序.展望が開けない中で

・神様が人類を救おうとされており、そのために教会を建て、宣教の業を進めておられると私たちは信じているのでありますが、最近の世界の現状を見ると、宣教の業は必ずしもはかばかしい進展を遂げているようには思えません。日本キリスト教会の現状を見ても、米子伝道所の実状を見ても、伝道の展望を開くことが非常に困難な時代にあることを思わされるのであります。

・神様はなぜもっと力を振るって下さらないのか、なぜもっと教会に人を呼び集めて下さらないのかと嘆き、もう神様にも手が負えない位この世は悪いところへ来てしまったのだろうか、などと、神様のお力に疑問を呈したい気持ちになることさえあります。

・しかし、考えてみますと、2000年の教会の歴史の中で、安々と伝道が進展した時代は殆どなかったのでありますし、今、使徒言行録で学んでおります初代の教会をめぐる状況は、今日に比べても非常に厳しいものがあったのであります。

・初代教会において、世界へ福音を広めることに大活躍したパウロでありますが、彼はユダヤ人たちの陰謀によって殺害されようといたしました。幸い彼は生まれつきローマの市民権を持っていましたので、ローマ総督に保護されましたが、ユダヤ人たちはパウロを色んな理由を挙げて告訴して、何とか死刑の判決を得ようと躍起になっているのであります。

・前回学びました使徒言行録24章では、ユダヤ人たちは総督フェリクスに訴え出ましたが、パウロは良心に従って冷静な弁明を行いましたので、総督フェリクスはパウロを罪に定めることは出来ず、さりとてユダヤ人に気に入られたい総督は、パウロに無罪の判決を下して解放することも出来ないまま、二年間の任期の間、パウロをカイサリアに監禁したままにしておいたことが記されていたのであります。

・パウロは、当時の世界の中心地であるローマで福音を宣べ伝えたいという希望を持っておりましたし、主イエスからも「エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(2311)というお言葉をいただいておりました。けれども、この二年間の監禁生活の中で、<あの主イエスのお約束はどうなったのであろう>と悩み、展望が開けない中で<もはや自分の伝道活動はここまでか>という挫折感を味わい、<なぜ神様はこのような苦しみをお与えになるのか>、<なぜもっと力を振るって下さらないのか>という思いにもなったのではないかと思われます。

・二年が経過して、総督がフェリクスからポルキウス・フェストゥスに交代いたしました。この新しい総督は有能な人で、物事をテキパキと処理する人であったようですが、さりとて、根本的な姿勢が変わるわけではなく、危うくエルサレムで裁判を受けさされそうになりましたが、結局、ローマ皇帝に上訴することになって、いわば未決の囚人としてローマに行くことになるのであります。

・今日の箇所はその最終決定に至る前の段階で、新総督フェストゥスによる裁判の模様と、フェストゥスを訪ねてきたヘロデ・アグリッパ二世の前に引き出されるに至った経緯が記されている所であります。

・そこには、この世で有能な権力者が、福音を証ししようとする者  をどのように扱うのかということがよく表わされているように思います。しかし、そのようなこの世の力が支配する中で、神様は福音が進展する道を開かれるのであります。

・今日は、そのような箇所を通して、困難な状況の中で生きて働き給う主を覚えることによって、私たちの揺らぎがちな主への信頼を取り戻されたいと願っております。

1.
世の権力者たちの諸相
1−1.フェストゥスの前で

さて、新しく総督として着任したフェストゥスは、三日たつと早くも行動を開始しました。ローマ総督の駐在地であるカイサリアからユダヤ社会の中心地であるエルサレムに上りました。それはユダヤのお歴々に就任の挨拶をするためでありましょう。

ところが、エルサレムに着くと、祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、早速フェストゥスにパウロを訴え出たのであります。彼らは、パウロをエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたいと、フェストゥスに頼みました。それは、パウロを途中で殺そうとの陰謀をたくらんでいたからであります。

ところがフェストゥスはユダヤ人たちの要望には応えず、自分は間もなくカイサリアに帰るつもりであるので、「その男に不都合なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか」と言いました。フェストゥスはユダヤ人たちのペースに嵌まるつもりはありません。フェストゥスはユダヤ人の陰謀に気が付いていたわけではなくて、自分の権威を立てようとしただけでありましょうが、そのことでパウロは殺害を免れるわけであります。ここにも不思議な神様の御手を覚えさせられます。

フェストゥスは八日ないし十日ほどエルサレムに滞在したあと、カイサリアに戻りましたが、その翌日には、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令しました。このテキパキとした素早い行動には、この総督の有能さが示されているように思われます。
パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが前のフェリクスの時と同じように、重い罪状をあれこれ言い立てましたが、おそらく新しい材料は何もなかったのでしょう。結局、罪状を立証することはできなかったのであります。

・これに対してパウロは8節にあるように堂々と弁明をいたします。「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と言いました。これは、24章でフェリクスの前で弁明したのと基本的に同じであります。「律法に対して」と言っているのは、パウロたちが公認されたユダヤ教とは異なる宗教を宣べ伝えているという訴えに対して、律法に忠実に従っていて違反していない、ということでありますし、「神殿に対して」と言っているのは、神殿に異邦人を連れ込んで神殿を汚したというのは誤解に過ぎないということでありますし、「皇帝に対し」と言っているのは、各地で騒動を起しているという言いがかりに対するものでありましょう。

この裁判でのやり取りについて、フェストゥスは後でアグリッパ王に説明する時に、18節で「告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした」と言っているように、フェストゥスはパウロに何の罪も認めなかったのであります。

しかるに、9節に書かれていますように、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに向かって、「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか」と言ったのです。パウロに罪はないと判断しておきながら、ユダヤ人のご機嫌をとっているのであります。フェストゥスは有能な人物でありますが、結局は自分が可愛いのであります。

これに対してパウロは10節にあるように、「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です」と言います。エルサレムでは中立的な裁判がされない恐れがあったのと、エルサレムへ行く途中で陰謀によって殺される危険があることを知っていたからでありましょう。パウロは更に言います。「よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。」こう言ってパウロは信仰をもって堂々とローマ法による裁判に服することを述べます。しかし、このままフェストゥスの裁判を受けると、彼の政治的な道具に使われる恐れがありました。そこでパウロは最後に言います。「私は皇帝に上訴します。」――ローマ市民には皇帝に上訴する権利が認められていました。ただ、ローマではユダヤの宗教事情などがよくわかっていなかったでしょうから、不利になる可能性もありましたし、更に拘束が続くことになりますが、パウロは上訴の権利を行使することにしました。念願のローマ行きが曲がりなりにも実現することに、神様の導きを覚えたのかもしれません。こうしてローマ皇帝のもとに出頭することが決まりました。

1−2.アグリッパ王の前で

13節以下には、数日後、アグリッパ王とその妹のベルニケが、フェストゥスを表敬訪問したときのことが書かれています。このアグリッパ王というのは、ヘロデ大王の曾孫に当たる人物で、ローマ帝国によって、パレスチナの北東地域に領地を与えられて、支配していました。ベルニカはその妹で、ある地方の王と結婚したのですが、夫の死後、兄と生活していたようで、後には皇帝になるティトゥスとも関係を持つというような、道徳的に問題のある女であったようです。彼らはパウロの裁判とは直接関係ないのですが、総督フェストゥスとしては、ユダヤの事情がよく分からない中で、パウロを囚人として皇帝に送らなければならず、罪状を示す必要があるので、ユダヤの事情に通じているアグリッパ二世に経過を話して、手助けしてもらおうとして、パウロの一件を持ち出したようであります。

13節から21節までは、フェストゥスがアグリッパに話した経過説明で、これまでの繰り返しになりますが、先ほども触れましたように、フェストゥスはパウロにローマ法の上での罪状を認めることが出来なかったのであります。どうも問題はユダヤ人の間の宗教に関する争いらしいと見ているのですが、事情が分からないのでエルサレムで裁判を受けさせようとしましたが、パウロが拒否して皇帝の判決を受けたいと言ったので、皇帝のもとに護送することにした、と説明しております。

すると、アグリッパ王は22節にあるように「わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思います」と言って、興味を示しました。そこで、23節以下にあるように、翌日、謁見室で、千人隊長や町のおもだった人々と共に、パウロの弁明を聞くことになったのであります。

ここでも、フェストゥスは25節で、「彼(パウロ)が死罪に相当するようなことは何もしていない」と言っております。そこで、フェストゥスとしては、27節にありますように、何とか皇帝に書き送る罪状をアグリッパ王に見つけ出してほしい、というわけであります。

2.浮かび上がってくる真実

こうして、パウロが三度目の弁明をすることになるのでありますが、その内容は26章に書かれていて、次回に取り上げることになるのですが、ここで総督フェストゥスがパウロを取り扱っている状況は、イエス・キリストが十字架にお架かりになる前に総督ピラトのもとで裁判を受けた時の状況に似ていることに、お気づきになった方もいらっしゃると思います。

イエス・キリストも最初、最高法院で裁判をお受けになって、神の子と言っているという理由で死に当たると判断されるのですが、ユダヤ議会には死刑の判決を下す権限がないので、総督ピラトのところに回されました。ピラトはイエス様を尋問しましたが、結局、ローマ法の上では、何の罪も見出せなかったのであります。そこで、ピラトはイエス様をヘロデ王のところへ回したのであります。ヘロデもイエス様に興味を抱いていて、色々と尋問いたしましたが、結局はイエス様をあざけるだけで、何も罪状を見出せないまま、ピラトのもとに送り返すのであります。

このように、イエス様の場合とパウロの場合が似ているのは、ユダヤとローマの間の政治的関係が似ているという背景があるからなのですが、根本的には、神の福音をこの世の法で裁こうとするところに無理があるわけであります。

結局ピラトは、イエス・キリストに何の罪も見出せないまま、群衆の叫びに押されて、十字架刑を決定するのでありますが、フェストゥスもパウロに何の罪も見出せないまま、アグリッパ王の助けを借りて、ユダヤ人たちの求めにかなう結論を得たいと思っているのであります。パウロの場合は、フェストゥスが死刑の判決を出すまでには至りませんでしたが、パウロが受けた苦しみはイエス・キリストがお受けになった苦しみに通じる部分があったと言えるのではないでしょうか。

福音が人々になかなか受け入れられない、伝道がなかなか進展しない、教会が伸びないという、私たちが味わう歯がゆさも、実はイエス・キリストの十字架の苦しみに通じるものであります。私たちはこの歯がゆさを経験することによって、主イエスの苦しみの一端を知ることができ、私たちの救いが、主イエスの十字架の苦しみによってこそ与えられたものであることを知ることが出来るのであります。

ところで、今日の箇所に描かれているフェストゥスによる裁判と、アグリッパ王に対する説明の中に見られるのは、権力の座にある者は、有能な人物であっても、やはり自分の身を守ることが第一であるという醜い姿であり、また自分の興味本位でしか物事を見ようとしない、罪深い人間の姿であります。

しかしながら、そのような暗い場面の中から浮かび上がってくる真実があります。

一つは、先ほどからも触れておりますが、フェストゥスが繰り返し述べていますように、パウロには死罪に当たるような罪状は何一つ見出せなかったということであります。パウロは福音を語ろうとしただけであります。しかし、福音が語られるところに、人の罪が露わにされるのであります。主イエスの十字架もそうでありました。総督ピラトも、「わたしはこの男に何の罪も見出せない」と証言しました。しかし、主イエスを十字架に架けてしまい、人間の罪が露わにされました。だがそこに、人々の罪を担われる救いの真実が明らかにされるのであります。福音が伝えられるところ、人間の罪が露わにされるのでありますが、同時に、そこにこそ、救いの真実が行われるのであります。

いま一つ、この暗い場面から浮かび上がる光があります。ある説教者は、暗い廊下の壁に架けられた一点の名画だと表現しておりますが、それは、フェストゥスが19節で言っている言葉の中にあります。こう言っております。「パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関すること、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。」 エルサレムにおけるフェリクスの裁判でも復活のことがユダヤ人の間で問題になりました。フェストゥスがこのことについてどれだけ理解していたかは分かりませんが、ここにパウロの宣べ伝えていることの核心が述べられています。   パウロが宣べ伝えている福音の核心は主イエスの復活であります。それも、イエスという人物が復活したという不思議な出来事が過去にあったというだけではなく、フェストゥスも言っておりますように、「死んでしまったイエスが生きている」ということであります。この真実が、暗い人間の罪が渦巻いている中で、光を放っているのであります。伝道を取り巻く現状は、明るい展望が見出せないような状態にあります。人間の世界には罪が充満しております。しかし、神様は死んでしまわれたわけではありません。イエス・キリストは生きて働いておられるのであります。

3.皇帝のもとへ

・さて、私たちは今、ここに描かれている暗い場面の中から浮かび上がって来る真実を見てまいりました。そして、ここにイエス・キリストが生きておられるということが、巧まずして語られているのを聞きました。

・でも、この主が生きておられるということは、抽象的・理念的な事柄なのでしょうか。心の中だけのこと、信仰の世界だけのことなのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストは現実の世界の中に生きて働いておられるのであります。

・ここに描かれていることの中でも、まだ表面には現れていませんが、事態は既に大きく動きつつあるのであります。それは、パウロが皇帝に上訴したという事実であります。フェストゥスはパウロの上訴を受けて、罪状が認められない中で、皇帝に対してどのようなことを書き送ったらよいのか、戸惑っておりますが、既にパウロをローマに送り届ける準備を始めているのであります。

こうして、主イエスがパウロに言われた「ローマでも証しをしなければならない」というお言葉は実現へ向けて動いているのであります。ローマへの道は既に開かれつつあるのであります。

これは、特殊な政治情勢の中で生まれた偶然のいきさつのようでありますが、ここに神様の御計画の進展を見ることが出来るのではないでしょうか。神様はユダヤ人の頑なさや、フェストゥスの自己保身の罪が渦巻く中で、パウロが福音を当時の世界の中心であるローマで語ることが出来るように計画を進めておられるのであります。これが、具体的にイエス・キリストが生きて働いておられるということであります。

結.イエスが生きている

・主イエスは十字架に架けられて、死んでしまったように見えました。しかし、イエス・キリストは教会の中に生きて働いておられるのであります。ユダヤ人たちの抵抗や、訳の分からないことで騒動を起こしたくないというロ−マの支配者たちの思惑を超えて、福音は世界に広まって行ったのであります。

そのイエス・キリストは私たちの現実の世界の中で、私たちのこの教会の中で、今も生きて働いておられるのであります。教会は大きな壁にぶつかっているように見えるかもしれません。この小さな伝道所の現実は、礼拝出席者が停滞というより減少傾向にあって、特に求道者の出席が少なくなっております。会員の高齢化が進む中で、人間の目から見るならば、将来への展望が開かれない状態にあります。――しかし、主イエスは死んでしまわれたのではありません。今も生きて働いておられます。神様のご計画は秘かにではあるかもしれませんが、進んでいるのであります。念願の独立教会への道も、主イエスが開こうとして準備を進めておられるのではないでしょうか。

また、私たち個人の人生においても、挫折を味あわなければならないとき、行き詰まりを覚えなければならないとき、将来に対して展望が開けないときがあるかもしれません。そのようなときに、私たちはともすると主イエスのおられることさえ忘れてしまい勝ちであります。祈ることも、礼拝することもできなくなってしまうことがあります。しかし、イエス・キリストは生きて働いておられます。神様は私たちの人生計画を進めておられます。

今日の聖書の箇所は、教会の伝道のことと共に、そのことをも私たちに指し示しているのではないでしょうか。
・祈りましょう。

祈  り
・生きて働き給うイエス・キリストの父なる神様!

2000年の教会の歴史を導き、今も私たちの中で救いの御業を進めておられることを覚えて感謝いたします。

私たちには目先のことしか見えず、自分たちの現状を嘆いたり、つぶやいたりすることの多い、信仰の薄い者であります。

今日は、パウロの受けた裁判などを通して、あなたの隠れた御計画の進展を見ることを許されてありがとうございました。

どうか、私たちの小さな群にも、イエス・キリストが生きて働いて下さり、この地において宣教の御業を進めておられることを信じる者とならせて下さい。どうか、礼拝から遠ざかっている方々に、あなたが直接に働きかけて下さって、御言葉の養いを受けて永遠の命に生きる群に加えて下さい。また特に、人生の苦難の只中にある人たちが、主の前に導き出されて、慰めと励ましを受けることが出来るようにして下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2007年11月18日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録25:1−27
 説教題:「イエスが生きている」
             説教リストに戻る