パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。      (使徒言行録2519

 前任の総督フェリクスは、パウロに対するユダヤ人たちの告訴の判決を下さず、パウロは二年の間、監禁されたままであった。新任の総督フェストゥスは着任早々カイサリアからエルサレムに出向くと、ユダヤ人たちは改めてパウロをエルサレムで裁くことを求めたが、フェストゥスは彼らの思惑に嵌らないよう、カイサリアに帰り、すぐ裁判を開始した。ユダヤ人たちは重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することは出来ず、この新任の総督は、パウロに死罪に当たるようなことは見出せなかった。だがユダヤ人の気に入られようとして、パウロにエルサレムで裁判を受けないかと問うたが、パウロは拒否し、皇帝に上訴した。フェストゥスは皇帝に書き送るべき罪状を見出せないまま、偶々表敬に訪れたアグリッパ二世ならユダヤ人の事情が分かっているだろうと相談を持ちかけた。
 これらの経過から浮かび上がって来る真実は、一つには、パウロには何の罪状も見出せないにもかかわらず、福音の宣教が妨げられ、権力者たちの罪が露わになったということであり、それは主イエスが裁判の過程で受けた苦しみや人間の罪の実相と重なり合うものである。
 だが、いま一つ浮かび上がって来ることは、標記でフェストゥスが巧まずして語っているように、イエス・キリストが生けておられるという真実である。暗い人間の罪が渦巻いている中で、この真実が光を放っている。フェストゥスは戸惑いながらも、パウロをローマへ送り届ける準備を始めている。主イエスが「ローマでも証ししなければならない」(使徒2311)と言われた言葉は、実現に向けて動きつつあるのである。イエスは実に生きて働き給う。神は、展望が開けないように見える教会の現実や私たちの人生の中でも、救いの御計画を進めておられるのである。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2007年11月18日 山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録25:1−27
 説教題:「イエスが生きている」                
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