米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2007年11月25日 山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書21:1−17
 説教題:「夜明けは近づいている」
              説教リストに戻る

序.深まる闇の中で

・教会の暦はアドベント(待降節)から一年が始まります。今年は次週の122日からアドベントに入りますので、教会の暦では今日が一年の最後の主の日ということになります。

・この一年を振り返って、世界は希望の持てる明るい方向へ向かって進んでいるのでしょうか。それとも、ますます闇が深まっているのでしょうか。

・世界のあちこちで起こっている紛争は一進一退で、解決への道のりが見えないものが多いようであります。地球環境の問題は改善への模索が続けられていますが、経済活動とのからみで、なかなか一致した取り組みが出来ない状況であります。経済的な繁栄は中国やインドにもたらされているようではありますが、貧富の格差は反って広がっていると言われております。東北アジアの状況を見ましても、北朝鮮の問題は核兵器の無能力化への糸口を掴んだかのようでありますが、わが国にとって重要な拉致問題は棚上げされかねない気配であります。

・わが国の景気は上向いていると言われますが、地方にまでは及んでおらず、地域格差が広がっているようでありますし、財政改革の影響を受けて、福祉が削られて、弱者に皺寄せが来るという状態で、それらのことが政治状況を大きく揺るがせておりますが、先行きは決して明るさが見えて来ておりません。忌まわしい事件が頻発する中で、教育の改革が叫ばれておりますが、学力の向上や愛国心の涵養のことが取り上げられても、肝心の心の問題や命の問題への明るい展望は見えてきておりません。平和の問題は、目先のテロ対策措置法の議論だけで、本質的な憲法の議論は棚上げされたままの感がいたします。いたずらに悲観的になるのは良くないのですが、現状を見ていると、世界もわが国も、闇はますます深まっているように思えてならないのであります。

・預言者イザヤが活躍した時代は、これまでも学んで来ましたように、アッシリアという大国の脅威に翻弄されて、イスラエルの民も周辺の諸国も大きく揺れ動いていました。

・イザヤ書13章からは、そうした諸国についての託宣が語られて来ましたが、本日の21章でも三つの託宣が語られています。いずれの託宣の中にも、「夜」という言葉が出て来ます。最初の「海の荒れ野についての託宣」では、8節の見張りの叫びの中で、「わたしは夜通しついていた」という言葉があります。11節からの「ドマについての託宣」の中では、11節に「見張りの者よ、今は夜の何どきか」とあり、12節には、「しかしまだ夜なのだ」という言葉があります。13節からの「荒れ地についての託宣」の中でも、すぐに「荒れ地の茂みで夜を明かせ(原語では泊まる、夜を過ごすとの語)」という言葉が出て来ます。これら三つの託宣は異なる地域についてのものなのですが、今見たように、いずれも「夜」という言葉で表現されるような暗い状況の中にあるのであります。

・そのような暗い状況の中で、預言者イザヤは何を語ったのでありましょうか。そして今日(こんにち)、世界とわが国を取り巻く闇が深まっているように思える中で、神様はイザヤの言葉を通して何を語って下さるのでありましょうか。――今日は、この箇所から、新しく始まるアドベントとクリスマスを前にして、聞かなければならない御言葉に耳を傾けたいと思うのであります。

1.吹き荒れるつむじ風のように(歴史的背景)

最初にイザヤがここで語っている託宣の歴史的背景について触れておきます。21章の初めに「バビロンの陥落」という小見出しがつけられていますが、それは1節にある「海の荒れ野」というのが、ペルシャ湾岸のバビロニアの地域を指す言い方であり、9節にも「倒れた、倒れた、バビロンが」とあるからであります。

バビロンと言いますと、ユダの民が捕囚となった新バビロニア帝国の首都のことを思い出して、この箇所はペルシャ王キュロスによってバビロンが征服され、ユダの民が捕囚から解放されるときのことを預言しているのだと考えてしまいます。ところが実際は、キュロス王は無血でバビロンを開城するのでありまして、民衆はむしろキュロス王を歓迎したと言われます。しかるにここには、12行目に「吹き荒れるつむじ風のように彼は来る」とあるように非常に厳しい状況が語られていて、実際の歴史的状況とぴったりとしないわけであります。

それで、この託宣の歴史的背景は、もう少し遡って、アッシリア帝国が強大な力を誇っていた時代に、バビロンを征服したり、それに対する反乱が起こったりということが繰り返された時期があって、そのときのことを語っているのではないかと考えられるのであります。そのときはアッシリアの脅威はユダの民にとっても他人事ではなくて、ここに描かれているようなことが、やがてユダにも起こるのではないかという恐れをもって、このイザヤの言葉を聞いたのではないかと思われるのであります。

1112節には「ドマについての託宣」がありますが、「ドマ」というのはエドム領にある地名で、やはり同じ時期にアッシリア軍によってエドムが屈服させられたという歴史的事実と合います。また13節以下には、「荒れ地についての託宣」がありますが、「荒れ地」というのは「アラブ」という言葉で、アラビアのことを指します。バビロンやエドムより少し前に、やはりアッシリアがアラビアに攻め入ったという歴史的事実と合うのであります。

そういうわけで、今日の三つの託宣の歴史的背景としては、強大なアッシリアの脅威を考えた方がよく合うのでありますが、ペルシャによる新バビロニア帝国の滅亡のことを指しているという見方も、後で述べますが無視することは出来ません。

いずれにしても、ここに書かれていることは、対岸の火事ではなくて、神の民であるユダの人々にとっても事態がますます悪くなって来ているという警告であります。まさに夜は深まっているのであります。それはまた、現代の私たちにも当てはまることではないでしょうか。

2.夕暮れは夜に

そこで、イザヤが述べております厳しい状況について見て行きたいと思います。

2節にはイザヤが見た「厳しい幻」が記されています。「欺く者は欺き続け、荒らす者は荒らし続けている」と言われています。戦争には欺きや偽り、破壊や荒廃が付き物であります。しかし、欺きや荒廃は戦闘地域だけではありません。平和に見える日常生活の中にも欺く者や荒らす者がいます。最近、この国でも食品の不当表示や偽装が次々と発覚いたしました。自然の破壊は平和な日常活動によっても行われています。人間の罪の根っこには、いつも人を欺くことと、神が造られた秩序の破壊があります。

次の「上れ、エラムよ、包囲せよ、メディアよ」というのは、バビロンの周辺の国々へバビロン攻撃を呼びかけているのか、逆に攻めてくるアッシリアに対して周辺の国々にも抵抗を呼びかけているのか、判然といたしませんが、いずれにしろ、周辺の諸国も戦闘に巻き込まれるのであります。「わたしは呻きをすべて終わらせる」というのは、バビロンによって苦しめられてきた周辺の民の呻きを神が終わらせるという意味でしょうか。それはバビロンにとっては神の裁きであります。神が戦争を奨励しておられるわけではありませんが、人間の罪が起した混乱を、神が収拾されるときに、他の人々の武力をもって怒りを示されることがあるということを厳しく聞かねばならないのではないでしょうか。

34節は預言者自身の苦悩が述べられています。産婦の痛みのような痛みにとらえられ驚き恐れのあまり心は乱れおののき打ちのめされているのであります。預言者は他を批判したり、人に裁きを告げるだけではありません。自らも罪の世界にあって、苦しみを共にしなければなりませんし、神の裁きを免れることは出来ないのであります。キリスト者はこの世にあって、預言者的な役割をしなければなりません。しかしそれは、自分たちだけが良い子になって、人々を批判したり裁いたりすることではなくて、この世の中で、共に苦悩し、共に神の裁きを受けるということであります。夜の暗闇はキリスト者にも迫ってくるのであります。

楽しみにしていた夕暮れは、かえって、わたしを恐怖に突き落とした。宴は広げられ、座は整えられ、人々は飲み食いしていた、とあります。普段であれば、この地域の夕暮れは、昼間の暑さから開放されて一息ついて、夕べの楽しみが待っているのでありますが、その飲み食いの最中に「立て、武将たちよ、盾に、油を塗れ」との命令が下るのであります。戦いのために立ち上がらなければならないのであります。戦争は遠い世界のことでも、他人事でもありません。今、国会ではテロ対策の後方支援を続けるべきかどうか、戦乱後の復興のために危険な地域での援助に参加すべきかどうか、という危ない議論をしております。戦闘に巻き込まれるようなことは避けるべきだと思います。しかし、地球が狭くなっている中で、どこかで紛争が起こっているときに、完全に埒外にいることができないのも、事実であります。罪に満ちたこの世に生きている限り、「立て、盾に油を塗れ」という命令を聞かねばならないことが、起こらないとは言い切れません。

6節から9節には、見張りを立てるよう命ぜられたことが述べられています。見張りは夜通し立って、戦闘のすべてを見ます。そして、遂にバビロンが倒れるところまで見届けるのであります。

11節からは、次の託宣に移って、対象は変わるのですが、類似の状況のようであります。見張りの者「今は夜の何どきか」と聞かれて、「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ」と答えています。これは象徴的な会話であります。尋ねる者は夜明けを待ち望んでいます。暗い状態から早く脱したいと願っております。しかし、まだ夜は続いているのであります。苦悩はまだ去らないのであります。

13節からのアラビアについての託宣も同様の闇が覆っています。「デダンの隊商」とありますが、アラビアのデダン人は遠くまで取引に出かけることで知られています。しかし、アッシリアが攻めて来たので、通常の交易路で野営していては危険なので、茂みで夜を明かせと言われています。

14節に出てくる「テマ」というのはオアシスのある町ですが、戦乱に巻き込まれて命からがらで逃げてきて、水やパンにもありつけなかった隊商の人たちを懇ろに扱うように述べています。

16節のケダルというのは、アラビア砂漠の遊牧民で、弓に長じた勇猛な種族であったようですが、やはりアッシリア軍の前に敗北を喫することが語られています。

3.見張りを立てよ――教会の役割

・さて、預言者イザヤはこのような夜が深まった暗い現実を述べることによって、ユダの人々に何を語ろうとしたのでしょうか。そして私たちはここから何を聴き取るべきでしょうか。

一つは、バビロンやエドムやアラビアを襲う現実はユダをも襲う現実であり、罪に満ちた世界の暗い現実は私たちをも取り巻いていることを直視しなければならないし、それは神様が感知されない世界ではなくて、むしろ神が怒りをもって臨んでおられる世界であるということを知らねばならない、ということであります。

その現実の中で、預言者イザヤの苦悩が語られていましたが、その後で、「見張りを立てよ」という主の言葉を記して、見張りが戦乱を終りまで見張っていたことを述べ、また長い夜が続くのに苛立っている人との会話を記しております。これは預言者というものの役割を示していると受け止めることが出来ますし、この世におけるキリスト者の役割、あるいは教会の役割を示していると受け止めることが出来るのではないでしょうか。

見張りの役割の第一は、7節に見ることが出来ます。「彼は見るであろう。二頭立ての戦車を、ろばに乗る者、らくだに乗る者を。耳をそばだてて聞け、油断するな。」――「二頭立ての戦車」とは敵の強力な戦力を示すものでしょうか。ろばやらくだは補給部隊の車両や戦利品を運ぶ動物を指していると思われます。敵は圧倒的に強くて、相手を滅ぼし全てを奪い去るのであります。その敵の動きに耳をそばだて、警戒するのが見張りの役目であります。

世界を混乱と滅びへと向かわせる人間の罪、サタンの力は強力なのであります。そのために見張っている者が必要なのであります。キリスト者には、そして教会には世の力の現実をしっかりと捉えて、警戒を呼びかける役割があります。

見張りの者はまた、9節で「倒れた、倒れた、バビロンが。神々の像はすべて砕かれ、地に落ちた」と言っております。これは滅びの告知であります。先ほど、このバビロンというのは新バビロニア帝国と読むと、歴史的事実と合いにくいということを申しましたが、新約聖書の時代にはペルシャによって滅ぼされた新バビロニア帝国のこととして受け止められていたようで、ヨハネの黙示録18章(p新472)を御覧いただきますと、大バビロンの滅亡が語られています。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって、富を築いたからである。」(黙示録182b〜3)――ここで大バビロンと言われているのは、実は当時キリスト教を迫害していた大ローマ帝国のことであります。「すべての道はローマに通じる」と言われ、繁栄を誇っていたローマ帝国の滅亡を黙示録ははっきりと宣言しているのであります。

教会は神の裁きを告知しなければなりません。偶像はすべて砕かれ、地に落ちるのであります。この世でもてはやされているもの、力があると思われていたもの、大切だと考えられていたものが砕かれるのであります。そのことをいち早く察知して告げるのが、見張りとしてのキリスト者、また教会の第二の役割であります。教会はイエス・キリストによってサタンが打ち破られることを知っています。だから、そのことを告げなければなりません。

更に、1112節では、見張りの者は、「今は夜の何どきか」と問われています。見張りの者は目覚めていて、夜がどれほど更けているのか、夜明けが近いか、まだ遠いのかを知っています。決戦のときが近いのかどうかを知っています。キリスト者は目覚めていて「時を知る者」であります。キリスト者は、十字架の上で亡くなられたキリストが甦って天に昇り、再び私たちのところに来て下さることを知っています。今はキリストの昇天と再臨の中間の時であることを知っています。先ほどマルコによる福音書を朗読いたしましたが、そこでは主イエスが再臨の日のことを述べておられます。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」1326)と語っておられます。キリスト者はその言葉を信じ、教会はその日に一人でも多くの人が救われるために福音の宣教を続けているのであります。それが時を知っているということであります。

4.夜明けは近づいている

「今は夜の何どきか」と問われた見張りの者は、「夜明けは近づいている」と答えました。夜明けは遠のいては行きません。夜明けは刻一刻と近づいているのであります。けれども、見張りの者は「しかしまだ夜なのだ」とも言っております。まだ夜の深いことを知っております。深刻な事態が深まっていることを知っているのであります。

キリスト者もまた、事態の深刻さを知る者であります。この世の闇の深さを知る者であります。しかし、黙示録でも見たように、キリスト者は最終的にはサタンが滅び、イエス・キリストが完全な勝利をおさめられることを知っています。

今日は、教会暦では一年の最後の主日であると申しました。この日は「王なるキリストの主の日」とされています。王の王であるキリストの御支配を覚える日であります。

その王の御支配は再臨の日に誰の目にも明らかにされます。その主イエスの再臨の時は後退しているのではありません。刻一刻と近づいているのです。闇が深まるほど、その時が近づいていることをキリスト者は知っているのであります。そして、暗い世の中で希望を失いかけている人々に向かって、「夜明けは近づいている」と語ることが出来るのであります。

結.目を覚ましていなさい

・先ほどのマルコによる福音書で「人の子が大いなる力と栄光とを帯びて雲に乗って来る」とおっしゃった主イエスは、そのあと続いて、こうも言っておられます。32節以下ですが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて目を覚ましていなさい。」(マルコ1332

・私たちは再臨の日が必ず来ることは知らされていますが、そのことが何時起こるのかは知ることが出来ません。だから、目を覚ましていなければならないのであります。

・キリスト者は目覚めている、と先ほど言いました。キリストの再臨を信じていて、そういう意味では目覚めているのですが、その日が待ちきれなくて、うとうととしてしまうことがあります。だから、いつもキリストから「目覚めていなさい」とのお言葉を聞いていなければなりません。教会へ来て礼拝して御言葉を聴くということは、見張りの役を与えられた私たちが目覚めて見張っているために欠かすことのできないことであります。教会は今も、世界の見張り役として、こうして御言葉に耳を傾け続けつつ、「夜明けは近づいている」と語り続けているのであります。
・祈りましょう。

祈  り

闇と混沌の世界に光を創造された父なる神様!御栄光を賛美いたします。

人間の罪が作り出した闇は深まるばかりのように見えますが、光の主は、主イエス・キリストによって闇に打ち勝ち給うたことを知っております。感謝いたします。

まだ夜の帳(とばり)は降りていますが、どうか、夜明けが近いことを信じさせて下さい。どうか御言葉によって、いつも目覚めている者とならせて下さい。

どうか、まだ夜明けの近いことを知らない方々にも、御言葉の光を届かせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。