、罪の暗闇の中に落ち込んでしまっているところから生じています。

その罪の暗闇に神の言の光、キリストの「命の光」が照らされたのであります。それが、イエス・キリストが地上に来られたクリスマスの出来事であります。光が暗闇の中に輝いたのであります。

この光は、人を照らし、人を生かす命の光であります。真っ暗な部屋の中に明かりが灯されると、暗闇はかき消されるように、命の光が輝くと、罪と死の暗闇は影を潜めざるを得ない、消え去らざるを得ないのであります。

「光は暗闇の中で輝いている」という文は現在形であります。かつて、キリストが誕生されて、地上におられた間だけ、光が輝いていたというのではなくて、今、輝いているのであります。

しかし、暗闇が存在しないというのではありません。光の輝きの中で罪は影を潜めざるを得ませんが、まだ罪がうごめいています。光が輝かなければ、暗闇が甦って来ます。罪が頭をもたげて来ます。光と闇との間にはせめぎあいがあります。戦いがあります。人間の罪はひつこく、暗闇はまだ消え去らないのであります。

5節の後半には「暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。この部分の翻訳と解釈は二通りが可能で、定説がありません。「理解しなかった」と訳されているギリシャ語は、<捕らえる>とか<打ち負かす>という意味を持った言葉であります。これを文語訳聖書は「暗きはこれを悟らざりき」と訳しておりまして、この新共同訳と似ております。しかし、口語訳聖書では、「やみはこれに勝たなかった」と訳しているのであります。ギリシャ語に<打ち負かす>というニュアンスもあるので、そのように訳せないこともないのであります。しかし、そうすると、意味が逆のように受け取れます。口語訳のように、暗闇は大変ひつこいのだけれども、結局は光に勝てなかった、と言おうとしているのか、それとも文語訳や新共同訳のように、暗闇は光が照っているのに、光を知ろうとも、受け入れようともせずに居座っている、と言おうとしているのか、断定は難しいのであります。しかし、この後の10節、11節を見ますと、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と言われていて、暗闇は世の状態を表していますから、新共同訳の「暗闇は光を理解しなかった」ということに通じるように思えます。

確かに、イエス様の誕生の時点では、幼子は馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされなければなりませんでした。イエス様の誕生をお祝いしたのは、御両親のヨセフとマリア、それに羊飼いたちと東の国から来た占星術の学者たちなど、限られた人たちだけであって、ユダヤのヘロデ王は占星術の学者たちから新しい王として幼子が生れたことを教えられると、二歳以下の男の子を一人残らず殺すというような暴挙を行いました。イエス・キリストが伝道を開始されてからも、家族や故郷の人から受け入れられず、当時の宗教指導者たちからも受け入れられず、激しい抵抗を受けられました。キリストは命の光として来られたのに、暗闇は激しく抵抗して、簡単には引き下がらなかったのであります。その結果、イエス・キリストを十字架にまで追いやることになったのであります。

しかし、それでもってキリストの光が照らし出せない暗闇があったとか、光が罪の暗闇に勝てなかったということではなくて、最終的には、罪はキリストの十字架の死によって完全に担われたし、キリストの霊的な命は失われることなく、肉体的な命は甦って、復活の朝の光が全ての暗闇を追放したのであります。悪魔は滅ぼされて、キリストが勝利されたのであります。ですから、最終的には(キリストが復活された後には)口語訳のように、「暗闇は光に勝たなかった」のであります。そして、今も5節前半で言っているように、「光は暗闇の中で輝いている」のであります。

結.命の光による新しい創造

・ところで、皆さんはイエス・キリストの「命の光」を受けておられるでしょうか、「命の光」に照らされておられるでしょうか。肉体的な命に生きるだけでなくて、神の言から発せられる霊的な命を受けて、霊的な命に生きておられるでしょうか。

・「命の光」は2000年前から始まって、今も輝いているのであります。その光は世界の隅々まで注がれているのであります。光が届かない所はないし、新しい霊の命が育たない不毛の地はないのであります。人間の罪が蔓延して、暗闇が覆っているように見える世界にも、「命の光」は輝いているのであります。

しかし、2000年前に「暗闇が光を理解しなかった」ように、そしてイエス・キリストを受け入れることが出来ない人たちがいたように、降り注ぐ光の中にありながら、自分に覆いをかけて光を遮ってしまっている人がいます。あるいは光を受けていながら、気が付いていない人がいます。

この礼拝の場というのは、聖書を通して神様の言葉を聴く場であります。ここで聞く話というのは、単なる人生訓や講話ではありません。神様の言葉は思想や考え方でもありません。神の言はキリストであります。キリストには神の御意志・御心が込められています。そこには命があります。人間を生かす命、神様との関係をきっちり結びつけて、本当の生き方をさせる命があります。礼拝で神の言を聴くということは、この命の光を受けることであります。新しい命に生かされるということであります。

私たちの中には、暗闇があります。罪の暗闇があります。神様とのあるべき関係が損なわれています。肉体の命は生きていても、本当の命(霊の命)は死んでいます。

しかし、神の言の命の光を受けて、私たちを覆っている覆いを撥ね退けて、その光を感謝を持って受け止めることが出来るならば、私たちの命は新しい霊の命に生き返らせられます。私たちの命が光を受けて照り輝き始めます。神様との関係が創造の時の関係へと修復されます。命が再創造されます。新しい命が生き始めます。

私たちが救われるということは、ただ苦しいことから解放されるとか、誤ったことをしなくなるというような、自分が楽をしたり自分が誉れを受ける生き方の中でのちょっとした転換ではなくて、キリストが注ぎ出して下さる命にあずかることであります。神様との根本的な関係の回復であります。それは自分で出来ることではなくて、キリストの「命の光」を受けることによって与えられる新しい命、新しい生き方であります。

クリスマスとは、単に地上に飾り付けられたイルミネーションの光でもって、一時、この世の暗さを忘れようという時ではなくて、キリストによって暗闇の中に照らし始められた「命の光」を受けて、私たちの古い命が、新しい命へと造りかえられて輝き始める時であります。・祈りましょう。

祈  り
・命の光の主なるイエス・キリストの父なる神様!

あなたの御言葉をいただき、命の光にあずかることができまして感謝いたします。

あなたに背を向けて、光を避けてしまいがちな私たちであり、暗闇の中に閉じこもりがちな私たちであります。あなたの光は私たちにとっては眩し過ぎるようにさえ感じる者でありますが、どうか、命の光を、感謝を持って受け止める者とならせて下さい。どうか、私たちの中の暗い部分を照らし出して下さり、新しい命に甦る者とならせて下さい。

・どうか、闇の中をさ迷っている方々に、光を届かせて下さい。どうか、礼拝に導き出して下さり、新しい命に生きさせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 待降節第二主日礼拝説教 要 旨     2007年12月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:1−5
 説教題:「光は暗闇の中で」
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