序.イエスを神の子と信じるために――ヨハネ福音書の執筆目的

・今日からアドベント(待降節)に入りました。アドベントに聖書のどの個所から御言葉を聞くのがよいのかは、説教者の悩みどころの一つであります。すぐ思いつくのはマタイ福音書やルカ福音書にある主イエスの降誕物語の中から選ぶことですが、待降節のメッセージは降誕物語の中にしかない、とは言えません。主イエスが私たちの所に来て下さるという恵みの福音は、極端な言い方をすれば、聖書の中のどこからでも聴き取ることが出来る筈であります。そういう考え方に立てば、連続講解説教をしているのであれば、そのまま順番の個所をテキストにすることによって、恣意的ではない、新鮮な待降節のメッセージを聴くことが出来るかもしれないのであります。

・実際私も、マタイによる福音書の連続講解をしておりました2004年には、待降節のうち一回とクリスマス礼拝は、順番の個所から説教いたしましたし、2005年にはフィリピの信徒への手紙の連続講解説教をしておりましたので、待降節と降誕節の四回の説教をフィリピの信徒への手紙の順番の個所で行いました。昨年は、使徒言行録の連続講解中でありましたが、その個所と福音書の降誕の個所を併用する形で、使徒言行録から待降節のメッセージを聴き取ることを心がけてみました。

・今年は引続き使徒言行録を学んでいる最中でありますが、もう最終段階に差しかかっております。去年と同じように、ここから待降節のメッセージを聴き取ることも出来るとは思うのですが、使徒言行録が終わった後は、実はヨハネによる福音書の連続講解に入りたいと考えておりました。それは、福音書から何年も離れているのは好ましくないので福音書に戻るとして、四つの福音書のどれにしようかと考えた時に、前に取り上げたマタイと内容が重なっていない部分が多いのは、ヨハネ福音書だからであります。

・ヨハネ福音書にはマタイやルカのような形での降誕物語はないのでありますが、冒頭の11節から18節までの個所は、待降節やクリスマスによく取り上げられる個所であります。この個所を使徒言行録が終わって年が明けてから聴くよりも、この待降節の時期に聴く方が相応しいのではないかと考えて、使徒言行録をしばらくお預けにして、ヨハネによる福音書のこの個所から待降節とクリスマスのメッセージを聴くことにさせていただきました。

・そういうわけで、ヨハネによる福音書をこれから2〜3年かけて聴いて行くことになりますので、今日は初めに簡単に、この福音書の緒論的なことを申し上げておきたいと思います。

・ヨハネ福音書が成立したのは、他の三つの福音書より少し遅れて、 第一世紀の終わり、紀元90年代の初期ではないかと考えられています。著者は誰かということについては、伝統的には主イエスの愛弟子であるゼベダイの子ヨハネであると考えられて来ました。というのは、弟子たちの様子を記している個所で、ヨハネの名前を書くべきところで「イエスの愛しておられた者」という表現を用いて、わざと名前を記すことを控えているからであります。しかし、この福音書の内容からすると、キリスト教がユダヤ教からはっきりと異端とされて、ユダヤ教の会堂からも追放された80年代半ば以降の事情を背景として書かれたと考えられるので、書かれた時期は、先ほども申しましたように90年代の初めだとしますと、弟子のヨハネが生きていたとしても、相当高齢になっている筈で、ヨハネ自身の筆によることは考えにくいのであります。そういうわけで、最近では、90年代の教会で指導的な立場にあった人が、愛弟子ヨハネの権威の下で書き記したのではないかと考えられるようになっております。もっとも、筆者はこの福音書を弟子の一人が記したとして読んでもらうつもりのようですから、単純に、そう思って読んで差し支えないと思います。

・なお、ついでに申し上げますが、新約聖書の中で他にヨハネの名前がついたものに、三つの手紙とヨハネ黙示録があります。手紙の方はヨハネ福音書と思想的に共通するところが多いので、同じ著者だとも考えられますが、歴史的背景がまた異なるので、同じ人物だとは断定されていません。ヨハネ黙示録の方は全く別人だと考えられています。

・ところで、ヨハネによる福音書の執筆目的でありますが、最後の方の2031節にこう記されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」――ですから、ただ単にイエスという偉大な人物の偉人伝を書こうとしたのではありませんし、死後も大きな影響力を持ったイエスという人物の言動を記録に留めようとしたのでもなくて、主イエスを神の子と信じて救われるために書かれた、ということであります。だから信仰のための書物であって、歴史書ではありません。信仰的に(霊的に)読まなければ、よく理解出来ませんし、読む意味がないということになります。

・また、118節を見ていただきたいのですが、(これは「今月の聖句」としている言葉でもありますが)こう言っております。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」――「父のふところにいる独り子、すなわち神の子イエス・キリストこそが、ただ一人、父なる神を示している、というのであります。このキリストのことを知ることによって、神がどのようなお方であるかということが分かり、神の救いに入れられるということになります。だから、イエス・キリストのことを知る以外に神を知る手立てはないし、私たちが救われる道もないということになります。

・そういうわけで、このヨハネによる福音書は初めから終わりまで、徹底的にキリストを証しする書物であります。キリスト論に貫かれた書物であります。今日聴きます、冒頭の11節から、早速ヨハネ独特のキリスト論が始まっています。

1.言(ことば)なるキリスト

1節は「初めに言があった」という言葉で始まっていますが、18節までは、この「言(ことば)」について書き連ねられています。この「言」というのは、イエス・キリストを表わしているということは14節を見ると明らかであります。こう書かれています。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であった。」――肉となってわたしたちの所に来て下さった神の独り子とは、正にイエス・キリストであります。

では、なぜイエス・キリストのことをヨハネは、わざわざ「言」という語を使って表現したのでしょうか。ここに使われているギリシャ語は「ロゴス」という語で、それには「言葉」という意味がありますが、「出来事」という意味も持っていますし、当時から哲学用語としても用いられていて、「道理」とか「理性」を表わす言葉でもありました。筆者のヨハネがこの「ロゴス」という語を使った時に、そういう哲学的な意味合いも念頭にあったかもしれませんが、今日の個所を理解するには、必ずしもそういう哲学的な概念を持ち出さなくてもよいと思います。取り敢えずは、普通の意味で用いられる「言葉」のことを考えればよいと思います。「言葉」というものは、人間の間で情報を交換したり、意志や思いを伝える役割をいたします。言葉が媒介となって人と人とが結び付けられることは非常に多いわけでして、そこが人間と他の動物との違いでもあるわけであります。

ヨハネは、その「言葉」という語を用いて、イエス・キリストのことを表わそうとしたのは、一般的に私たちが人と人との間で用いる言葉が全部イエス・キリストを表わすということではなくて、神様と人間の関係を結びつける言葉として、イエス・キリストを考えている、ということであります。つまり神様の御意志や思い、御心を表わす言葉としてイエス・キリストを示そうとしているということであります。ですから、これは特別な神の言葉ですから、前の口語訳聖書でも、この新共同訳聖書でも「言葉」とは書かずに「言」と書いて「ことば」と読ましているわけであります。

人間の言葉は人と人を結びつける大切な役割をする反面、実体を伴わない良い加減なものという感触があるかもしれません。口だけの約束というのは当てにならないものの代名詞であります。人間は言葉を使ってウソをついたり、誤魔化したりいたします。 しかし、先ほど申しましたように、ギリシャ語の「ロゴス」という語は「出来事」という意味も持っていて、語られることと、実際出来事として起こることは結びついているのであります。特に、神の言葉という場合には、先ほど朗読いたしました創世記にありましたように、神様が「光あれ」とおっしゃると、光が出来たのであります。言葉が実体となるのであります。

そのように、イエス・キリストも神様の実体をもった言葉なのであります。神様の御意志・御心が実体(出来事)となったのがイエス・キリストなのであります。クリスマスというのは、神様がイエス・キリストを通して人間に向かって発せられた神様の言葉(メッセージ)なのであります。イエス・キリストの中に神様の思い・愛の全てが込められているということであります。ですから、イエス・キリストを受け入れるということは、神様の言葉を受け入れるということになりますし、そのことは神様の御心・神様の愛が私たちの中で実体となるということでもあるわけです。

2.初めに言があった―永遠のキリスト

ところで、そのような説明をいたしますと、イエス・キリストというのは、神様の御意志を伝える手段であって、神様より一段下にある召使のような存在だと考えてしまうかもしれません。確かにイエス・キリストは神の子と言われていますし、事実、主イエスは父なる神の御命令に従って十字架の死に至るまで従順に仕えられたのであります。だから、主イエスは神の僕の立場を貫かれたのであります。ところが、そのことから、一人のイエスという人間が神の預言者の一人として、神に用いられたに過ぎないとか、神が一時的に人間の姿をとって世に来られたに過ぎないとか考える人が出て来ました。

・しかし、ヨハネはそのような誤解を跳ね返すように、冒頭で「初めに言があった」と語るのであります。

「初めに」というのは、創世記の冒頭にあります「初めに」とヘブル語とギリシャ語の違いはありますが、同じ意味であります。<世界の創造に先立って>という意味であります。これを「先在のキリスト」と言います。キリストは世界の初めからおられたと言うのであります。神様が初めにキリストを創造されたというのでもないのです。イエス・キリストは神の被造物ではありません。むしろ、イエス・キリストも神の創造に関与されたのであります。

「初めに言があった」と言われている「あった」という言葉は、ギリシャ語の未完了形で、これは過去の一時点に「あった」だけでなくて、ずっと「あり続ける」という意味であります。永遠の初めにあって、永遠にあり続けられるのであります。永遠の初めから永遠の終わりに向かって存在するお方であります。

もちろん、永遠の昔の主イエスの存在を確認した人間は誰もいません。ここに述べられていることは、創世記の記事と同様に、信仰告白であります。ヨハネとその教会の信仰の告白であります。

3.言は神と共に―人格的交わり

・次に、「言は神と共にあった」と語られています。「共にある」という語は、<側(そば)にある><近くにある>という意味であります。これは「言」であるキリストと父なる神様の緊密な関係を表わしています。人間の言葉は、心にもないことを発することがあります。本心とは違うことを言う場合があります。しかし、神様の御心と神の「言」であるキリストはしっかりと結びついている、ぴったりと一致している、その間にズレはないということであります。ですから、キリストは神様の御意志そのものである、と言っても良いくらいの関係だ、ということであります。

それなら、父なる神様とイエス・キリストは同じお方の言い換え

 かというと、そうではありません。「共にあった」と言っているの  は、別のものが<近くにある><一緒にいる>ということであって、同じであったということではありません。父なる神とイエス・キリストとの間に深く緊密な人格的な関係があったということであります。ある人は神様とイエス・キリストの関係を太陽と光の関係で説明しようとします。一つの説明の仕方かもしれません。しかし、父なる神とイエス様の関係は、そのような物理的な関係ではなくて、人格的な関係であります。そのことはこの福音書の全体の中で語られて行くことでありますが、「父なる神」「子なる神」という言い方も、そのような人格的な関係を表わした言い方であります。キリスト教というのは人格的な宗教であります。キリスト教は山を拝んだり太陽や月を拝む自然宗教ではありませんし、祭礼を行なうことによって神を呼び込んだり、鎮座まします偶像を拝む祭儀宗教でもありません。語り・聞く、愛し・愛されるといった人格的な交わりの宗教であります。その大元(おおもと)が父なる神と子なるイエス・キリストとの人格的な交わりであります。そこから神様と私たちの交わりも出て来るのであります。

4.言は神であった―神の子キリスト

次に、「言は神であった」と言われています。<イエス・キリストは神である>、という告白であります。もちろん、<父なる神そのものである>ということではなくて、キリストは<子なる神>あるいは<神の子である>という告白であります。

教会の歴史の中で、キリストについての色々な誤った考え方が出   没いたしました。それは、キリストは人間の中で神様に近い方であるという考え方、あるいは、人間として優れた功績を挙げたので神になった、という考え方であります。それに対してヨハネはここではっきりと、「言は神であった」と言い切っております。イエス・キリストは初めから神なのであります。

キリストはクリスマスに人間としてマリアからお生まれになりました。それは仮に人間の姿をとったというようなことではなくて、私たちと同じ肉体を持った人間となられ、数々の苦しみも経験なさるのでありますが、それは、神様をお止めになって人間に変身されたのでもなく、神様の代理をするような人間をお送りになったのでもなくて、神様が人となられたのであります。

イエス・キリストが人間であるという面(キリストの人性)を強 調するあまり、聖書の中のイエス様のお言葉や行動を心理分析したり、私たちの人間の思いで推し量ることは間違いであります。もちろんイエス様は、真の人として私たちの弱さや苦しみ・悲しみを理解されるお方であり、それを担うこともお出来になるお方でありましたが、私たちのように限りあるお方ではありませんし、神様に対して罪を犯されるようなお方ではありませんでした。 イエス様が十字架にお架かりになった時、百人隊長たちがその御様子を見て、「本当に、この人は神の子だった」と言いましたが、それと同じ告白が、ここでヨハネによってなされているのであります。

2節の「この言は、初めに神と共にあった」というのは、1節にある「言は神と共にあった」ということと、言おうとすることは同じで、強調であります。イエス・キリストはある時点に神となられたのではなくて、初めから神であられたし、地上に来られたといっても、父なる神から離れられたわけではないのであります。ずっと、神様の御意志に従って神様と共に歩まれたのであります。

5.万物は言によって―創造のキリスト

3節では、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらず に成ったものは何一つなかった」と言っております。

・これは、イエス・キリストが父なる神と同じく、創造の御業に関 与された、ということであります。コロサイの信徒への手紙の中に「キリスト讃歌」と呼ばれている個所がありますが、その中でこう言われています。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生れた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も王権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロサイ11517、p新368)。

・イエス・キリストは神様の創造の御業の一部を担われたとか、神の御業に協力されたということではなくて、万物は神の言であるキリストによって成った(造られた)のであります。無からの創造の業に関わられたのであります。神様は言葉によって創造の業を進められました。光を初めとして、全ての物は神の言葉によって出来ました。イエス・キリストは「言」として、その創造に関わられたのであります。神様の創造の御意志を「言」であるイエス・キリストが成就されたのであります。

結.クリスマス―新しい創造の始まり

・さて、<ヨハネの言うことは分かった。キリストは世界の初めか らおられ、神と人格的に一体であり、キリストが神であることをヨハネが言おうとしていることは分かった。けれども、そのことがどこから分かるのか。また、そのことが今の自分と何の関係があるのか>と思われるかもしれません。確かに、ここまでは神であるキリストのことが語られているのですが、それだけであるならば、キリストは私たちには捉えることも出来ず、まして近づくことも出来ない、私たちからは遠い存在でしかありません。

・クリスマスに私たちが聴かなければならないのは、そしてヨハネ  が私たちに伝えたいことは、最初にも一瞥しました14節の言葉であります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と言っています。神であられるキリストが、天におられるだけでなく、神の「言」として、私たちの間に来て下さったのであります。神様の御意志の働きとして、神様の御心の成就として、私たちの所に来て下さった、神の「言」として私たちに働いて下さった、ということであります。

・イエス・キリストは天地の創造の時も、「神の言」として創造に関わられましたが、このクリスマスの時にまた、「神の言」として、新しい創造に関わられたのであります。それは新しい人間のの創造であります。神に造られた人間は罪を犯して、神様に背いてしまいました。神様との繋がりを喪失する者となりました。その人間を救うために、もう一度、「神の言」であるキリストが、地上に来るという形で、人間の再創造の御業を始められたのであります。それが、人となって、人の罪を担って十字架にお架かりになるという救いの御業でありました。待降節はその新しい創造の御業を私のものとして受け取る備えをするときであります。

・イエス・キリストは今も、「神の言」として私たちに働いて下さいます。今日も、このようにして礼拝に導いて、神の御言葉として私たちに救いの出来事を起そうとしておられるのであります。そして、私たちを造り替えようとしておられるのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・神の言なるイエス・キリストの父なる神様!

この年もアドベントを迎えて、あなたの限りない恵みの御業を聴く時を備えて下さいまして感謝いたします。

どうか、神の言なるキリストによって語りたもう御心を、素直に感謝と喜びをもって受け取る者とならせて下さい。どうか、キリストが罪深い私たちの近くに来て下さっていることを覚えさせて下さい。どうか、私たちの罪が赦される新しい創造の御業を、成就して下さいますように。

・あなたによって救われるべき方々が、どうかこのアドベントとクリスマスの時期に、この場所に足を運ぶことが出来、御言葉と出会い、救いの御業に与ることが出来ますように。

  ・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 待降節第一主日礼拝説教 要 旨     2007年12月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:1−3
 説教題:「初めに言があった」
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