「見張りの者よ、今は夜の何どきか」
 「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ」                         (イザヤ書2111,12より)

 イザヤ書21章に記されている三つの託宣には、いずれも「夜」という言葉が使われている(8,12,13節)。それは強国アッシリアの脅威が「吹き荒れるつむじ風のように」(1)迫り、バビロンもエドムもアラビヤ(荒れ地)も暗い状況の中にあることを物語っており、ユダにとっても他人事ではない。預言者イザヤ自身も「産婦の痛みのような痛みにとらえられ/心は乱れ、おののき、打ちのめ」(3,4節)されている。楽しみにしていた宴の最中に、出兵の命令が下る(5)。人間の罪が起した混乱の行き着くところは戦闘である。――この暗い現実は、今も世界と日本を脅かしている。
 その中で預言者がユダの民に語り、キリスト者に告げていることは、「見張りを立てよ」(6)である。キリスト者はこの世にあって見張りの役を命ぜられている。見張りの役割は、第一に、罪に満ちた世界の暗い現実を直視し、それを他人事のように批判するだけでなく、共に苦悩し、警戒に当たることである。第二の役割は、「倒れた、バビロンが」(9)と語っているように、この世でもてはやされているもの、力があると思われているもの、大切だと考えられているものが、神の審きを受けて打ち砕かれなければならないことを告げることである。更に第三の役割は、標記のように、「夜明けは近づいている」と語ることである。キリスト者は、今がキリストの昇天と再臨の中間の時であることを知る者である。キリスト者は事態の深刻さを知り、この世の闇の深さを知っている。しかし、夜明けは遠のいているのではなく、刻一刻と近づいていることも知っている。闇が深まるほど、夜明けは近いのである。だが、「その日、その時は、だれも知らない」(マルコ1332)。だから、礼拝ごとに主の御言葉を聞くことによって、「気をつけて目を覚まして」(マルコ1333)いなければならないのである。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2007年11月25日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書21:1−17
 説教題:「夜明けは近づいている」           
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